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「ランス進軍」と「シャルル7世戴冠式」――ジャンヌ・ダルクの快進撃

「ランス進軍(フランス語:” Chevauchée vers Reims”,英語:” March to Reims”,中国語:” 進軍蘭斯”)」(注1)は、オルレアン包囲戦に続くパテーの戦いの勝利によってイングランド軍主力が壊滅した結果、シャルル7世がロワール川以北へ進出することが可能となり、伝統的なフランス王戴冠式の地ランス市で戴冠式を行うために行った一連の軍事行動のこと。1429年6月29日、フランス軍はジアンを出陣して道中の都市を次々と攻略、7月16日にランス市を降伏させ、翌7月17日、ランス市で戴冠式を行った。

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ランス進軍の開始まで

オルレアン包囲戦に続くパテーの戦いの敗戦でイングランド軍主力が壊滅した結果、シャルル7世を擁するアルマニャック派はイングランド治下にあるロワール川以北進出への道が開けた。

ジャンヌ・ダルクはシャルル7世と初対面のときからランスでの戴冠をシャルル7世に進言していたが、王側近や宮廷では必ずしも意見が統一されていなかった。オルレアン解放直後の1429年5月11日、ロッシュでシャルル7世と面会したジャンヌ・ダルクはあらためてランスでの戴冠の必要性を唱え、これがパテーの戦いまでのロワール作戦の実施に繋がっていたが、パテーの勝利後の6月22日、ヌフシャトーで行われた軍議でもランスではなくノルマンディーへの遠征を唱える意見が強く、ひとまずシャルル7世は全軍に対しオルレアン北西の都市ジアンに集結を命じ、6月25日、ジアンに約12000の兵が集まった。

同6月25日、ジャンヌ・ダルクは二通の書簡を送っている。一通はブルゴーニュ公フィリップ3世に宛ててランス戴冠式への出席を促す書簡だが文面は現存しておらず、返信が無かったという記録だけが残る。もう一通がトゥールネ市住民に宛ててパテーでの勝利の報告とランス戴冠式への参加を促す内容の書簡で、これは文面が残っている。(文面は「ジャンヌ・ダルク書簡まとめ~書状でみるジャンヌ・ダルク」の記事で紹介)

このとき、シャルル7世はついにジャンヌ・ダルクの進言を入れてランスへの進軍を決め、トロワ市へと軍を進めるよう命じた。王が決断するまでの時間はジャンヌにとっては耐えられないものであったらしく、アランソン公ジャン2世に仕えた年代記作家ペルスヴァル・ド・カニによれば『口惜しまぎれに彼女は居所をくらまし、国王が出発するまでの二日間は畑で野宿していた』(注2)という。

ランス進軍

1429年6月29日、シャルル7世自ら率いる12000名のフランス軍がジアンを進発した。シャルル7世以下、侍従長ジョルジュ・ド・ラ・トレムイユ、宰相でランス大司教であるルニョー・ド・シャルトルらの閣僚とともに、リュー元帥ピエール・ド・ロシュフォール、ラ・ファイエット元帥ジルベール・モティエ、ブーサック元帥ジャン・ド・ブロスの三元帥を始め、ジャンヌ・ダルクジャン・ド・デュノワアランソン公ジャン2世ラ・イルことエティエンヌ・ド・ヴィニョルジャン・ポトン・ド・ザントライユ、シャバンヌ兄弟、ジル・ド・レ他、有力武将勢ぞろいの陣容である。

6月30日、最初の都市オーセールでは守備隊の軽微な抵抗の後、三日かけて交渉が行われ、オーセール市が食料を供給することとともに、オーセール市はトロワ、シャロン、ランスなど他の都市と同じ行動をとるという誓約がなされた。

トロワ包囲戦

「トロワ包囲を続けるよう説得するジャンヌ・ダルク」(1484年頃の細密画) パブリックドメイン画像

「トロワ包囲を続けるよう説得するジャンヌ・ダルク」(1484年頃の細密画)
パブリックドメイン画像

トロワ市は1420年5月21日、シャルル7世の王位継承権を排除した「トロワ条約」が締結された因縁の地であり、ランス攻略に向けての要地でもあった。7月4日、ジャンヌ・ダルクは途中の宿営地サン=ファルからランス宛に降伏勧告を送っている。(文面は「ジャンヌ・ダルク書簡まとめ~書状でみるジャンヌ・ダルク」の記事で紹介)

トロワ市の守備隊は強力だったが、市内の意見は抗戦か降伏かで割れていた。7月5日、フランス軍がトロワ市近郊まで近づくと、トロワ市とフランス軍との間で開城か否かの交渉がもたれた。このときトロワ市の使者であったフランシスコ会の修道士リシャールは、ジャンヌ・ダルクに対して、よほど警戒していたようで。十字を切ながら近づいて聖水を撒いた。これに対してジャンヌは『恐れずに近づいて下さい。私は飛び去りはいたしません』と答えている。(注3)

このとき、フランス軍でもトロワ市に対してどう対応するかで意見が分かれていた。食料は不足気味であり、引き続きトロワ市の守備隊は強力であったため、ルニョー・ド・シャルトルら文官を中心にジアンに引き返すべきとする意見も強かった。ジャン・ド・デュノワによれば、紛糾する軍議の場に乗り込んできたジャンヌ・ダルクは以下のようにトロワ包囲の継続を唱えたという。

『気高い王太子様。あなたの仲間に前進してトロワの町を囲むように命じてください。これ以上議論を長引かせないでください。友好裡にせよ、武力によるにせよ、私は何としても三日以内にあなたをトロワの町にご案内します。見せかけのブルゴーニュ派は仰天することでしょう。』(注4)

ジャンヌ・ダルク軍旗を持って国王の部隊とともに堀に沿って部隊を展開させると、兵たちに堀を埋めるための薪の束を作らせ、堀に投げ入れるように命じた。これは夜を徹して行われ、その翌日、トロワの市民は攻撃を恐れて降伏を決め、トロワ司教ジャン・レギゼと町の有力者が門を出て城門の鍵を差し出し、開城を申し出た。7月10日、シャルル7世は軍旗を持ったジャンヌ・ダルクとともにトロワ市に入城を果たした。

ランス入城

7月12日、フランス軍はトロワを出て、二日後の7月14日、シャロン=シュール=マルヌに到着。同市は、以前は抵抗を唱えていたが、使者モンジョワが派遣されて降伏勧告がなされるとすぐにシャロン司教ジャン・ド・モンベリアールが町の鍵を差し出し開城した。

シャルル7世はトロワを発つ際、攻城戦の備えが十分でなかったため、ランス市民の抵抗を懸念していた。その王の懸念にジャンヌ・ダルクは『恐れてはいけません。ランス市民は殿下の前にやってくるでしょう』『勇敢に進撃して恐れてはいけません。大胆に進み続ければ、やがて殿下は全王国を回復されることになりましょう。』(注5)と語ったという。

7月16日、ランス近郊セッソー城でシャルル7世はランス市民代表使節団と謁見、使節からの全面降伏の申し出を受け入れた。同じ日、ランス市内の親イングランド派の有力者たちが急いで町を離れており、この中に後にジャンヌ・ダルク処刑裁判の裁判長となる元パリ大学総長ピエール・コーションがいた。

同日夜、シャルル7世はランス市民の「万歳(ノエル” Noël ”)」の歓呼に迎えられてランス市に入城した。

シャルル7世のランス戴冠式

「シャルル7世の戴冠式」(1484年頃の細密画) パブリックドメイン画像

「シャルル7世の戴冠式」(1484年頃の細密画)
パブリックドメイン画像

7月17日、ランスのノートル・ダム大聖堂でシャルル7世の戴冠式(聖別式)が行われた。以下、戴冠式についてはレジーヌ・ペルヌー/マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)128-130頁からのまとめ。

朝、“聖油瓶の使い番”と呼ばれる四人の騎士がランスのサンレミ大修道院に保管されているフランク王国初代クローヴィス王の聖別で天使がもたらしたという伝承が残された聖油の瓶を取りに行く。この四騎士に任じられたのが国王親衛隊長ブーサック元帥ジャン・ド・ブロス、新任のレ元帥ジル・ド・モンモランシ=ラヴァル、フランス提督ルイ・ド・キュラン、弩兵隊長ジャン・マレ・ド・グラヴィルである。四騎士は聖油瓶を持ち帰る途上で、シャルル7世を囲み詩篇の詠唱を行いながら進む高位聖職者らからなる行列と合流して、集まった群衆の歓呼に迎えられ、戴冠式が挙行されるランスのノートル・ダム大聖堂に入る。

戴冠式では国王の宣誓に続いて王権の象徴(レガリア)である王冠、金の拍車、王杖、王笏の祝別が行われた後、塗油式に移る。祭壇の前に跪くシャルル7世に対し大司教ルニョー・ド・シャルトルが聖油で国王の頭、胸、両肩、両腕の関節に印をつけ、続けて国王はチュニクとマントを着ると、両手に塗油がほどこされた後、手袋と指輪をはめ、最後に俗人六名、聖職者六名からなる十二同輩が国王の頭上に王冠を捧げ、祭壇上の玉座まで国王を誘導した上で、国王に王冠を被せ戴冠式が完了する。国王に戴冠させるのは、通例では諸侯筆頭としてブルゴーニュ公が担うが、ここではアランソン公ジャン2世が代行した。

戴冠とともに列席者はみな「万歳(ノエル)」を叫び、戴冠式の最中ずっとジャンヌ・ダルクが王の傍らに軍旗を掲げたまま立っていた。重臣たちが臣従礼を行った後、ジャンヌ・ダルクは王の脚を抱き、涙を流しながらこう言ったという。

『気高き国王さま、今や、オルレアンの囲みを解き、ランスの町に陛下をお連れして聖別を授けたことで、陛下が真の国王であり、この王国が属すべき天下人であることを人々に示せとの神の御旨は成就されましてございます』(注6)

同7月21日、シャルル7世は戴冠式での伝統である治癒の儀式を行うためランス近郊コルベニのサン=マルクール修道院へ赴き、らい病(ハンセン病)患者にたいして触れる治癒儀礼を行った。以上で戴冠式は全て終了し、トロワ条約によって継承権を剥奪されていたシャルル7世はフランス王としての権威を確立した。

戴冠式の影響

これによってシャルル7世はフランス王としての権威と正統性を確立し、軍事的優位にあったイングランド=フランス二元王国とブルゴーニュ公国の軍事同盟に対抗しうる勢力へ成長する契機となった。以後三つ巴の争いは熾烈さを増し、ブルゴーニュ公国との関係改善が進んで1435年のアラス会議での和約締結へと進展する。

参考文献

・高山一彦編訳『ジャンヌ・ダルク処刑裁判』(白水社、1984年)
・高山一彦著『ジャンヌ・ダルク―歴史を生き続ける「聖女」 (岩波新書)』(岩波書店、2005年)
・コレット・ボーヌ著(阿部雄二郎・北原ルミ・嶋中博章・滝澤聡子・頼順子訳)『幻想のジャンヌ・ダルク―中世の想像力と社会』(昭和堂、2014年)
・レジーヌ・ペルヌー/マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)
・レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)『ジャンヌ・ダルク復権裁判』(白水社、2002年)
・レジーヌ・ペルヌー著(高山一彦訳)「ジャンヌ・ダルクの実像 (文庫クセジュ)」(白水社、1995年)

Chevauchée vers Reims — Wikipédia

脚注

注1)各言語の表記はwikipediaフランス語版英語版中国語版各ページの表記に従った。なお日本語では定訳がないため、元の意味と中国語版表記をふまえつつ「ランス進軍」とした。

注2)レジーヌ・ペルヌー/マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)124頁

注3)ジャンヌ・ダルク処刑裁判3月3日の証言/高山一彦編訳『ジャンヌ・ダルク処刑裁判』(白水社、1984年)116頁

注4)ジャンヌ・ダルク復権裁判ジャン・ド・デュノワの証言/レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)『ジャンヌ・ダルク復権裁判』(白水社、2002年)173頁

注5)ジャンヌ・ダルク復権裁判シモン・シャルルの証言/レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)『ジャンヌ・ダルク復権裁判』(白水社、2002年)138-139頁

注6)レジーヌ・ペルヌー/マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)130頁

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