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ジャン・ドーロン~ジャンヌ・ダルクの活躍を支えた名副官

ジャン・ドーロン(” Jean d’Aulon”,1390年生-1458年8月から9月頃没)は、百年戦争後期フランスの軍人。副官としてジャンヌ・ダルクを支え、オルレアン包囲戦からコンピエーニュの戦いまで最も長く側にいた代表的な戦友である。1415年にミシュレット・デジュルサン” Michelette des Ursins”と結婚、1428年にエレーヌ・ド・ムーリオン” Hélène de Mauléon”と再婚し、あわせて四人の子供がいる。

ジャン・ドーロンは1390年、アルマニャック伯領に隣接するフェゾンサック伯領(” Comté de Fezensac”)オーロン(” Aulon”)村の領主家に生まれた。オーロン家は七世紀頃から続く名家として知られる。若くしてフランス王シャルル6世の従者となり、1416年、王室警備の部隊長の一人となった。1425年よりシャルル7世の顧問となり、1427年、トゥールーズにおける王のプレヴォ(”prévôt royal”、行政官)に任命され、続いて1428年、ロワール川流域の要衝ロシュ城の防衛を担った。オルレアン包囲戦時の防衛司令官で後のフランス侍従長ジャン・ド・デュノワはドーロンについて、「当時は国王から、もっとも賢くて間違いなく誠実な人物として」(注1)評価されていたと語っている。

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ジャンヌ・ダルクの副官として

ヘンリー・シェーファー作「1429年5月8日、ジャンヌ・ダルクのオルレアン入城」(1843)

ヘンリー・シェーファー作「1429年5月8日、ジャンヌ・ダルクのオルレアン入城」(1843)


1429年3月6日、ジャンヌ・ダルクがシノン城を訪れてシャルル7世と面会し、信頼を得ると、ジャン・ドーロンはジャンヌ・ダルクの副官としてジャンヌの護衛およびオルレアンへ派遣されるジャンヌ・ダルク直属部隊の編制と編成後の部隊運営を行うことになった。

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1429年4月30日、ジャンヌ・ダルクとともにオルレアン市に入城し、ジャンヌ・ダルクや従卒のルイ・ド・クートらとともにオルレアン市の財務官ジャック・ブーシェ宅に宿泊した。

5月4日、宿舎でジャンヌとともにオルレアン市防衛司令官ジャン・ド・デュノワを迎えて会食し、イングランドの有名な武将ジョン・ファストルフ率いる補給部隊が接近中という話を聞いたジャンヌが「バタール(ジャン・ド・デュノワの愛称)、バタール、神にかけてあなたに命じます。ファストルフが近づいたらただちに私に報告させなさい。もし私の知らないうちに事が進んでしまったら、私はあなたの首をはねさせますよ」(注2)と言ったという有名なやり取りを耳にしている。

同日夜、就寝していたドーロンはジャンヌが寝台から起き上がって大きな物音を立てたため目を覚まし、ジャンヌに「何がしたいのですか」と問うと、ジャンヌは「本当に、私のお告げはイングランド兵を攻撃せよと私に命じるのだけど、彼らの兵に立ち向かうべきか、砦の補給をするはずのファストルフに向かうべきかわからないのです」(注3)と答えた。そうこうしているうちに意気上がる兵たちが命令無いままオルレアン市東方のサン・ルー砦に対して夜襲に出たため、二人とも急いで武装を整え、兵を呼集して出陣、サン・ルー砦を陥落させた。

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ジャンヌ・ダルク到着後トゥーレル要塞攻略までのオルレアン解放戦では多くの戦いでドーロンの機転と働きが非常に重要な影響を与えている。

1429年5月6日、オーギュスタン砦の攻防では激しい抵抗が起き、攻略は難しいと考えたオルレアン軍は態勢を立て直すため一時退却しようとするが、オルレアン軍の退却が進む中、ジャンヌ・ダルクとラ・イルの二人が騎馬で前進を開始したことから、兵士たちもつられて追撃してくるイングランド軍に襲い掛かった。その中でジャンヌ隊の一員アルフォンス・ド・パルタダという騎士と同僚との間で、「二人とも同時に敵の砦に打ち掛かる」ことで「どちらが一番勇敢か、二人のうちどちらが義務を尽くしたかわかるだろう」という口論があり、二人は敵中突破を敢行する。(注4)

これをみたジャン・ドーロンはジャン・ル・キャノニエーという射手にイングランド側防御柵を守る兵士たちに矢を撃ちかけることを指示して彼らを援護、二人の突撃をみたジャンヌ・ダルクとラ・イルも部隊に攻勢を指示し、勢いに乗ったオルレアン軍によってオーギュスタン砦は陥落、イングランド軍はトゥーレル要塞に退却した。

ジャン・ドーロンがさらに決定的な役割を演じたのが、5月7日のトゥーレル要塞攻略戦時のことである。5月7日早朝から始まったトゥーレル要塞攻略では昼頃にジャンヌ・ダルクが胸を射抜かれて負傷するなど苦戦を強いられ、日没になっても攻略の目途が立たず、ジャン・ド・デュノワは撤退を決断したが、本陣を訪れたジャンヌ・ダルクの説得で戦闘継続へと転じた。

ジャンヌが本陣に行っている間、ジャンヌ部隊を指揮していたジャン・ドーロンは、すでに各部隊退却ムードが漂い個々に退却が始まっていたことを後に証言している。このとき、ジャンヌ・ダルクの軍旗を持っていた兵が疲労していたので、友軍アルシャンボー・ド・ヴィラール部隊のル・バスクという兵士に旗持ちを代わってもらうこととした。その上でこの戦局を打開できるかもしれないアイデアを思いつき、すぐに実行に移した。

『私はもしジャンヌの旗印が前線に立てられたら、居合せた兵士たちは彼らが間違いなくもっている情熱にかけて、堡塁の奪取を果たすだろうと想像しました。そこで私はル・バスクに向かい、私が壕に降りて堡塁の城壁の下まで歩いていったら、後に付いてきてくれるように頼みますと、彼はそうしますと答えたのです。』(注5)

ル・バスクを連れたドーロンはトゥーレル要塞へと近づいていくが、そこにジャンヌが戻ってきた。ジャンヌは自身の軍旗が敵に奪われたものと勘違いして彼らを追いかけル・バスクを押し倒して軍旗を奪うと「おお私の旗印、私の旗印」と叫んで激しくこれを振り回した。この様子に撤退にかかっていたジャンヌの部隊が彼女の周りに集結し、改めて旗印をル・バスクが預かると攻略を開始、ジャンヌ部隊につられた他の部隊とともに反転攻勢に出て、そのままの勢いで一気にトゥーレル要塞を陥落させてしまった。

以後ジャンヌ・ダルクの全ての戦いに副官として従って彼女を助け、部隊運営を担った。1430年5月24日、ジャンヌ・ダルクとともにコンピエーニュでブルゴーニュ軍に捕われ、1432年に身代金の支払いとともに解放されるまでイングランドのロンドン塔で虜囚生活を送った。

ジャンヌ・ダルク死後

1432年に解放されてからは1437年までラングドック地方の三つの郡でシャルル7世の王命による任務に就き、ジャン・ド・ビュエイユやロデズ伯の配下として仕えている。1437年から1445年までカルカソンヌの直轄港の長官となり、1437年、シャルル7世のパリ入城に際しては王の馬を引く栄誉を与えられた。

1452年から54年まで外交官としてサヴォワ、続いてカスティーリャに赴任。1454年からリヨンのピエール・シーズ城守備隊長となり、1455年、神聖ローマ帝国と隣接する要衝ボーケールとニームのセネシャル(” sénéchal”代官)、および国王顧問会議メンバーとしてシャルル7世の重臣の一人となっている。1456年のジャンヌ・ダルク復権裁判では赴任地が遠方であったため出廷せず書簡で多くの証言を書き送った。

最晩年はシャルル7世の末子ベリー公シャルル・ド・ヴァロワ(1446-1472)に仕え、1458年8月か9月頃、亡くなった。享年68歳。

彼の証言を読むと、ジャンヌ・ダルクという個性に振り回されながらも彼女が最も活躍できる状態を作ることに腐心した誠実な名補佐役であったことがよくわかる。ジャン・ドーロン無くしてジャンヌ・ダルクの活躍は無かったと言っても過言ではないだろう。

『わが国王陛下の命令で、まる一年の間私は乙女と行動をともにしましたが、そのあいだ私は彼女の中に、善良なキリスト教徒にあってはならないものは見ることも、気づくこともありませんでした。彼女のどんな行為にも、私はいつもきわめて善良な生活と誠実な行動を見ておりました。』(注6)

参考文献・リンク

・高山一彦著『ジャンヌ・ダルク―歴史を生き続ける「聖女」 (岩波新書)』(岩波書店、2005年)
・レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)
・レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)『ジャンヌ・ダルク復権裁判』(白水社、2002年)
・レジーヌ・ペルヌー(高山一彦訳)『オルレアンの解放 (ドキュメンタリー・フランス史)』(白水社、1986年)
Jean d’Aulon — Wikipédia(フランス語)
Jean d’Aulon – Les Compagnons d’Armes de Jeanne d’Arc(フランス語)

脚注

注1)レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)「ジャンヌ・ダルク復権裁判」白水社、2002年、174頁

注2)レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)「ジャンヌ・ダルク復権裁判」白水社、2002年、199頁

注3)レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)「ジャンヌ・ダルク復権裁判」白水社、2002年、200頁

注4)レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)「ジャンヌ・ダルク復権裁判」白水社、2002年、202頁

注5)レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)「ジャンヌ・ダルク復権裁判」白水社、2002年、204-205頁

注6)レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)「ジャンヌ・ダルク復権裁判」白水社、2002年、207頁

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