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ルイ・ド・クート~ジャンヌ・ダルクの身の回りの世話をした少年兵

ルイ・ド・クート(”Louis de Coutes”1414年生-1483頃没)はジャンヌ・ダルクの身の回りの世話をした従卒。父はヌーヴィオン(”Nouvion”)とリューゲル(”Rugles”)の領主ジャン・ド・クート、母はカトリーヌ・ル・メルシエ。1429年3月から9月のパリ包囲戦のときまでジャンヌ・ダルクに仕え、後に復権裁判でジャンヌ・ダルクに関する多くの証言を残した。

ルイ・ド・クートの義兄弟にオルレアンの名士ジャン・ボアルネという人物がおり、ジャン・ボアルネの弟ギヨーム2世・ボアルネは後のボアルネ子爵家の祖(注1)で、ナポレオン・ボナパルトの妻ジョセフィーヌ・ド・ボアルネの前夫アレクサンドル・ド・ボアルネやその間の子でナポレオンの養子となるウジェーヌ・ド・ボアルネは末裔にあたる。

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ジャンヌ・ダルクの従卒として

ジャンヌ・ダルクがシノン城に到着した1429年時は14~15歳の少年で、オルレアン代官ラウル・ド・ゴークールの従卒として、シノン城に居を構え武具係を務めていた。1429年3月、同僚のレイモンとともにジャンヌ・ダルクの従卒となるよう命を受けた。

ルイ・ド・クートがジャンヌ・ダルクに最初に出仕したのは、1429年3月、彼女がシノン城近郊クードレイ・モンパンシエ城(” Château du Coudray Montpensier”)の塔に一室を与えられたときで、彼女の指示を受けて身の回りの世話や来客の対応などを行った。

『私がジャンヌと一緒にこの塔にいたとき、私はジャンヌが膝を屈して、多分お祈りをしていたのをたびたび目にしています。しかし彼女が口にしていた言葉は聞こえませんでした。時には泣いていたこともあります。』(注2)

1429年4月、ポワティエでの純潔検査と審問を終えたジャンヌ・ダルクがトゥール市に拠点を移した際、ルイ・ド・クートとレイモンはシャルル7世の王命によって正式にジャンヌ・ダルクの従卒として任命された。ジャンヌ・ダルクの仲間たちからはミュゴやイメルゲなどの愛称で呼ばれている。(注3)

オルレアン市ではジャンヌ・ダルクの副官ジャン・ドーロンらとともにオルレアン市の財務官ジャック・ブーシェ宅に宿泊した。5月4日、ジャンヌ・ダルクはジャン・ドーロンとともにオルレアン防衛司令官ジャン・ド・デュノワを宿舎に迎えて会食、その後就寝したが、この頃、意気上がるオルレアン軍の一部が命令無いままオルレアン市東方のサン・ルー砦に襲いかかっていた。一度就寝していたジャンヌは起き上がり、味方が攻勢に出たことを聞いて階下で寝ていたルイ・ド・クートを起こすと「このわからず屋め、フランス人の血が流されたとなぜ言わなかったのか!」(注4)と叱責した。このとき、ジャンヌは宿舎の女主人と娘に手伝ってもらって武装を整えており、ルイ・ド・クートはジャンヌの命で彼女の軍旗を取りに行き、窓越しに彼女に渡した。

ルイ・ド・クートはその後「ジャンヌがパリの前面に到達するときまで」(注5)付き従っている。パリで彼が部隊から離脱した理由はわからないが、1429年9月7日、パリ包囲戦で同僚レイモンが戦死している点が関係あるかもしれない。

ジャンヌ・ダルク死後のキャリアと復権裁判での主な証言

1436年、シャルル7世のパネティエ(” panetier”,パン係)に任じられる。パネティエはパンや菜園の保管や管理を行い宮廷の式典を運営する役職で、統括するグラン・パネティエ” Grand panetier”は宮廷の重要閣僚の一人である。1456年のジャンヌ・ダルク復権裁判時は準騎士で父の後を継ぎヌーヴィオンとリューゲルの領主となっている。1483年頃没。

ジャンヌ・ダルク復権裁判では出会いからジャンヌ・ダルクの戦争の流れ、ジャンヌ・ダルクの信心深さや自身がいかに彼女を敬愛していたかなどを語っている。特にジャンヌの日常生活に関する証言が多く、ジャンヌ・ダルクを知るための貴重な史料となっている。

ルイ・ド・クートによればジャンヌは非常に少食だったという。

『彼女の食事は非常に簡素で、しばしば一日に一切れのパンしか食べないこともあり、そんなに彼女が少食なのに私は驚いていました。宿舎にいるときは、彼女は一日に二回しか食事をとりませんでした。』(注6)

また、ジャンヌ・ダルクは日々女性と床をともにする習慣があった。

『(前略)私どもはオルレアンの町に戻って、そこでジャンヌは宿舎で普段の習慣どおりに女性たちと寝に就きました。女性がいれば夜はいつも女性と寝ることになっていたのです。女性がいないときや、戦闘中や野営をするときは衣服をつけたまま寝ていました。』(注6)

これは副官のジャン・ドーロンもジャンヌが侍女と一緒に寝台に入ったという旨の同様の証言をしている。

また、有名な、ジャンヌが娼婦を追い払ったという証言もある。

『彼女は軍隊の中に女性たちが来ることを望みませんでした。あるとき、シャトー=ティエリ―の町の近くでしたが、隊員の一人――騎士でした――の情婦を見つけると、剣を抜いて追いかけました。しかしこの女を叩くことはせず、優しく、親切に、これからは兵士たちの陣地には入らないように、さもなければ好ましくないこともすることになる、と言い聞かせていました。』(注7)

アランソン公ジャン2世も同様にジャンヌの娼婦への対応を語っており、アランソン公は『サン=ドニの町で、彼女が剣を抜いて兵士たちと一緒にいる娘を激しく追いかけるのを見ましたが、途中で剣を折ってしまいました。』(注8)と語っている。(注9)

参考文献・リンク

・高山一彦著『ジャンヌ・ダルク―歴史を生き続ける「聖女」 (岩波新書)』(岩波書店、2005年)
・レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)
・レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)『ジャンヌ・ダルク復権裁判』(白水社、2002年)
・レジーヌ・ペルヌー(高山一彦訳)『オルレアンの解放 (ドキュメンタリー・フランス史)』(白水社、1986年)
・Lucien Auvray”Louis de Coutes, page de Jeanne d’Arc, improprement nommé Louis de Contes”1890
Louis de Coutes – Les Compagnons d’Armes de Jeanne d’Arc
Louis de Coutes — Wikipédia

脚注

注1)レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)『ジャンヌ・ダルク復権裁判』(白水社、2002年)179-180頁/Lucien Auvray”Louis de Coutes, page de Jeanne d’Arc, improprement nommé Louis de Contes”1890,p4によればM・キシュラがルイ・ド・クートとジャン・ボアルネとを義兄弟としたものだが、系図上義兄弟とする確実な史料があるわけではないとされる。

注2)レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)『ジャンヌ・ダルク復権裁判』(白水社、2002年)209頁

注3)レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)『ジャンヌ・ダルク復権裁判』(白水社、2002年)208頁

注4)レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)『ジャンヌ・ダルク復権裁判』(白水社、2002年)211頁

注5)レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)『ジャンヌ・ダルク復権裁判』(白水社、2002年)214頁

注6)レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)『ジャンヌ・ダルク復権裁判』(白水社、2002年)212頁

注7)レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)『ジャンヌ・ダルク復権裁判』(白水社、2002年)215頁

注8)レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)『ジャンヌ・ダルク復権裁判』(白水社、2002年)192頁

注9)ジャンヌ・ダルクの剣については『ジャンヌ・ダルクの愛剣「フィエルボワの剣」を求めて』でまとめている。

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