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聴罪司祭ジャン・パスクレル~ジャンヌ・ダルクの良き相談役

ジャン・パスクレル(”Jean Pasquerel”,生没年不明)はジャンヌ・ダルクに同行した聴罪司祭。バイユーの聖アウグスチノ修道会派に属する。1429年4月から1430年5月24日、コンピエーニュでジャンヌ・ダルクが捕らえられるまで彼女の傍にいて告解を聞き、相談役となった。またジャンヌ・ダルクの書簡の多くを彼が代筆している。

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ジャンヌ・ダルクとの出会い

ジャン・パスクレルがジャンヌ・ダルクのことを聞いたのは1429年の復活祭、3月25日前後のことである。彼は当時巡礼地として有名なオーヴェルニュ地方のル・ピュイ=アン=ヴレのノートルダム聖堂へロワールからの巡礼団とともに赴いていたが、その巡礼団の中にジャンヌ・ダルクの母イザベル・ロメがいた。イザベル・ロメは恐らく娘の無事を祈っていたのだろう、パスクレルに対しジャンヌに会いに行ってくれるよう懇願する。また、ル・ピュイ=アン=ヴレにはジャンヌとシノン行をともにした中の誰か(注1)も訪れていて、その人物がジャン・パスクレルと旧知であったことや、シノン城に近いトゥールの修道院で読師をしていたこともあり、この依頼を快諾した。

ジャン・パスクレルがジャンヌ・ダルクと会ったのは彼女がトゥール市に滞在していた1429年4月5日以降のことである。以後彼はジャンヌ・ダルクがコンピエーニュ市でブルゴーニュ軍に捕われる1430年5月24日まで傍にあって彼女の日々の告解や様々な相談、文書の代筆を務めた。

以上の経緯にあたるジャンヌ・ダルク復権裁判でのジャン・パスクレルの証言部分は以下の通り。

『私が最初にジャンヌの噂を耳にし、彼女がどのようにして国王の許へ赴いたかを聞いたとき、私はピュイにおりましたが、この町にはジャンヌの母親や、ジャンヌを国王の許に連れていった人たちの何人かがおりました。彼らは私を多少知っていたので、私に自分たちと一緒にジャンヌのところへ行くべきだと申し、彼らが私をジャンヌのところに案内できなければ、私を一人では去らせてはくれませんでした。それで私は彼らと一緒にシノンの町まで行き、そこからトゥールまで戻りました。私はその町の修道院で祭式の読師をしていたのです。
このトゥールの町では、ジャンヌはこのときこの町の商人ジャン・デュピュイの家に泊まっていました。私はその家でジャンヌと会ったのですが、私を連れてきてくれた人たちはジャンヌにこう言いました。「ジャンヌよ、私たちはお前にこの神父さんを連れてきてあげた。よく知り合えば打ち解けうるはずだ」と。ジャンヌはとても嬉しいですと答え、もう私の噂は聞いていましたからと述べて、明日私に告解を聞いてほしいと申しました。翌日私は彼女の告解を聞き、彼女の前でミサを挙げてやりました。このとき以来私は彼女と行動をともにし、コンピエーニュの町まで離れることはありませんでした。』(注2)

この証言の流れを踏まえると、おそらくシノン城到着(1429年3月4日)以後、ジャンヌが専属で自身の告解を聞いてくれる聴罪司祭を求め、シノン行の仲間の誰かが旧知であったジャン・パスクレルを紹介、その招聘のために、ジャンヌの母イザベル・ロメに協力を求めてイザベル・ロメは巡礼団に参加し、彼らもル・ピュイ=アン=ヴレに複数名で説得に赴いたということになるだろう。

この使者となったのが誰かは諸説あって定かではないが、ベルトラン・ド・プーランジーの証言によれば、プーランジーは以前からジャンヌ・ダルクの家を度々訪れたことがあり、両親とも面識があった(注3)。ゆえに、イザベル・ロメへの協力を求めやすい人物であったと言える。ただジャンヌの母親の名前は知らないとも語っているため確証は薄い。あるいはシャルル7世配下の伝令使でシノン城行に同行したコレ・ド・ヴィエンヌは職務上トゥールの修道院にいたジャン・パスクレルとも面識を持ちやすいだろうが、それなら「ジャンヌを国王の許に連れていった人」と言わず「伝令使のコレ・ド・ヴィエンヌ」と名指ししそうでもある。またジャン・ド・メス(ジャン・ド・ヌイヨンポン)の従卒だったジャン・ド・オンクールやプーランジーの従卒だったジュリアンであった可能性ももちろんある。使者となった人物としてはジャン・ド・メスとベルトラン・ド・プーランジーの二人とされることが多いようだ。

ともかく、以後ジャンヌ・ダルクはパスクレルに絶大な信頼を置くようになり、聴罪司祭としていつも一緒にいて欲しいと求めている。

パスクレルが見たジャンヌ・ダルク

ジャンヌからの告解を聞いた司祭であるので、復権裁判でのパスクレルの証言はジャンヌ・ダルクの熱心な信仰心に関する記述が多い。例えばブロワの補給基地を出てオルレアンへ向かう際に彼女は自身の部隊に聖歌を歌わせていたこと、1429年5月4日のサン・ルー砦攻略後イングランド兵の多数の死者を見て涙を流し自身と兵士たちに告解させたことなどである。(注4)

パスクレルは有名なジャンヌ・ダルクの軍旗の製作過程についても詳しく述べており、基本的にジャンヌが神の声に従って図案を決定したが、レジーヌ・ペルヌーは彼が旗の図柄の詳細について提案した可能性を指摘している(注5)。

「ジャンヌ・ダルクの旗」のデザインや逸話、役割のまとめ
ジャンヌ・ダルクのイメージとして欠かせないのが常に掲げていた軍旗ではないだろうか。彼女は処刑裁判の供述でも『剣よりも旗の方が四〇倍も好きだった』(注1)と語っており、非常に気に入っていたものだ。 ジャンヌ・ダルクの旗の製作と特徴 シノン...

また、1429年5月7日、オルレアン包囲戦最後のトゥーレル要塞攻防戦ではジャンヌ・ダルクが胸の上に矢を受けたが、このとき応急治療にあたったのがパスクレルであった。彼は前日、ジャンヌから自身が負傷するだろうと言う予言を聞かされていた。

オルレアン包囲戦~勃発の背景からジャンヌ・ダルクの登場、終結まで
前史 フランス王シャルル6世が発狂して統治能力を失って以降、対立していたブルゴーニュ派とアルマニャック派はイングランド王ヘンリ5世に同盟を求め、両者の対立を好機としたヘンリ5世は1415年フランスに侵攻、アジャンクールの戦いでフランス軍を...

『この攻撃でジャンヌは昼食のあと、自分で予言していた通り胸の上部に矢を受けました。負傷したと気づいた時彼女は恐ろしがり、涙を流しましたが、彼女が言っていたように元気を回復しました。何人かの兵士が、彼女がひどく傷ついているのを見て呪術を施そうとしましたが、彼女はそれを拒んで申しました。「私は罪だと思われること、神の意志に背くことをするよりは、死んだほうがましなのです」と。また、自分はいつかは死ななければならないことは知っていますが、いつなのか、どんなふうにか、どこでかはわかりません。しかし自分の傷には罪にならないような治療があればしてもらいたい。治りたいから、とも言いました。そこで彼女の傷にオリーヴと豚の血を塗ってやりました。塗ってもらったあと、ジャンヌは涙を流し、嘆きの言葉を吐きながら私に告解をしました。』(注6)

また、ジャンヌ・ダルクの書簡として、直筆署名付きの三通、署名無し手紙の原本六通、写本で文面のみ残っているもの二通の他、文面は残っていないが送付記録や書かれたという記録が残っているものを含め多数の存在が知られている。これらジャンヌ・ダルクの書簡の多くを代筆したのがジャン・パスクレルであった。パスクレルの口述筆記の跡や書き直しから、例えばジャンヌの話し言葉の癖や方言などの研究も進んでおり、後世のジャンヌ・ダルク研究へ大きな影響がある。(注7)

ジャンヌ・ダルクの書簡や口述筆記の文面からわかる特徴などについて詳しくは以下の記事でまとめている。

ジャンヌ・ダルク書簡まとめ~書状でみるジャンヌ・ダルク
ジャンヌ・ダルクの書簡は直筆署名付きの三通の書簡と口述した手紙の原本六通、その他写本で文面のみ残っているものが多数ある。十九世紀に歴史学者ジュール・キシュラ(1814~82)によってジャンヌ・ダルクの裁判記録、年代記、書簡、会計簿等史料がま...

参考文献

・コレット・ボーヌ著(阿部雄二郎・北原ルミ・嶋中博章・滝澤聡子・頼順子訳)『幻想のジャンヌ・ダルク―中世の想像力と社会』(昭和堂、2014年)
・レジーヌ・ペルヌー/マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)
・レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)『ジャンヌ・ダルク復権裁判』(白水社、2002年)
・レジーヌ・ペルヌー(高山一彦訳)『オルレアンの解放 (ドキュメンタリー・フランス史)』(白水社、1986年)
Jean Pasquerel — Wikipédia
Le procès de réhabilitation – déposition de Jean Pasquerel

脚注

注1)準騎士ジャン・ド・メス(ジャン・ド・ヌイヨンポン)、その従卒ジャン・ド・オンクール、準騎士ベルトラン・ド・プーランジー、その従卒ジュリアン、弓兵リシャール、シャルル7世の伝令使コレ・ド・ド・ヴィエンヌの六名。

注2)レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)『ジャンヌ・ダルク復権裁判』(白水社、2002年)216-217頁

注3)レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)『ジャンヌ・ダルク復権裁判』(白水社、2002年)128-129頁

注4)パスクレルの証言についてはジャンヌの信仰心の篤さが特に強調される一方で、ジャンヌが自身の運命や勝敗について予言したことや、その予言の成就など神がかり的なエピソードも混じっており、史料としての読解に慎重を要する部分もある。

注5)レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)『ジャンヌ・ダルク復権裁判』(白水社、2002年)216頁のレジーヌ・ペルヌーによる解説部分

注6)レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)『ジャンヌ・ダルク復権裁判』(白水社、2002年)224頁

注7)ジャンヌ・ダルクの書簡研究としては、レジーヌ・ペルヌー/マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)388-391頁「ジャンヌ・ダルクと同時代人の言語」、同430-446頁「ジャンヌ・ダルクの書簡」、コレット・ボーヌ著(阿部雄二郎・北原ルミ・嶋中博章・滝澤聡子・頼順子訳)『幻想のジャンヌ・ダルク―中世の想像力と社会』(昭和堂、2014年)66-81頁「第5章 字は読めたのか、読めなかったのか」などに詳しい。

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