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1429年夏の英仏ブルゴーニュ外交とジャンヌ・ダルクの「パリ包囲戦」

オルレアン包囲の失敗に続くパテーの戦い(1429年6月18日)でイングランド軍主力が壊滅した結果、イル・ド・フランスからシャンパーニュにかけてのロワール川以北地域に軍事的空白が生じたことで、フランス軍は「ランス進軍」(1429年6月29日~7月16日)を行い、1429年7月17日、シャルル7世は戴冠式を実施しフランス王としての正統性を確立する。

1429年9月8日に始まるパリ包囲戦は、シャルル7世の戴冠式後のフランス、イングランド、ブルゴーニュ三か国の外交交渉の展開を背景としている。以下、パリ包囲戦までの1429年6月から9月にかけての百年戦争当事国の外交と、パリ包囲戦を招くフランス宮廷内の路線対立についてまとめる。

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モンテピロワの対陣

ベッドフォード公ジョン(左)

ベッドフォード公ジョン(左)

シャルル7世

シャルル7世

イングランドの事実上の総帥であるベッドフォード公ジョンはイングランド軍の立て直しを急ピッチで進めていた。当時、イングランドではウィンチェスター大司教ヘンリ・ボーフォート主導でローマ教皇からの財政支援や教会による十分の一税課税なども行った上で対フス派十字軍の義勇兵を徴募していたが、その徴募資金を増援部隊編成の資金に流用した。(注1)また、7月15日、ボヘミアへ向かっていた3500名(注2)の対フス派十字軍部隊をカレーから急遽パリに呼び寄せ、7月25日、パリへ入城する。ベッドフォード公はフランス軍の動向を注視しつつパリの防衛を固めていたが、8月4日、ベッドフォード公自ら兵力を増強したイングランド軍約一万(注2)を率いてパリを出陣した。

ランスでの戴冠式を終えたシャルル7世は王として巡幸を行い各都市にその権威を知らしめ、ヴァイイ、ソワソン、ラン、シャトー=ティエリ、クレピ=アン=ヴァロワ、ボーヴェーなどが次々と恭順の意を示している(注3)。同行していたジャンヌ・ダルクは迅速なパリ攻略を訴えていたが、シャルル7世は、水面下で進められていた対ブルゴーニュ外交の推移を注目しており、パリへの侵攻は拙速と考えていた。

パリを出撃したベッドフォード公は、8月7日、モントローからフランス王シャルル7世に対し一騎討ちの挑戦状を送り付けた。曰く『汝は愚かなる民衆をたぶらかし、惑わし、神に見放された迷信深い者どもに加担し、男装した放埓な振る舞いで評判の自堕落女に手を貸し・・・』(注4)。ベッドフォード公は卓越した内政家であると同時に、ヴェルヌイユの戦い(1424年)など自ら戦斧を振るった武人で知られる。続いてサンリス方面へと軍を展開、8月14日、サンリス近郊モンテピロワ村に陣を敷いた。

ベッドフォード公率いるイングランド軍主力の出撃を知ったフランス軍は、挑戦状は無視しつつ、シャルル7世自ら主力を率いてサンリスへ兵を進め、8月15日、モンテピロワでイングランド軍と対陣した。フランス軍の構成は以下の通り(注5)。

第一軍:アランソン公ジャン2世ヴァンドーム伯ルイ1世
第二軍:バール公ルネ・ダンジュー(アンジュー公弟、後のアンジュー公ルネ1世)
第三軍:ブーサック元帥ジル・ド・レ元帥
第四軍(前衛):シャルル・ダルブレ指揮下でジャンヌ・ダルクジャン・ド・デュノワラ・イル

シャルル7世はクレルモン伯シャルル(のちのブルボン公シャルル1世)、侍従長ジョルジュ・ド・ラ・トレムイユらを伴い本隊を構成した。

ベッドフォード公ジョンとフランス王シャルル7世という最高指揮官自ら率いる主力同士の決戦が始まるかに思えたが、多少の小競り合いは起きたものの、両軍は睨み合ったまま戦端を開こうとせず、同日夜、ともに兵を退いた。フランス軍の伝令使であったベリは以下のように記している。

『一日中、彼らは繁みも藪もないところで、長火砲の届くほどの距離をへだてて向かい合ったまま、一戦に及ぶことはなかった。夜になると、国王は軍隊とともにクレピに向かい、ベッドフォード候はサンリスに去った。』(注6)

ベッドフォード公もシャルル7世も実は戦闘に及ぶ気がなかった。この裏で両者ともブルゴーニュ公国に対する熾烈な外交戦争を繰り広げていたからである。

キャスティング・ボートを握るブルゴーニュ公

ブルゴーニュ公フィリップ3世善良公

ロヒール・ファン・デル・ウェイデン作『ブルゴーニュ公フィリップ3世善良公の肖像画』(1450年頃)


ヘンリ5世死後、イングランドはブルゴーニュの協力無しにフランス征服戦争を継続できなかった。シャルル7世政権(アルマニャック派)は一貫してブルゴーニュとの和平による局面の打開を模索し続けていた。一方、ブルゴーニュ公フィリップ3世はフランス戦線からは距離を置いて神聖ローマ帝国方面のブルゴーニュ公国隣接地域(ネーデルラント、アルザス・ロレーヌ地方)への勢力拡大に注力していた。

百年戦争後半戦の趨勢はイングランド王とフランス王のどちらがブルゴーニュ公を味方にしてフランス戦線に派兵してもらえるかにかかっていたのである。オルレアン包囲戦からパテーの戦いに至るイングランドの大敗とシャルル7世の戴冠による権威確立という情勢の大きな変化によって、対ブルゴーニュ外交が非常に活発化していた。

1429年6月30日、丁度、ランスへ向けてフランス軍が進撃を開始した頃、シャルル7世の侍従長ジョルジュ・ド・ラ・トレムイユはブルゴーニュ公フィリップ3世に使節を派遣して、和睦に向けて公から前向きな回答を得ていた。ランスでのシャルル7世戴冠式(7月17日)に参列していたブルゴーニュ公使節ダヴィド・ド・ブリムーが、シャルル7世妃マリー・ダンジューとその母ヨランド・ダラゴンに宛ててランスから送った書状に「望ましい条約」(注7)を期待する旨記されている。

一方、ベッドフォード公は、シャルル7世戴冠式を指をくわえて見ていたわけではなく、増援部隊を手配していた7月10日から15日にかけて、ブルゴーニュ公フィリップ3世をパリへ招待して見世物や祭りを実施するなど大々的に歓待し、パリ市民へ同盟の結びつきをアピールするとともに、二万リーヴルもの宝石と、さらに月末までに同程度の贈り物をする約束までして関係強化を図った。このとき、ベッドフォード公はイングランド本国へ使者を派遣して『ブルゴーニュとの同盟なくしては、イギリス軍は“一撃のもとに”ついえ去ってしまう』(注8)と資金の要請を行っている。

8月16日、フランスは宰相ルニョー・ド・シャルトル、ラウル・ド・ゴークールらからなる使節団をアラスに滞在中のブルゴーニュ公の許へ送り、1419年に起きた前ブルゴーニュ公ジャン殺害の償いとして『人質であれ、体刑、罰金であれ、僧俗いずれに対してでも義務であれ服従であれ、考えられる限りのありとあらゆる保証』(注6)を申し出て、イングランドとフランスとの抗争における中立を要請した。同じころ、ブルゴーニュ公は配下の外交官でイングランド王の顧問でもあるユーグ・ド・ラノワを通じ、サヴォワ公アメデ8世が調停として提案していた1430年以降開催予定の講和会議に前向きな姿勢であることを通達する(注9)。

8月21日、コンピエーニュ滞在中のシャルル7世の許へリニー伯ジャン・ド・リュクサンブール率いるブルゴーニュ使節団が訪れ、和睦交渉が開始される。一週間後、フランスはコンピエーニュ、サンリスなどオワーズ川流域の諸都市をブルゴーニュ公に割譲する条件で四カ月間の休戦条約が締結された(注10)。

一方、ユーグ・ド・ラノワ主導でイングランドとブルゴーニュ間で秘密条約が締結されていた。これはフランスとブルゴーニュ公国の四カ月の休戦条約が終了する1430年1月に、イングランドがブルゴーニュ公に兵力2000名分の経費を提供することでブルゴーニュ軍がパリ防衛にあたること、およびブルゴーニュ公に対しフランス王国総司令官の称号と所領割譲が約束され、後に10月13日付でシャンパーニュ伯領とブリ伯領が与えられることが決められた(注11)。

フランスはブルゴーニュに対し、領土割譲と引き換えに四カ月の休戦を結んでこれを恒久的な和睦へと結びつけたいと考えていたが、イングランドはブルゴーニュに対し領土割譲や戦費提供によって休戦期間終了後の対フランス戦争へのブルゴーニュ軍参戦への道筋をつけようとしていた。漁夫の利を得たブルゴーニュ公は以後の戦局をコントロールする立場に立ったのである。

和平派と武断派の対立

侍従長ジョルジュ・ド・ラ・トレムイユ、宰相ルニョー・ド・シャルトルら廷臣はブルゴーニュ公との和解交渉を重視して軍事行動には慎重な姿勢であったが、ジャンヌ・ダルクと彼女の盟友であるアランソン公ジャン2世ラ・イルザントライユといった傭兵たちは早期のパリ奪還を訴えて、フランス宮廷は前者和平派と後者武断派との路線対立が生じていた。

ジャンヌ・ダルクが戴冠式後のパリへの攻勢をシャルル7世に訴えていたことは、彼女の多くの書簡でも明らかだが、前述の戴冠式に参加したブルゴーニュ公使節ダヴィド・ド・ブリムーも「彼女はパリを支配下におけるものと信じきっています」(注7)と記している。ジャンヌ・ダルクはブルゴーニュ公が和平条約を遵守するとは全く考えていなかった。

『国王がブルゴーニュ公との間に一五日間の休戦を結ばれたのは事実です。そうすれば公は国王に一五日後には平和裡にパリの町をお返しするはずになっているのです。しかしながら早急に私がパリに入城しないかぎり、奇跡が生じるようには思えません。このようにして結ばれた休戦であっても私は大いに不満ですし、休戦を遵守するかどうかはわかりません。彼らが国王軍を攻撃しなくとも、もし私が休戦を守るとしても、それは国王の名誉を重んじてのことにすぎません。でも彼らが国王を欺き奉ることはできますまい。というのは私は、彼らが一五日間の休戦の間に和平を結ばないときに備えて、国王の軍隊をしっかりと確保しておくつもりだからです。』(1429年8月5日付ジャンヌ・ダルクからランス住民宛の書状(注12))

8月21日からフランスとブルゴーニュとの和睦交渉がコンピエーニュで始まると、アランソン公とジャンヌは密かに兵を集めて、8月26日、コンピエーニュからサンドニへ進軍し宿営した。ジャンヌらはパリ城壁の様子を視察し、ブーサック元帥ヴァンドーム伯ルイ1世、ラウル・ド・ゴークール、ジル・ド・レラ・イルザントライユらの集結を待った。

シャルル7世も彼らの熱意に押されてサンリスまで出陣したが、和平派と武断派を天秤にかけて基本的にどっちつかずの態度に終始する。そのような中で、アランソン公、ジャンヌ・ダルクらが率いるフランス軍は9月3日、パリ近郊のラ・シャペル村に本陣を構えた。そしてパリ奪還へ向けて、彼らは軍を進めることになる。

パリ包囲戦

パリを包囲するジャンヌ・ダルク

「パリを包囲するジャンヌ・ダルク」(1484年のミニアチュール)
パブリックドメイン画像

9月8日、フランス軍約1万2000名(注13)がパリ城壁のサン・トノレ門に集結、パリ包囲戦が始まった。

昼前からジャンヌ・ダルク、ラウル・ド・ゴークール、ジル・ド・レらがサン・トノレ門を攻撃するが、パリを守備するブルゴーニュ公配下の元帥ジャン・ド・ヴィリエは防備を固め、大砲も多数備えていたことから、激しい攻防が繰り広げられた。

『乙女は軍旗を手にとり、先陣の者たちと豚市場の方に向かって堀を下りていった。攻撃は激戦となり長びき、城方が攻囲軍に打ち出す大砲や長火砲の音や騒音はものすごいものであった。あらゆる種類の飛び道具が数知れぬほど大量に打ち出されてきた。』(アランソン公ジャン2世配下ペルスヴァル・ド・カニの記録。(注14))

攻撃は日没まで行われ、日が沈んだ頃、ジャンヌ・ダルクは足に矢を受けたが、それでも兵士たちを鼓舞して回った。しかし、彼女の軍旗を持っていた従卒レイモンが戦死するなど苦戦を強いられ、なおも攻撃を叫ぶジャンヌをラウル・ド・ゴークールらがなだめ、無理やり陣に戻して包囲戦初日の戦いは終了した。

匿名の記述者が著した「パリ住人の日記」による、パリ包囲戦でのジャンヌ・ダルクの負傷と従卒レイモンの戦死の様子は以下の通り。

『(前略)そうしてそのものは大弓をまっすぐかの女めがけて射る、矢はグサリと脚に刺さる、かの女は逃げる。もう一本の矢がかの女の旗を持つものの足に刺さった。そのものは傷ついたと感じて瞼甲をあげ、足を見て、突き刺さった旋転矢を引き抜こうとした。そのとき、もう一本の矢が飛んでくる、両眼のあいだに突き刺さって血が噴き出る、かれを傷つけ殺す。(後略)』(注15)

9月9日、ラ・シャペルの本陣でジャンヌは負傷をおして、アランソン公を誘って再出撃を訴えるが、そこにバール公ルネ・ダンジューとクレルモン伯シャルルが国王の使者として訪れ、退却の指示を伝え、あわせてアランソン公が作らせていた攻撃用の船橋も破壊させた。9月13日、シャルル7世はジャンヌ・ダルクの反対にも関わらず、ロワール川方面への転進を命じ、パリ包囲戦は終了した。ジャン・ポトン・ド・ザントライユは『これは、“国王顧問軍”が“実戦武闘派”に対しておさめたかつてないほどの勝利であった』(注16)と苦々しく吐き捨てている。

パリ包囲戦後

シャルル7世は侍従長ジョルジュ・ド・ラ・トレムイユらの進言を入れて、ジャンヌ・ダルクとアランソン公ジャン2世ら武断派の結束を解くよう、それぞれ別作戦に従事させた。ペルスヴァル・ド・カニは『彼らは乙女と公がいっしょにいるのを承知もがまんもしたくなかったのです。公はもはや彼女と相まみえることはありませんでした。』(注17)とラ・トレムイユらがジャンヌとアランソン公の分断を謀った旨指摘する。このあとジャンヌ・ダルクはニヴェルネ地方に盤踞する独立勢力ペリネ・グレサールの討伐へと向かう。

ニヴェルネ遠征~ジャンヌ・ダルク初敗北とペリネ・グレサールの下剋上
1429年秋、パリ包囲戦が終わり、イングランド、ブルゴーニュと休戦が成立すると、シャルル7世は、首府ブールジュの東、ロワール川の対岸ニヴェルネ地方を実効支配するイングランド=ブルゴーニュ派の武将ペリネ・グレサールの討伐をジャンヌ・ダルクらに...

ラ・トレムイユらは、ブルゴーニュ公を刺激せず、恒久的な和平へと進展させたいと考えていた。しかし、上記のようにブルゴーニュ公はイングランドとも外交交渉を通じて参戦に向けた作戦立案に前向きであり、フランスと約束していた和平会議の実施を先延ばししつつ、1430年4月、フランス側に対して領土割譲の履行を求めて軍を動かし、コンピエーニュ攻略に乗り出すことになる。ブルゴーニュ軍に包囲されたコンピエーニュ解放のため出陣したジャンヌ・ダルクは戦いの中で虜囚となるのであった。

だが、このときのフランスとブルゴーニュとの和平交渉は無駄ではなく、以後も続く両国の接近が1435年に締結されるアラスの和約を準備することになる。

参考文献

・堀越孝一訳・校注『パリの住人の日記〈2〉1419‐1429』(刀水書房、2016年)
・堀越孝一著『ジャンヌ=ダルクの百年戦争 (新・人と歴史 拡大版)』(清水書院、2017年、原著1984年)
・ジョセフ・カルメット著(田辺保訳)『ブルゴーニュ公国の大公たち』(国書刊行会,2000年,原著1949年)
・レジーヌ・ペルヌー/マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)
・レジーヌ・ペルヌー著(高山一彦訳)「ジャンヌ・ダルクの実像 (文庫クセジュ)」(白水社、1995年)
Bataille de Montépilloy — Wikipédia(2019年11月23日閲覧)
Siège de Paris (1429) — Wikipédia(2019年11月23日閲覧)
Chronique de Monstrelet – L.II – 65(2019年11月23日閲覧)

脚注

注1)レジーヌ・ペルヌー/マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)138頁

注2)レジーヌ・ペルヌー/マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)138頁では350名としているが、レジーヌ・ペルヌー著(高山一彦訳)「ジャンヌ・ダルクの実像 (文庫クセジュ)」(白水社、1995年)69頁には3500名とあり、その後の出撃時の兵員数も考慮して後者を選択した。また、総員一万人については同時代の年代記作家アンゲラン・ド・モンストルレによる記録” Chronique de Monstrelet – L.II – 65“、および、Bataille de Montépilloy — Wikipédia(2019年11月23日閲覧)も参照。なお堀越孝一著『ジャンヌ=ダルクの百年戦争 (新・人と歴史 拡大版)』(清水書院、2017年、原著1984年)169頁ではモンテピロワでの対陣の際、『シャルルの側は七〇〇〇、ベドフォード側は四〇〇〇という数字がある』とするが、出典は不明。

注3)レジーヌ・ペルヌー/マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)142頁

注4)レジーヌ・ペルヌー/マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)143頁

注5)第一軍から第四軍までの編成は” Bataille de Montépilloy — Wikipédia”(2019年11月23日閲覧)参照。シャルル・ダルブレ率いる第四軍が先頭である旨はレジーヌ・ペルヌー/マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)143頁参照。

注6)レジーヌ・ペルヌー/マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)144頁

注7)レジーヌ・ペルヌー/マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)141頁

注8)レジーヌ・ペルヌー/マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)140頁

注9)レジーヌ・ペルヌー/マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)144-145頁

注10)レジーヌ・ペルヌー/マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)146頁

注11)レジーヌ・ペルヌー/マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)146-147頁

注12)レジーヌ・ペルヌー/マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)437頁。またジャンヌ・ダルクの書簡については『ジャンヌ・ダルク書簡まとめ~書状でみるジャンヌ・ダルク』にまとめている。

注13)パリ住人の日記の記述による。堀越孝一訳・校注『パリの住人の日記〈2〉1419‐1429』(刀水書房、2016年)416頁。

注14)レジーヌ・ペルヌー/マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)149頁

注15)堀越孝一訳・校注『パリの住人の日記〈2〉1419‐1429』(刀水書房、2016年)417頁

注16)レジーヌ・ペルヌー/マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)150頁

注17)レジーヌ・ペルヌー/マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)152頁

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