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ニヴェルネ遠征~ジャンヌ・ダルク初敗北とペリネ・グレサールの下剋上

1429年秋、パリ包囲戦が終わり、イングランド、ブルゴーニュと休戦が成立すると、シャルル7世は、首府ブールジュの東、ロワール川の対岸ニヴェルネ地方を実効支配するイングランド=ブルゴーニュ派の武将ペリネ・グレサールの討伐をジャンヌ・ダルクらに命じた。

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「下剋上」の体現者ペリネ・グレサール

ペリネ・グレサール(” Perrinet Gressart,?-1438頃没”)は貧民層の出身とみられるが、その前半生は謎に包まれており、歴史に姿を現すのは1417年のことである。この年、彼は紋章を自作して自らを貴族だと称した。乱世に生きる人物特有の強烈な成り上がり願望を持っていたようだ。傭兵団を率いて1420年からブルゴーニュ公派に属して頭角を現す。1425年、後にシャルル7世政権で侍従長となるアルマニャック派の要人の一人ジョルジュ・ド・ラ・トレムイユを捕えて多額の身代金を獲得。1426年、ロワール川東岸の要衝ラ・シャリテ・シュル・ロワールを拠点とすると、周辺都市へ支配を拡大し強力な独立勢力となった。

かなりの戦上手で知られ、イングランド、ブルゴーニュ両国から多額の報酬を受けており、ブルゴーニュ公フィリップ3世からは公あるいは宰相ニコラ・ロランとだけ直接交渉することを認められるという特権も得ている。姪の夫にあたる傭兵隊長フランソワ・ド・シュリエンヌを腹心として、アルマニャック派のベリー地方やブルボン公国を劫略して回り、オルレアン包囲戦時には包囲軍と連動してサン・ピエール・ル・ムーティエを始めニヴェルネ地方の多くの城を占拠するなど、シャルル7世政権にとっては首都ブールジュを脅かす目の上のたんこぶというべき非常に厄介な勢力であった。

後述のように、ジャンヌ・ダルクが初の敗北を喫した人物であり、結局シャルル7世政権はペリネ・グレサールを打ち破ることが出来ないまま、アラスの和約後の1435年11月22日、シャルル7世は彼をラ・シャリテ終身守備隊長に任じるとともに年金保障など多額の報酬で彼の地位を認め、ようやく脅威を取り除くことが出来た。フランス王へ臣従した後の彼は、皮肉にもかつてのペリネ・グレサールのような野盗団の討伐に功績があったという。なお彼の死後、その勢力圏は王領に組み込まれることとなり、「下剋上」は一代限りで終わりを迎える(注1)。

ニヴェルネ遠征

1429年のニヴェルネ遠征地図

「1429年のニヴェルネ遠征地図」
(レジーヌ・ペルヌー/マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)157頁より)

1429年8月末、ブルゴーニュ、イングランド両国との四カ月の休戦が成立し、9月のパリ包囲戦も終結(注2)すると、シャルル7世の宮廷は懸案だったペリネ・グレサールの討伐へと乗り出すこととなる。

総指揮官としてシャルル・ダルブレが任命され、主力としてブーサック元帥ジャン・ド・ブロスジャンヌ・ダルク、ブルボン公国から当主代行のクレルモン伯シャルル・ド・ブルボン(後のブルボン公シャルル1世)とその弟モンパンシェ伯ルイ1世・ド・ブルボンらが参戦して遠征軍を構成する。

サン・ピエール・ル・ムーティエ包囲戦

1429年10月末、ジャンヌ・ダルクら遠征軍は、ヌヴェールとムーランの中間にある要衝で、ペリネ・グレサール派が占拠するサン・ピエール・ル・ムーティエの攻略を開始する。守将はグレサールの腹心フランソワ・ド・シュリエンヌ(注3)である。

包囲軍はかなりの苦戦を強いられたが、ジャンヌ・ダルクの機転で陥落させることができた。この経緯について、ジャンヌ・ダルクの副官ジャン・ドーロンが以下のように証言している。

『乙女と部下たちが町の前面に包囲の陣を敷いてしばらく後に、この町への攻撃が命ぜられました。これが実行に移され、そこに居合わせた兵士たちは町を占領するために全力を尽くしました。しかし町にいる兵士の数が多かったのと、町の頑丈な防備、それに内部にいる兵士たちの頑強な抵抗のために、フランス兵は退却せざるをえませんでした。そのとき私は踵に矢を受けて負傷していて、松葉杖がなければ立ったり歩いたりできない状態でしたが、乙女がごくわずかの兵しか伴わないでいるのを見て、何か具合の悪いことが起きるのではないかと思い、馬に飛び乗って彼女のほうに馬を進ませたった一人で何をしようとしているのか、どうして他の人々のように退却しないのかと尋ねました。彼女は頭から兜を外した上で、自分は一人ではないし、なお仲間として五万人の部下がいるし、この町を占領するまではここから動かないのだと答えました。

このとき、彼女が何と言おうと、彼女の周りには四、五名の部下しかおらず、これは私が確認したことですが、他の者も彼女の状況を同じように見ていました、こんな理由から私はもう一度彼女に、他の者たちと同じように立ち去って退くように申しました。すると彼女は私に、薪の束や柵を持ってこさせて町の回りの濠に橋を作り、皆がもっと近寄れるようにするのです、と命じました。そして私にこう命じながら彼女は高い声でこう叫びました。「全員薪の束と柵を持て!橋を作るのです!」と。この後すぐにこの通りになって橋が作られました。まったく驚いたことですが、町はさしたる抵抗も示さぬまま直に攻略されてしまったのです。』(注4)

ドーロンの証言だと一日で終わっているように見えるが、10月末から11月4日までかかっていて、想像以上の激戦で遠征軍は補給物資を使い果たしてしまっている。

ラ・シャリテ・シュル・ロワール包囲戦

サン・ピエール・ル・ムーティエを占領した遠征軍は、ペリネ・グレサールの本拠であるラ・シャリテ・シュル・ロワールの攻略に移るが、その前に物資の補給を受けなければならない。このときジャンヌ・ダルクがムーランからクレルモンとリオンの二つの町へ送った補給要請の文書のうちリオン宛の文書(11月9日付)が現存している。

1429年11月9日付、リオン市民に宛てたジャンヌ・ダルク直筆署名入り書状

1429年11月9日付、リオン市民に宛てたジャンヌ・ダルク直筆署名入り書状

『親愛なる良き友よ、サン=ペール(Saint Pere)・ル・ムーティエをどのようにして奇襲で奪取したかはすでにご承知のとおりです。次には、国王に逆らっている他の要塞をも神の助けによって落とすつもりでおります。ところがこの町を攻略する際に火薬、矢、その他武器類の大半を費やしてしまいました。私といたしましては、われわれはラ・シャリテを攻囲すべく、速やかに同地に参るつもりでおります。皆様方が国王はもとより、国王軍の戦士のお為を思い、その名誉を慮って下さっているのに甘えてお願いしたいのですが、至急、火薬、硝石、硫黄、矢、弩弓、その他武器各種を当方までお送り下さり、同地攻囲に御助勢下さい。申し上げましたように火薬、武器類がはなはだ欠乏しておりますので、何分にも早急に御手配願いたく、また、この件ぜひとも御承知下さり手抜かりなく御取りはからい下さいますよう併せて御願い申し上げます。

十一月九の日、モラン(Molins)に於いて認む。
ジャンヌ(署名)』(注5)

この文書については『ジャンヌ・ダルク書簡まとめ~書状でみるジャンヌ・ダルク』で詳しく紹介した通り、署名の綴り間違いや、19世紀の文書発見時に誰のものか不明な黒髪が入っていたことなど、ジャンヌ・ダルク書簡の中でも多くのエピソードで知られる有名な文書である。

これらの補給要請に対し、クレルモン市からは『硝石二キンタル、硫黄一キンタル、矢二箱』(注6)、リオン市からは物資ではなく一定額の資金が送られるに留まった。

1429年11月24日、物資不足の中、遠征軍はラ・シャリテ・シュル・ロワール攻略を開始するが、ペリネ・グレサールの堅守の前に全く歯が立たなかったようだ。伝令使ベリが書き残すところによれば、『極寒の最中、ラ・シャリテ攻略軍は兵も少なく(・・・・・・)約一か月の攻囲の後、籠城軍には届いている救援物資も手に入らず、臼砲や大砲も失い、恥をしのんで陣を払った』(注7)という。このとき奪われた大砲は”羊飼い娘(ベルジェール)“と名付けられたオルレアン包囲戦でも使用された大砲の一つで、後にペリネ・グレサールは、戦利品である”羊飼い娘”をブルゴーニュ公に貸し付けて利益を得ている(注8)。

また、アランソン公ジャン2世の配下で年代記作家のペルスヴァル・ド・カニは『国王はジャンヌにその部隊を維持するための食糧や金銭を送る処置をとらないので、ジャンヌはやむなく攻囲軍を撤収し、大いなる不満のうちにそこを去らねばならなかった。』(注7)と、補給問題を敗因として挙げ、シャルル7世や宮廷の責任を問うている。

ニヴェルネ遠征は失敗に終わり、ジャンヌ・ダルク初めての敗戦となった。

参考文献

・レジーヌ・ペルヌー/マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)
・レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)『ジャンヌ・ダルク復権裁判』(白水社、2002年)
Perrinet Gressart et le Nivernais de 1422 à 1435, deuxième et dernier article
Perrinet Gressart — Wikipédia
François de Surienne — Wikipédia

脚注

注1)彼の経歴については、レジーヌ・ペルヌー/マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)337-345頁、および”Perrinet Gressart — Wikipédia“,”Perrinet Gressart et le Nivernais de 1422 à 1435, deuxième et dernier article “参照

注2)休戦成立とパリ包囲戦の経緯について詳しくは『1429年夏の英仏ブルゴーニュ外交とジャンヌ・ダルクの「パリ包囲戦」』でまとめている。

注3)フランソワ・ド・シュリエンヌ(” François de Surienne”,1398-1462)はアラゴン人傭兵。グレサールの姪と結婚し、グレサールの相続権を得て事実上後継者とされていたが、後にグレサールがフランス王に接近すると訣別し、イングランド王に忠誠を誓う。1447年ガーター勲章授与。1449年からのフランス軍によるノルマンディー征服に抵抗して奮戦するが、イングランドの敗退とともにシャルル7世に降伏する。フランスでは冷遇されたため、ブルゴーニュ公フィリップ3世に仕えて重用され、1452年、シャテルジェラール領主となった。レジーヌ・ペルヌー/マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)345-348頁、および”François de Surienne — Wikipédia”参照

注4)レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)『ジャンヌ・ダルク復権裁判』(白水社、2002年)206-207頁

注5)レジーヌ・ペルヌー/マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)439-440頁

注6)レジーヌ・ペルヌー/マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)156頁

注7)レジーヌ・ペルヌー/マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)158頁

注8)レジーヌ・ペルヌー/マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)338頁

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