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【城プロ殿向け】城娘シノン城は誰と仲が良いのか?歴史の中の欧州城娘関係

DMMによるブラウザゲーム「御城プロジェクト:RE 〜CASTLE DEFENSE〜」(城プロRE)は擬人化した世界中の城が登場するタワーディフェンスゲームです。ゲームとしての楽しさは勿論、キャラクターの造形や性格付け、イベントのシナリオなどで結構ディープな歴史エピソードに基づいて構成されており、城郭ファンや歴史ファンも楽しめるゲームではないかと思います。私が始めたのは2014年の旧城プロ時代で、一時中断の後、REになって、2016年5月の松本城・深志城イベント「白き牡丹と黒烏」から復帰して現在までぼちぼち続けています。殿レベルは178になったところです。

城娘シノン城

城娘シノン城
©DMMゲームズ/御城プロジェクト:RE

城プロREには日本の城だけではなく海外の城も多く登場しますが、その海外の城の中でも登場が多めなのがフランス西部ロワール渓谷のシノン城(CV黒沢ともよさん)です。軽いノリで海外遠征シナリオの導入になることが多い彼女は、やたらと欧州の城娘との交友関係の広さが描かれていますが、歴史的にみても中世のフランスにおいてシノン城は中心にあり続けた城でした。

シノン城~ヘンリ2世からジャンヌ・ダルクまで愛された王城
シノン城( フランス語"Forteresse royale de Chinon" 王家の要塞シノン城)はロワール川とその支流ヴィエンヌ川との合流地点を臨む高台に建つ古城である。ロワール川を東に上るとオルレアンや首都パリを擁するイル・ド・フラ...

シノン城は欧州の城郭史において非常に重要な存在感を発揮しており、彼女を語るならば、自ずと中世の城の歴史を振り返らざるを得なくなります。ということでまずは、ヨーロッパのお城がどのように誕生したのかを簡単に振り返ってみることにしましょう。ガイヤール城がいう「当時の情勢や地理状況」のお話です。

城プロガイヤール城贈り物イベント画面 ©DMMゲームズ/御城プロジェクトRE

城プロガイヤール城贈り物イベント画面
©DMMゲームズ/御城プロジェクト:RE

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中世ヨーロッパ城塞誕生史の中のシノン城

中世城塞誕生以前

五世紀にローマ帝国の支配体制が崩れた後、ヨーロッパ各地にゲルマン人諸国家が成立、八世紀にフランク王カール1世(大帝、在位768~814年)によって統一されますが、その死後、王位継承の争いがあって半世紀ほどで帝国は分裂(843年ヴェルダン条約、870年メルセン条約)します。現在のドイツ一帯を支配下に置いた東フランク王国では、962年、オットー1世が皇帝に即位して神聖ローマ帝国が誕生したことで安定しますが、現在のフランス一帯を支配下とする西フランク王国は王権が弱いまま、諸侯が台頭して勢力争いを繰り広げました。戦国乱世が城の必要性を高めるのは日本も欧州も変わりません。

臨時の軍事拠点や簡易的な砦などはあったものの、激しい内乱とヴァイキングの襲来に見舞われていたブリテン島で八世紀頃から都市を土や木製の防壁で囲むバラ” Burgh”と呼ばれる城塞都市的な形態が発展したり、東欧ではスラヴ人によって同じく八世紀頃から人工的な高台の上に居住地を置き土塁や木製の防御柵で囲むグラードという形態の防御施設が登場してはいましたが、恒常的な軍事拠点としての城というのはほとんど造られませんでした。

モット・アンド・ベイリー式築城技術

ヨーロッパで城が登場するのは十世紀頃です。この頃、フランス北部で発展した築城形式として領主の居館となる土または木製の天守塔を人工の盛り土(モット)の上に築き、その付属地として木製の防御壁で囲まれた前庭(ベイリー)を持つモット・アンド・ベイリーという築城形式が発展しました。前出のグラードと似ていますが、グラードからの発展ではなく、両者の起源となる環状集落からよく似た発展を遂げたものと考えられています。このモット・アンド・ベイリー様式は十一世紀ごろから主にノルマン人によって広められます。

モット・アンド・ベイリー式築城のイメージ図

モット・アンド・ベイリー式築城のイメージ図
© Moreau.henri [CC BY-SA 3.0]

ノルマン人は九世紀ごろから活動したヴァイキングの一派で、十世紀初め、ノルマン人の首長ロロがフランス北部ルーアン市一帯を占領、西フランク王に領有を認められてノルマンディー公を名乗るようになります。その七代目のノルマンディー公ギヨーム2世は、1066年、ヘースティングズの戦いでイングランド軍を破り、イングランド王ウィリアム1世(征服王、在位1066~1087年)に即位します。ウィリアム1世はモット・アンド・ベイリー様式の築城技術をイングランドに広めました。まず、ヘースティングズに城を築き、続いてドーヴァーやロンドンを手始めに、ウォリックやウィンザーなど殿にはお馴染みの場所に木造のモット・アンド・ベイリー式城塞を築いていきます。なおロンドンだけは王権の象徴としてモットの上に石造の塔を築きました。それぞれ城娘ドーヴァー城、ロンドン塔、ウォリック城、ウィンザー城の前身ですね。

ヨーロッパの城というと石造の城というイメージですが、この石造の城が広まるのは十二世紀のことです。すでにウィリアム1世がロンドンに石造の塔を築いたことは紹介しましたが、十世紀頃から城とはいわないまでも石造の城塔(ドンジョンまたはキープ)が各地に誕生しています。しかし、石造での城塞建築は高い技術力と莫大な資金と多数の労働力が必要となるので、なかなか広まりませんでした。そして、最初期の石造の城として知られるのが、お待たせしました、シノン城です。

乱世のフランス

1030年のフランス情勢

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1030年のフランス諸侯(パリ周辺の水色の地域がフランス王領、その東西を挟むブロワ(Blois)・シャンパーニュ(Champagne)伯、ブロワ伯の西がアンジュー(Anjou)伯、ブロワ伯・アンジュー伯の北で王領の北西がノルマンディ(Normandie)公領、東南部にブルゴーニュ(Bourgogne)公領)
ウィキメディアコモンズより

フランス北西部では大西洋に突き出したアルモリカ半島にブルターニュ公、その東側、ロワール沿岸地域にある都市アンジェを中心としてアンジュー伯、その東にブロワ伯、アンジュー伯とブロワ伯の領地の南にポワトゥー伯という勢力があって互いに熾烈な争いを演じていました。特にアンジュー伯とブロワ伯は犬猿の仲で、その争いの中で954年、ブロワ伯ティボー1世が石造で築いたのがシノン城でした。シノン城は1037年にアンジュー伯が奪取して以降アンジュー伯の重要拠点として発展します。

ところで、日本の戦国時代、織田信長は三好氏に圧迫される足利将軍家に協力して勢力を拡大するが強くなりすぎて警戒され反織田同盟が結成されるという流れを辿りましたが、よく似た展開が十一世紀のフランスでも起こります。

時のフランス王アンリ1世(在位1031~1060年)はパリ周辺を支配するにとどまる弱体勢力で、王領の西側にあるブロワ伯の圧迫で苦しい状況となっていました。そこで王はアンジュー伯フルク3世に助けを求め、これに応えてアンジュー伯はブロワ伯を撃破してシノン城を占領するなど勢力を拡大します。ところが、強くなり過ぎたアンジュー伯を警戒した王は、こんどはアンジュー伯を討とうと反アンジュー伯同盟を画策、ノルマンディー公ギヨーム2世(ウィリアム1世)に助けを求めて、アンジュー伯とノルマンディー公、さらにフランス王やその他諸侯も巻き込んでの大戦が起こることになります。この争いの中で勢力強化を狙ってノルマンディー公が起こしたのがイングランドの征服でした。

ノルマンディー公のイングランド征服はフランス王とアンジュー伯にとっては非常に脅威となります。そこで、フランス王とアンジュー伯は手のひらを返して同盟してノルマンディー公(ノルマンディー公がイングランドを支配する体制を「アングロ・ノルマン王国」といいます)に対抗します。この三つの勢力の争いが大きく転機を迎えたのが十二世紀、ウィリアム1世の子ヘンリ1世(碩学王、在位1100~1135年)の代でした。ヘンリ1世は娘とアンジュー伯の息子との結婚を成立させ、その間に生まれた子がイングランド、ノルマンディー、アンジューを統一することにしたのです。

イングランド王ヘンリ2世と石造城塞の始まり

イングランド王ヘンリ2世と武威の王権『アンジュー帝国』
誕生から即位まで 1066年、ノルマンディー公ギヨーム2世がブリテン島へ侵攻しイングランド王ウィリアム1世として即位したことで、イギリス海峡をまたぐノルマンディー公領とイングランド王領からなる海峡国家アングロ=ノルマン王国が誕生した。三代...

アンジュー帝国

アンジュー帝国

こうして生まれたのがヘンリ2世(在位1154~1189年)でした。ヘンリ2世は祖父ヘンリ1世死後二十年近く続いた内乱を鎮め所領を再統一すると、継承によってイングランド王、ノルマンディー公、アンジュー伯位を、結婚によってポワトゥー伯、アキテーヌ公位を、さらに征服によってブルターニュ公位を始め多数の領地を傘下に収め、スコットランド王など周辺諸国も臣従させてブリテン島からフランスの北部および西半分までを支配する「アンジュー帝国」を築きます。アンジュー伯爵家が支配する帝国という意味でアンジュー帝国、あるいはプランタジネット家という家名からプランタジネット朝やプランタジネット・ドミニオンズなどと呼ばれます。

石造の城を築くには高い技術力と莫大な資金と多数の労働力が必要と書きましたが、それを実現できる強力な帝王が出現しました。ヘンリ2世はこれまで木造だった城塞を次々と石造の強固な中世城塞にリニューアルさせていきます。我々が良く知るヨーロッパのお城の誕生です。まず、シノン城を建て替えて自らが君臨する王宮とし、イングランドではドーヴァー城、ロンドン塔、ウォリック城、ウィンザー城などのウィリアム1世時代の城を壊して新造するなど多くの城が築かれます。また、モン・サン・ミシェル修道院を庇護下に置いて多大な援助を行いました。

ヘンリ2世から始まる石造城塞建築ブームは工法が確立することで、一気に大きな波となってヨーロッパ中に広がり、十二世紀から十三世紀にかけて、アンジュー帝国の版図だけでなく、フランス、ドイツや東欧、さらにシリア・パレスティナの十字軍国家まで石造城塞が築かれます。また、同じころにフランス王フィリップ2世(尊厳王、1180~1223年)も石造の天守塔を築き、彼の治世下で考案されたフィリップ式天守塔(ドンジョン)がヨーロッパに広がることになります。

シノン城と仲間たち

以上のように、中世ヨーロッパの城塞誕生の歴史の中心にして原点にいたのがシノン城であったことは伝わったかと思います。いわばヨーロッパの城娘のお姉ちゃんであるわけです。そのシノン城と仲が良さそうな城娘は誰がいるか、考えてみましょう。ある程度歴史の流れを踏まえた順番です。

シノン城に振り回されっぱなし?「コンシェルジュリー」ことシテ宮

2019年11月に実装されたばかりの「コンシェルジュリー」(CV佐倉綾音さん)はパリのシテ島に築かれたフランス王の王宮シテ宮が王宮としての役割を終えた後に行政府として再利用された建物です。

シノン城が築かれた十二世紀後半、強大なアンジュー帝国に対抗して当時のフランス王ルイ7世(若王、1137~1180年)は非常に苦しい立場でした。離婚した前王妃アリエノール・ダキテーヌが再婚したのがヘンリ2世であわせて彼女の所領だったアキテーヌとポワトゥーも奪われ大帝国の成立に至ったことに始まり、ヘンリ2世の王子たちをフランスの官職にねじ込まれ、娘は人質に取られ、親子関係が不仲なことに付け込んでヘンリ2世の子供たちの反乱を画策するも圧倒的な武力で鎮圧され・・・と、振り回される一方です。

シテ宮(コンシェルジュリー)は、アンジュー帝国の中心であるシノン城は絶対ヤバいやつと思っていたのではないでしょうか。で1205年、シノン城をフランス軍が占領したことで、コンシェルジュリーはシノン城と対面することになったと思うのですが、会ってみたらあれあれ?想像していたのと正反対の軽いノリの子でズコーってなったはず。とはいえ、生真面目なコンシェルジュリーとフリーダムなシノン城という性格付けからも、歴史的な経緯からも、コンシェルジュリーはシノン城にいいように振り回されっぱなしなのではないかと妄想します。

可愛い妹分あるいは娘?「ガイヤール城」

一方的に振り回されっぱなしだったルイ7世に代わって後に尊厳王の名で知られる稀代の英雄フィリップ2世が跡を継ぎ、ヘンリ2世が息子リチャードの反乱で失意のうちに亡くなると、力関係は大きく動きます。ヘンリ2世の後を継いだリチャード1世(獅子心王、在位1189~1199年)は帝国を有能な家臣団と母アリエノールに任せてほったらかし十字軍遠征の夢を追って遠くエルサレムへ向かいます。

獅子心王の名の通りリチャード1世は中東の戦場で獅子奮迅の大活躍をしていましたが、一方留守の間に末弟ジョンが王位簒奪を企み、アンジュー帝国の分断を狙うフランス王フィリップ2世が権謀術数を駆使して介入するなど帝国の屋台骨が揺らぎます。遠征からの帰路で捕虜となり、多額の身代金を払ってようやく帰還したリチャード1世は、牙を剥いてきたフランス王フィリップ2世に対抗して、1197年、強力な城をノルマンディー地方の要衝レザンドリー市に築くことにします。これが「ガイヤール城」です。

城娘「ガイヤール城」(CV河井晴菜さん)本人が語っている通り、城はわずか一年の突貫工事で築城されながら、三つのベイリーを持つ当時屈指の大規模城塞で、セーヌ河の流れを利用して守りやすく攻めにくい構造をしています。しかし、1199年、無敵の強さを誇ったリチャード1世があっけなく戦死し弟ジョンが王位を継ぐと、フランス王の攻撃はさらに厳しくなり、1204年、ガイヤール城は陥落してしまいます。このときトイレから侵入されて陥落したという伝説もあり、ゲーム中でも語られていますが、まぁ伝説にすぎません。実際には、濠を埋め城壁を崩し少しずつ包囲を狭めて突破口を開き・・・という非常に地道な包囲戦の結果です。

というわけで、シノン城にとってのガイヤール城は、自身の築城者の子が築いた城という関係になり、強がりで頑張り屋なかわいい妹分あるいは娘のようなものではないかと思われます。ロワール姉妹とは別に非常に猫(獅子)かわいがりしていそうな気がするのですがどうでしょうね。

深~い仲(意味深)な「ドーヴァー城」

「シノン城」と「ドーヴァー城」(CV森谷里美さん)はともにヘンリ2世の築城、しかも特に彼が力を入れたということで、その城の構造について何かと対比されることが多い中世城塞の代表格の一つであり、歴史的経緯からも浅からぬ縁があります。

1204年、ガイヤール城の陥落によってノルマンディー公領を奪取したフランス王フィリップ2世はいよいよアンジュー帝国の王宮シノン城の包囲に取り掛かります。守るのはケント伯ヒューバート・ド・バーグという武将で、強力な守備で約一年に渡り守り続けますが、1205年6月23日、シノン城はついに陥落して、アンジュー帝国はノルマンディー公領に続き、帝国の中核であるアンジュー伯領を喪失します。

この後、捲土重来を期して様々な手を打つジョン王(欠地王、在位1199~1216年)ですが、1214年、イングランド=神聖ローマ帝国=反フランス王諸侯連合軍とフランス王軍の天王山であるブーヴィーヌの戦いで数倍する兵力を擁しながら大敗したことで万事休すとなります。1215年、外征に明け暮れたリチャード1世時代からの圧政にイングランド諸侯の不満が爆発して、第一次バロン戦争と呼ばれる内乱が勃発し、反ジョン王諸侯はフランスの王太子ルイを新しいイングランド王に招き入れ、王太子ルイ(後のフランス王ルイ8世)率いるフランス軍がイングランドへ上陸、ロンドンを制圧していよいよイングランドも失うかに見えました。

このとき、要衝ドーヴァー城に籠ったのがシノン城の守将だったヒューバート・ド・バーグです。ルイは後に南フランスを征服して獅子王の名で呼ばれる歴代フランス王屈指の猛将。しかし、シノン城の雪辱を期するバーグは大軍で攻め寄せるフランス軍を徹底的に防ぎ続け、ついにルイはドーヴァー城の攻略を諦めざるを得ませんでした。1216年、ジョン王が急死してルイは王位簒奪の大義名分を失い、さらにドーヴァー城の奮戦に呼応して老将ウィリアム・マーシャル率いる反フランス諸侯が幼王ヘンリ3世(在位1216~1272年)を擁して蜂起したことで、フランス軍はイングランド征服にあと一歩のところで撤退を余儀なくされました。これが、後にドーヴァー城を「イングランドの鍵」たらしめる難攻不落伝説の始まりです。なおヒューバート・ド・バーグはヘンリ3世を支えてイングランドの立て直しに尽力し、名宰相として名を残すことになります。

このようにシノン城とドーヴァー城は非常に深い縁があり、ゲーム中でドーヴァー城がシノン城からロワールワインを贈られると語っていますが、明るいシノン城もドーヴァー城と二人きりになると、しんみり飲んでそうな感じもありますね。変な日本語も飲みながら教えられたのかも。古い戦友感が非常に強い関係だと思います。

ドーヴァー城~英国防衛の象徴となった難攻不落の「イングランドの鍵」
ドーヴァー城(Dover Castle)はケント州ドーヴァーのドーヴァー海峡を臨む海岸の岸壁上に建てられた城。「イングランドの鍵(Key of England)」という異名を持つ。城の地盤となっている石灰岩の白壁はブリテン島の古名アルビオン...

ズッ友だよ!「エディンバラ城」と古来の同盟

シノン城の親友を歴史的背景から考えるなら、スコットランドの「エディンバラ城」(CV高橋李依さん)だと断言してよいと思っています。

エディンバラ城は約三億五千万年前に隆起した岩山上に築かれた山城で、七世紀、アングロ・サクソン七王国(ヘプターキー)時代のノーサンブリア王エドウィン(在位616~632年)が築いた城市(バラ)に始まります。エドウィン王のバラ(”Edwin’s Burgh”)でエディンバラ(”Edinburgh”)です。十一世紀に木造の城塞が築かれ王の居城となりますが、1174年、ヘンリ2世に敗北したスコットランド王は1186年までエディンバラ城を奪われています。その後、王宮として代々受け継がれました。

本土であるアンジュー、ノルマンディー両地方を失い帝国の周縁であるイングランドへ押し出され、肩書同様イングランドとフランス南西部アキテーヌ公領を残すのみになったプランタジネット家はヘンリ3世の治世下で静かに立て直しを図り、次代のエドワード1世(長脛王、在位1272~1307年)は再び積極的な外征を始めます。エドワード1世は大陸領土の奪還ではなく、ブリテン島の統一に乗り出したのです。1284年、イングランドの西ウェールズ地方を征服して、その支配のためにお馴染みの城娘たちカーナーヴォン城、コンウィ城、ハーレック城などのアイアンリングを築城すると、次にスコットランドに牙を剥きます。

1707年グレート・ブリテン連合王国成立に至るスコットランド・イングランド対立の歴史
スコットランド王国成立前史 およそ八世紀頃までにスコットランドには主に五つの民族が定住するようになった。ピクト人、スコット人、アングル人、古代ブリトン人、ノース人である。他にもノルウェー人やデンマーク人なども移住してきており、それぞれ複数...

スコットランド王位継承問題に介入して、1292年、傀儡の王ジョン・ベイリャル(在位1292~1296年)を擁立しますが、これに反対するスコットランド諸侯の働きかけにより、傀儡王だったジョン・ベイリャルは手のひらを返してフランス王へ助けを求めます。この頃、漁業権を巡ってイングランドとフランスも対立しており、1295年、スコットランドとフランスの間で軍事同盟「古来の同盟(” Auld Alliance”オールド・アライアンス)」が結ばれました。この反イングランド同盟は1560年まで実に265年に渡って続くことになります。

この同盟が非常に意味を持ったのが百年戦争後期のことです。1415年、フランスの内乱に乗じてフランスへ進軍したイングランド王ヘンリ5世(在位1413~1422年)は瞬く間にノルマンディー地方を征服、フランスの王太子シャルル(後のシャルル7世)はパリを脱出してシノン城に亡命政権を打ち立てます。このとき、フランス亡命政権の弱体な軍事力を補うために大規模な援軍を送ったのがスコットランドでした。1421年から1424年まで、スコットランドの王族バカン伯ジョン・スチュアートはフランス軍の最高司令官である大元帥に任命されて文字通り主力として戦い、1424年にフランスで戦死しています。その後もスコットランド軍はシャルル7世(勝利王、在位1422~1461年)、すなわちシノン城のために戦い続けました。ジャンヌ・ダルクの活躍で知られるオルレアン包囲戦でもスコットランド軍の活躍が記録に残ります。実は時のスコットランド王はイングランドの捕虜となっていたにも関わらず、です。

シノン城が困ったときは自らの犠牲も顧みず全力で助けに行く、松岡修造氏を彷彿とさせるほどのゲーム中屈指の熱い城娘エディンバラ城とシノン城の篤い友情が伺えるのではないでしょうか。また、同盟期間の長さからもわかるように、他のフランスの城娘、特にフランソワ1世にゆかりの深いシャンボール城やフォンテーヌブロー宮殿などともおそらく篤い友情が結ばれているでしょう。

城プロエディンバラ城贈り物イベント画面 ©DMMゲームズ/御城プロジェクト:RE

城プロエディンバラ城贈り物イベント画面
©DMMゲームズ/御城プロジェクト:RE

贈り物イベントのセリフ「いつだって、こんなふうに、貴方の支えになりたいって思っています」のエモさ伝わりますか。

モンス・メグ砲

「モンス・メグ砲」(1449年ブルゴーニュ公国製の大砲。エディンバラ城収蔵)
(パブリックドメイン画像)

熱烈シノン城親衛隊「モン・サン=ミッシェル」「城塞都市カルカソンヌ」

星7最高レアの二人の城娘「モン・サン=ミッシェル」(CV井上喜久子さん)「城塞都市カルカソンヌ」(CV戸松遥さん)ともに「シノン城絶対守護る!」なシノン城親衛隊時代がありました。

1419年、パリを脱出したフランスの王太子シャルル(シャルル7世)はフランス中部ブールジュに逃れ、シノン城を軍事拠点として対イングランド戦争を始めます。北フランス一帯を支配するイングランドと、王太子シャルルと対立してイングランドと同盟するブルゴーニュ公国との三つ巴の戦いの中で、イングランドが支配するノルマンディー地方にあって、王太子シャルル派に与して抵抗していたのが、「モン・サン=ミッシェル」です。

現在、風光明媚な名勝として知られているように、モン・サン=ミッシェルはサン・マロ湾の小島にあり、潮の満ち引きによって上陸が可能となるという立地です。十五世紀、百年戦争の中でイングランドの攻勢に耐えられるよう防備が固められ、1425年以降、シャルル7世によって守備隊長に任じられた武将ルイ・デストートヴィルの指揮下で1453年に百年戦争が終結するまでイングランドの攻撃を跳ね返し続け、難攻不落を誇りました。1429年にはジャンヌ・ダルクがモン・サン=ミッシェルの応援に向かう計画もありましたが実現しなかったというエピソードもあります。

カルカソンヌは古代ローマ時代の都市に起源を持つ歴史ある南フランス・ラングドック地方の都市で、十二世紀、南フランス一帯を支配したトゥールーズ伯に臣従するカルカソンヌ子爵家の有力都市として栄えました。十二世紀当時、ヘンリ2世のアンジュー帝国にもフランス王にも与せず地中海貿易で栄えた第三勢力がトゥールーズ伯を中心とする南部諸侯連合です。十三世紀、アルビジョワ十字軍に続くフランス王ルイ8世の南フランス征服でフランス王の支配下となり、十四世紀にかけて強固な城壁と軍事施設が築かれ城塞都市として発展します。

百年戦争が始まると、フランス南西部アキテーヌ公領を支配するイングランドに対する最前線となり、シャルル7世時代、配下の有力武将アントワーヌ・ド・シャバンヌやジャンヌ・ダルクの副官だったジャン・ドーロンなど重臣が派遣されて非常に重視されました。

平和とともに得た家族「ロワール姉妹たち」

シノン城の妹たちとして設定されているのが、世界文化遺産「シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷」を構成する古城にあたる城娘たちです。2019年12月現在、「アンボワーズ城」(CV加藤英美里さん)「シャンボール城」(CV雨宮天さん)「シュノンソー城」(CV明坂聡美さん)「ユッセ城」(CV小清水亜美さん)が実装されています。また、シノン城や他の城娘たちのセリフに「アンジェ城」も登場するのでそれほど遠くない時期に実装されるかもしれません。皆シノンお姉ちゃん大好き全開で実によいですね・・・

ロワール渓谷一帯は、シノン城を始めとして様々な諸侯がロワール川流域に拠点を構えて城を築いたことで中世城塞が集中することになりました。百年戦争が終結して五百年以上続いた乱世が終わり、フランス全土がフランス王によって完全に統一されると、フランス王家はルネサンスの盛り上がりと共にロワール渓谷一帯に絢爛豪華な城を次々築くようになります。「アンボワーズ城」「シャンボール城」「シュノンソー城」「ユッセ城」はいずれも十五世紀末から十六世紀にかけてルネサンス風建築様式の強い影響下で改築または新築されています。

妹たちが築かれた頃、シノン城はすでにその役目を終えて廃城となっていました。妹たちは――後に戦乱の舞台になるとはいえ――いずれも平和な時代の城であるのに対し、シノン城は乱世に輝いた城であったといえるでしょう。十六世紀以降、シノン城は長い眠りに入り、十九世紀に再発見され、他のロワール渓谷の古城たちとあわせて観光地として人気を博すようになり、2000年に世界文化遺産への登録に至ります。本格的な修復は2000年代に入ってからでした。シノン城の歴史からみると、ロワール姉妹は長い戦いの日々を終えて平和な時代にようやくできた家族といえるのかもしれません。

今後実装が期待されるロワール渓谷の城娘としては、すでにゲーム中で名前が挙がるアンジュー伯領の中心であった「アンジェ城」、ブロワ伯ティボー1世が前身となる館を築きイングランド王ヘンリ2世が築城するというシノン城と同じ歴史を辿った名実ともに次妹と呼べる「ソーミュール城」、世界遺産の登録名にもなっている十七世紀を代表する居館「シュリー=シュル=ロワール城」、十六世紀初頭に築かれた小規模ながら美しいルネサンス様式の居館「アゼ=ル=リドー城」などがあります。「アゼ=ル=リドー城」はシノン城に立地的に非常に近い場所にあるので、お姉ちゃんにべったりな甘えん坊の小さい城娘として期待が高まります(新宮城談)。

「シノン姉様」を好きすぎる妹「アンボワーズ城」の陰謀

「華燭の典と偽りの花嫁」の中のシノン城の闇

直近でシノン城が登場したイベント「華燭の典と偽りの花嫁」(2019年6月開催)がとても面白かったので色々考察・・・というか妄想してみます。

同イベントの大まかなあらすじとしては、アンボワーズ城が「ロンドン塔」(CV金元寿子さん)のために作った花嫁衣裳が、ロンドン塔にゆかりのあるアン・ブーリンの幽霊の憎悪を呼び覚まして。アン・ブーリンの幽霊がロンドン塔に憑いてロンドン塔自身を死に至らしめようとするので、これをシノン城ら城娘と協力して阻止するというものです。

城娘ロンドン塔は過去にロンドン塔で犠牲になった様々な霊の集合体であるジェーン・ドゥズを背後に背負って制御しているという設定で、そのジェーン・ドゥズを構成する数多の霊の一人、後のエリザベス女王を産みながら寵愛を失いロンドン塔に幽閉されて死んだイングランド王ヘンリ8世(在位1509~1547年)の二番目の妻アン・ブーリンが、花嫁衣裳に反応して暴走します。

シナリオではアン・ブーリンとアンボワーズ城との関係について、アン・ブーリンがマルガレーテ・フォン・エスターライヒ(神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世とブルゴーニュ女公マリーの間の長女でネーデルラント総督、フランス語名でマルグリット・ドートリッシュ)の宮廷学校で学び、フランス王ルイ12世と結婚したヘンリ8世王妹メアリ・テューダーの侍女としてフランスへ渡った後、アンボワーズ城でフランス王フランソワ1世(在位1515~1547年)の最初の妻クロード王妃に一時仕えた歴史に求め、ロンドン塔の亡霊のエネルギー暴走を心配するようになったとしています。

「マルガレーテ総督やクロード妃のように華やかに」とうそぶいてヘンリ8世時代に起源を持つと言われる英国伝統の焼き菓子メイズ・オブ・オナー片手にイングランド大法官トマス・クロムウェル謹製断頭台でロンドン塔を処刑しようとするアン・ブーリンの亡霊・・・近世ヨーロッパ史ファンなら誰もが唸るだろう細かい歴史ネタ拾い実に良いですね・・・

敗れたアン・ブーリンの霊の憎悪をロンドン塔が全て肯定して救済されることで一件落着するも、その後、シノン城によってこれらが実はアンボワーズ城の画策であることを喝破され、怒られることになるわけですが、このやり取りが「城娘シノン城」を考える上で色々と示唆に富んでいます。シノン城はこう語っています。

「私は心の奥底においては、アンボワーズちゃんほど、歴史を肯定できる城娘ではないからだろうけど……。

アン・ブーリンの悲劇に光を見いだせたことは、これからの人生においては目映いほどの希望になった気がするの。

私にとっては、やっぱりまだ愛というものは、知識の裡での幻影でしかないから。

――愛があるからこそ憎しみがある。

――憎しみがあるからこそ愛がある。

そうしたシンプルな原理の大切さを、改めて思い出せたのは大事だと思う。」

このセリフから想像するのは、シノン城の日々の言動です。贈り物イベントから日々のちょっとした台詞まで、彼女が語るのはジャンヌ・ダルクへの憧れです。ジャンヌ・ダルクだけであると言ってもいいでしょう。そうです、城娘シノン城は不自然なぐらいジャンヌ・ダルクの栄光しか語っていないのです。

しかし、これまで見てきたように、シノン城の歴史において、ジャンヌ・ダルクの輝きは一瞬のことで、それまでの長い長い歴史は大国の盛衰と悲劇、愛憎入り乱れて争う戦乱の中心にあり続けていました。陰惨な歴史と日々の明るく振舞う言動のギャップが、このセリフで一気に収斂しているように感じるのです。

あらためて贈り物イベント1を見直すと、繰り返し怖い城娘ではないこと、ちょっとしたやり取りで怖がらせてしまったかもしれないことを危惧していることなど、シノン城が恐れられることを恐れていることに気が付きます。

城プロシノン城贈り物イベント画面 ©DMMゲームズ/御城プロジェクト:RE

城プロシノン城贈り物イベント画面
©DMMゲームズ/御城プロジェクト:RE

もしかして、人々に恐れられたかつての歴史を肯定できないまま、実は愛のありようを知らず、表面的につとめて明るく振舞っている結果として、今のノリの軽い、親しみやすいお姉ちゃんキャラのシノン城があるのでは?そう考えると彼女の言動の裏に実に複雑で重く容易に昇華できない思いを抱えた姿が浮かび上がってきます。

光も闇も内包した城娘の救済

城プロのシナリオは時々このような歴史ネタを複雑に絡めて城娘と歴史を向き合わせようとすることがあるように感じます。その代表的なものが、2017年4月に開催されていたイベント「共鳴せし叛逆の魂」で、一プレイヤーとしてこのシナリオは城プロ最高傑作なのではと思っているのですが、明智光秀の居城として知られる「丹波亀山城」(CV真中琴与さん)が反逆者としての業に振り回され、かつての城主明智光秀の魂を得た敵兜に従うようになるも、最後に自らの業と向かい合い、明智光秀兜を撃破するという、熱いストーリーでした。そこで、もう一人、松永久秀という反逆者としての歴史に名を遺す人物にゆかりの城娘「多聞山城」(CV小野涼子さん)がこう語っています。

「城娘には多かれ少なかれ、それぞれに内包する業があるのです。

それは城としての歴史であったり、城主の個性であったり、城下町の人々の思いであったりと、千差万別ですわ。

(中略)

丹波亀山城は、自らの意思で我々を謀ったと思っているようですが、その心すら、彼女の内包する業によって左右されているとするならば……。

それは彼女の心が真に望んだ結末ではないと、私は思うのです。

(中略)

だからこそ彼女の傍に在りたいと望み、在るべきだと自らに断じ、そして身勝手にも救わねばならないと……そう、思ってしまうのです。」

城の持つ様々な歴史、明るいだけではない暗い面も城娘と言う擬人化されたキャラクターに性格付けとして盛り込みつつ、その救済に向けたストーリーを描くというシナリオをこのゲームでは時折見かけます。

「アンボワーズ城」と「王城のシノン」

この「共鳴せし叛逆の魂」での多聞山城の役割を「華燭の典と偽りの花嫁」ではアンボワーズ城が担っているわけですが、多聞山城は丹波亀山城にだけその思いを向けていたのに対し、アンボワーズ城はロンドン塔以上に姉であるシノン城への強い思いがあるように思えます。自身に向けられた「シノン姉様」の笑顔が、実は誰にでも等しく与えられていることに複雑な思いを抱いて「手中に収まった愛ほど、無価値なものはないのだから――」と物思いにふけるアンボワーズ城の描写に「あ!巨大感情!最近百合系創作で人気沸騰の巨大感情概念だ!」と個人的に大騒ぎしつつ、そういえばシノン城とアンボワーズ城の関係は、確かに色々と複雑なものがあったなと歴史に思いを馳せます。

アンボワーズ城はシャルル8世とフランソワ1世によってルネサンス式城郭建築が取り入れられて現在の姿になりますが、元々は貴族アンボワーズ家の居城として築城されたものです。その当主でシャルル7世に仕えたルイ・ダンボワーズはジャンヌ・ダルクの戦友としてオルレアン包囲戦で戦ったこともある人物ですが、当時シャルル7世の寵臣として宮廷を掌握していたジョルジュ・ド・ラ・トレムイユ侍従長を取り除くべく暗殺を企てて逮捕されアンボワーズ城に幽閉されたというエピソードがあります。

ここから、シャルル7世=シノン城のためと自身が信じることであれば、たとえ当人が望んでいなかろうとも、それを実行することに躊躇はないという性格付けを導くこともできます。そこにレオナルド・ダ・ヴィンチの万能という特性が混ざると、今後もかなりシノン姉様好きすぎるがゆえの裏工作を繰り返しそうな予感がしますね・・・

姉が自身を「容赦なく罰する」ことを期待しているアンボワーズ城に、もしかすると、アンボワーズ城がシノン城に望んでいるのは、誰にでも優しく親し気で、ジャンヌ・ダルクに憧れる夢見る乙女なシノン城ではなく、かつてのヨーロッパに号令していたヘンリ2世時代の威光を取り戻した君主然としたシノン城で、偉大なシノン姉様の寵愛を一身に受けるアンボワーズ城みたいな幻想を抱いているのでは。

そうすると、ロンドン塔の一件について「此世と隠世の境」が消えかかっているかもしれないことの実験という大義を語っていましたが、次の実験はシノン姉様に向くのかもしれません。例えば隠世からヘンリ2世の亡霊やジャンヌ・ダルクの亡霊を呼び出してシノン城に過去と対面させるとか。ショック療法的にシノン城に自身の城の歴史を肯定させることで――

ところで、シノン城のフランス語での表記は実は一般的な「シャトー・ド・シノン” Château de Chinon”」(シノン城)ではなく「フォートレス・ロワイヤル・デ・シノン” Forteresse royale de Chinon”」(日本語で訳すと「王の砦シノン」、または「王城のシノン」など。フランス観光開発機構のシノン城の紹介ページでは「王家の要塞(城塞)シノン城」と訳されています。)なことは御存じでしょうか。フランスの城で城名に” royale”(王の)がつくのは、おそらくシノン城だけなはずです。

――姉を真の名である「王の城」たらしめることは、アンボワーズ城にとっては大きな大義といえるのかもしれない。そしてその過程で、アンボワーズ城は喜んで姉を陥れた罰を受けるのだろう――などと妄想の翼をはばたかせています。

ということで、シノン城を中心にした城娘たちについて色々歴史を紹介しつつ最後は妄想全開で締めてみたのですが、いかがでしょうか。ひとまず、「御城プロジェクト:RE 〜CASTLE DEFENSE〜」ユーザーの方々に楽しんでいただける記事になっていれば幸いです。また未プレイの方々、城プロ面白いのでお勧めですよ。

「公式」御城プロジェクト:RE ~CASTLE DEFENSE~(城プロRE)
御城プロジェクト:RE ~CASTLE DEFENSE~(城プロRE)

参考文献・リンク

・朝治 啓三,渡辺 節夫,加藤 玄 編著『中世英仏関係史 1066-1500:ノルマン征服から百年戦争終結まで』(創元社,2012年)
・太田静六著『イギリスの古城 (世界の城郭)』( 吉川弘文館 2010年)
・城戸 毅著『百年戦争―中世末期の英仏関係 (刀水歴史全書)』(刀水書房,2010年)
・佐藤賢一著『ヴァロワ朝 フランス王朝史2 (講談社現代新書)』(講談社,2014年)
・J・E・カウフマン/H・W・カウフマン共著(中島智章訳)『中世ヨーロッパの城塞』(マール社,2012年)
・ジャン=ポール・ブリゲリ 著(池上俊一 監修/岩澤雅利 翻訳)『モン・サン・ミシェル:奇跡の巡礼地 (「知の再発見」双書158)』(創元社,2013年)
・チャールズ・スティーヴンソン 著(中島智章 監修/村田綾子 訳)『ビジュアル版 世界の城の歴史文化図鑑』(柊風舎,2012年)
・ロベール・ポリドリ/ジャン=マリー・ペルーズ・ド・モンクロ 著(鈴木亨訳)『ロワール古城紀行』(クーネマン出版社,2001年)
シノン城公式サイト(フランス語)
王家の要塞、シノン城
御城プロジェクトRE 城プロRE 攻略 Wiki
御城プロジェクト:RE Wiki

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