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「ヘースティングズ城”Hastings Castle”」~ノルマン征服の橋頭堡

ヘースティングズ城(”Hastings Castle”)は英国イースト・サセックス州ヘースティングズにあった城。ノルマン・コンクエストに際し、後のイングランド王ウィリアム1世がブリテン島に最初に築いた城である。現在は廃城となり遺構の一部が残るに留まっている。

「ヘースティングズ城"Hastings Castle"の遺構」

「ヘースティングズ城”Hastings Castle”の遺構」(Wikimedia Commonsより
© Kreepin Deth [CC BY-SA 3.0]

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ノルマン・コンクエストと築城

1066年、イングランド王エドワード証聖王死後、ハロルド・ゴドウィンソンの王位継承に異を唱えるノルマンディー公ギヨーム2世は軍勢を率いてブリテン島へ侵攻し、1066年9月28日、現在のイースト・サセックス州ペヴェンシーに上陸すると、10月1日、ヘースティングズへと軍を進め、同地にモット・アンド・ベイリー式城塞を築城した。築城の様子は後に作成されたバイユーのタペストリーに描かれている。このとき築かれた城は木造の柵で囲まれた簡易的な城であった。

バイユーのタペストリーよりヘースティングズ城築城の様子

「バイユーのタペストリーよりヘースティングズ城築城の様子」(パブリックドメイン画像)

1066年10月14日、ヘースティングズの戦いでハロルド・ゴドウィンソン(イングランド王ハロルド2世)を破ったノルマンディー公ギヨーム2世は配下の武将ハンフリー・ド・ティルール(” Humphrey de Tilleul”)をヘースティングズの城将として残した後、イングランドの平定へ向かい、1066年12月25日ロンドンでイングランド王に即位した(ウィリアム1世、在位1066-1087)。

1069年、ウィリアム1世は、ユー伯ロバート(” Robert, Count of Eu”,1053-1093)にヘースティングズ城を与えるとともに、翌1070年、石造の城として再築城を命じた。このときドーヴァー城や上陸地となったペヴェンシーにも城を築いており、ヘースティングズ城、ペヴェンシー城、ドーヴァー城の三城を英仏海峡に臨む沿岸防衛網とした。

ユー伯ロバートは石造の城壁を築くとともに城内に聖母マリア教会を建てたが、太田静六1986によればウェストミンスター寺院と比較されるほどに発展したという(注1)。

増改築と聖母マリア教会の発展

その後、ウィリアム2世(在位1087-1100)やスティーヴン王(在位1135-1154)も城に滞在し、ヘンリ2世(在位1154-1189)によって増改築されたが、1216年、フランス王太子ルイ(後のフランス王ルイ8世)がイングランドへ侵攻してきた際、ジョン王(在位1199-1216)はフランス軍の手に渡ることを恐れてヘースティングズ城の破壊を命じた。

1225年、ヘンリ3世によってヘースティングズ城は再建され、1442年、ユー女伯アリックス(Alix, Countess of Eu,1191-1246)に代わって、ヘンリ3世(在位1216-1272)は王妃エリナーの叔父にあたるサヴォワ伯ピエール2世(” Pierre II de Savoie”,1203-1268)にヘースティングズ城を与え、伯は1268年に亡くなるまで城を統治した。ピエール2世・ド・サヴォワは「リトル・シャルルマーニュ(フランス語” le Petit Charlemagne”,英語”the Little Charlemagne”)」の異名で知られる当時随一の著名人であった。

1272年、城内の聖母マリア教会は国王の許可の下、教会法に基づく自治を行う協同教会” Collegiate Church”の自由礼拝堂となり、礼拝堂内の聖十字架は巡礼地の一つとして人気となった(注2)。太田静六は『教会堂を中心とする城へと変わった珍しい例である』(注3)という。

「ヘースティングズ城聖母マリア教会アーチ」

「ヘースティングズ城聖母マリア教会アーチ」
パブリックドメイン画像

廃城へ

1287年、数カ月に渡って暴風雨が繰り返したことで地盤が崩落し、あわせて城の一部が崩壊した。エドワード2世(在位1307-1327)の治世下で解体され、続く百年戦争中の1339年と1377年、ヘースティングズ市がフランス軍の攻撃を受け大きな被害を出して衰退、ヘースティングズが軍事的に重要ではなくなったことで、放置されて崩壊が進んだ。

十六世紀になるとイングランド国教会を設立したヘンリ8世(在位1509-1547)によってカトリック弾圧が開始し、城内の聖母マリア教会も解体された。1591年、城址は初代トマス・ペラム準男爵(” Sir Thomas Pelham, 1st Baronet”,?-1624)の財産となり、農地に転用された。

再発掘から現在まで

1824年、第2代チチェスター伯トマス・ペラム(” Thomas Pelham, 2nd Earl of Chichester”,1756-1826)によって城の発掘が行われ、ヴィクトリア朝時代から観光地として人気を博すようになる。

ヘースティングズ城の遺構

1905年,” Views of the British Isles, in the Photochrom print collection”
パブリックドメイン画像

第二次大戦中、対空砲が城の遺構に設置され、急勾配の崖は兵士の訓練場所として利用された。1951年、ペラム家はヘースティングズ社” Hastings Corporation”へ城の遺構を売却し、以後ノルマン・コンクエストを偲ぶ歴史遺跡の観光地として整備され現在に至っている。

参考文献

・太田静六著『イギリスの古城 (世界の城郭)』(吉川弘文館,2010年,原著1986年)
・J・E・カウフマン/H・W・カウフマン共著(中島智章訳)『中世ヨーロッパの城塞』(マール社,2012年)
・チャールズ・スティーヴンソン 著(中島智章 監修/村田綾子 訳)『ビジュアル版 世界の城の歴史文化図鑑』(柊風舎,2012年)
Hastings Castle – Wikipedia
・Dawson, Charles (1909). History of Hastings Castle,the castlery, rape and battle of Hastings, to which is added a history of the collegiate church within the castle, and its prebends,
“Hastings Castle & 1066 Story – Castle / Fort in Hastings, Hastings – Visit 1066 Country”

脚注

注1)太田静六著『イギリスの古城 (世界の城郭)』(吉川弘文館,2010年,原著1986年)66頁

注2)“Hastings Castle & 1066 Story – Castle / Fort in Hastings, Hastings – Visit 1066 Country”

注3)太田静六著『イギリスの古城 (世界の城郭)』(吉川弘文館,2010年,原著1986年)67頁

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