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クーシー城” Château de Coucy ”~失われた中世欧州最大級の円形大城塔

「クーシー城(” Château de Coucy ”)」はフランス・ピカルディ地方オー=ド=フランス地域圏エーヌ県にある中世城塞の遺構。ヨーロッパ最大規模の城塔で知られたが、第一次大戦中の1917年3月27日、ドイツ軍によって破壊された。

「クーシー城" Château de Coucy"の遺構」

「クーシー城” Château de Coucy”の遺構」
© Rolf Kranz [CC BY-SA 4.0]/Wikimedia Commonsより

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アンゲラン3世の築城

主要都市アミアンとランスの中間にあるクーシーは十世紀頃ランス大司教の支配下となり、920年頃、ランス大司教によって簡素な砦が築かれた。十一世紀後半、初代クーシー領主アルベリックまたはオーブリ(” Albéric/Aubri, seigneur de Coucy”,在任1059頃-1079頃)の支配下となった後、アルベリック(オーブリ)の孫とも言われるアンゲラン1世がクーシー領主となり、以後彼の末裔がクーシーを支配した。

クーシー城を築いたのはアンゲラン3世・ド・クーシー” Enguerrand III de Coucy”,1182頃-1242)である。1220年頃から築城が始まり、1225年から40年頃までに『32棟の城塔群を含む複合築城群』(注1)と城下の都市、その周囲を囲む13棟の城塔と三か所の門を備えた城壁(アンサント)が築かれた。主城は四隅に直径20メートルの円筒形城塔が配置されていた(注2)。

特筆されるのはその巨大な主塔(ドンジョン)である。

『建設当時、クーシー城塞の城塔はヨーロッパ最大規模だった。幅35メートル、高さ55メートル、壁体の厚さは7.5メートルで、その周囲に螺旋状のスロープを築いて建設作業を行うという、まさに偉業だった。』(注2)

クーシー城ドンジョンの建設イラスト

「クーシー城ドンジョンの建設イラスト」(1924年)
パブリックドメイン画像

クーシー城を築いたアンゲラン3世はフランス王フィリップ2世の下でアンジュー地方の征服や1214年のブーヴィーヌの戦いでフランスの勝利に貢献するなど対アンジュー帝国(イングランド王)戦争に活躍した武将であった。彼の言として以後繰り返し語られる有名な韻を踏んだ言葉が”roi ne suis, ne prince ne duc ne comte aussi; Je suis le sire de Coucy “(私は王でなく、王子(または大公、君主)でなく、公爵でなく、伯爵でもない。クーシーの主である)というものである(注3)。「クーシーの主」である彼の権勢の大きさを表す巨大な城がクーシー城であった。

「クーシー城再現イラスト」

「クーシー城再現イラスト」
Viollet-le-Duc”Description du Chateau de Coucy”1875
パブリックドメイン画像

宮殿化と百年戦争

十四世紀、クーシー領主アンゲラン7世(Enguerrand VII de Coucy,1340-1397)は百年戦争時に武将・外交官として活躍してソワソン伯など多数の爵位を獲得、クーシー城の増改築を行い、城内をゴシック様式の宮殿に改装したが、男子後継者無く死去したため、クーシー城はフランス王シャルル6世の弟オルレアン公ルイ(1372-1407)に渡った。

1407年、オルレアン公ルイがブルゴーニュ公ジャンの配下によって暗殺されると、ブルゴーニュ公派とアルマニャック派の内戦となり、1411年、クーシー城はアルマニャック派の城として、サン・ポル伯ワレラン3世・ド・リュクサンブール(” Waléran III de Luxembourg”,1355頃-1415)率いるブルゴーニュ軍の包囲を受け、三か月の包囲戦の後降伏した。

1418年、アルマニャック派に属していたラ・イルの異名で知られる傭兵隊長エティエンヌ・ド・ヴィニョルジャン・ポトン・ド・ザントライユらの攻勢を受けアルマニャック派が奪還した。このとき、ラ・イルは――恐らくアンゲラン3世を模倣して――『王に非ず公に非ず、候にも非ず伯にも非ず、われはクーシー城主なり』(注4)と語ったという。その後イングランドに奪われるなど百年戦争中クーシー城は攻防の舞台となった。

近世以降~第一次世界大戦での破壊まで

十七世紀、ブルボン朝時代に入り、フロンドの乱(1648-53)が勃発するとクーシー城は反乱軍の拠点として利用されたため、1652年、枢機卿マザランはクーシー城の防御施設の解体を命じ、城壁などが取り除かれた。フランス革命が始まると、革命政府はクーシー城を構成する石材を転用するため国有財産とし、城の破壊が進んだ。

1829年、オルレアン公ルイ・フィリップ(後のフランス王ルイ・フィリップ1世(在位1830-48))がクーシー城を買い取ることで破壊は止み、1848年、フランス政府の管理下となって修復が行われた。クーシー城の修復にあたったのがゴシック・リヴァイヴァルの旗手として知られた建築家ウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュク(”Eugène Emmanuel Viollet-le-Duc”,1814-79)であった(注5)。ここまで大ドンジョンは残されており、修復によってクーシー城は人気の観光地として知られるようになった。

ウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュクの著書”Description du château de Coucy”はクーシー城に関する重要な文献となっている。

クーシー城の構造図

クーシー城の構造図
Viollet-le-Duc”Description du Chateau de Coucy”1875
パブリックドメイン画像

クーシー城内イラスト

クーシー城内イラスト
Viollet-le-Duc”Description du Chateau de Coucy”1875
パブリックドメイン画像

第一次世界大戦がはじまると、クーシー市街はドイツ軍の占領下に入りクーシー城が要塞化された。1917年、連合軍の攻勢が開始されると、西部戦線のドイツ軍は同2月から防衛線ヒンデンブルク線への撤退作戦を開始する。この撤退作戦の過程で、ドイツ軍は要塞化されたクーシー城の破壊を決定。3月27日、大ドンジョンもろとも爆破された。

現在は修復が進められ、歴史的観光地の一つとなっている。

クーシー城の遺構

「クーシー城の遺構」
© CJ DUB [Attribution]//Wikimedia Commonsより

参考文献

・熊倉洋介 他『増補新装 カラー版西洋建築様式史』(美術出版社,2010年)
・ジャン メスキ 著(堀越 孝一 監修/遠藤 ゆかり 翻訳)『ヨーロッパ古城物語 (「知の再発見」双書)』(創元社,2007年)
・J・E・カウフマン/H・W・カウフマン共著(中島智章訳)『中世ヨーロッパの城塞』(マール社,2012年)
・チャールズ・スティーヴンソン 著(中島智章 監修/村田綾子 訳)『ビジュアル版 世界の城の歴史文化図鑑』(柊風舎,2012年)
・レジーヌ・ペルヌー/マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)
Château de Coucy – Wikipedia(英語)
Château de Coucy — Wikipédia(フランス語)
・Eugène Viollet-le-Duc”Description du château de Coucy”Bance éditeur, 1861(google book,wikisource
Château de Coucy(公式ページ、フランス語)

脚注

注1)J・E・カウフマン/H・W・カウフマン共著(中島智章訳)『中世ヨーロッパの城塞』(マール社,2012年)215頁

注2)チャールズ・スティーヴンソン 著(中島智章 監修/村田綾子 訳)『ビジュアル版 世界の城の歴史文化図鑑』(柊風舎,2012年)
139頁

注3)Château de Coucy – Wikipedia(英語)

注4)レジーヌ・ペルヌー/マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)315頁

注5)チャールズ・スティーヴンソン 著(中島智章 監修/村田綾子 訳)『ビジュアル版 世界の城の歴史文化図鑑』(柊風舎,2012年)
138頁

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