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ジゾール城” Château de Gisors”~テンプル騎士団隠し財宝伝説の城

「ジゾール城” Château de Gisors”」はノルマンディー地域圏ウール県にあるアングロ=ノルマン王国時代に築かれた城塞。1097年、イングランド王ウィリアム2世の命で築城された。1193年、フランス王フィリップ2世に占領されて以降フランス王の支配下に入り、後に刑務所として利用された。1314年、テンプル騎士団最後の総長ジャック・ド・モレーが収監されたことで名高い。その形状から代表的なモット・アンド・ベイリー式城塞として知られている。

ジゾール城"Chateau de Gisors"

「ジゾール城”Chateau de Gisors”」(Wikimedia Commonsより)
© Nitot [CC BY-SA 3.0]

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アングロ=ノルマン王国とヴェクサン伯領

ジゾール城が築かれた一帯は当時ヴェクサン伯領に属している。元々、フランス王アンリ1世の王位継承を巡る内紛で、ノルマンディー公ロベール1世(在位1027-35)がアンリ1世に助力した見返りに割譲された領土だったが、丁度フランス王領とノルマンディー公国の間に位置する要衝であったため、両者対立の主戦場となった。

1066年、ノルマンディー公ギヨーム2世がヘースティングズの戦いハロルド2世を破ってイングランド王に即位(ウィリアム1世)したことで、フランスのノルマンディー公国とイングランド王国とをあわせたアングロ=ノルマン王国(ノルマン朝イングランド)が成立。十一世紀後半、強大なアングロ=ノルマン王国に対抗してフランス王フィリップ1世はアンジュー伯ら有力諸侯と同盟を結び、反アングロ=ノルマン同盟を築いて対立が深まっていた。

1087年、ウィリアム1世が亡くなると長子ロベール(ノルマンディー公ロベール2世)にノルマンディー公位、次子ウィリアム(イングランド王ウィリアム2世)にイングランド王位が譲られたが、兄弟は継承を巡って対立し、1091年、内乱の末に和解した。1096年、ノルマンディー公ロベール2世は、不在時のノルマンディー公国支配権を弟ウィリアム2世に委託して第1回十字軍に出征する。

築城

以上のような背景で、1097年、ノルマンディー公国の支配を代行していたイングランド王ウィリアム2世が、ヴェクサン伯領防衛の要衝としてノルマンディー公の重臣ロベール2世・ド・ベレーム(” Robert II de Bellême”)に築かせたのがジゾール城である。

ジゾール城はエプト川を利用した濠が三方向を囲む丘の上に築かれたモット・アンド・ベイリー式城塞である。

『その大きな円形状のモットは高さがほぼ30メートル、基底部の直径が70メートルで、全周は220メートルにも達した。モットの上には木造城塔と柵が築かれ、そのほか、礼拝堂や密牢を含む多数の建造物がベイリー内に並んでいた。』(注1)

1123年、ヘンリ1世は八角形平面の石造の城塔と周囲を囲む城壁を築き、1161年、ヘンリ2世によって増強された。ヘンリ2世は城塔の高さを二倍にし、城塔を支えるモットを増強するため24方向からの控壁(”butress”)を設けた上で、ベイリーを拡大し城壁をめぐらせた(注2)。このような控壁での補強は、後にイングランドでヘンリ2世の異母兄弟ハメリン・プランタジネットが築いたコニスバラ城にも見られる。

ジゾール城

ジゾール城
© Chabe01 [CC BY-SA 4.0]

フランス王フィリップ2世の奪取

1154年、イングランド王に即位したヘンリ2世は継承によってノルマンディー公国とアンジュー伯領、結婚によってポワトゥー伯領とアキテーヌ公領、征服によってブルターニュ公領などブリテン島からフランス北部・西部一帯を支配するアンジュー帝国を樹立した。ジゾール城はアンジュー帝国時代の1158年、フランス王ルイ7世との交渉場所として使われている。

1189年、ヘンリ2世が亡くなると、後を継いだリチャード1世はフランス王フィリップ2世とともに第3回十字軍に参加する。1191年、アッコン奪還後、リチャード1世は遠征を継続したが、フィリップ2世は帰国し、リチャード1世不在の隙を突いてノルマンディー公国へ侵攻、1193年、ジゾール城を占領した。

1194年、十字軍から戻ったリチャード1世とフィリップ2世との争いとなり、1195年、両者の間で和平条約となるガイヨン条約(フランス語” Traité de Gaillon”)が結ばれ、ジゾール城はフランス王に割譲された。ジゾール城を失ったリチャード1世は新たなノルマンディー地方防衛の城としてガイヤール城” Château-Gaillard”の建設に着手する。

ガイヤール城(シャトー=ガイヤール)~要害堅固な獅子心王の城の攻防
「ガイヤール城(” Château-Gaillard ” , シャトー=ガイヤール)」はフランスのノルマンディー地域圏ウール県レザンドリー(” Les Andelys”)にある城塞。イングランド王リチャード1世によって1196年から98年に...

フィリップ2世は高さ28メートル、直径14メートル、厚さ4メートルの円筒形の城塔を外城壁に増築(注1)し、後に刑務所として使われたため「虜囚の塔” Tour du Prisonnier”」と呼ばれることになった。

ジゾール城の虜囚の塔"Tour du Prisonnier"

ジゾール城の虜囚の塔”Tour du Prisonnier”
© CJ DUB [Attribution]

1198年にリチャード1世はジゾール城を奪い返すものの、1204年、フランス軍がノルマンディー地方を征服したことで城としての戦略的価値は失われ、以後刑務所として使われるようになった。百年戦争期になるとイングランド軍が占領して城塞として再利用され、その後、1559年頃廃城となり、1862年、「フランス歴史的記念物” Monument historique”」として保護された(注3)。

テンプル騎士団の隠し財宝伝説

ジゾール城は1158年から60年までテンプル騎士団の管理下に置かれたり、1314年に処刑前のテンプル騎士団総長ジャック・ド・モレーらテンプル騎士団員がジゾール城に収監されるなど、少なからずテンプル騎士団と縁がある城だが、後にテンプル騎士団の隠し財産があるという噂が語られるようになった。

1946年、城の管理者だったロジェ・ロモイ(” Roger Lhomoy”)は二年間かけて城の地下にトンネルを掘って調査を行い、礼拝堂を発見したと語った。彼によると、それは「幅9メートル、高さ約4メートルのロマネスク様式の礼拝堂」で「30個の貴金属の箱」が並んでいたという(注4)。このときは彼の掘ったトンネルは危険なため調査が行われないまま埋められ、改めて1964年にフランス政府による発掘調査が行われたが、何も発見できなかった。

ロモイは小説家のジェラール・ド・セード(” Gérard de Sède”)に一連の冒険を語り、セードはこれを雑誌などで紹介。後に” Les Templiers sont parmi nous, Éd. René Julliard 1962 et coll. « J’ai lu L’Aventure mystérieuse N°A185», ou (L’Énigme De Gisors)”(注5)で架空の秘密結社「シオン修道会」と絡めてジゾール城のテンプル騎士団の財宝伝説を語り、テンプル騎士団に関する根拠不明の逸話形成に大きな影響を与えた。

参考文献

・朝治 啓三,渡辺 節夫,加藤 玄 編著『中世英仏関係史 1066-1500:ノルマン征服から百年戦争終結まで』(創元社,2012年)
・橋口倫介 著『十字軍騎士団 (講談社学術文庫)』(講談社,1994年)
・ジャン メスキ 著(堀越 孝一 監修/遠藤 ゆかり 翻訳)『ヨーロッパ古城物語 (「知の再発見」双書)』(創元社,2007年)
・J・E・カウフマン/H・W・カウフマン共著(中島智章訳)『中世ヨーロッパの城塞』(マール社,2012年)
・チャールズ・スティーヴンソン 著(中島智章 監修/村田綾子 訳)『ビジュアル版 世界の城の歴史文化図鑑』(柊風舎,2012年)
Château de Gisors — Wikipédia

脚注

注1)チャールズ・スティーヴンソン 著(中島智章 監修/村田綾子 訳)『ビジュアル版 世界の城の歴史文化図鑑』(柊風舎,2012年)119頁

注2)チャールズ・スティーヴンソン 著(中島智章 監修/村田綾子 訳)『ビジュアル版 世界の城の歴史文化図鑑』(柊風舎,2012年)118頁/J・E・カウフマン/H・W・カウフマン共著(中島智章訳)『中世ヨーロッパの城塞』(マール社,2012年)209頁

注3)チャールズ・スティーヴンソン 著(中島智章 監修/村田綾子 訳)『ビジュアル版 世界の城の歴史文化図鑑』(柊風舎,2012年)118頁

注4)”Ville de Gisors, Le mythe des Templiers“(ジゾール自治体公式ウェブサイトのウェブアーカイブ)

注5)書名はGérard de Sède — Wikipédiaの著書一覧より

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