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ガイヤール城(シャトー=ガイヤール)~要害堅固な獅子心王の城の攻防

「ガイヤール城(” Château-Gaillard ” , シャトー=ガイヤール)」はフランスのノルマンディー地域圏ウール県レザンドリー(” Les Andelys”)にある城塞。イングランド王リチャード1世によって1196年から98年にかけて約二年で築城された大規模城塞で、リチャード1世死後の1204年、フランス王フィリップ2世の包囲によって占領された。

「ガイヤール城(” Château-Gaillard ” , シャトー=ガイヤール)」

「ガイヤール城(” Château-Gaillard ” , シャトー=ガイヤール)」
© Olivier Cambus [CC BY-SA 3.0]

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ノルマンディーを巡る対立

1066年、ノルマンディー公ギヨーム2世がイングランド王(ウィリアム1世)となったことで、ノルマンディー公国とイングランド王国によるアングロ=ノルマン王国(ノルマン朝イングランド)が成立した。カペー朝フランス王領とアングロ=ノルマン王国領の境界にあったのがヴェクサン地方で、1097年、イングランド王ウィリアム2世はここにジゾール城を建てさせてノルマンディー防衛の拠点とした。

ジゾール城” Château de Gisors”~テンプル騎士団隠し財宝伝説の城
「ジゾール城” Château de Gisors”」はノルマンディー地域圏ウール県にあるアングロ=ノルマン王国時代に築かれた城塞。1097年、イングランド王ウィリアム2世の命で築城された。1193年、フランス王フィリップ2世に占領されて以...

1154年、アンジュー伯アンリ・プランタジュネがイングランド王ヘンリ2世として即位すると、ブリテン諸島からフランス北部・西部を版図とするアンジュー帝国(プランタジネット朝)が成立してフランス王を圧倒した。ヘンリ2世死後、アンジュー帝国を引き継いだリチャード1世は、1191年、フランス王フィリップ2世とともに第三回十字軍に参加して活躍した。1193年、一足先に帰国したフィリップ2世は、リチャード1世不在の隙を突いて要衝ジゾール城を占領する。その後、1194年に帰国したリチャード1世とフィリップ2世が激しく争い、1195年、ガイヨン条約を結んでジゾール城をフランス王に割譲することでの和平が成立した。

リチャード1世は、ジゾール城に代わるノルマンディー防衛の拠点となる城をジゾール城の西、セーヌ川を臨むレザンドリーに築くことにした。これがガイヤール城である。

獅子心王リチャード1世

「獅子心王リチャード1世」(1841年,Merry-Joseph Blondel)
(パブリックドメイン画像)

フィリップ2世

「尊厳王フィリップ2世」(1837年,Louis-Félix Amiel )
(パブリックドメイン画像)

築城

ガイヤール城はセーヌ川が蛇行する湾曲部の高さ約90メートルの断崖上に築かれた。建設期間が1196年から98年までのわずか二年と異例の短さであったが、その設備は同時代の築城技術の最先端と呼ぶべきものであった。

ガイヤール城構造図 Eugène Viollet-le-Duc" Dictionary of French Architecture from 11th to 16th Century "(1856) (パブリックドメイン画像)

ガイヤール城構造図
Eugène Viollet-le-Duc” Dictionary of French Architecture from 11th to 16th Century “(1856)
(パブリックドメイン画像)

城塞は三つのベイリーからなり、それぞれ城壁と空堀で区切られている。主塔は高さ5メートル、壁の厚さは約2.5メートルで、唯一攻撃可能な面は下にいる敵に石などを落とすことができる石造の衝角(マシクーリ)を備えている。内郭は大規模城塔二棟を含む多数の付属城塔を備えた城壁で囲まれていた。内郭と外郭とは幅9メートル、深さ6メートルの空堀で隔てられ、外郭は独立したバービカン(前衛の防御施設)として機能する(注1)。

『リチャード1世の城郭でもっとも独創的な建築上の特徴はランパール(防塁)にある。19の円弧からなり矢狭間が設けられている。半円形平面の突出部が連なる内郭のデザインはほかに類をみない。この革新的な造りには二つの利点があった。まず、丸形を描く城壁は方形平面を描く城壁よりも攻城装置により損傷を受けにくかった。そして、曲面を描く城壁の矢狭間から弓兵たちは様々な方向に矢を射ることができたのである。』(注2)

リチャード1世は十字軍遠征でみたイスラーム、ビザンツ式の城塞建築をおそらく参考して、ヨーロッパ式の城塞建築を融合してガイヤール城を築城した。その結果、ガイヤール城は同時代最先端の築城技術が融合した城塞となった(注2)。ただし、築城費用は1万1250リーヴルに上り、これは同時代のノルマンディーからの年間収入の九割に当たる巨費であった(注3)

ガイヤール城包囲戦(1203年8月~1204年3月6日)

「ガイヤール城(” Château-Gaillard ” , シャトー=ガイヤール)」

「ガイヤール城(” Château-Gaillard ” , シャトー=ガイヤール)」
© Sylvain Verlaine [CC BY-SA 3.0]

1199年4月6日、リチャード1世は流れ矢に当たって亡くなり、弟ジョンが王位を継いだ。王位継承に際してジョンと甥のブルターニュ公子アーサーとの間で争いがあり、ジョン王の政権基盤は弱体であった。また、リチャード1世時代の浪費が重くのしかかって財政は逼迫し危機的状況にあった。このような中で、1202年、ジョン王と有力諸侯リュジニャン家との係争にフランス王フィリップ2世が宗主権を主張して介入し、アキテーヌ公領の没収を宣言、続いて1203年、フィリップ2世はノルマンディーへ侵攻する。同8月、フランス軍はロジェ・ド・ラシー(”Roger de Lacy ”, 1170–1211)が守備するガイヤール城の包囲を開始した(注4)。

ジョン王はウィリアム・マーシャルと傭兵隊長ルペスカルらが率いる増援部隊を派遣したが、彼らの陸からの増援部隊と別動隊のセーヌ川からの部隊との連携がうまくいかず、フランス軍の反撃にあって撤退を余儀なくされる。

フランス軍は外郭を攻略するためガルベールという兵士にギリシア火の入った壺を持たせて川を渡らせ、ガルベールは外郭の木造柵を登ってギリシア火を爆発させ、火が内側の建物にも燃え移っている間に外郭を攻略して占領した。

ロジェ・ド・ラシーは城内の非戦闘員を逃がして口減らしをすると、食糧不足の中で籠城戦に臨んだ。この間、ジョン王はブルターニュを攻撃するなどフランス軍を攻城戦から引き離そうと試みたが、フィリップ2世は包囲を継続し、占領した外郭に攻城兵器を設置するなど、着実に準備を進めた。

1204年2月、フランス軍は坑道掘りと攻城兵器とで内郭の攻略を開始し、攻略側は自然石で造られていた外郭と内郭の間の濠に架けられていた橋を遮蔽物として再利用して着実に包囲を狭め、フランス軍の攻勢で城壁の一部が崩れ、塔が倒壊して守備隊は追い詰められていった。

ガイヤール城について有名なのがトイレの落とし戸(ガルドローブ”garderobe”)から侵入されて陥落したというものだが、ガルドローブは勝敗を決した決定的な進入路ではなく、礼拝堂など複数あった攻略ルートの一つであったと考えられている(注5)。ガルドローブや礼拝堂の窓を通じて、さらには坑道を掘って城壁を弱体化させ、トレビシェット(投石機)で破壊するなど、様々な手段で侵入し、追い詰められた守備隊は、1204年3月6日、ついに降伏した。このとき降伏した守備兵力は騎兵20、その他の兵120だったという(注6)

ガイヤール城の陥落によって、ノルマンディー地方はほどなくしてフランス軍に占領され、アンジュー帝国瓦解の第一歩となった。

その後のガイヤール城

フィリップ2世の征服後、ガイヤール城は城塞としての役目を終えて刑務所として利用されるようになっていた。1314年、フィリップ4世の王子ルイ(フランス王ルイ10世)の妻マルグリット・ド・ブルゴーニュが不貞を働いたとしてガイヤール城に幽閉され、翌1315年ガイヤール城で亡くなっている。

1337年より百年戦争が始まると、ガイヤール城は城塞としての役割を果たすようになる。1415年、イングランド王ヘンリ5世がノルマンディー地方を征服していく過程で、フランス軍のノルマンディー防衛の要衝となったのがガイヤール城であった。しかし、1419年12月9日、イングランド軍の包囲を受けて陥落し、イングランド軍の支配下となった。1430年、ラ・イルことエティエンヌ・ド・ヴィニョルがガイヤール城を奪還するが、すぐにイングランド軍が再占領した。1449年、フランス軍によるノルマンディー征服に際してフランスが再奪還し、以後フランスの支配下となった。

十六世紀末、ユグノー戦争に続くフランス王アンリ4世のフランス統一戦争の過程でガイヤール城はその支配下に入った。ガイヤール城が反対勢力の手に渡ることを恐れたアンリ4世は、1599年、カプチン・フランシスコ修道会に修道院修復のためにガイヤール城の石材を利用する権限を与え、1611年まで解体がおこなわれた。その後、枢機卿リシュリューの保護下で修復が進み、1862年、「フランス歴史的記念物” Monument historique”」として保護されることとなり、現代に至る。

参考文献

・朝治 啓三,渡辺 節夫,加藤 玄 編著『中世英仏関係史 1066-1500:ノルマン征服から百年戦争終結まで』(創元社,2012年)
・佐藤賢一 著『カペー朝 フランス王朝史1(講談社現代新書)』(講談社, 2009年)
・J・E・カウフマン/H・W・カウフマン共著(中島智章訳)『中世ヨーロッパの城塞』(マール社,2012年)
・チャールズ・スティーヴンソン 著(中島智章 監修/村田綾子 訳)『ビジュアル版 世界の城の歴史文化図鑑』(柊風舎,2012年)
・マシュー・ベネットほか(浅野明監修、野下祥子訳)『戦闘技術の歴史2 中世編>』(創元社,2009年)

Château-Gaillard (Les Andelys) — Wikipédia
Siège de Château-Gaillard — Wikipédia
Château Gaillard – Wikipedia

脚注

注1)J・E・カウフマン/H・W・カウフマン共著(中島智章訳)『中世ヨーロッパの城塞』(マール社,2012年)209-210頁/チャールズ・スティーヴンソン 著(中島智章 監修/村田綾子 訳)『ビジュアル版 世界の城の歴史文化図鑑』(柊風舎,2012年)126-127頁/Château-Gaillard (Les Andelys) — Wikipédia

注2)チャールズ・スティーヴンソン 著(中島智章 監修/村田綾子 訳)『ビジュアル版 世界の城の歴史文化図鑑』(柊風舎,2012年)127頁

注3)朝治 啓三,渡辺 節夫,加藤 玄 編著『中世英仏関係史 1066-1500:ノルマン征服から百年戦争終結まで』(創元社,2012年)48頁

注4)ガイヤール城包囲戦についてはマシュー・ベネットほか(浅野明監修、野下祥子訳)『戦闘技術の歴史2 中世編』(創元社,2009年)262-268頁、J・E・カウフマン/H・W・カウフマン共著(中島智章訳)『中世ヨーロッパの城塞』(マール社,2012年)211頁、”Siège de Château-Gaillard — Wikipédia“など参照

注5)マシュー・ベネットほか(浅野明監修、野下祥子訳)『戦闘技術の歴史2 中世編』(創元社,2009年)265頁/J・E・カウフマン/H・W・カウフマン共著(中島智章訳)『中世ヨーロッパの城塞』(マール社,2012年)211頁の攻略経緯参照。また”Château-Gaillard (Les Andelys) — Wikipédia”ではトイレの逸話が強調されて繰り返し語られる理由として、『この寓話は劇的な状況でコミカルさを導入することで想像力をかきたて、特に神聖不可侵な君主権の神授イメージを多少恥ずかしくする』点を指摘している。

注6)チャールズ・スティーヴンソン 著(中島智章 監修/村田綾子 訳)『ビジュアル版 世界の城の歴史文化図鑑』(柊風舎,2012年)127頁/マシュー・ベネットほか(浅野明監修、野下祥子訳)『戦闘技術の歴史2 中世編』(創元社,2009年)268頁

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