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アンヌ・ド・ブルゴーニュ~優しき公妃の紐帯としての生涯

アンヌ・ド・ブルゴーニュ(フランス語” Anne de Bourgogne ”,英語” Anne of Burgundy ”(アン・オブ・バーガンディ),1404年9月生-1432年11月14日没(注1))はベッドフォード公ジョン・オブ・ランカスターの妻。ブルゴーニュ公ジャン1世の娘で、ブルゴーニュ公フィリップ3世の妹。百年戦争後期、イングランド王国とブルゴーニュ公国の同盟関係を維持する紐帯となった女性。

アンヌ・ド・ブルゴーニュ

アンヌ・ド・ブルゴーニュ

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アンヌ・ド・ブルゴーニュの誕生と百年戦争

アンヌ・ド・ブルゴーニュ(アン・オブ・バーガンディ)は1404年9月頃、ブルゴーニュ公支配下のアルトワ地方アラスでブルゴーニュ公ジャン1世の六番目の娘として生まれた。アンヌは芸術、音楽、そして宮廷の舞踏会に興味を持つ知的な若い女性に成長し、同時代の人は彼女を「気高く、物分かりが良く、思いやりがある」と評したという(注2)。

当時のフランスは国王シャルル6世が度々狂気の発作を繰り返したことで、彼女の祖父ブルゴーニュ公フィリップ2世とシャルル6世の弟オルレアン公ルイ1世が主導権争いを演じ、フィリップ2世死後、公位を継いだジャン1世が、1407年11月23日、配下を使ってオルレアン公ルイを暗殺したことでブルゴーニュ派と反ブルゴーニュ派(アルマニャック派)との間で内戦状態に陥っていた。この事態を打開しようと、両派とも休戦中であったイングランドに助勢を求め、これを好機とみたイングランド王ヘンリ5世は1415年、フランスへの遠征を決定する。1414年頃、この助勢を求める過程で、父ジャン1世はアンヌとイングランド王族との政略結婚を考えていたが、実現しなかった(注2)。

1415年、フランスに侵攻したヘンリ5世アジャンクールの戦いでフランス軍を壊滅させて北フランスを征服。一方イングランドを脅威に感じたブルゴーニュ公ジャン1世は王太子シャルルを擁してロワール川以南を拠点とするアルマニャック派との和解を企図するが、1419年9月10日、王太子シャルルとの会談の場でシャルルの配下によって暗殺される。ジャン1世の後を継いだアンヌの兄フィリップ3世は、イングランドとの同盟に傾き、1420年5月21日トロワ条約を結んだ(「アングロ=ブルギニョン同盟」)。しかし、1422年にヘンリ5世とシャルル6世が相次いで亡くなり、ヘンリ5世の生後九か月の幼児がヘンリ6世としてイングランド王位とフランス王位を継ぐと、ブルゴーニュ公フィリップ3世はフランス戦線から距離を置くようになった。

ベッドフォード公との結婚

ヘンリ5世の弟で摂政としてイングランド=フランス二元王国の事実上の総帥であるベッドフォード公ジョン・オブ・ランカスターは今後のフランス征服にブルゴーニュ公の協力は不可欠と考えて政略結婚を申し出る。このとき白羽の矢が立ったのがアンヌであった。

ベッドフォード公ジョン・オブ・ランカスター~百年戦争後期イングランドの総帥
初代ベッドフォード公ジョン・オブ・ランカスター(” John of Lancaster, 1st Duke of Bedford”, 1389年6月20日生~1435年9月14日没)はイングランド王ヘンリ4世の第三王子で、兄王ヘンリ5世死後...

1422年12月12日、ベッドフォード公はアンヌとの結婚契約にサインし、1423年5月13日、兄ヘンリ5世がフランス王女カトリーヌ・ド・ヴァロワと結婚したのと同じトロワの聖ヨハネ教会で結婚式を挙げた(注2)。これは1423年4月13日にブルゴーニュ公フィリップ3世、ブルターニュ公ジャン5世と結ばれた反シャルル7世政権同盟であるアミアン条約の一貫で、あわせてアンヌの姉であるマルグリット・ド・ブルゴーニュとブルターニュ公ジャン5世の弟リッシュモン伯アルテュールとの政略結婚も行われた。

ベッドフォード公夫妻はパリのトゥールネル宮(オテル・デ・トゥールネル” Hôtel des Tournelles ”)を増築して居館とした(注2)。トゥールネル宮(オテル・デ・トゥールネル” Hôtel des Tournelles ”)は十四世紀末、現在のヴォージュ広場の一帯にフランス王族の居館として築かれた建物で、1559年、フランス王アンリ2世が馬上槍試合で怪我をしたあと運び込まれて亡くなった場所として知られる(注3)。

トゥールネル宮(オテル・デ・トゥールネル” Hôtel des Tournelles ”)

1550年ごろのトゥールネル宮(オテル・デ・トゥールネル” Hôtel des Tournelles ”)

人々を繋ぎ助ける人生

子供には恵まれなかったが夫婦仲は非常によく、ベッドフォード公は彼自身の努力を励まし重荷を取り除いてくれるような、彼女の親切心と交流に頼り、彼女の知性や判断力を信頼した(注2)。ベッドフォード公は彼女と一緒でなければどこにも出かけないほどの愛妻家であった。パリの市民たちは、公は軍隊を率いて野にあるより、妻と町で過ごしてばかりいると陰口をたたいた(注2)。実際は、ベッドフォード公は実に勤勉で、自ら軍を率いることもしばしばであった。また、彼女はパリ市民からも非常に高い人気があった。

アンヌはアングロ=ブルギニョン同盟の維持のために積極的に政治・外交に関与しており、ベッドフォード公の弟グロスター公ハンフリーがエノー=ホラント=ゼーラント伯領継承問題でブルゴーニュ公フィリップ3世と対立して、1424年に交戦状態になると、翌1425年6月、ベッドフォード公とともにブルゴーニュ公との会談に同席して和解を説得した。また、ブルゴーニュ公とシャルル7世との接近を思いとどまらせてイングランドとの同盟を優先するよう働きかけを行っていた(注2)。

彼女について特に有名なエピソードがジャンヌ・ダルクとの関係である。1430年、ブルゴーニュ公の捕虜となったジャンヌ・ダルクは、1431年、イングランドに引き渡されて異端審問裁判にかけられることとなったが、1431年1月、裁判に先立ち純潔検査が実施されることになり、アンヌの監督下で行われることになった。このとき、ジャンヌ・ダルクの純潔性に感動したアンヌは『彼女に対して手荒い扱いをしないよう獄卒たちに命じ』(注4)、あわせて彼女のために婦人用の服も作るよう命じている(注5)。また、1431年4月18日、獄中でジャンヌが病気になった際、派遣された医師ジャン・ティフェンはアンヌの侍医であった(注6)。おそらくアンヌがジャンヌを気遣って手配したものと思われる。

「お前らジャンヌ・ダルクと一緒にいてムラムラしないの?」と聞いてみた結果
「尊い・・・」ってなる、という記録が実際残されている。 記録を残しているのはゴベール・ティボーという準騎士で1429年三月二十二日、神学者のピエール・ド・ヴェルサイユの共としてジャンヌ・ダルクと面会したことがある人物である。彼はのちに...

アンヌ・ド・ブルゴーニュの死

ジャンヌ・ダルクに対して見せたような、敵味方の立場を超えて善意を施す姿勢は彼女の生涯で一貫しており、アンヌ・ド・ブルゴーニュは1432年11月14日にパリで亡くなるが、その死因は、このときパリで流行した疫病に罹った人々を看病していて、自らも感染してしまったがゆえである(注7)。享年28歳という若さであった。遺体はパリのセレスティン修道院に葬られた。

アンヌ・ド・ブルゴーニュの死によって、関係が悪化していたイングランドとブルゴーニュの同盟は繋がりを失い、1435年、ブルゴーニュ公とフランス王との間で和平交渉が開始され、1435年9月21日、奇しくもアンヌ・ド・ブルゴーニュ生誕の地であるアラスでイングランドを除く百年戦争当事国(フランス王国、ブルゴーニュ公国、ブルターニュ公国、その他中小諸侯とローマ教皇庁)による全面的な和平条約「アラスの和約」が成立する。百年戦争下のイングランドを牽引した夫のベッドフォード公ジョン・オブ・ランカスターは「アラスの和約」が成立する一週間前の1435年9月14日に亡くなっており、外交的孤立と強力な指導者の喪失によって、百年戦争の趨勢は決定づけられた。

参考文献

・佐藤賢一著『ヴァロワ朝 フランス王朝史2 (講談社現代新書)』(講談社,2014年)
・ジョセフ・カルメット著(田辺保訳)『ブルゴーニュ公国の大公たち』(国書刊行会,2000年,原著1949年)
・トレヴァー・ロイル著(陶山昇平訳)『薔薇戦争新史』(彩流社,2014年)
・John.A.Wagner “Encyclopedia of the Hundred Years War” (GREENWOOD PRESS, 2006)
Anne de Bourgogne (1404-1432) — Wikipédia
・”Hôtel des Tournelles — Wikipédia

脚注

注1)アンヌ・ド・ブルゴーニュの命日は、英語版Anne of Burgundy – Wikipediaは11月13日としているが、John.A.Wagner “Encyclopedia of the Hundred Years War” (GREENWOOD PRESS, 2006)p12およびジョセフ・カルメット著(田辺保訳)『ブルゴーニュ公国の大公たち』(国書刊行会,2000年,原著1949年)225頁を参照して11月14日とした。

注2)John.A.Wagner “Encyclopedia of the Hundred Years War” (GREENWOOD PRESS, 2006)p11

注3)佐藤賢一著『ヴァロワ朝 フランス王朝史2 (講談社現代新書)』(講談社,2014年)287頁,”Hôtel des Tournelles — Wikipédia

注4)レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)198頁

注5)John.A.Wagner “Encyclopedia of the Hundred Years War” (GREENWOOD PRESS, 2006)p12

注6)レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)233頁

注7)John.A.Wagner “Encyclopedia of the Hundred Years War” (GREENWOOD PRESS, 2006)p12,”Anne de Bourgogne (1404-1432) — Wikipédia

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