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ヒューバート・ド・バーグ~イングランドの危機を救った知勇兼備のジョン王の忠臣

初代ケント伯ヒューバート・ド・バーグ(またはバラ、バークとも” Hubert de Burgh, 1st Earl of Kent” , 1170頃生-1243年5月5日以前没)は、ジョン王、ヘンリ3世に仕えたイングランドの軍人・政治家。対フランス戦争でシノン城、ドーヴァー城の城主として奮戦し、第一次バロン戦争でのフランス軍撃退に多大な功があった。ヘンリ3世時代、摂政として幼少期の王を支え、大陸領土喪失後のプランタジネット王家の立て直しに尽力した。

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ジョン王の右腕

ヒューバート・ド・バーグはノーフォーク、サフォーク地方に地盤を持つノルマン人領主家の出身で、兄ウィリアムは1185年からアイルランド・リムリック総督としてジョン王のアイルランド統治で要職を担った人物であった。ヒューバートは1198年頃、即位前のジョンに従者として仕えはじめると、すぐに頭角を現し、ポルトガル大使、ドーセットとサマセットの州長官(” sheriff ”)、続いてバークシャーとコーンウォールの州長官などを務めた。

ヘンリ2世によるアンジュー帝国の成立以後フランス王=カペー家との戦いはイングランド王=プランタジネット家が圧倒し続けていたが、リチャード1世治世後期、要衝ジゾール城の失陥を始め、フィリップ2世治世下でフランス王が着実に力をつけていた。1199年、リチャード1世死後、王位継承を巡ってヘンリ2世の第三王子ブルターニュ公ジョフロワの子でフィリップ2世が支援するアルテュール(アーサー)とヘンリ2世の第四王子ジョンとの間で争いになり、フランス王への領土割譲などの譲歩(ル・グーレ条約)を経て、ジョンの即位で落ち着くものの、両派の対立は根深く残りジョン王は脆弱な政権基盤での治世を余儀なくされる。

そのような中で、1202年、婚姻問題を巡るジョン王とリュジニャン家との争いにフランス王が介入してジョン王の大陸領土没収を宣言、さらに、アルテュールはこの機にフィリップ2世への臣従礼を行いジョン王に叛旗を翻したため、王自らの討伐を受け捕われることになった。

ブルターニュ公アルテュールとシノン城防衛戦

1202年、このような対仏関係が緊張の度を高める中、ヒューバート・ド・バーグはジョン王の篤い信頼を元に、アンジュー帝国の中枢であるシノン城の守備を任された。同時に、ジョン王と王位を争ったブルターニュ公アルテュール監視の役も担ったと思われる。アルテュールは、虜囚となった後、おそらくジョン王の指示で殺害されるが、アルテュールの死にヒューバート・ド・バーグの関与がどの程度あったかはよくわかっていない。

この関係から想像を膨らませたウィリアム・シェイクスピアは史劇「ジョン王」で、ジョン王から殺害の指示を受けたヒューバートが密かにアルテュールを逃して、王にアルテュールは死んだと偽りの報告を行い、アルテュールの死によって諸侯の離反が起こると、実はアルテュールは生きていることをジョン王に明かす、という機転を見せる忠臣として描いた。

実際彼は諸侯が次々と背く中でジョン王を決して裏切らなかった知勇兼備の忠臣として獅子奮迅の活躍を見せる。1204年3月6日、フランス軍は要衝ガイヤール城を攻略してノルマンディー地方を征服、続けてアンジュー地方に進出し、同秋、シノン城の攻略にかかる。ヒューバートは守将としてシノン城防衛に当たり9か月に渡ってフランス軍の攻勢を防ぎ続けたが、1205年6月23日、奮戦空しくシノン城は陥落し、ヒューバートも1207年までフランス軍の捕虜となった。

シノン城

「シノン城」
(パブリックドメイン画像)

行政長官就任と内乱

以後、フランス軍によってノルマンディー、メーヌ、アンジュー、トゥレーヌ、ブルターニュと征服され、ジョン王はその奪還のためにイングランドへ軍役や増税を課したが、奪還戦争は劣勢を余儀なくされ、1214年7月29日、神聖ローマ皇帝、フランドル伯ら反フランス王諸侯を糾合して臨んだ決戦ブーヴィーヌの戦いにも敗れた結果、1215年初頭、前王リチャード1世時代からの苛斂誅求に堪えられなくなったイングランド貴族たちの間で反乱が勃発した。1215年6月15日、反乱諸侯の求めに応じてジョン王はマグナ・カルタに署名するが、教皇の介入など諸侯との行き違いが起こり、9月、内乱となる。第一次バロン戦争である。

この過程でヒューバートは大きな活躍を見せる。ブーヴィーヌの戦い後、9月にジョン王とフィリップ2世との間で和平条約が結ばれるまでの間ポワトゥー地方に派遣されて領土回復に努め、1215年に諸侯反乱がおこると、彼は首都ロンドンで反乱諸侯の説得にあたり、これに失敗すると、ロチェスターで軍の徴募と編成を行っている。また、諸侯からマグナ・カルタへの署名がジョン王へ求められると、ヒューバートはマグナ・カルタに署名するようジョン王に進言している。マグナ・カルタ調印後、ヒューバート・ド・バーグは宰相である行政長官(” Chief Justiciar”)に就任(在任1215-1232)。また、マグナ・カルタには国外におけるジョン王の代行者として名前が挙げられている。

ドーヴァー城防衛とフランス軍撃退


1216年、反乱諸侯はジョン王に代わりフランスの王太子ルイ(後のフランス王ルイ8世)を新たなイングランド王に擁立するべく派兵を乞い、同5月21日、フランス王太子ルイ率いるフランス軍のイングランド侵攻が始まった。ルイ率いるフランス軍は首都ロンドンを始めイングランド東部をほぼ支配下に収めたが、ヒューバートは要衝ドーヴァー城に籠ると敢然と抵抗を始める。7月19日、ルイ率いるフランス軍はドーヴァー城を包囲し攻略にかかるが、ヒューバートはフランス軍の猛攻を徹底的に防ぎ、10月14日、ルイは攻略を諦めロンドンへ退却せざるを得なくなった。

1216年10月19日、ジョン王が没すると、ジョン王の側近たちは九歳の遺児ヘンリを後継者として擁立(ヘンリ3世)、さらに老齢から所領に退いていた人望厚い老騎士ペンブルック伯ウィリアム・マーシャルが新王ヘンリ3世を補佐することになると、形成が逆転していく。焦ったルイは1217年初頭、さらなる増援をフランスから呼び寄せるため、要衝ドーヴァー城の再包囲を開始するが、ヒューバートはこれも防ぎ続け、5月20日、リンカンの戦いでフランス軍主力がウィリアム・マーシャル率いるイングランド軍に大敗したことで、ルイはドーヴァー城攻略を諦めた。

続く8月24日、ヒューバートはフランス本土から補給物資を乗せてきていたフランス艦隊をドーヴァー沖で撃滅(サンドウィッチ海戦)する。これが決定打となってルイはイングランド征服を諦めフランスへ撤退した。このとき、ヒューバートは1217年9月11日付でルイとの平和条約を取りまとめている。

ヘンリ3世の摂政として

ヘンリ3世の新政権は、開始時は長老ペンブルック伯ウィリアム・マーシャルが摂政として戦後処理を行い、1219年に伯が亡くなって以降はヒューバート・ド・バーグが摂政として国政をリードした。

1220年5月17日、ウェストミンスター寺院で乱後初のヘンリ3世戴冠式を挙行して新体制をアピールすると、1223年までに法廷を再開し、同年末、汚職を繰り返していたチェスター伯の所領を没収、1225年、後世、決定版と呼ばれるマグナ・カルタを再公布した上で十五分の一税を徴収するなど、ヒューバートの指揮下で『王国の行政機構は驚くべき速さで正常な状態を回復した』(ハーヴェイ285頁)。

また前ジョン王時代から宮廷では人材難でサヴォワやポワトゥーなど国外出身者を多く登用していたが、ヒューバートはこの見直しを進め海外人材を排除して国内の人材を積極的に登用した。これは後にヘンリ3世と対立する要因の一つともなった。

一方、大陸領土で残ったアキテーヌ公領では、1224年、重要な貿易港ラ・ロシェルがフランス軍によって占領され公領の首府ボルドーも攻撃を受けたため、王弟コーンウォール伯リチャードを派遣するとともに、和平交渉にあたり、1227年、ルイ9世の母で摂政のブランシュ・ド・カスティーユと和平条約を締結した。

1227年、20歳になったヘンリ3世は親政に乗り出し、同年、ヒューバートはケント伯に叙されるが、この頃からヒューバートとヘンリ3世は対立するようになった。ヘンリ3世が重用するようになったのが前行政長官ウィンチェスター司教ピーター・デ・ロシュ(” Peter des Roches”)である。若く血気盛んなヘンリ3世は、父王の失った大陸領土の奪還を唱え、1230年、自らブルターニュ遠征に乗り出すが、めぼしい成果を得られないまま撤退し、この失敗の責任をヒューバート・ド・バーグに帰したため、両者の反目が厳しくなり、1232年、ついにヒューバート・ド・バーグを解任の上、反逆罪で逮捕し、後任に寵臣ピーター・デ・ロシュの息がかかったスティーヴン・デ・セグレイヴ(” Stephen de Segrave”)を据えた。

このような寵臣政治は諸侯の不満を呼んですぐに行き詰まり、1233年、ウィリアム・マーシャルの次男第三代ペンブルック伯リチャード・マーシャルが反乱を起こし、捕われていたヒューバート・ド・バーグも脱獄して参加した。翌34年、リチャードが急死したことで反乱は終結し、ロシュらも失脚、ヒューバートと王は和解し、1234年5月28日、正式に行政長官職を辞任して、国政から去った。

結婚と死

彼は生涯三度結婚し、三度目の妻スコットランド王ウィリアム1世の王女マーガレットとの間に娘が一人いるだけに留まり、娘マーガレットはグロスター伯リチャード・ド・クレアと結婚したが、1237年に子供が生まれないまま亡くなっている。

国政から退いて以後は公の場にほとんど姿を出さず、1243年、サリー州バンステッドで亡くなった。ヒューバート・ド・バーグ死後、後継者無かったためケント伯領は王領に接収され、再度ケント伯位が立てられるのは十四世紀のこととなる。

プランタジネット王権存亡の危機を救った知勇兼備の忠臣であり、卓越した行政手腕で再建に成功し、アンジュー帝国からイングランド王国への移行の道筋をつけた、知名度は低いが非常に大きな成果を残した中世イングランド史上屈指の人物の一人である。しかし、その最期は寂しいものであった。

参考文献

・青山吉信・飯島啓三・永井一郎・城戸毅編著『イギリス史〈1〉先史~中世 (世界歴史大系)』山川出版社,1991年)
・朝治 啓三,渡辺 節夫,加藤 玄 編著『中世英仏関係史 1066-1500:ノルマン征服から百年戦争終結まで』(創元社,2012年)
・佐藤賢一 著「カペー朝―フランス王朝史1 (講談社現代新書)」講談社,2009年
・森護著『英国王室史話』(大修館書店,1986年)
・アンリ・ルゴエレル著(福本秀子訳)『プランタジネット家の人びと (文庫クセジュ)』白水社,2000年
・ウィリアム・シェイクスピア 著(小田島 雄志 訳)『ジョン王 (白水Uブックス (13)) 』(白水社,1983年)
・エドマンド・キング著(吉武憲司監訳)『中世のイギリス』(慶應義塾大学出版会,2006年,原著1988年)
・バーバラ・ハーヴェー編著(鶴島博和日本語版監修、吉武憲司監訳)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史〈4〉 12・13世紀 1066年~1280年頃』(慶應義塾大学出版会,2012年,原著2001年)
・レジーヌ・ペルヌー著(福本秀子訳)『リチャード獅子心王』(白水社,2005年,原著1988年
Hubert de Burgh, 1st Earl of Kent – Wikipedia
Hubert de Burgh | English justiciar | Britannica
Hubert de Burgh, 1st Earl of Kent (c.1170 – 1243) – Genealogy

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