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ヘンリ若王~獅子心王と欠地王の人望ある長兄の惜しまれる早逝

ヘンリ若王(または「若ヘンリ」とも”Henry the Young King”,1155年2月28日生-1183年6月11日没)はイングランド王ヘンリ2世(在位1154年12月19日-1189年7月6日)と王妃アリエノール・ダキテーヌ(エレノア・オブ・アキテーヌ)の間の長子(次男)。イングランド王として父ヘンリ2世と共治した(在位1170年6月14日-1183年6月11日)。リチャード(イングランド王リチャード1世(獅子心王))、ジェフリー(ブルターニュ公ジョフロワ2世)、ジョン(イングランド王ジョン(欠地王))は弟。

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イングランド王への即位

ヘンリ若王戴冠式と祝宴

左:ヘンリ若王戴冠式
右:祝宴でヘンリ若王に給仕するヘンリ2世
1220-1240頃(大英図書館収蔵、パブリックドメイン画像)

1155年2月28日、ヘンリ若王はイングランド王ヘンリ2世と王妃アリエノール・ダキテーヌの第二子(次男)として生まれ、1156年、兄ウィリアムが三歳で早逝して以降、第一王子として育てられた。1158年、三歳のとき、生後間もないフランス王ルイ7世の娘マルグリット(マーガレット・オブ・フランス、1158年生-1197年9月18日没)と婚約。1162年より、トマス・ベケットに師事して高等教育を受けた。

1160年代、イングランド王ヘンリ2世の領土拡大戦争に対抗したフランス王ルイ7世は劣勢を余儀なくされ、1169年1月6日、モンミライユの和約を締結、同条約ではヘンリ2世の征服地と王子たちへの所領相続が認められ、王太子ヘンリはノルマンディー公位、メーヌ伯位、アンジュー伯位の相続とイングランド王への共治王としての戴冠および婚約者マルグリットとの結婚履行と王妃戴冠、さらにフランス宮廷の五大官職の一つ主膳長(セネシャル “Sénéchal”)が与えられた。

1170年6月14日、15歳のとき、イングランド王ヘンリ2世はアンジュー帝国の継承を盤石なものとするため、王太子ヘンリを共治王とすることとし、イングランド王戴冠式を開催した。以後、彼はヘンリ若王と呼ばれる。しかし、このときすでに結婚していた妻マルグリットの王妃戴冠は見送られた。また、同8月10日、ノルマンディー公、メーヌ伯、アンジュー伯各所領の継承も行われ、ブルターニュ公領を除く北フランス地域はヘンリ若王の所領とされた。

ヘンリ若王の人柄

人びとに畏怖される専制的な君主であった父王ヘンリ2世とは対照的に、ヘンリ若王は愛される性格で同時代の人々からの評判が非常に良く、高い人望があったと考えられている。1170年より側近・武術の師として仕えた騎士ウィリアム・マーシャル(1146-1219)の伝記(13世紀成立)や同時代の詩人ベルトラン・ド・ボルン(1140頃-1215)、ウェールズ出身の司祭で歴史家のジェラルド・オブ・ウェールズ(1146頃-1223)他多くの人々がこぞって彼について称賛する。

『背は高く髪はブロンドで、若き神のごとく美しく、表現力豊かで感じのよい当意即妙の才があった。その上善良で愛想よくいつも他人を許せる比類なき寛容性の持ち主であった。』(注1)

『若王は長身、金髪、人好きのする人物で、ウィリアムの伝記作家によると、礼儀正しく、寛容で、イスラム世界とキリスト教世界をあわせても「世界一ハンサムな王子」だった。』(注2)

ヘンリ若王は頻繁に『ほとんど二週間おきに』(注1)騎士槍試合(トーナメント)を開催したことで知られ、ウィリアム・マーシャルの活躍を始め多くのエピソードが残されている。1174年に自身が起こした反乱が鎮圧された直後からはウィリアム・マーシャルを伴い、自ら騎士たちを連れてフランス各地の騎士槍試合(トーナメント)を転戦した(注3)。

また、彼の闊達な性格をうかがい知ることができる有名なエピソードとして、ある日ノルマンディーのビュルで当時ジャンの次に多い名前だったギヨーム(ウィリアム)の名を持つものばかり117名を集めた宴会を催したことがあった(注4)。面白いことが好きで、明るく陽気な若者であった。

父王との対立

ヘンリ若王の父王ヘンリ2世に対する反感は、敬愛するカンタベリー大司教トマス・ベケットの亡命から始まっている。ベケットはヘンリ2世に忠実な行政官僚として頭角を現したが、聖職者に対する王の裁判権を定めた「クラレンドン法」(1164年)を巡って対立し、1164年、ベケットはフランス王の下へ亡命する騒ぎとなっていた。1170年のヘンリ若王戴冠式も、慣習では戴冠式において王冠を授ける役目はカンタベリー大司教が担っていたが、このときはヨーク司教が代行していた。学問の師であり、戴冠式でもヘンリ若王はベケットに戴冠式を行ってもらいたかった。戴冠式直後の1170年12月29日、イングランドへ帰国したベケットは四人の騎士によって暗殺される。

戴冠式でのヘンリ2世とヘンリ若王の会話は両者のぎくしゃくした関係が良くうかがえる。

『宴席では若王は主賓席に座っており、父王は若王に給仕をすると言ってきかなかった。それは彼が若王に与えた地位の威厳をはっきり示すためであった。しかし父王は一方では冗談めかして次のように言うことも忘れてはいなかった。「食卓で王が給仕をするのは滅多にあることではないぞ。」
若ヘンリーはこう口答えした。「けれども伯爵の息子が王の息子に給仕をするのは別に常ならぬことではありません。」』(注5)

「伯爵の息子」とはアンジュー伯ジョフロワ5世の子であるヘンリ2世のことで、「王の息子」とはイングランド王ヘンリ2世の子である自身ヘンリ若王を指している。この応酬に参列した諸侯は言葉もなかったという。

1172年9月27日、フランス王との関係改善を目的として先送りになっていたヘンリ若王妃マルグリットの戴冠式がヘンリ若王の再度の戴冠式とあわせて行われるが、この間、王権は完全にヘンリ2世が握っており、ヘンリ若王は共治王とはいえ王としての権限は全く与えられておらず、この不満は日に日に大きくなっていった。

1173年2月、ヘンリ2世は末子ジョン(当時七歳)とモーリエンヌ伯およびサヴォワ伯ウンベルト3世の娘アリックスとの婚約とあわせて、ヘンリ若王の所領であったアンジュー伯領からシノン城、ルーダン城、ミルボー城の三城をジョンに与えるよう命じた。ヘンリ2世にとっては、モーリエンヌ伯の領土であったサヴォワ地方、プロヴァンス地方を手中に収めることでイタリア半島進出の足掛かりを築き、大陸領土の中継点となる三城も同一領主の管理下に置く、領土拡大政策上合理的な理由があったが(注6)、ヘンリ若王にとっては三城とも所領内の要衝であり、とうてい受け入れられるものではない。

敬愛していた師トマス・ベケットの失脚と死、権限無き名ばかりの王位、さらにここにきて無情な領内要衝の割譲命令によって、父王への不満が爆発した。三城割譲の拒否および自身の王としての実権を強く要求し、繰り返し話し合いが行われることになったが、この頃、ヘンリ2世は関係が悪化していた妻アリエノールが子供たちの背後にいるという報告も受けており(注7)、息子の要求に慎重な姿勢を崩さなかった。

1173年3月8日、ヘンリ若王は父王と同宿していたシノン城を出奔し、フランスへ逃れてフランス王ルイ7世を頼った。

若王の反乱

ヘンリ若王に続いて弟リチャードとジェフリーも後を追い、ヘンリ2世に反旗を翻した。ヘンリ若王はフランス王ルイ7世と母アリエノール・ダキテーヌの後ろ盾を得て、反ヘンリ2世諸侯を糾合し、大規模な反乱軍を編成した。ヘンリ若王のアンジュー伯領、ノルマンディー公領、メーヌ伯領、リチャードのポワトゥー伯領、アキテーヌ公領、ジェフリーのブルターニュ公領とそれらの傘下の諸領主をはじめ、イングランドからはノーフォーク伯、レスター伯、チェスター伯、ダービー伯、ハンティントン伯の五伯、フランス諸侯としてはフランドル伯、ブロワ伯、ブーローニュ伯ともちろんフランス王ルイ7世、さらにスコットランド王ウィリアム獅子王もこれに加わり、一大包囲網が形成された。これだけの諸侯を味方につけることができたのは、外交手腕というよりは、その人望の高さによるものだろう。

しかし、ヘンリ2世はこの絶体絶命の危機に圧倒的な勝負強さを見せる。自身の戴冠式で使った宝剣を惜しげもなく売り飛ばすとその資金で二万名のブラバント人傭兵を雇い、人々が驚く進軍速度で一気にノルマンディー地方を征服、ヴェルヌイユの戦いでヘンリ若王=ルイ7世連合軍を撃破し、スコットランド軍を破ってウィリアム獅子王を捕虜とし、74年1月、ポワトゥーで妻アリエノールとヘンリ若王妃マルグリットを始め反乱王族の妻を捕らえ、9月、ポワトゥーでリチャードを降伏させた。その武威を存分に見せつけたことで反乱諸侯は次々と降伏し、9月末、万策尽きてヘンリ若王も父王に下った(注8)。

詳しくは以下の記事でまとめている

イングランド王ヘンリ2世と武威の王権『アンジュー帝国』
誕生から即位まで 1066年、ノルマンディー公ギヨーム2世がブリテン島へ侵攻しイングランド王ウィリアム1世として即位したことで、イギリス海峡をまたぐノルマンディー公領とイングランド王領からなる海峡国家アングロ=ノルマン王国が誕生した。三代...

兄弟の確執

反乱失敗後、要求は受け入れられなかったが所領は安堵され、1176-77年にはシチリア王グリエルモ2世と結婚する妹ジョーンのシチリア行の護衛を務め、1179年11月1日、フランス王太子フィリップが父王ルイ7世の共治王として即位する戴冠式に父王の代理として参列するなど、ヘンリ若王は父王に従順に振舞った。

しかし、1182年に再びポワトゥー地方で諸侯の散発的な反乱が起こると、ヘンリ若王はポワトゥー伯領の反乱諸侯と同盟してあらためて父王に後継者として権力の拡充を求めた。今度はヘンリ2世も彼の要求を受け入れ、同年のクリスマスにリチャード、ジェフリー、ジョンにヘンリ若王への臣従礼を求めた。ジェフリー、ジョンは素直に受け入れたが、アキテーヌ公として自立傾向が強いリチャードはこれを拒否して頑強に抵抗を始めた。

かねてより、リチャードが婚約者のルイ7世王女アデライードとの結婚を先延ばしにして幽閉状態に置いていた件(注9)でヘンリ若王はアデライードの姉である妻マルグリットの意向を汲み、結婚するよう求めていたことから、両者の対立が深まっていた。

1183年春、ついにヘンリ若王=ジェフリー連合はリチャードと戦端を開き、リムーザン地方で激しい戦闘が開始される。リムーザンでバスク人傭兵たちを捕えたリチャードは捕虜80人の目をくり抜いたという(注10)。さらにリモージュ伯とテュレンヌ副伯がヘンリ若王に呼応してリチャードと交戦に至り、苦境に陥ったリチャードは父王ヘンリ2世に仲裁を求め、ヘンリ2世は軍を派遣、これに対しヘンリ若王はフランス王フィリップ2世に助勢を乞うた。この頃、ヘンリ若王は傭兵への支払い資金調達のためリモージュのサン=マルシアル大聖堂を襲撃、略奪に及び、誠実な若王の生涯の汚点となっている。

ヘンリ若王の死

1183年5月末、ヘンリ若王はリモージュ近くのマルテルで病に倒れる。赤痢だったと考えられている(注11)。最早長くないと自覚した若王は告解し、略奪した財産の返還を命じ、父ヘンリ2世へ使者を送って許しを乞うた。ヘンリ2世は策略ではないかと疑った後、サファイアが埋め込まれた指輪を使者に託した。指輪を受け取ったヘンリ若王はこれを指にはめ、「この指輪は持っていたいからつけているのではない。我が父が与えてくれた許しの証拠だということを我が神の御前で証明するためだ」(注12)と語った。続いて全財産を家族と仲間に分け与え、付き添う忠臣ウィリアム・マーシャルに自分の代わりにエルサレムへ巡礼してほしいと願った。奇しくもこの六年後、ウィリアム・マーシャルはヘンリ2世の最期を看取ることになる。

騎士の中の騎士ウィリアム・マーシャルの生涯
初代ペンブルック伯ウィリアム・マーシャル(英語” William Marshal, 1st Earl of Pembroke”,フランス語” Guillaume le Maréchal”ギヨーム・ル・マレシャル)は十二世紀半ばから十三世紀初...

聖体と聖油を拝領したあと、床に十字架の形に灰をまかせて自らをそこに横たえさせ、1183年6月11日、28歳の若さでこの世を去った。亡くなった後、彼の指から指輪を抜こうとしたが抜くことはできなかったという。遺体を巡ってはメーヌ地方のル・マンとノルマンディー地方のルーアンとで争いになったが、最終的にルーアンに運ばれて埋葬された。

政治的・軍事的手腕は未知数なままだったが、父王にも他の兄弟たちにもなかった人望の高さがあり、皆に愛された。彼の早逝はアンジュー帝国=プランタジネット朝にとって多大な損失で、その後の歴史を大きく左右したと言ってよいだろう。もし、彼が長命であったなら、リチャードとジョンは王ではなく人々から敬愛される兄王の下でそれぞれ軍事と内政を司る補佐役として生涯を終えていたかもしれない。

彼の死後、今度はヘンリ2世とリチャードの対立が生じ、またもやリチャードが叛旗を翻す。フィリップ2世と結んだリチャードはついにヘンリ2世を圧倒し、その死後、イングランド王リチャード1世として即位することになる。しかし、十字軍をはじめ外征に明け暮れてその財政負担は莫大なものとなり、留守の兄リチャードに対して末弟ジョンが簒奪の野心を燃やし、フィリップ2世が虎視眈々と転覆の策謀を張り巡らせて、リチャードの不慮の死を契機に、ついにアンジュー帝国は崩壊へ向かうことになる。

参考文献

・青山吉信・飯島啓三・永井一郎・城戸毅編著『イギリス史〈1〉先史~中世 (世界歴史大系)』山川出版社,1991年)
・朝治 啓三,渡辺 節夫,加藤 玄 編著『中世英仏関係史 1066-1500:ノルマン征服から百年戦争終結まで』(創元社,2012年)
・佐藤賢一 著「カペー朝―フランス王朝史1 (講談社現代新書)」講談社,2009年
・森護著『英国王室史話』(大修館書店,1986年)
・アンリ・ルゴエレル著(福本秀子訳)『プランタジネット家の人びと (文庫クセジュ)』(白水社,2000年)
・エドマンド・キング著(吉武憲司監訳)『中世のイギリス』(慶應義塾大学出版会,2006年,原著1988年)
・バーバラ・ハーヴェー編著(鶴島博和日本語版監修、吉武憲司監訳)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史〈4〉 12・13世紀 1066年~1280年頃』(慶應義塾大学出版会,2012年,原著2001年)
・フランシス・ギース著(椎野淳訳)『中世ヨーロッパの騎士 (講談社学術文庫)』(講談社,2017年)
・レジーヌ・ペルヌー著(福本秀子訳)『リチャード獅子心王』(白水社,2005年,原著1988年)
・レジーヌ・ペルヌー著(福本秀子訳)『王妃アリエノール・ダキテーヌ』(パピルス,1996年,原著1965年)
・”Henry The Young King | king designate of England | Britannica
・”Henry, the Young King | English Monarchs
・”Henry the Young King – Wikipedia

脚注

注1)レジーヌ・ペルヌー著(福本秀子訳)『王妃アリエノール・ダキテーヌ』(パピルス,1996年,原著1965年)187頁

注2)フランシス・ギース著(椎野淳訳)『中世ヨーロッパの騎士 (講談社学術文庫)』(講談社,2017年)136頁

注3)フランシス・ギース著(椎野淳訳)『中世ヨーロッパの騎士 (講談社学術文庫)』(講談社,2017年)138頁

注4)レジーヌ・ペルヌー著(福本秀子訳)『王妃アリエノール・ダキテーヌ』(パピルス,1996年,原著1965年)188頁

注5)レジーヌ・ペルヌー著(福本秀子訳)『王妃アリエノール・ダキテーヌ』(パピルス,1996年,原著1965年)178頁

注6)レジーヌ・ペルヌー著(福本秀子訳)『リチャード獅子心王』(白水社,2005年,原著1988年)36頁/レジーヌ・ペルヌー著(福本秀子訳)『王妃アリエノール・ダキテーヌ』(パピルス,1996年,原著1965年)192頁。/あわせて末娘ジョーンとシチリア王グリエルモ2世との婚約が決定しており、ヘンリ2世の意図はイタリア半島への影響力拡大を前提とした末子ジョンの権力強化を意図したものだったと思われる。結局、婚約者アリックスが早逝したことでこの婚約は解消される。

注7)アキテーヌ公領と隣接し領土紛争を抱えてアリエノール・ダキテーヌと対立関係にあったトゥールーズ伯レイモン5世からの誣告。

注8)1173年のヘンリ若王の反乱についてはアンリ・ルゴエレル著(福本秀子訳)『プランタジネット家の人びと (文庫クセジュ)』(白水社,2000年)55-57頁、レジーヌ・ペルヌー著(福本秀子訳)『リチャード獅子心王』(白水社,2005年,原著1988年)36-43頁、レジーヌ・ペルヌー著(福本秀子訳)『王妃アリエノール・ダキテーヌ』(パピルス,1996年,原著1965年)192-200頁を中心にその他参考文献一覧の書籍を随時参照してまとめている。

注9)アデライードはフランス王ルイ7世の次女。1169年のモンミライユの和約でリチャードの婚約者とされた。リチャードとの結婚については当初外交カードとしてヘンリ2世が先送りにしていたが、その後ヘンリ2世はルイ7世との交渉で結婚の履行を約束した。しかし、フランス側の結婚履行の求めに対しても、リチャードは乗り気ではなく先送りにし続けながら、1180年頃には愛人との間に庶子フィリップ・ド・コニャック(”Philippe de Cognac”)も生まれており、当時の慣習としても褒められたものではない。フランス王ルイ7世は次女の将来を心配しながら亡くなったという。結局、1191年に婚約破棄されるまで21年に及ぶ事実上の人質生活を送ることになる。

注10)レジーヌ・ペルヌー著(福本秀子訳)『リチャード獅子心王』(白水社,2005年,原著1988年)62頁

注11)”Henry The Young King | king designate of England | Britannica

注12)レジーヌ・ペルヌー著(福本秀子訳)『リチャード獅子心王』(白水社,2005年,原著1988年)63頁

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