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ヴィトレ城~トンガリ屋根が特徴的なフランス・ブルターニュ地方の中世城塞

ヴィトレ城(” Château de Vitré”)はフランスのブルターニュ地方(現在のブルターニュ地域圏イル=エ=ヴィレーヌ県ヴィトレ市)にある中世城塞。特徴的な屋根を持つ城塔・建物で知られ、公益財団法人日本城郭協会選「ヨーロッパ100名城」の一つ。

ヴィトレ城

ヴィトレ城(パブリックドメイン画像)

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築城

ヴィトレ城があるヴィトレ市はメーヌ地方と接するブルターニュ半島の東端に位置して、ブルターニュ地方の主要河川であるヴィレーヌ川沿いにあり、ガロ・ローマ時代から人々が集まる土地であった。

西暦1008年、ブルターニュ公ジョフロワ1世(在位992~1009年(注1))によってリワロン・ド・ヴィトレ(” Riwallon de Vitré”)が初代ヴィトレ男爵に封じられたことでヴィトレ男爵領が成立。あわせて現在のヴィトレ城周辺にモット・アンド・ベイリー式の木造の城が築かれたと見られる。1060~70年頃、周辺の村落が合併してヴィトレ市が形成され、この時期のヴィトレ男爵ロベール1世(” Robert Ier de Vitré”,在位1050頃~1072年)によって最初に石造の城が築かれた(注2)。ロベール1世は、1066年、ノルマンディー公ギヨーム2世(征服王ウィリアム1世)に従ってヘースティングズの戦いに参加している(注3)。

十三世紀前半、アンドレ3世(” André III de Vitré ”,在位1211~1250年)治世下の1230年頃、城が現在の三角形の敷地で再建され、以後受け継がれていく。アンドレ3世死後、後継したアンドレ4世が早逝し、1254年、アンドレ3世の娘婿ラヴァル領主ギー7世(ヴィトレ男爵としてはギー1世)が継承、ラヴァル家(注4)の支配が始まる。

ラヴァル家はブルターニュ地方の名門で、十四世紀、百年戦争が始まると、当主ギー12世(” Guy XII de Laval”,在位1348~1412年)はフランス王配下の勇将として活躍、著名な大元帥ベルトラン・デュ・ゲクランの戦友として知られた。デュ・ゲクラン大元帥死後、大元帥未亡人でいとこのジャンヌ・ド・ラヴァルと再婚する。このギー12世と妻ジャンヌ・ド・ラヴァルによってヴィトレ城は大幅に強化・改装され、二重の跳ね橋を持った正門ファサードやサン・ローラン塔、マドレーヌ塔など現在の特徴的な建物が登場した(注5)。

写真左「サン・ローラン塔」写真右「正門」

ヴィトレ城
写真左「サン・ローラン塔」写真右「正門」
© Gortyna [CC BY-SA](wikimedia commonsより)

ブルターニュ征服戦争下のヴィトレ城

十四~十五世紀のブルターニュ公国は、百年戦争中のブルターニュ継承戦争(1341~1365年)やトロワ条約(1420年)を経てフランス王の臣従下から離れて事実上の独立国家となっていた。百年戦争終結まではフランス、イングランド、ブルゴーニュ公国の三大勢力鼎立下の第四勢力として巧みな中立外交を見せ、百年戦争終結後はブルゴーニュ公やブルボン公などと結んで国土統一を図るフランス王と対抗していた(注6)。しかし、1477年のブルゴーニュ公国の滅亡を経て、1480年代にはブルボン公は完全にフランス王に臣従し、フランス王下の最有力諸侯アンジュー公国もフランス王が吸収し、ブルターニュ公国の独立も危機的状況となっていた。

このような状況下でブルターニュ公フランソワ2世の宰相に抜擢され、公国の独立のために辣腕を振るっていたのがヴィトレ出身の商人ピエール・ランデ(” Pierre Landais”,1430頃生~1485年没、在任1481~1485年)である。彼は病床の公にかわって幼いフランス王シャルル8世の摂政ピエール・ド・ボージューの政府に反抗的なオルレアン公ルイ2世(後のフランス王ルイ12世)やイングランド王エドワード4世らと謀ってフランスの脅威に対抗していた。1485年、イングランド王リチャード3世と軍事支援と引き換えに亡命中でブルターニュ公が庇護していたヘンリ・テューダー(後のイングランド王ヘンリ7世)引き渡しの密約を結んだが、これが露見して公の怒りを買い失脚、処刑された(注7)。

ブルターニュ公国の内紛に乗じ、1487年2月、シャルル8世はブルターニュ征討の軍を起こした。道化戦争(フランス語” Guerre folle”,英語” Mad War”(注8))の名で知られる。同9月、ブルターニュ公国の対フランス最前線の要衝ヴィトレ城にフランス軍が進軍すると、ランデ出身地ということもあって市民の戦意は高かったが、城主ラヴァル伯ギー15世(” Guy XV de Laval”,在位1486~1501年)は戦わずして城門を開き降伏した(注9)。激しい攻防戦が展開されたもう一つの要衝フジェール城と対照的であった。

翌1488年7月27日、サン・トーバン・デュ・コルミエの戦いでブルターニュ軍が壊滅し、同9月9日、ブルターニュ公フランソワ2世が亡くなって、1491年、残された娘アンヌ・ド・ブルターニュがシャルル8世と結婚することで、ブルターニュ公国はフランスの支配下に入り、フランス王による国土統一が完成した。

ヴィトレ城開城の功績によりラヴァル伯ギー15世は1488年、重要閣僚である「フランス家令長” Grand maître de France “」(注10)職が与えられ、さらに1495年にはブルターニュ総督に任じられた(注11)。

近世以降

1547年、ギー17世が子供無く亡くなったため、ラヴァル伯モンフォール=ラヴァル家は断絶し、以後ヴィトレ城はリュー家とコリニー家の支配を経て1605年から1792年のフランス革命までラ・トレムイユ家の支配下となる。

十六世紀からヴィトレは交易都市として特に新大陸との麻の取引で栄え、ブルターニュ地方で有数の経済成長を遂げた。ヴィトレ城も1530年にルネサンス様式の礼拝堂が建てられるなど経済成長の恩恵を受けたが、十七世紀に入ると、城は役割を終えて廃城となり、城の敷地の大部分が刑務所に転用され、建物は放置されて破壊が進んだ。

1820年、ヴィトレ市が城を買い取り、1875年に復元・修復されて現在に至る。

参考文献

・朝治 啓三,渡辺 節夫,加藤 玄 編著『中世英仏関係史 1066-1500:ノルマン征服から百年戦争終結まで』(創元社,2012年)
・上田耕造著『ブルボン公とフランス国王―中世後期フランスにおける諸侯と王権』(晃洋書房,2014年)
・太田 静六 著『ヨーロッパの古城―城郭の発達とフランスの城 (世界の城郭)』(吉川弘文館,2011年,原著1989年)
・佐藤賢一著『ヴァロワ朝 フランス王朝史2 (講談社現代新書)』(講談社,2014年)
・原聖著『興亡の世界史 ケルトの水脈(講談社学術文庫)』(講談社,2016年)
・ジャン・メスキ 著(堀越 孝一 監修/遠藤 ゆかり 翻訳)『ヨーロッパ古城物語 (「知の再発見」双書)』(創元社,2007年)
・トレヴァー・ロイル著(陶山昇平訳)『薔薇戦争新史』(彩流社,2014年)

ウェブ上の参照サイトは脚注参照。全て2020年2月7日閲覧。

脚注

注1)在位年は原聖著『興亡の世界史 ケルトの水脈(講談社学術文庫)』(講談社,2016年)285頁参照

注2)”Château de Vitré — Wikipédia“,”Histoire de Vitré — Wikipédia

注3) “Robert Ier de Vitré — Wikipédia

注4)モンモランシ=ラヴァル家(1254~1412年)、モンフォール=ラヴァル家(1412~1547年)。なお1429年ギー14世の代よりラヴァル伯。

注5) “Château de Vitré — Wikipédia“ /太田 静六 著『ヨーロッパの古城―城郭の発達とフランスの城 (世界の城郭)』(吉川弘文館,2011年,原著1989年)155頁/またジャン・メスキ 著(堀越 孝一 監修/遠藤 ゆかり 翻訳)『ヨーロッパ古城物語 (「知の再発見」双書)』(創元社,2007年)38頁に復元想像立体図がある。

注6)このあたりの展開は朝治 啓三,渡辺 節夫,加藤 玄 編著『中世英仏関係史 1066-1500:ノルマン征服から百年戦争終結まで』(創元社,2012年)第六~八章に詳しい。

注7) “Pierre Landais – Wikipedia“ /トレヴァー・ロイル著(陶山昇平訳)『薔薇戦争新史』(彩流社,2014年)381-382頁

注8)「道化戦争」の訳語は佐藤賢一著『ヴァロワ朝 フランス王朝史2 (講談社現代新書)』(講談社,2014年)195頁に従った。

注9) “Château de Vitré — Wikipédia“ 参照。” Cette décision est prise contre la volonté des habitants et présentée comme un fait accompli.”「この決定は住民の意思に反して行われたことが、事実として提示されている」とのこと。当該部分の記述が出典としているのはDaniel Pichot (dir.), Valérie Lagier (dir.) et Gwénolé Allain (dir.), Vitré : histoire & patrimoine d’une ville, Paris, Somogy éd. d’art, 2009, p. 42.

注10) 中世フランス政府の閣僚” Grand maître de France”の訳については日本語の定訳がなさそうなので、上田耕造著『ブルボン公とフランス国王―中世後期フランスにおける諸侯と王権』(晃洋書房,2014年)に従い「フランス家令長」の訳語を当てている。

注11)Guy XV de Laval — Wikipédia

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