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タラスコン城”Château de Tarascon”~プロヴァンス地方屈指の優美な名城

「タラスコン城”Château de Tarascon”」または「ルネ王の城” Château du Roi René”」(注1)はフランス・プロヴァンス地方(プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏)ブーシュ=デュ=ローヌ県アルル郡のタラスコン市にある中世城塞。プロヴァンス地方を支配しルネ王と呼ばれたアンジュー公ルネ1世(ルネ・ダンジュー)の居城として知られ、ローヌ河畔に建つその姿の美しさは非常に名高い。「ヨーロッパ100名城」の一つ。

タラスコン城"Château de Tarascon”

タラスコン城”Château de Tarascon”
パブリックドメイン画像(wikimedia commonsより)

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タラスコンの名前の由来~聖女マルタと怪物タラスクの伝説

 Saint Martha Taming the Tarasque, from Hours of Henry VIII, France, Tours, ca. 1500. The Morgan Library & Museum, MS H.8, fol. 191v

「タラスクを従わせる聖女マルタ」1500年頃ヘンリ8世の時祷書 “Saint Martha Taming the Tarasque, from Hours of Henry VIII, France, Tours, ca. 1500. The Morgan Library & Museum, MS H.8, fol. 191v”
パブリックドメイン画像(wikimedia commonsより)

タラスコン市はローヌ川の東岸に位置し、アヴィニョン、カマルグ、リュベロンなどの主要地域をつなぐ要衝である。このため早くも紀元前七世紀頃には集落が形成され、古代から中世にかけて、ローヌ川対岸の都市ボーケールとともに発展した(注2)。

タラスコンの名前の由来として知られるのが十三世紀中頃に編纂された各地の伝承を集めたヤコブス・デ・ウォラギネ「黄金伝説」にある聖女マルタと怪物タラスクの伝説である。

ローヌ川に棲み人々を脅かす半獣半魚の怪物タラスクの退治を頼まれた聖女マルタは、森の中で人を食うタラスクと遭遇、聖水をかけて服従させ縛って村人の前まで連れてきた。村人たちはすっかり大人しく抵抗しなくなったタラスクを殺してしまった。これにちなんで、この町はタラスコンと呼ばれるようになった。タラスコンと呼ばれる以前は黒々と繁った森にちなんで黒い場所を意味するネルルク”Nerluc”と呼ばれていたという(注3)。

聖女マルタは以後タラスコンに住んだとされタラスコン市の守護聖人となっている。フィリップ・ヴァルテールによれば怪物タラスクはケルト神話を含む『インド=ヨーロッパ神話に特徴的な、混成的な怪物の仲間』(注4)で、聖女マルタの祝日(7月29日)が夏の土用の祭りと重なることから異教の古い民間伝承とキリスト教伝承が混淆しつつ、異教信仰に対するキリスト教の勝利を示したものと見られている。また、タラスコン城公式サイトによれば、「” La tarasque-crocodile, dragon des eaux, symbolise ce fleuve, dangereux et indomptable.”(水竜タラスク=ワニは、危険で不屈の川を象徴している)」(注2)とのことで、日本でも馴染み深い怪物化した「暴れ川」伝承と見られている。

聖女マルタ伝説~聖書と聖人信仰のまとめ
マルタは新約聖書に登場し、イエスの友人ラザロとマリアの姉妹で、エルサレム近郊の町ベタニアに住む。アラム語でマルタ” מַרְתָּא Martâ”(注1)は「婦人」「女主人」を意味する(注2)。後にキリスト教の守護聖人として各地で信仰を集め...

タラスコン城の築城

タラスコン城"Château de Tarascon” パブリックドメイン画像(wikimedia commonsより)

タラスコン城”Château de Tarascon”
パブリックドメイン画像(wikimedia commonsより)

今でこそフランスを代表する観光地として知られるプロヴァンス地方だが、フランス王の支配下となったのは十五世紀末のことで、九世紀のプロヴァンス王国以来、長く神聖ローマ帝国下の独立勢力としての歴史を持っていた。

十一世紀、ローヌ川対岸の南フランスを支配するトゥールーズ伯領に対する備えとして設置されたプロヴァンス辺境伯によって最初にタラスコンに要塞が築かれた。その後プロヴァンス伯領は南仏トゥールーズ伯家、イベリア半島のバルセロナ伯家(アラゴン王家)が継承した。トゥールーズ伯家とバルセロナ伯家のプロヴァンス伯位を巡る対立の渦中にあった1233年、タラスコン市民はトゥールーズ伯レーモン7世に味方してバルセロナ家のプロヴァンス伯レーモン・ベランジェ4世に反乱、タラスコンの要塞を破壊した記録が残る(注5)。

十三世紀半ば、フランス王ルイ9世の弟でシチリア王を兼ね、プロヴァンス伯位を継承(1246年)したアンジュー伯シャルル1世(シャルル・ダンジュー)がタラスコンを占領した。彼の子シャルル2世によりタラスコンの要塞は拡張された(注5)。

シャルル・ダンジュー以来のカペー・アンジュー家に代わり、百年戦争中の1367年、フランス王シャルル5世の弟アンジュー公ルイ1世が、ナポリ王位継承権とあわせてプロヴァンス伯位の継承権を獲得する。ルイ1世はタラスコンをイタリア進出への橋頭堡とするため大元帥ベルトラン・デュ・ゲクラン率いるフランス軍2000を派遣し1368年3月22日、占領した(注5)。

現存するタラスコン城の築城は1400年、アンジュー公ルイ1世の子ルイ2世の指示で建築家ジャン・ロベール” Jean Robert”によって始められ、ルイ3世時代を経て、ルネ1世治世下の1435年に完成した。

「ルネ王の城” Château du Roi René”」

タラスコン城"Château de Tarascon”

タラスコン城”Château de Tarascon”
© Wolfgang Staudt [CC BY](wikimedia commonsより)

城は、厚さ3~4メートル、高さ45メートルの壁で、東に時計塔とチャペル塔の円形塔二基、西のローヌ川沿いに四角塔二基が配され、南側から見ると正方形の城のように見えるが、北側に長く中庭を持っている。西側のローヌ川を除く三方向にも濠が備わり、防禦しやすい円形塔の採用や、パリのバスティーユ城(のちのバスティーユ牢獄)に倣ったと考えられる四隅の塔と城壁が同一平面上にある構造とあわせて、その優美な見た目に加え実用的な防御力の高さが窺える堅城として高い評価がされている(注6)。

『この形式は15世紀になり初めて現れた新形式で、この形式によってドンジョンの屋上全体は平坦となり、足下に攻め寄せる敵兵の様子をみながら、自由自在、かつ迅速に兵力を移動させることが可能になった。』(注7)

「ルネ王の城」の名でも知られるタラスコン城の代表的な城主がジャンヌ・ダルクの戦友の一人としても名高いアンジュー公ルネ1世(ルネ・ダンジュー” René d’Anjou”、在位1434~1480年)である。カペー=アンジュー伯家、ヴァロワ=アンジュー公家とフランス・アンジュー地方の領主は代々イタリア方面への進出を企図したのが特徴で、彼も祖父ルイ1世以来のナポリ王位継承権を主張して1435年、ナポリ王に即位したが、1442年、アラゴン王アルフォンソ5世に敗れ王位を失った。ルネ善良王とも呼ばれ、プロヴァンス地方に長く滞在し、1480年、タラスコン城で亡くなっている。

ルネ1世は当時の多くの大貴族と同様、芸術を愛し、宮廷文化のパトロンとして知られた人物である。タラスコン城にもルネ1世の芸術志向が強く反映された。1430年頃の製作とみられるカラマツ材の天井装飾はクマや鹿などの動物からグリフォンやペガサス、セイレーン、そしてタラスクなど想像上の生物が描かれ、芸術性が高い(注8)。このようなタラスコン城の特徴として、『威厳に満ちた外観と相反する内装を巧みに調和させた好例』(注9)である点が挙げられる。

近世以降

1480年、ルネ1世はタラスコン城で亡くなり、アンジュー公国はフランス王ルイ11世によって王領へ吸収させられ、1484年、プロヴァンス伯位もフランス王が兼ねることになった。百年戦争期、フランスではブルゴーニュ公国やブルボン公国など王族ながら王家から独立して高度な自治を行った諸侯国家が登場した。アンジュー公国もその一つで基本的に親フランス王派ではあったが、これら諸侯国家の王家への統合が近世の絶対王政への道を準備した。この流れの中にプロヴァンス地方も組み込まれていく。

タラスコン城は王の代官と守備隊が派遣されて管理され、ルネ1世時代の十五世紀にすでに牢獄として使われた痕跡が残るが(注10)、本格的には十八世紀頃から1926年に閉鎖されるまで刑務所として利用された。そのため、城内各所の壁に囚人による様々な落書きが残されている(注11)。

1930年代から政府の管轄下におかれて修復作業が進められ、現在はタラスコン市の管理下で観光地として一般公開されている。

参考文献

・朝治 啓三,渡辺 節夫,加藤 玄 編著『中世英仏関係史 1066-1500:ノルマン征服から百年戦争終結まで』(創元社,2012年)
・太田 静六 著『ヨーロッパの古城―城郭の発達とフランスの城 (世界の城郭)』(吉川弘文館,2011年,原著1989年)
・佐藤賢一著『ヴァロワ朝 フランス王朝史2 (講談社現代新書)』(講談社,2014年)
・フィリップ・ヴァルテール著(渡邉 浩司,渡邉 裕美子 訳)『中世の祝祭―伝説・神話・起源』(原書房,2007年,原著2005年)
・ヤコブス・デ・ウォラギネ 著(前田 敬作, 西井 武 訳)『黄金伝説3 (平凡社ライブラリー)』(平凡社,2006年)

ウェブ上の参照サイトは脚注参照。全て2020年2月10日閲覧。

脚注

注1)フランス文化省歴史建造物データベース”Château du Roi René

注2)”Tarascon et le Rhône, entre histoire et légende” (タラスコン城公式サイト

注3)ヤコブス・デ・ウォラギネ 著(前田 敬作, 西井 武 訳)『黄金伝説3 (平凡社ライブラリー)』(平凡社,2006年)51頁

注4)フィリップ・ヴァルテール著(渡邉 浩司,渡邉 裕美子 訳)『中世の祝祭―伝説・神話・起源』(原書房,2007年,原著2005年)220頁

注5)”Le château des Comtes de Provence et des ducs d’Anjou“(タラスコン城公式サイト

注6)Château de Tarascon — Wikipédia /太田 静六 著『ヨーロッパの古城―城郭の発達とフランスの城 (世界の城郭)』(吉川弘文館,2011年,原著1989年)120-121頁

注7)太田 静六 著『ヨーロッパの古城―城郭の発達とフランスの城 (世界の城郭)』(吉川弘文館,2011年,原著1989年)121頁

注8)”Les décors peints et sculptés du château“(タラスコン城公式サイト

注9)太田 静六 著『ヨーロッパの古城―城郭の発達とフランスの城 (世界の城郭)』(吉川弘文館,2011年,原著1989年)122頁

注10)”Les graffiti et ex-voto du prisonnier catalan“(タラスコン城公式サイト

注11)”Les graffiti des marins de la Royal Navy“(タラスコン城公式サイト

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