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フジェール城” Château de Fougères”~フランス史を動かし続けた要衝

フジェール城(” Château de Fougères”)はフランス・ブルターニュ地方(現在のブルターニュ地域圏イル=エ=ヴィレーヌ県フジェール)にある城塞。ブルターニュ地方とノルマンディー地方の境界にあり、フランスの歴史上、ブルターニュ地方の要衝として繰り返し戦いの舞台となった。公益財団法人日本城郭協会選「ヨーロッパ100名城」の一つ。


フジェール市公式アカウントより”Vues du fabuleux château de Fougères prises par un drone”(ドローン撮影されたフジェール城の素晴らしい眺望)

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築城

最初の城は十一世紀、一帯を支配するようになったフジェール家(注1)が築いた。十二世紀、ブリテン諸島からフランス西半分にいたる広大な領域を支配しアンジュー帝国を樹立したイングランド王ヘンリ2世は、1166年、ブルターニュへ侵攻し、フジェール城を攻略した。このとき破壊された石造のドンジョン(天守塔)の遺構が現在も残っている。

このあとブルターニュ公コナン4世はヘンリ2世の子ジョフロワと娘コンスタンスの結婚並びに譲位を承認し、ブルターニュ公領はアンジュー帝国に併合された。1177年、当主のフジェール男爵ラウル2世(” Raoul II de Fougères”,在位1154~1194)によって城は再建された。ヘンリ2世によって築かれたアンジュー帝国はリチャード1世、ジョン王と代を重ねて、十三世紀初頭、フランス王フィリップ2世がノルマンディーからブルターニュにかけてのフランス北部全域を征服したことで瓦解した。

プランタジネット家に代わって新たにブルターニュ公となったドルー家のピエール1世(”Pierre Ier de Bretagne”,在位1213~21,摂政1221~1237(注2))はフィリップ2世の忠実な臣下だったが、その孫ルイ9世が幼くしてフランス王となると、1230年、旧領奪還を目指してフランスへ侵攻したイングランド王ヘンリ3世やポワトゥー地方の反乱諸侯に呼応して反旗を翻した。このとき、フジェール城主だったフジェール男爵ラウル3世(” Raoul III de Fougères”,在位1212~1256)はルイ9世に臣従礼を捧げ、フジェール城にフランス軍を迎え入れた。ほどなくして反乱は鎮圧され、イングランド軍も撤退する。以後ラウル3世はフランス王に忠実な諸侯として第七次十字軍にも参加している。

ラウル3世に男子継承者が無かったため娘ジャンヌ(” Jeanne de Fougères”)はリュジニャン家のユーグ12世(” Hugues XII de Lusignan”)と結婚し、1256年から1269年までの二人の統治下で現在のフジェール城が築かれた。特に特徴的なのが、フランスの伝承で有名な蛇の妖精メリュジーヌ(注3)の名を冠するメリュジーヌ塔” Tour Mélusine”と、日本でもお馴染みの悪鬼の名がつけられたゴブリン塔” Tour du Gobelin”である。リュジニャン家はメリュジーヌを始祖とすると信じられていた(注4)ことから名付けられたものだろう。

「フジェール城のゴブリン塔(左)とメリュジーヌ塔(右)」

「フジェール城のゴブリン塔(左)とメリュジーヌ塔(右)」
© Adrian Farwell [CC BY](wikipedia commonsより)

その後、二人の子ユーグ13世(” Hugues XIII de Lusignan”,在位1269~1303)がフジェール男爵領を継承したが、1307年、ユーグ13世の子ギー1世の代にフランス王フィリップ4世によってフジェール城もろともフジェール男爵領は没収され、フランス王家の直轄となった。

百年戦争下のフジェール城

1337年に、フランス王とイングランド王の間で始まった百年戦争の主戦場となったのがブルターニュ地方であった。1342年、ブルターニュ公ジャン3世が後継者無く死去し、前公の異母弟ジャン・ド・モンフォールと前公の姪ジャンヌ・ド・パンチエーブルの間で後継者を巡って戦争が勃発した。世にいうブルターニュ公位継承戦争である。モンフォール派をイングランドが、パンチエーブル派をフランスが支援し、両国が主力を投入して激しい戦闘が展開され、モンフォール派が勝利してブルターニュ公国はフランス王から独立した。

ブルターニュ公位継承戦争の間、フランス王支配下だったフジェール城をモンフォール派が攻略しモンフォール派の拠点となっていたが、1373年、フランスの名将ベルトラン・デュ・ゲクラン大元帥が奪還し、王族のアランソン伯ピエール1世に与えられ、以後アランソン家の城となる。しかし、1428年、ヴェルヌイユの戦い(1424年)でイングランドの捕虜となった当主アランソン公ジャン2世の身代金工面のため、フジェール城はブルターニュ公に売却され、以後ブルターニュ公国国境の要衝として重視された。

十四~十五世紀、フジェール城は大幅に増強されている。正面玄関にあたるシャトレを守るメリュジーヌ塔とゴブリン塔の他、周囲に築かれた城壁には二棟の側防城塔を備えたエ・サン=ティレール塔、十五世紀に築かれた大砲を配備することが可能なラウル塔、1481年に再設計されたマシクーリと矢狭間を備えたシュリエンヌ塔の他、十四世紀に築かれたアンボワーズ副門”Poterne”など堅固な城塞としての機能を充分に備えた(注5)。

フジェール城

「フジェール城全景」
© NicolasGrandjean [CC BY-SA](wikipedia commonsより)

百年戦争終結の契機――フジェール城占領事件

1415年のイングランドの再侵攻以降、1420年代はイングランド軍の優位が続いていたが、1435年の「アラスの和約」でフランス王、ブルゴーニュ公、ブルターニュ公の同盟が成立し、イングランドは外交的孤立に陥った。さらに強いリーダーシップを発揮していた摂政ベッドフォード公ジョンの死後、若い国王ヘンリ6世は国内の政争と混乱を抑えきれず、イングランドの弱体化が進んだ。一方、諸侯反乱「プラグリーの乱」を鎮圧し、常備軍「勅令隊」を創設するなどフランス王シャルル7世は強力に王権を確立して、イングランドとの戦力差は著しく開いた。

英仏間は1444年に結んだ休戦条約を延長することでかりそめの平和が訪れていたが、フランス側は虎視眈々とイングランドの駆逐の機会を待っていた。そのきっかけとなったのが、1449年のイングランド傭兵隊によるフジェール城襲撃事件である。この時期、イングランド支配下のノルマンディー地方とブルターニュ公国の国境付近では統制を失った傭兵たちの跋扈が問題となっていた(注6)。

1449年3月24日、イングランド傭兵フランソワ・ド・シュリエンヌ” François de Surienne”(注7)率いる約600名の傭兵がフジェール城を襲撃、城下の市民を多数虐殺した上でこれを陥落させ、自らの支配下に置くという事件が起きた。フランス王シャルル7世はこの同盟国ブルターニュ公国支配下の城への襲撃を休戦条約違反として、全軍にノルマンディー地方への総攻撃を命じ、圧倒的な戦力でイングランド軍を蹂躙、1450年までにノルマンディー地方を再征服する。間髪入れず十二世紀以来イングランド王領であったフランス南西部ギュイエンヌ地方へも軍を派遣し、1453年ボルドーの奪還をもって百年戦争を終結させた。フジェール城は1449年11月4日、ブルターニュ軍によって奪還されている。

フジェール城を巡る戦いは百年戦争終結の始まりとなった。

独立ブルターニュ公国最後の盾――フジェール城包囲戦

百年戦争中、ブルターニュ公国はフランス、イングランド、ブルゴーニュ公国の三大勢力鼎立下の第四勢力として巧みな中立外交を見せて独立を維持し、百年戦争終結後はブルゴーニュ公やブルボン公などと結んで国土統一を図るフランス王と対抗していた。しかし、公益同盟戦争後ブルボン公は完全にフランス王に臣従し、1477年のブルゴーニュ公国の滅亡を経て、フランス王下の最有力諸侯国家アンジュー公国もフランス王が吸収し、ブルターニュ公国の独立も危機的状況となっていた。

1485年、ブルターニュ公国の独立のため辣腕を振るっていた宰相ピエール・ランデが失脚、処刑されると、ブルターニュ公国の内紛に乗じ、1487年2月、フランス王シャルル8世はブルターニュ征討の軍を起こした。道化戦争(フランス語” Guerre folle”,英語” Mad War”(注8))の名で知られる。

1487年9月、フジェール城と並ぶ要衝ヴィトレ城は戦わずして城門を開き降伏するなど、戦況は圧倒的に不利な状態となった。1487年末、フランス軍は一旦撤退し、ルイ2世・ド・ラ・トレムイユを総司令官として軍を再編し、1488年3月11日、再侵攻した(注9)。フランス軍は国境周辺の諸城を次々と落としたが、ブルターニュの制圧にはどうしても要衝フジェール城の攻略が必要となる。

1488年7月12日、ラ・トレムイユ率いるフランス軍15000がフジェール城前面に展開し、包囲戦が開始される。城を守るブルターニュ軍は守備隊長ジャン・ド・ロミエ以下ドイツ人傭兵を含め2~3000名であった。7月15日、フランス軍砲兵部隊が配置を完了して大砲による集中砲火が加えられるとともに、濠を形成していたナンソン川が堰き止められて水が干上がった。守備隊はブルターニュ軍の増援に期待していたが、7月19日、ロジェ門、モンフロメリー塔、サン=レオー門が相次いで破壊されたことで降伏を余儀なくされた(注10)。

フジェール城陥落直後の7月27日、フランス軍主力とブルターニュ軍主力の決戦となったサン・トーバン・デュ・コルミエの戦いでブルターニュ軍が壊滅し、同9月9日、ブルターニュ公フランソワ2世が亡くなって、1491年、残された娘アンヌ・ド・ブルターニュがシャルル8世と結婚することで、ブルターニュ公国はフランスの支配下に入り、フランス王による国土統一が実現した。

近世以後のフジェール城――アンリ4世の再統一とフランス革命

フランス統一によって、フジェール城は戦略的重要性を薄めた。1547年、アンリ2世の寵姫ディアーヌ・ド・ポワティエの城となり、フジェールにルネサンス文化が持ち込まれる。

しかし、十六世紀後半、フランスがユグノー戦争に突入すると、1588年、フジェール城はブルターニュ知事となったメルクール公フィリップ・エマニュエル・ド・ロレーヌ(“Philippe-Emmanuel de Lorraine, duc de Mercœur”,在位1577~1602、ブルターニュ知事在任1582~1589(注11))の支配下となった。メルクール公はブルターニュを制圧するとフジェール城を居城として(注12)ブルターニュをフランスから独立させようと目論む。一方、1589年、フランス王に即位してブルボン朝を創始したアンリ4世は、1592年よりブルターニュ平定に着手し、スペイン軍の協力を受けたメルクール公軍を次々と撃破し、1598年3月20日、アンジェでメルクール公を降伏させてフランス統一を成し遂げた。そして、4月13日、ブルターニュ地方の首府ナントに入城し史上名高い「ナントの勅令」を出すのである。

1789年、フランス革命が勃発してブルボン朝が倒れ、ロベスピエール率いるジャコバン派が主導権を握り革命は急進化の一途を辿る。1793年春、徴兵令に反対する困窮した農民と、王族の処刑に不満を持つ王党派やカトリック派らがヴァンデ地方で蜂起すると、瞬く間にアンジュー、ノルマンディー、メーヌ、ブルターニュと波及して北フランスに広がる大規模反乱となった。世にいう「ヴァンデの反乱(” Guerre de Vendée”1793-1796)」である。政府軍に対し連戦連勝の反乱軍は1793年11月3日、約三万の大軍で政府軍守備隊が籠るフジェール城に襲いかかり一気に占領してしまった(注13)。ヴァンデの反乱は三年がかりで鎮圧されるが、ヴァンデの反乱を含む多数の反乱や対外戦争で疲弊し限界を迎えた革命政府はナポレオンの帝政へと移行することになる。

文豪たちに愛された城

1810年、長い戦乱の歴史を終えて廃城となり、その後は多くの作家のインスピレーションの元となった。1828年10月、オノレ・ド・バルザックは数週間にわたってフジェールに滞在し、” Les Chouans”(1829)を執筆した。また、ヴィクトル・ユゴーがヴァンデの反乱を描いた大作「九十三年” Quatrevingt-treize”(1874)」はフジェール城のメリュジーヌ塔を詳細に描写しており、ユゴーにインスピレーションを与えたとみられている。

1862年に「フランス歴史的記念物」のリストに登録され、1892年、フジェール市に買い取られて修復作業が進められ、現在は観光地として人気を博している。

参考文献

・朝治 啓三,渡辺 節夫,加藤 玄 編著『中世英仏関係史 1066-1500:ノルマン征服から百年戦争終結まで』(創元社,2012年)
・太田 静六 著『ヨーロッパの古城―城郭の発達とフランスの城 (世界の城郭)』(吉川弘文館,2011年,原著1989年)
・佐藤賢一著『ヴァロワ朝 フランス王朝史2 (講談社現代新書)』(講談社,2014年)
・佐藤賢一著『ブルボン朝 フランス王朝史3 (講談社現代新書)』(講談社,2019年)
・原聖著『興亡の世界史 ケルトの水脈(講談社学術文庫)』(講談社,2016年)
・J・E・カウフマン/H・W・カウフマン共著(中島智章訳)『中世ヨーロッパの城塞』(マール社,2012年)
・レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)
・傳田久仁子 「「境界」の位置 : 『メリュジーヌ物語』におけるリュジニャン城」(『関西外国語大学研究論集』91巻、2010年3月、57-72頁)、CiNii,関西外国語大学機関リポジトリ

ウェブ上の参照サイトは脚注参照。全て2020年2月15日閲覧。

脚注

注1)日本語版wikipediaでは「10世紀ごろ、en:House of Amboise(アンボワーズ家)が最初に城を建設した。」としているが、これは英語版wikipediaの記述を踏まえたものと思われる。しかし、これは間違いで、フジェール城を築いたフジェール領主家の出自については詳しい研究がある。詳しくはペイ・ド・フジェール歴史・考古学協会”Société d’Histoire et d’Archéologie du Pays de Fougères”ブログの記事” LES SEIGNEURS de FOUGERES II: Main II de Fougères” や、フランス語版wikipedia” Baronnie de Fougères — Wikipédia” を参照のこと。フジェールの領主は1040年代に登場する” Main II de Fougères”が史料上初出で、その系譜は彼の祖父とされる” Main I de Fougères”に遡る。諸説あるがいずれもブルターニュ地方を出自としており、十一世紀のアンジュー地方を起源とするアンボワーズ家とは関係がない。本文でも紹介した通り、フジェール城には十四世紀に築かれたアンボワーズの名を持つ副門があるので、そこからの勘違いかもしれない。

注2)1221年、息子のジャン1世が四歳で公位を継承し、ピエール1世は摂政として引き続き実権を握った。

注3)メリュジーヌ” Mélusine”は中世フランスの民間伝承に多く登場する上半身は美女で下半身が蛇の女性の姿を持つ水の妖精。「メリュジーヌ物語」(十四世紀)など多くの伝承は人間の騎士との婚姻を通じてその一族に繁栄をもたらす異類婚姻譚になっている。

注4)傳田久仁子 「「境界」の位置 : 『メリュジーヌ物語』におけるリュジニャン城」(『関西外国語大学研究論集』91巻、2010年3月、57-72頁)、CiNii,関西外国語大学機関リポジトリ

注5)J・E・カウフマン/H・W・カウフマン共著(中島智章訳)『中世ヨーロッパの城塞』(マール社,2012年)152頁、”Château de Fougères — Wikipédia“参照

注6)朝治 啓三,渡辺 節夫,加藤 玄 編著『中世英仏関係史 1066-1500:ノルマン征服から百年戦争終結まで』(創元社,2012年)140-141頁

注7)フランソワ・ド・シュリエンヌはアラゴン出身の傭兵。ニヴェルネ地方に独立勢力を築いた著名なブルゴーニュ派傭兵隊長ペリネ・グレサールの姪を妻として彼に仕え、1429年冬、ジャンヌ・ダルクと戦い敗れている。(詳しくは当サイトの過去記事「ニヴェルネ遠征~ジャンヌ・ダルク初敗北とペリネ・グレサールの下剋上」参照)その後グレサールがフランス王に帰順したことに異を唱えて離反し、イングランド側に付いた。フジェール城を失った後、シャルル7世に降伏するがそりが合わず、ブルゴーニュ公フィリップ3世に仕え、ブルゴーニュ公顧問、シャテルジェラール領主となった(レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)345-348頁)。

注8)「道化戦争」の訳語は佐藤賢一著『ヴァロワ朝 フランス王朝史2 (講談社現代新書)』(講談社,2014年)195頁に従った。

注9)佐藤賢一著『ヴァロワ朝 フランス王朝史2 (講談社現代新書)』(講談社,2014年)196頁

注10)” Siège de Fougères (1488) — Wikipédia

注11)1589年にアンリ4世によって解任されるが、1598年に降伏するまでブルターニュ知事を称してブルターニュ地方を実効支配している。

注12)” LA SECONDE VIE DU CHATEAU DE FOUGERES

注13)” Bataille de Fougères — Wikipédia

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