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オファの防塁” Offa’s Dyke”~イングランド=ウェールズ境界の中世遺構

「オファの防塁” Offa’s Dyke”」はブリテン島のワイ川河口からディー川河口まで、現在のイングランドとウェールズ地方との境界に沿って南北約240キロメートルのうち約132キロメートルに渡って築かれた中世の土塁の遺構である。八世紀後半、強勢を誇ったマーシア王国のオファ王(” Offa of Mercia ”, 在位:757~796年)によって築かれたと言われるが、建設時期や建設目的については諸説あって謎が多い。

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「オファの防塁” Offa’s Dyke”」

「オファの防塁」

「オファの防塁」
© Row17 / Offa’s Dyke on Llanfair Hill CC BY-SA 2.0

「オファの防塁」は、セヴァーン三角江” Severn Estuary”に流れ込むワイ川” River Wye”河口を南端にして、北端のディー川” River Dee”河口まで、南北約240キロメートルのうち約132キロメートルに渡って続く幅約20メートル、高さ約2.5メートルの土塁である。ウェールズ側にあたる西側には堀が設けられており、ウェールズ方面からイングランドを守る構造になっている。

また、オファの防塁の東側にディー川河口からシュロップシャーのメーズベリー” Maesbury”までオファの防塁に沿って「ワットの防塁” Wat’s Dyke”」と呼ばれる長さ約65キロメートルの土塁が築かれており、二重の防塁となっている。

「オファの防塁」と「ワットの防塁」

「オファの防塁」と「ワットの防塁」
(パブリックドメイン画像/wikimedia commonsより)


「オファの防塁」に沿って全長283キロメートルに及ぶ遊歩道コース” Offa’s Dyke Path”が整備され、観光地として人気を博している。

"Offa's Dyke Path,View of Hatterrall Ridge, the Vale of Ewyas and Llanthony

“Offa’s Dyke Path,View of Hatterrall Ridge, the Vale of Ewyas and Llanthony”
© Nessy-Pic / CC BY-SA (wikimedia commons)

マーシア王国とオファ王

七王国(エグバート王即位前後)

七王国(エグバート王即位前後)
ウィキメディアコモンズより

オファ王は八世紀、七王国時代に強勢を誇ったマーシア王国の王である。

五世紀、ローマ軍がブリテン島から撤退すると、北方のピクト人やスコット人の活動が活発化し南下してブリトン人を脅かした。ブリトン人は強兵として知られたゲルマン人の一派サクソン人を傭兵として対抗したが、これを契機に次第にサクソン人、アングル人、ジュート人らがブリテン島に移住するようになりブリトン人との戦争が勃発する。

ブリトン人はイングランドから周縁のウェールズ地方・コーンウォール地方へ追いやられ、現在のイングランド地域では多数のアングロ・サクソン人諸王国が興亡を繰り返して、七王国時代と呼ばれる群雄割拠の時代となった。

この七王国時代にイングランド中央部で大国となったマーシア王国はオファ王の時代に周辺諸国を悉く従属させて、ブリテン島に支配的地位を確立した。また、フランク王カール(カール大帝/ 在位768~814年,皇帝800~814年)とも貿易・外交関係を結ぶなど、当時の西ヨーロッパの強国の一つとして知られている。

オファの防塁についての最初の言及は、オファ王時代から約一世紀後の九世紀後半、ウェセックス王国のアルフレッド大王(”Alfred the Great”,在位871~899年)に仕えたウェールズ人司祭アッサー”Asser”が著した「アルフレッド大王伝(ラテン語” Vita Ælfredi regis Angul Saxonum”,英語” The Life of King Alfred”)」(893年)にある。

『最近のこと、マーシャに、とある勇壮な王がいて、周辺の全ての国王と近隣諸国から恐れられていた。その名はオッファ。また、彼はウェイルズとマーシャの間を海から海へ及ぶ大規模な土防壁を造らせた。』(注1)

この記述からオファ王が当時有力なポウィス王国” Kingdom of Powys”を始めとしたウェールズ地方の諸国の侵攻に備えて築いた大規模な防衛線と考えられるようになったが、近年の研究はこのような見方に疑問を呈している。

オファの防塁の目的に関する近年の研究

ウェールズ中世史の研究者永井一郎氏は吉賀憲夫編著『ウェールズを知るための60章 (エリア・スタディーズ 175)』(明石書店,2019年)66-70頁の「オファの防塁」の項で、トマス・チャールズ=エドワーズ「ウェールズとブリトン人、350~1064年」(2013年)(注2)という著書を参照して近年の「オファの防塁」研究の見方をまとめている。

それによれば、七世紀にはウェールズ諸国の支配者はマーシアに従属的な同盟を結び、九世紀には境界のウェールズ諸国はマーシアに完全に従属していた。八世紀にマーシアからのウェールズへの攻勢が弱まるが、これは様々な史料からウェールズが独立していたのではなく、マーシア王がウェールズを支配下に置いていたことから積極的な攻勢に出ず、反乱防止など消極的な対応に留めていたのだとする。永井氏はオファ王にはウェールズへの脅威に対抗というような軍事面から防塁を築く積極的な理由は無かったとして『王の権力誇示』(注3)を理由に挙げている。

“Offa’s Dyke: Landscape & Hegemony in Eighth-Century Britain”というオファの防塁に関する著作があるカーディフ大学の考古学教授キース・レイ” Keith Ray”氏は” A brief history of Offa’s Dyke – HistoryExtra”で「オファの防塁」の目的として、マーシアの動員力・軍事力を示す抑止力としての役割とヨーロッパの大国としてのマーシアの地位を誇示する意図があったとする。

『“Offa and Coenwulf did not see themselves as ‘kings of the English’, however, as some past Anglo-Saxon historians have suggested. They saw themselves, rather, as ‘emperors of Mercia’.”

(オファとコエンウルフ(注4)は、過去のアングロ・サクソンの歴史家が示唆したように、自分たちを「英国の王」とは見なしていなかった。彼らは自分自身をむしろ「マーシアの皇帝」と見ていた)』 (注5)

その上で「オファの防塁」を、当時カロリング帝国が大陸で周辺諸国との間に築いていた「辺境伯」のような緩衝地帯” march-lands”の文脈で見る必要があるとする(注6)。ウェールズ人とイングランドの人々防塁上に税関が設けられて関税が徴収され、防塁からウェールズの動向が監視され、また防塁に沿ってウェールズとイングランドのハイブリッドな共同体が形成されることで、マーシア王国の支配下でウェールズとイングランドの共同体が共存する機能を持つ(注5)。

考古学的な調査

近年の考古学的な調査結果は「オファの防塁」の建設がオファ王の時代であったとは必ずしも言えないことを示している。

1999年12月に行われた調査で「ワットの防塁」から発見された炉や火の痕跡が、放射性炭素年代測定では、446年頃のものとみられている。ワットの防塁はこれまで七世紀頃、オファの防塁と同時期の建設と見られていたが三世紀余り遡る可能性が出ることになった。八世紀のマーシアではなく五世紀のケルト系民族北コルノヴィ王国” kingdom of the northern Cornovii ”によるものである可能性がある(注7)。

また、2014年に行われた、「クロイド=ポウィス考古学トラスト” Clwyd-Powys Archaeological Trust”」(注8)によるウェールズ地方レクサム州区の町チャーク”Chirk”付近のオファの防塁発掘調査で、再堆積した芝地の放射性炭素年代測定では541年から651年の間に建設され、下層の建設年代はさらに遡って430年と推定されている。「オファの防塁」は歴代マーシア王による数代かけての長期プロジェクトであり、アングロ・サクソン来寇以前、ローマ・ブリトン時代(ポスト・ローマ時代)の五世紀初頭に開始されたものである可能性が示唆された(注9)。

一方でこれらはあくまで長大な遺構の部分的な調査結果であり、「ワットの防塁」の建設時期を五世紀に遡らせることには批判もあり(注10)、またチャークでの調査結果についてもキース・レイ教授は、土塁の底から数メートル離れた別のサンプルは九世紀の可能性を示唆していたとして、「より正確な年代決定を行うためには、かなりの資源の投資が必要だろう」(注5)と慎重である。

現状では諸説あって謎が多く、「オファの防塁」がいつ、だれによって建てられたのかを解き明かすためには、より全般的で大規模な調査が期待される。

イングランドとウェールズの国境として

オファ王がイングランドとウェールズとを分ける境界として防塁を築いたという従来の説明はこれまで見たように適切ではなくなっているが、永井前掲書によれば、『このような政治的境界とは別に、国境域に住むウェールズ人とイングランド人が互いを区別する手掛かりとしていた居住境界があったはずで、オファの防塁はこちらの境界に深く関わっている可能性が高い』(注3)という。

1536年、ヘンリ8世はウェールズを併合するために定められた法律「ウェールズ法(” The Laws in Wales Act”または「ウェールズ合同法」” Acts of Union”)」でイングランドとウェールズの境界を現在の国境に定めた。この国境画定にあたって、永井前掲書はオファの防塁によって自然と形成された『この地域の住民が共有していた境界認識』(注3)が考慮されただろうという。

また、BBC NEWSの記事”English and Welsh are races apart”によれば「オファの防塁」の存在が『ウェールズ側の人々を保護する「遺伝的障壁」として機能』(注11)したという。

参考文献・リンク

・青山吉信編著『イギリス史〈1〉先史~中世 (世界歴史大系)』(山川出版社,1991年)
・吉賀憲夫編著『ウェールズを知るための60章 (エリア・スタディーズ 175)』(明石書店,2019年)
・アッサー著(小田卓爾 訳)『アルフレッド大王伝 (中公文庫)』(中央公論新社,1995年)
・” Offa’s Dyke – Wikipedia”(2020年2月28日閲覧)
・“Wat’s Dyke – Wikipedia”(2020年2月28日閲覧)
・”History of Offa’s Dyke | English Heritage“(2020年2月28日閲覧)
・Keith Ray” A brief history of Offa’s Dyke – HistoryExtra”(2020年2月28日閲覧)
・Keith Nurse “Latest thinking about OFFA’S and WAT’S DYKES“. New Welsh Review 52.(2020年2月28日閲覧)
・Keith J.Matthews “Dating Wat’s Dyke“(2020年2月28日閲覧)
・”English and Welsh are races apart” BBC NEWS(2020年2月28日閲覧)

脚注

注1)アッサー著(小田卓爾 訳)『アルフレッド大王伝 (中公文庫)』(中央公論新社,1995年 71頁

注2) Thomas Charles-Edwards” Wales and the Britons 350–1064.” Oxford History of Wales. Oxford University Press. / Thomas Charles-Edwardsはオックスフォード大学の名誉教授。ウェールズとアイルランドの言語学・歴史学の研究者。

注3) 吉賀憲夫編著『ウェールズを知るための60章 (エリア・スタディーズ 175)』(明石書店,2019年)70頁

注4)マーシア王コエンウルフ(” Coenwulf of Mercia”,在位796-821)は、マーシア王ペンダの子孫で、オファ王死後、後を継いだオファ王の子が早逝したため、マーシア王に即位した。オファ王死後の混乱を抑えてマーシア王国の覇権を守ったが、彼の死後マーシア王国は急速に弱体化し、829年、ウェセックス王エグバートによって滅ぼされる。

注5) Keith Ray” A brief history of Offa’s Dyke – HistoryExtra

注6) ウェールズ史におけるマーチ”March”は『イングランドに接するウェールズ東部に位置し、王以外のイングランド人領主の支配下にある領地の総称である。したがって、マーチと対置される領地はウェールズ人支配者のものないし王の直轄領である。時代はノルマン征服の開始時からウェールズ併合までのあいだにまたがる。』(青山吉信編著『イギリス史〈1〉先史~中世 (世界歴史大系)』(山川出版社,1991年)453頁)/ここでは十二世紀頃から登場する「マーチ領主」へと至るウェールズの半自立的領主層の歴史的文脈を指しているとみられる。

注7) Keith Nurse “Latest thinking about OFFA’S and WAT’S DYKES“. New Welsh Review 52.

注8) “Clwyd-Powys Archaeological Trust: Offa’s Dyke

注9)” Offa’s Dyke – Wikipedia” / 該当の記述の参照文献とされているのは “Offa’s Dyke: built by multiple kings?”. Current Archaeology. XXV, No. 3 (291): 6. June 2014.

注10) “Wat’s Dyke – Wikipedia” / Keith J. Matthews”Dating Wat’s Dyke“.

注11) ”English and Welsh are races apart” BBC NEWS

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