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ギヨーム・ド・ロンシャン~専横政治を敷いて失脚した獅子心王の寵臣

イーリー司教ギヨーム・ド・ロンシャン(” Guillaume de Longchamp”生年不明~1197年1月31日没(注1))はイングランド王リチャード1世の寵臣。宰相にあたる行政長官と国璽を管理する尚書部長官(大法官)、さらに教皇特使を兼ねて権力を集中させリチャード1世が十字軍遠征に出た後のアンジュー帝国の内政を司ったが、専横政治を行ったため王弟ジョンら諸侯の反抗によって失脚した。

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初期のキャリア

ギヨーム・ド・ロンシャンはノルマンディー地方の貧しい下級貴族の家に生まれた。ロンシャン家は父ユーグ・ド・ロンシャンの代にヘンリ2世に仕えて、ノルマンディーとイングランド双方に領地を持ち、ギヨームの姉妹はそれぞれドーヴァー城代マシュー・ド・クレア” Matthew de Clere”、ヘレフォードの名門デヴァルー” Devereux”家(注2)にそれぞれ嫁ぐなど地位を上昇させた。

ギヨーム・ド・ロンシャンはヘンリ2世治世末期の1180年代から公職に就き、最初はヘンリ2世の第三王子ブルターニュ公ジョフロワ2世に仕えた後、ほどなくして第二王子アキテーヌ公リシャール(後のリチャード1世)の下で頭角を現し、アキテーヌ公領とポワトゥー伯領の行政の長である書記官長(” Chancellor”注3)に抜擢された。1183年に第一王子ヘンリ若王が没した後、1189年、ヘンリ2世に対しリシャールが反乱を起こすと、ロンシャンはフィリップ2世の宮廷へ特使として派遣され、ヘンリ2世の特使ウィリアム・マーシャルと論戦を繰り広げたことで、一躍知られるようになった。

行政長官ロンシャンの専横

1189年9月3日、イングランド王に即位したリチャード1世は、閣僚を一新した。前任の行政長官(” Chief Justiciar”宰相)ラヌルフ・ド・グランヴィルを解任して、第三代エセックス伯ウィリアム・ド・マンデヴィル” William de Mandeville, 3rd Earl of Essex”とダラム司教ヒュー・ド・ピュイセット” Hugh de Puiset, Bishop of Durham”の二人を長としてその下にジェフリー・フィッツ・ピーター、ウィリアム・マーシャルら五人の行政官(”Justiciar”)が並ぶ集団指導体制とし、ギヨーム・ド・ロンシャンを国璽の管理や文書行政を統括する尚書部長官(” Lord Chancellor”大法官)に任じた。同時にソールズベリー司教にヒューバート・ウォルターを任じるなど主要司教も総入れ替えを行い、ロンシャンをイーリー司教に就けた。

リチャード1世からの寵愛を背景に、ロンシャンは急速に権限を拡大した。まず行政長官の一人マンデヴィルが就任直後の10月に急逝すると、後任としてロンシャンが行政長官職を兼任した。翌1190年6月、犬猿の仲だったもう一人の行政長官ダラム司教を逮捕し失脚させて、行政長官職を独占する。同時に教皇クレメンス3世に資金援助を行った見返りとして教皇特使の地位を委嘱され、聖俗に及ぶ大権を獲得した。

リチャード1世は1190年7月より十字軍遠征へ出発するが、この遠征費用の調達にあたって、手段を択ばぬ手法が取られている。例えば前任の行政長官ラルヌフ・ド・グランヴィルは突然逮捕監禁され、巨額の身代金の支払いの上で釈放された。また、王領地や地方官職の売却も実施されたが、ここで詐欺的な手法が取られている。すなわち『後日、彼(引用者注リチャ―ド1世)はかつて王領地の売却乃至受封に際して発行した証書に捺印した印章を紛失したと称し、新しい証書を再発行するという口実を設けて、再び莫大な金銭を当該地の領主からとりたてた。』(注4)

これとあわせて、ロンシャンは自身の権力拡大のため、同僚のダラム司教を失脚させただけでなく、他の聖職者たちを圧迫した。1190年10月、ロンシャンはロンドンで教会会議を招集してイングランドの聖職者たちに自身の教皇特使の地位を認めさせた。また、彼は頻繁に多数の供を連れて各地の修道院を訪れ金銭を要求してまわった。

同時代の歴史家、ニューバーグのウィリアム(英語” William of Newburgh”,フランス語” Guillaume de Newburgh”ギヨーム・ド・ヌフブール)はロンシャンの専横についてこう書き記している。

『独特な厚顔ぶりで術策を弄し、世俗の権力と教会の権威を実に器用に行使するので人々は彼には右手が二本あると言っていた。世俗と聖職者の権力を交互に利用していたのだ。』(注5)

また、彼は一切英語を解しなかったことも誤解と軋轢の原因となっていたようだ。

王弟ジョン・ラックランドとの対立

このような中で、決定的な出来事が王弟ジョン・ラックランド(”John Lackland”後のジョン欠地王)との対立である。リチャード1世即位に際して、弟ジョンと義兄のジェフリーはリチャード1世即位後三年間イングランドへの上陸を禁じられた(注6)が、母アリエノール・ダキテーヌの仲裁でジョンのイングランド上陸が認められていた。このときジョンはグロスター女伯イザベルと結婚してグロスター伯領を領し、イングランド南西部から中部にかけての一帯を勢力下としていた。

ロンシャンはジョン最大の支持者であったジェラール・ド・カンヴィル” Gerard de Canville”の居城リンカーン城を接収しようと求め、カンヴィルがこれを拒否したため、ロンシャンがリンカーン城を包囲するという強硬手段に出て、対するジョンもロンシャン派のノッティンガム城を包囲してリンカーン城からの撤退を求めるという騒ぎになった。結局、1191年4月10日、ロンシャンの後ろ盾であった教皇クレメンス3世の急死によって教皇特使の地位を失ったロンシャンが和睦を求め、同7月、両者が休戦条約を締結してひとまず終戦となるが、一連の騒ぎは遠征途上のリチャードの耳にも入ることとなる。

1191年4月、リチャード1世は事態の収拾を図るべく、ルーアン大司教ゴティエ・ド・クータンス(フランス語” Gautier de Coutances”,英語” Walter de Coutances”ウォルター・ド・クータンス)をイングランドへ派遣する。このときルーアン大司教に全権が委任され、最悪、ロンシャンの行政長官職を解任してルーアン大司教が代わることも認めた(注7)。

ロンシャン失脚事件

このような中でさらなる問題が発生する。前王ヘンリ2世の庶子でリチャード1世の義兄にあたるジェフリー・プランタジネット” Geoffrey Plantagenet”は前尚書部長官(在任1181~1189)で、解任後ロンシャンに地位を譲っている。その引き換えにリチャード1世はジェフリーにヨーク大司教位を約束していたがヨーク大司教としての聖別式の延期が約束されるとともに、前述のように彼は三年間イングランドに上陸できないことになっていた。ところが、1191年8月18日、トゥールで聖別式を行った上、9月14日、イングランドへ上陸してきたため、ロンシャンは軍を派遣して彼らを逮捕し妹婿が城主を務めるドーヴァー城に監禁するという措置に出る。

王族の逮捕監禁という事態に対する反発はもちろん、聖職者の逮捕監禁という点でかつてのトマス・ベケット事件が想起されて聖俗問わずロンシャンへの批判が大きくなり、ジョンが反ロンシャン派を糾合してロンシャン批判の急先鋒となった。9月26日、ジェフリーが解放され、10月5日、ジョンは全イングランドの司教と諸侯を招集、10月8日、ロンシャンは出席を拒否したが、ロンドンで国王全権ルーアン大司教および諸侯、司教、ロンドン市民らが参加しての大会議が開催され、ロンシャンの行政長官職罷免と、ルーアン大司教が行政長官代行となることが決議された。

また、このとき、ロンドン市民は自由都市権を獲得するのと引き換えにリチャード1世が死去の際はジョンの王位継承を誓約している。これまで、子供の無いリチャード1世は自身の後継者として亡き弟ブルターニュ公ジョフロワの遺児アルテュールを後継者としており、ロンシャンもアルテュール派であった。しかし、1191年7月28日に結ばれたジョンとロンシャンの間の休戦条約でロンシャンもジョンの王位継承を容認しており、この会議を利用してジョンはさらに王位継承権の獲得に向けて地盤固めを行ったものである(注8)。後にリチャード1世も、アルテュールに変えてジョンの王位継承を認めることになる。

失脚後のロンシャン

ロンドン会議の主催者の一人で反ロンシャン急先鋒のコヴェントリー司教ヒュー・ノナン” Hugh Nonant”によれば、ドーヴァー城に退避していたロンシャンは女装して逃走しようとして地元の漁師に見つかり娼婦と間違って襲われ、命からがら逃げだしたというが(注9)、流石に文面に悪意が満ちており信憑性は薄い。

その後ロンシャンが姿を現すのが1193年である。このとき捕虜となって神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世に引き渡されたリチャード1世の許を訪れてハインリヒ6世と解放交渉を行い、リチャード1世の解放に尽力したことで信頼を回復すると急速に復権を果たす。このとき、リチャード1世の未払い分の身代金の担保として、ロンシャンを失脚させたルーアン大司教を身代わりの捕虜としたことにどの程度関与しているかは不明であるが。

行政長官職は1193年よりヒューバート・ウォルターが就いていたが、リチャード1世とともに帰国したロンシャンは尚書部長官職は留任し、エセックスとハートフォードシャーの州長官も兼ねた。しかし、すぐにヨーク大司教ジェフリーとの遺恨が再燃して、国外脱出を余儀なくされ、以後、フランスで戦場を駆け巡るリチャード1世に随行して外交官として重用され、1197年1月31日、ポワティエで亡くなった。

同時代の人々からは蛇蝎のごとく嫌われて、彼についての同時代史料は悪口や批判が大半となっているが、政治家・外交官としての能力は確かに高く、リチャード1世期のイングランドにおける文書行政の確立にも一定の功績が認められている。その事績を振り返っても「佞臣」「君側の奸」といった雰囲気の人物だが、リチャード1世に対する忠誠心だけは一貫して持ち続けており、リチャード1世が現在まであまり嫌われずにいるのも、憎悪を一身に受け続けた彼の存在があったからと言えるかもしれない。

参考文献

・青山吉信・飯島啓三・永井一郎・城戸毅編著『イギリス史〈1〉先史~中世 (世界歴史大系)』山川出版社,1991年)
・城戸毅 著『マグナ・カルタの世紀―中世イギリスの政治と国制1199ー1307 (歴史学選書) 』(東京大学出版会,1980年)
・エドマンド・キング著(吉武憲司監訳)『中世のイギリス』(慶應義塾大学出版会,2006年,原著1988年)
・レジーヌ・ペルヌー著(福本秀子訳)『リチャード獅子心王』(白水社,2005年,原著1988年)
William de Longchamp – Wikipedia
William Longchamp | chancellor of England | Britannica

他、オンライン上の参照サイトは脚注参照。すべて2020年3月3日閲覧。

脚注

注1) フランス語” Guillaume de Longchamp”、英語” William de Longchamp”ウィリアム・ド・ロングチャンプ/または” Guillaume Longchamp”ギヨーム・ロンシャン、” William Longchamp”ウィリアム・ロングチャンプとも。日本語文献では名前の英語読みと姓のフランス語読みを組み合わせて「ウィリアム・ロンシャン」と表記されることが多い。死亡年月日はWilliam Longchamp | chancellor of England | Britannica“参照。

注2)レジーヌ・ペルヌー著(福本秀子訳)『リチャード獅子心王』(白水社,2005年,原著1988年)208頁には「名門デヴァルー家に入る」とだけあり、William de Longchamp – Wikipediaには「姉妹がStephen Devereuxと結婚したと記録されているが,これが(二番目の妹)メリサンドかどうか不明」とあるが、Stephen Devereux – WikipediaによればStephen Devereuxの妻として” Isabel de Cantilupe”、母としてCecilia de Longchampの名があり、Stephen Devereuxの父Walter Devereuxの項Walter Devereux (born 1173) – Wikipediaにも妻としてCecilia de Longchampの名がある。Walter Devereux (1411 – 1459) – Genealogyでも” Sir Walter Devereux”の妻として” Lady Cecilia Devereux (de Longchamp)”とされる。ロンシャン家からデヴァルー家に女性が入っているのは確かなようだが、これが誰かははっきりわからなかったので、ペルヌーに倣ってこの表記とした。

注3) ロンシャンが就いたポワトゥー伯領およびアキテーヌ公領の宰相職にあたる” Chancellor”を書記官長と訳したのは城戸毅 著『マグナ・カルタの世紀―中世イギリスの政治と国制1199ー1307 (歴史学選書) 』(東京大学出版会,1980年)63頁に準じた。同じくアンジュー帝国/中世イングランド王国の中央政府における” Lord Chancellor”” Chancellor of England”を尚書部長官と訳すのは中世英国国制史の定訳。・青山吉信・飯島啓三・永井一郎・城戸毅編著『イギリス史〈1〉先史~中世 (世界歴史大系)』山川出版社,1991年)、エドマンド・キング著(吉武憲司監訳)『中世のイギリス』(慶應義塾大学出版会,2006年,原著1988年)等参照。十六世紀以降、” Lord Chancellor”が宰相的地位となってからは、「大法官」と訳されるのが定訳になる。

注4) 城戸毅 著『マグナ・カルタの世紀―中世イギリスの政治と国制1199ー1307 (歴史学選書) 』(東京大学出版会,1980年)17頁

注5) レジーヌ・ペルヌー著(福本秀子訳)『リチャード獅子心王』(白水社,2005年,原著1988年)207頁

注6)レジーヌ・ペルヌー著(福本秀子訳)『リチャード獅子心王』(白水社,2005年,原著1988年)はリチャード不在時のイングランド上陸を禁じられたとするが、城戸毅 著『マグナ・カルタの世紀―中世イギリスの政治と国制1199ー1307 (歴史学選書) 』(東京大学出版会,1980年)は即位後三年間とする。やはりGeoffrey (archbishop of York) – Wikipediaも、”Geoffrey” Oxford Dictionary of National Biographyを出典として即位後三年間としているので、本記事でも三年間の説の方を採った。

注7) 城戸毅 著『マグナ・カルタの世紀―中世イギリスの政治と国制1199ー1307 (歴史学選書) 』(東京大学出版会,1980年)64頁

注8)ロンシャンの専横に抵抗して諸侯を率いて君側の奸を排除した王弟ジョンというよりは、リチャード1世不在時に自身の勢力拡大を図る二人の野心家の争いという構図で捉える方が妥当である。城戸毅 著『マグナ・カルタの世紀―中世イギリスの政治と国制1199ー1307 (歴史学選書) 』(東京大学出版会,1980年)、レジーヌ・ペルヌー著(福本秀子訳)『リチャード獅子心王』(白水社,2005年,原著1988年)ともにこの構図で描いており、実際ジョンはロンシャンの放逐とあわせて、自身の王位継承を議題として捻じ込み支持を取り付けることに成功した。いわばジョンの権力闘争における政治力の高さを証明した事件である。なお、後にジョンはラニーミードで諸侯の要求としてマグナ・カルタ承認を求められ、立場を逆転させることになる点で、皮肉めいた歴史の伏線となっている。

注9) レジーヌ・ペルヌー著(福本秀子訳)『リチャード獅子心王』(白水社,2005年,原著1988年)211-212頁

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