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チェプストー城” Chepstow Castle “~ウェールズにある英国最古の石造城址

チェプストー城” Chepstow Castle “は英国ウェールズ地方モンマスシャー” Monmouthshire ”にある中世城塞。1067年、イングランド王ウィリアム1世の重臣ウィリアム・フィッツオズバーンによって築かれ、ウェールズ侵攻の軍事拠点として活用された。プランタジネット朝初期の四人の王に仕えた著名な騎士ウィリアム・マーシャルの居城となる。石造としては英国で現存する最古の城で、第一級イギリス指定建造物に登録されている。

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築城

チェプストー城は1067年頃、征服王ウィリアム1世の重臣初代ヘレフォード伯ウィリアム・フィッツオズバーン” William FitzOsbern, 1st Earl of Hereford ”によって建設が始められた。

チェプストー城は、セヴァーン川のセヴァーン三角江” Severn Estuary ”に流れ込むワイ川に面した石灰岩の断崖上にある。ワイ川はウェールズ地方のモンマスとイングランド内陸部のヘレフォードとをつなぐ流通網の役割を担い、イングランドと独立ウェールズ諸王国とを分かつ境界でもあった。有名なオファの防塁の南の起点にも近い。このような立地から、イングランドとウェールズの境界の要衝として重要な意味を持った。

フィッツオズバーンは当時一般的だった木造ではなく石造でチェプストー城を築き、1090年ごろに築かれた「グレート・タワー” Great Tower ”」が現在まで残され、英国で現存する城塞としては最古の石造城塞となっている。ワイ川を天然の濠として断崖上に築かれた石造の城は、当時としては非常に堅固で、攻略への難易度が非常に高いものとなった。

チェプストー城のグレートタワー

「チェプストー城のグレートタワー」(パブリックドメイン画像)

1071年、ウィリアム・フィッツオズバーンが亡くなり、後を継いだ息子の第二代ヘレフォード伯ロジャー・ド・ブレテイ” Roger de Breteuil, 2nd Earl of Hereford”が1074年にウィリアム1世に反乱を起こして鎮圧されると、城は王家の直轄となる。1119年、ヘンリ1世によってウォルター・ド・クレア” Walter de Clare”に与えられ、以降ウェールズのペンブルックを占領してペンブルック伯となったド・クレア家の支配下となる。第二代ペンブルック伯リチャード・ド・クレア” Richard de Clare, 2nd Earl of Pembroke”はストロングボウの異名で知られた武勇の人で、アイルランドに渡ってレンスター王を助けその娘と結婚してレンスター王へ即位する活躍を見せた。

ウィリアム・マーシャルと十三世紀の改築

騎士の中の騎士ウィリアム・マーシャルの生涯
初代ペンブルック伯ウィリアム・マーシャル(英語” William Marshal, 1st Earl of Pembroke”,フランス語” Guillaume le Maréchal”ギヨーム・ル・マレシャル)は十二世紀半ばから十三世紀初...

初代ペンブルック伯ウィリアム・マーシャル” William Marshal, 1st Earl of Pembroke ”は、下級騎士の四男でヘンリ2世妃アリエノール・ダキテーヌに見出され、ヘンリ2世の第一王子で共治王のヘンリ若王の側近として抜擢されて以降、ヘンリ2世ヘンリ若王、リチャード1世、ジョン王、ヘンリ3世と四代五人の王に仕え、最後は摂政となった人物で、当代一の騎士として知られた。1189年、ウィリアム・マーシャルはリチャード・ド・クレアの娘でペンブルック伯の女性後継者だったイザベル・ド・クレアと結婚してペンブルック伯位を継承し、チェプストー城を居城として大幅な改築を加えた。

現存するチェプストー城の大部分はウィリアム・マーシャルとその子孫によって築かれている。マーシャルはベイリーの東側の外周を城壁で囲み、新たな城門と北西部に円形塔を築いた。この円形塔はマーシャルの名を取って「マーシャルの塔” Marshal’s Tower”」と呼ばれる。

チェプストー城北西部マーシャル塔

「チェプストー城北西部マーシャル塔」
(パブリックドメイン画像 CC0 1.0)

1245年、初代ウィリアム・マーシャルの五男第六代ペンブルック伯アンセルム・マーシャル” Anselm Marshal, 6th Earl of Pembroke “が後継者無く亡くなると、チェプストー城は1270年、ウィリアム・マーシャルの長女モードと夫の第三代ノーフォーク伯ヒュー・バイゴット” Hugh Bigod, 3rd Earl of Norfolk”との間の子第五代ノーフォーク伯ロジャー・バイゴット” Roger Bigod, 5th Earl of Norfolk”が獲得した。

ロジャー・バイゴットによって1287年ごろから1290年代にかけて築かれたのがチェプストー城で最大の円形塔である。この円形塔は1660年から80年まで投獄された政治犯ヘンリ・マーテン” Henry Marten ”にちなんでマーテン塔” Marten’s Tower ”と呼ばれている。マーテン塔の建造とあわせて、1285年に居住地域も整備され、イングランド王エドワード3世の行幸に備えて大広間が造られた。

チェプストー城(左:マーテン塔)

「チェプストー城(左:マーテン塔)」
© Rory Lawton / CC BY-SA (wikimedia commonsより)

十五世紀以降

チェプストー城の縄張図

「チェプストー城の縄張図(1825年)」
(パブリックドメイン画像)

1302年のロジャー・バイゴット死後、ノーフォーク伯位は王家に戻され、チェプストー城も王家の直轄となった。1312年、新たにノーフォーク伯に叙されたトマス・オブ・ブラザートン” Thomas of Brotherton, 1st Earl of Norfolk”の支配下となり、1468年に新たにペンブルック伯に叙された初代ペンブルック伯ウィリアム・ハーバート” William Herbert, 1st Earl of Pembroke”に譲られた。十六世紀に入ると、1506年、初代ウスター伯チャールズ・サマセット” Charles Somerset, 1st Earl of Worcester”の管理下となる。

十三世紀末のウェールズ征服(1283年)以後、ウェールズ各地にカナーヴォン城などの統治拠点となる諸城が築かれたことで、ウェールズ地方への進出拠点であったチェプストー城の重要性は低下した。オワイン・グリンドゥールの反乱(1400~1412)では、強固な守りと比べての攻略の必要性の低さから反乱軍の攻撃対象とはならなかった。1535年と1542年のウェールズ法の成立によってウェールズ地方が併合されてチェプストーがモンマスシャー州に編入されて以降はチェプストー城の邸宅化が進んだ。

十七世紀、清教徒革命下のイングランド内戦ではチェプストー城は王党派のモンマスシャーと議会派のグロスターシャーとの対立の前線となり、1645年と48年に築城後初めて包囲された。城壁に大砲が配備できるよう改築されていたが、1648年5月25日、議会軍の攻勢によって陥落し、王党派の城将ニコラス・ケメイズ” Nicholas Kemeys”が自害した。

イングランド内戦終結後、城は刑務所として利用された。マーテン塔の名前の由来となったヘンリ・マーテン” Henry Marten ”は護国卿オリヴァー・クロムウェルの下でチャールズ1世の処刑に署名した人物の一人で、王政復古後の1660年、チャールズ1世殺害の容疑で逮捕され、1680年に死ぬまでチェプストー城に投獄された。

廃城~現代まで

1682年、初代ボーフォート公ヘンリ・サマセット” Henry Somerset, 1st Duke of Beaufort”の支配下となり、1685年より解体が進められ、資材は町の工場や市街地などの建設に再利用された。廃墟となった遺構は十八世紀頃から1840年頃にかけて観光地として人気を集めるようになり、1914年、事業家のウィリアム・ロイス・ライザット” William Royse Lysaght,”が購入、1953年、英国政府の管轄下となった後、1984年よりウェールズ自治政府の下で歴史的遺産としてCadwが管理して一般公開されている。

参考文献・リンク

・青山吉信・飯島啓三・永井一郎・城戸毅編著『イギリス史〈1〉先史~中世 (世界歴史大系)』山川出版社,1991年)
・ジョセフ・ギース/フランシス・ギース著『中世ヨーロッパの城の生活 (講談社学術文庫)』(講談社,2005年)
・フランシス・ギース著(椎野淳訳)『中世ヨーロッパの騎士 (講談社学術文庫)』(講談社,2017年)
・”Chepstow Castle | Cadw“(公式サイト)
・ Mark Cartwright”Chepstow Castle – Ancient History Encyclopedia
・”Lower Wye Valley 003 Chepstow“(The Glamorgan-Gwent Archaeological Trust)
・”Chepstow Castle – Wikipedia
・”Pembroke, Earls of“. Encyclopædia Britannica. 21 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 78–80. 1911

オンライン記事はすべて2020年3月7日閲覧

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