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ジャンヌ・ダルク火刑時の「焼けなかった心臓」の逸話を史料から考える

ジャンヌ・ダルクの心臓が火刑後も焼けずに残ったというエピソードがまことしやかに語られ、聖女ジャンヌの奇跡として取り上げられることも多いようだ。

ジュール=ウジェーヌ・ルヌヴー作「ジャンヌ・ダルク焚刑」(1886-1890)

ジュール=ウジェーヌ・ルヌヴー作「ジャンヌ・ダルク焚刑」(1886-1890)

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ジャンヌ・ダルク復権裁判での証言

このエピソードの出典はジャンヌ・ダルク復権裁判での関係者の証言である。1431年のジャンヌ・ダルク処刑裁判当時、ルーアン管区司祭長で処刑裁判の召集など運営実務を行う法廷執行吏を務めたジャン・マッシュウ”Jean Massieu”が以下のように証言している。

『私は、ルーアンの国王代官の書記ジャン・フルーリーがこう言うのを聞きました。死刑執行人がジャンに、ジャンヌの躯は焼きつくされて灰になってしまったが、心臓だけは無傷で血がいっぱいだったと語ったというのです。しかし灰と彼女の残したものはすべて一緒に集めて、セーヌ川に捨てるように命令されたので、その通りにしたということです。』(レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)『ジャンヌ・ダルク復権裁判』白水社、2002年、299-300頁)

もう一人、処刑裁判当時陪席判事の一人であったドミニコ会修道士イザンバール・ド・ラ・ピエール” Ysambard de La Pierre”の復権裁判時の証言にも同様の死刑執行人が語ったこととして伝聞の記録がある。

『刑の執行が終わるとすぐに、死刑執行人が私と同僚のマルタン・ラドヴニュ修道士のところに来ましたが、受刑者の驚くべき悔恨の念と恐ろしいまでの悔悟の情に驚かされ、心を打たれてまったく絶望的となり、このような聖女に対して行った行為については、神に許しや寛大さを求めることはできないと恐れていました。そしてこの死刑執行人は油や硫黄や木炭をジャンヌの腸や心臓を焼くために使ったのに、腸も心臓も焼きつくして灰にすることはできなかったため、これこそ明瞭な奇跡だと驚嘆した、と確かに申したことです。』(同復権裁判335頁)

ジャン・マッシュウは処刑裁判で開廷のたびにジャンヌ・ダルクを牢獄から審理の場に案内する役割を担い、ジャンヌの処刑にも立ち会った人物で復権裁判でも多くの証言を行っているが、彼の復権裁判での証言については全般的に『いささか疑わしいところがあり、自分の潔白を証明するため誇張されている傾向があった』(同復権裁判250頁)とされる。

イザンバール・ド・ラ・ピエールは処刑裁判での陪席判事の一人で、復権裁判の彼自身や関係者の証言を総合すると『身の危険を顧みずにジャンヌに付き添って指導したきわめてわずかの人物の一人である』(238頁)。処刑裁判の裁判長ピエール・コーションらが親イングランド的な恣意的な運営をしようとしたことや裁判における不正など、復権裁判におけるジャンヌ・ダルク処刑裁判無効化に少なからず影響を与える証言を多く残している。

ジャンヌ火刑時の超自然的なエピソード

裁判過程に関する有用な証言が多いイザンバール・ド・ラ・ピエール修道士だが、ジャンヌの心臓のエピソードとは別のジャンヌ処刑時の有名なエピソードとして知られる白い鳩が飛び立った話や処刑を目撃したイングランド兵が恐れ後悔したという話も、彼の証言が元となっている。

『イギリス人の一人で、ジャンヌを嫌っていて、ジャンヌの火刑の際には自分の手で火刑台に薪を運んでやると息巻いていた兵士がいました。いざそれを果たし、ジャンヌが最期の瞬間に叫んだイエズス様という叫び声を聞いた途端に、彼は茫然自失して意識を失い、ヴィユ・マルシエ広場の居酒屋に運び込まれて、酒の力で正気を取り戻しました。このイギリス兵はドメニコ派の某修道士と一緒に昼飯をとり終えた後で、これもイギリス人であったこの修道士の話では、自分は重大な罪を犯した、自分がジャンヌに対してとった行動を後悔しており、今では彼女は聖女だったと考えている、と話したというのです。というのは、修道士の言うところでは、このイギリス人の兵士はジャンヌが息絶えるときに、一羽の白い鳩がフランスの方向へ飛び立つのを自分の眼で見たように思った、と告白したとのことです。また死刑執行人にあたった男はこの同じ日の昼飯の後で、ドメニコ派の修道院にやってきて、私とマルタン・ラドヴニュ修道士に向かって、自分は地獄に堕ちることを恐れている、聖女を焼き殺してしまったから、と申しました。』(同復権裁判300頁)

このように、イザンバール・ド・ラ・ピエールによるジャンヌの死に関する証言は妙に超自然的な話が多い。ジャンヌの処刑に居合わせた人物たちの証言は、彼を除くと特にこのような神がかり的なエピソードは誰一人語っておらず、むしろ彼の証言が悪い意味で目立っている。ジャンヌ・ダルクの異端判決を否定しようという復権裁判の趣旨に非常に迎合的な内容といえる。彼の証言で名前が挙がるマルタン・ラドヴニュ”Martin Ladvenu”修道士も復権裁判に証言を寄せているが、ラ・ピエールのような超自然的なエピソードは全く語っていない。

『判決文が読まれた後は、彼女は説教を聞いた台から降り、死刑執行人によって世俗裁判官の判決などなされぬまま、死刑執行人の手で火刑のための薪が積まれている場所に連れていかれました。薪はすでに火刑台に積み上げられており、死刑執行人が下から火をつけました。ジャンヌは火を眼にしたとき、私に台から降りて主の十字架を高く掲げ、彼女に見えるようにしてくれと頼みましたので、そうしてやりました。
死に至るまで常に、彼女は自分が聞いた<声>は神からのものであり、自分が行ったすべては神の命令で行ったもので、自分は<声>に裏切られたとは思っていない。自分が受けたすべての啓示は神からのものだと主張し、確信していました。それ以外のことは知りません。』(同復権裁判295頁)

非常に手堅くその場で起きたであろうことだけを語り、「それ以外のことは知りません」とするところにラドヴニュ修道士の誠実さが感じられる。

イザンバール・ド・ラ・ピエールは反骨の人か?

ジャン・マッシュウもイザンバール・ド・ラ・ピエールもともに、処刑裁判に関わった自身の潔白を訴えるためにかなり話を誇張しているのではないかと思われるのである。

処刑裁判におけるイザンパール・ド・ラ・ピエールはジャンヌに対する拷問の是非については反対票を投じている(1431年5月19日)が、一方で地上の教会への服従を命じることと従わぬ場合は判事に一任する旨を唱えて多数派に従っており(同日)、5月24日の牢獄でのジャンヌに対する女性服着用を命じる一団および、5月28日のジャンヌが男装した際の牢獄監視団にも親イングランド派判事たちに交じって参加し、5月29日の最終の処刑判決でも、親イングランド派の聖職者で復権裁判でも厳しく批判されたトマ・ド・クールセル司祭と連名で『この女の霊の救済のために慈悲をもって訓戒を与えること、現世の命に関してはこれ以上望むべきでない旨告げてやること』(高山一彦編訳『ジャンヌ・ダルク処刑裁判』白水社、1984年、335頁)と他の判事と比べてもかなり厳しいコメントを残している。むしろ、判事たちの中でも積極的にジャンヌ処刑に動いた人物の一人であるかに見えるのである。

しかし、復権裁判の記録を読むとイザンパール・ド・ラ・ピエールがコーションやイングランド側と対立していたことは本人の他、ギヨーム・マンション、ギヨーム・デュヴァルら複数の人物が証言しており、処刑裁判における彼の立場は評価が非常に難しい。

ギヨーム・マンションの証言によればイザンバール・ド・ラ・ピエールとともに、コーションや裁判に対し頻繁に圧力を加えていたウォリック伯と厳しく対立していたとされる聖職者ジャン・ド・ラ・フォンテーヌは途中で裁判から離脱したという。ラ・ピエールらがイングランド側と対立していると復権裁判で証言したギヨーム・デュヴァル自身も処刑裁判時は途中で出廷するのを取りやめたという。以下はギヨーム・デュヴァルの証言である。

『ジャンヌの裁判が行われているとき、私はイザンバール・ド・ラ・ピエールと一緒に、ある審理の場に参加しました。私どもは法廷内のしかるべき席が見つからぬままに、乙女の傍らに席を占めることになりました。そして彼女が尋問され、調べられたとき、イザンバール修道士は彼女に手で触れるとか何かの合図をしながら、言うべきことを教えてやりました。法廷の審理が済んだこの日の夕食後のことですが、私はジャンヌを訪ねて助言するために、イザンバール修道士とジャン・ド・ラ・フォンテーヌ師とともに彼女のところに派遣されました。そのため、私どもは彼女に会って勧告すべく一緒にルーアンの城に参りました。そこにはウォーリック伯が居ましたが、彼はイザンバール修道士に対して、非常な悔しさと怒りをぶつけてこう言いました。「お前は今朝何であのとんでもない女に手で触れて何かの合図をしたのだ?このひどい男め、もしこれ以上お前があの女を助けたり、女の有利になるような助言をしようというなら、本当にもう、俺はお前をセーヌ川に投げ込ませるぞ」と。そのためにイザンバールの二人の仲間は怖がって自分たちの修道院に逃げ込みました。以上のことは私自身が目にし、耳にしたことですが、それ以上は知りません。これ以来私は裁判に出席していないからです。』(同復権裁判269-270頁)

こう考えると、コーションらによる恣意的な裁判運営に抵抗する勢力の代表格として被告であるジャンヌ側に立って活動したが勢力を殺がれ、むしろ積極的な協力者となっていった、あるいはならざるを得なかったということかもしれない。処刑裁判が弁護士不在のままで進行したことは1431年当時から批判の的であったから、ジャンヌの事実上の弁護士たろうとしたのかもしれない。

何にしても、ジャンヌ・ダルク火刑時の焼けなかった心臓のエピソードはその証言および証言者への信の置けなさが史料から伺える。

ジャン・マッシュウは処刑裁判で最もジャンヌと身近に接しながら無力であり続けた人物だった。イザンバール・ド・ラ・ピエールはジャンヌを救おうと試みたが――恐らくジャンヌを裏切り見捨てざるを得ず――死に至らしめることになった。だが、肉体が一部でも残っていればジャンヌは神の救済が得られるだろう。

いわば、この伝説は語り手たちの贖罪の祈りが作った虚構であったのかもしれない。

参考文献・リンク

・高山一彦編訳『ジャンヌ・ダルク処刑裁判』(白水社、1984年)
・レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)『ジャンヌ・ダルク復権裁判』(白水社、2002年)
・レジーヌ・ペルヌー/マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)
・”Saint Joan of Arc’s Trials“(ジャンヌ・ダルク処刑裁判/復権裁判記録の英訳サイト)2020年3月26日閲覧

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