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黒死病(ペスト)流行下(1348~53年)におけるユダヤ人迫害のまとめ

「黒死病(英語”Black Death”)」と呼ばれる1347年から1353年にかけての世界的なペスト流行の渦中、ヨーロッパでは各地で暴力や虐殺を含むユダヤ教徒(ユダヤ人)への激しい迫害が展開した。

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中世ヨーロッパにおけるユダヤ人

二世紀のローマ帝国下での迫害(注1)以来、ユダヤ教徒(ユダヤ人)はパレスティナ地方から世界中に離散した(ディアスポラ)。キリスト教国教化以来迫害は苛烈なものとなり、六世紀に東ローマ帝国(注2)や西ゴート王国(注3)等で大規模な迫害があったが、世界各地に住み着いたユダヤ人たちは宗教的慣習を維持して自治共同体を築き、国際的なネットワークを生かして交易で富を得て存在感を発揮するようになり、特にイスラーム世界で重用され、キリスト教世界でも王権との関係が安定化して寛容な時代を迎える。

ユダヤ人たちはローマ帝国の迫害を逃れてドイツからイベリア半島にかけてのローマ帝国周縁に逃れていったが、彼らはフランク王権の庇護下でオリエント貿易に従事して国際商業における重要な地位を確立した。十一世紀、イングランドを征服したウィリアム1世(在位1066~87)は寛容政策を進めてユダヤ人のイングランド移住が進み、十一世紀末までに、ドイツを中心に北フランス、イングランド、イベリア半島、東ヨーロッパにかけての広い地域にユダヤ人の居住地域が広がった。

ユダヤ人とキリスト教徒は宗教的慣習を異にし、教義においても多くの面で対立する一方、ヨーロッパでは一つの都市に共存することが多く、ユダヤ人居住区とキリスト教徒の居住区は分けられていたものの、商取引を始め両者の関係は深かった。マジョリティであるキリスト教徒にとって、マイノリティであるユダヤ教徒は日常的に接するアウトサイダーであり、理解できない他者であった。この共存関係は爆発はせずとも緊張をもって続かざるを得ない。

キリスト教徒とユダヤ人の関係が一気に衝突へ向かうことになる契機が十字軍遠征である。1096年、十字軍遠征の開始によって異教徒討伐の機運が高まる中で北フランス・ノルマンディー地方の首府ルーアンを皮切りに、マインツやトーリアなどドイツから北フランスで反ユダヤ運動が続発する。1189年にはイングランドでリチャード1世(在位1189~99)の戴冠式に際し多くのユダヤ人が各地で襲撃され、翌1190年、ヨーク市で多数のユダヤ人が虐殺(注4)された。

ユダヤ人たちは王・諸侯ら世俗領主やローマ教会に保護を求め、ユダヤ人迫害の調停が図られるが、基本的にそれはユダヤ人の隔離と権利制限によって進められた。1179年、第三ラテラノ公会議でユダヤ人の高利貸し業への従事が禁止され、1215年のラテラノ公会議では、ユダヤ人の公職追放と黄色の布や帽子・記章など目立つ徴の着用が義務付けられた。

ユダヤ人迫害政策は特にイングランドで厳しく、彼らは「国王の農奴」と呼ばれる王家直属の隷属民とされ、保護と引き換えにした財政的搾取の対象とされた。1290年、エドワード1世(在位1272~1307)は国内統治体制の確立を目的としてユダヤ人の財産没収と追放政策を実施する(注5)。これに続いて、1306年、フランスでもフィリップ4世(在位1285~1314)は、対フランドル戦争の戦費調達のためにユダヤ人の財産没収と追放を断行した(注6)。中世の権力者にとってユダヤ人はマジョリティであるキリスト教徒からの支持を損なわずに体制の維持と搾取に利用できる、スケープゴートとして便利な存在であった。

黒死病の蔓延とユダヤ人迫害の関係

1348年、ジェノヴァやマルセイユからヨーロッパへと上陸して急速に拡大した黒死病の原因を、ユダヤ人による毒物投棄に求める噂がヨーロッパ各地で見られたことが、様々な史料に記録されている。一般的にも、黒死病の蔓延によるパニック状態の中で、ユダヤ人への迫害が起きたとする見方が通説だが、これについて、再考しているのが佐々木博光「黒死病とユダヤ人迫害 : 事件の前後関係をめぐって」(『大阪府立大学紀要(人文・社会科学)』2004年、1-15頁)である。

佐々木によれば、当時の史料から、各都市で黒死病の流行に先立って、ユダヤ人の迫害が起きており、また『同時代人の回想のなかで、ユダヤ入による毒物投棄のうわさとペストの発生が必ずしも結びついていなかった』(注7)という。

『ポグロム勃発時にはまだ黒死病の被害はでていなかったとしても、被害にかんする情報がすでに入っていたことは十分に予想されるし、またそう考えるほうが自然であろう。』(注7)

ユダヤ人へ負債を負った領主や司教らが弾圧の口実にユダヤ人の毒物投棄疑惑を利用しようとした例も少なくなく、また、ユダヤ人迫害→黒死病蔓延という順番の記録が後に黒死病蔓延→ユダヤ人迫害という順番に書き換えられた史料もあり、黒死病の蔓延でパニックになった民衆の暴発、権力者によるスケープゴートなどといったわかりやすい理由を断言することは出来ない。果たして黒死病の蔓延がユダヤ人への反感へと直接結びついたのかどうか、黒死病とユダヤ人迫害との因果関係は充分に研究が進んでいるわけではなく、さらなる研究が必要なテーマとなっている。

『事件の概説的な説明はいったいいつごろ、またいかなる動機から生まれたのか。事件の前後関係にかんする同時代人の回想、すなわちポグロム、ペストという順序は、なにゆえペスト、ポグロムという順序に書き直されたのか。同時代人の記述のなかではペストと無関係に回想されたユダヤ人の毒薬撒布のうわさが、のちにペストの原因と考えられるようになるのはなぜか。事件の説明が合理化されてゆく軌跡をたどり、その理由を考えるのも今後の歴史研究の課題となろう。』(注7)

サヴォワ伯領の「井戸に毒を入れたユダヤ人」裁判

「シヨン城」(パブリックドメイン画像)

「シヨン城」(パブリックドメイン画像)

1348年秋、サヴォワ伯領で暴動が各地で起こりユダヤ人が襲撃されたが、このとき井戸に毒を入れた罪で裁かれたユダヤ人男女10人の供述調書を当局者がヨーロッパ各地に配布したことが、各地で起きたユダヤ人迫害事件に大きな影響を及ぼしたのである。

現在、その風光明媚さで知られるレマン湖畔の名城シヨン城で取り調べが行われた。シヨン城主による報告書簡(注8)によれば、1348年9月15日と10月10日、それぞれ5人ずつ計10人から、水源となる泉や川、井戸にユダヤ教の指導者であるラビの命令で毒物を投げ入れたという自白が得られたという。

当時の取り調べが拷問を伴うものであったことは言うまでもないが、通常、近代的な裁判が自白に証拠能力を認めないのに反して、中世の裁判は自白を重視する。

『いうまでもなく、教会の悔悛の秘蹟では信徒は「自発的に」告白することを求められた。一見したところ逆説的であるが、異端審問における告白は監禁や拷問の使用が許される強制的な性格が露骨であるにもかかわらず、最終的にはその真理性は告白の自発性によって保障されると考えられた。密室で余儀なくされた告白は、そのあとに被告によって「自分の」ものとして認められなければならない。』(注9)

報告書簡の供述調書を読むとこの手順をやはり踏んでいることがわかる。逮捕されたユダヤ人外科医ペラヴィニは尋問後ほどなくして自白し、続いて翌日『拷問によらずにみずからの意思で先の自白が真実であることを主張し、そのことを最初言ったとおりに多数の信頼できる証人の前で繰り返した。』(注10)。同じ内容の自白を二度繰り返すことで、彼は有罪となった。

ユダヤ人迫害事件の波及という観点からみたこの報告書簡の要点は、『ユダヤ人がそろってこの犯罪に関与していることが述べられ、さらに、毒を手にしたユダヤ人はその地域の井戸や泉だけでなく、はるばる世界の至るところに行ってその毒をばらまいてキリスト教社会全体の撲滅を意図している』(注11)とする点にある。この書簡は各地にばらまかれた。

差出人は書簡をこう結んでいる。

『審問委員会の者がユダヤ人を罰するために伯から任命された。そして私はユダヤ人で生きている者は一人もいないと信じています。』(注12)

ユダヤ人迫害の波及

1348年4月13日、プロヴァンス伯領のトゥーロンで数十人のユダヤ人が殺害された事件が、黒死病のヨーロッパ上陸後、初めてのユダヤ人迫害事件である。その後南フランスから、スペインへと広がりを見せた。1348年7月、アラゴン王国(現在のカタルーニャ地方)のタレガ市で300人のユダヤ人が虐殺されている(注13)。

神聖ローマ帝国では前述のサヴォワ伯領での裁判を皮切りに、1349年1月、バーゼルでユダヤ人が川の中州に集められて殺され、続いてチューリヒ、シュトラスブルク、フランクフルト、ブリュッセル、シュトゥットガルト、アイゼナハ、ドレスデン、バーデン、エアフルト、シュパイエルなど各地で虐殺が起きた。1349年8月に起きたマインツでのユダヤ人迫害は、ユダヤ人へ襲撃を行うキリスト教徒と武器をもって抵抗するユダヤ人との間で内戦となり、200人のユダヤ人が虐殺された(注14)。

『こうして一三五一年までに、六〇の大きなユダヤ人のコミュニティ、一五〇の小さなコミュニティが絶滅され、三六〇以上の個々の大量虐殺がおこなわれたのであった。』(注14)

「鞭打ち苦行」運動の隆盛

各地で頻発したユダヤ人迫害を助長した新興のキリスト教運動として「鞭打ち苦行」がある(注15)。

疫病を神の怒りと理解していた中世ヨーロッパでは、疫病が起こると人々は教会に集まって祈りを捧げ、その後街中を祈りながら行列をなして巡礼する「祈願行列」と呼ばれる習慣があった。その起源は六世紀頃だと言われる。これとあわせて、疫病からの快癒を聖人に願う「聖人崇拝」が盛り上がった。特に聖母マリア崇拝が強く、聖母マリアへの祈りの言葉を唱えつつ祈願行列を行うようになる。

「鞭打ち苦行」の起こりは1260年代のイタリアである。当時、聖職叙任権闘争に端を発した教皇派(ゲルフ)と皇帝派(ギベリン)の対立が激しく、この混乱の収束を願って『公衆の面前で賛美歌を歌いながら自分の体に鞭を打ち、神に両者の和解を懇願する苦行団が組織された』(注16)。ペルージャ、ローマからアルプスを越えて中欧へと拡大したが、苦行によって罪の赦しが得られるとする鞭打ち苦行の教えは教会の容認するところではなく、すぐに廃れていた。これが黒死病の流行とともに復活して全ヨーロッパに広がる巨大な運動へと発展したのである。

1348年8月、ヴェネツィアで起こった鞭打ち苦行は、ポーランド、ハンガリーからドイツへと広がり、翌年末までに80万人をこえる規模に拡大した。貴族や聖職者から庶民まで皆手に鞭をもって讃美歌を歌い、聖母マリアへの祈りを捧げながら街中を練り歩き、教会前で自らの身体に鞭を打って、贖罪を願う。しかし、この大規模な新興キリスト教運動は、反ユダヤ教的傾向が強く、各地でユダヤ人の迫害を唱え、ユダヤ人が井戸に毒を投げこんで回っているというデマを吹き込んで回ったのである。

ユダヤ人迫害を抑止する動き

この時期、皆がユダヤ人への迫害に狂奔したわけではなく、これを抑止しようとする動きも当然多く見られている。

当時の教皇庁は南フランスのアヴィニョンにあった。1303年、フランス王フィリップ4世配下が教皇ボニファティウス8世を襲撃した「アナーニ事件」以降、教皇権の失墜激しく、1309年、教皇クレメンス5世は南フランスの都市アヴィニョンへの移住を余儀なくされた。「教皇のバビロン捕囚(またはアヴィニョン捕囚)」と呼ばれる。

1348年時のアヴィニョン教皇はクレメンス6世(在位1342~1352)である。アヴィニョン宮殿の建設を始めとする浪費による財政悪化などその事績には賛否別れるが、教皇としての手腕と見識は確かな人物である。クレメンス6世は、(失墜しているとはいえ)カトリック教会のトップとして、ユダヤ人迫害事件を憂慮して、デマを撒く「鞭打ち苦行」者たちを破門に処し、ユダヤ人迫害を行わないよう命じる教勅を出した。『ユダヤ人が疫病の原因だという説には信憑性がない・・・・・・なぜなら、ユダヤ人自身が[疫病の]犠牲になっているからである』(注17)、という至極当然の指摘である。

各都市の行政担当者レベルでも、ユダヤ人迫害を憂慮する人々は多く見られており、各地でユダヤ人への攻撃を食い止める動きが起きている。特によく知られているのが、1349年1月12日付のケルン市から各都市に冷静な対応を呼びかける書簡である。以下にその全文を紹介する。

『この予想もしない、また経験したことのないキリスト教徒たちの大量死によって、あらゆる種類の噂がユダヤ教とユダヤ人について飛び回っている。われわれの市でも、この疫病はもともと泉や井戸に毒を投げ込んだことで引き起こされ、ユダヤ人がやったに違いないという噂がたくさんの翼をつけて広まっている。こうした噂の真偽を確かめるようにと、あなた方や他の市や町に書簡を送っているところである。しかしながら、われわれはまだどこからも真偽について返信をもらっていない。

もし、大きな都市でユダヤ人虐殺が許されるなら(われわれの市ではユダヤ人が無実であることが証明されれば、虐殺を防ぐことを決定しているのであるが)、残虐行為や騒乱を招いて一般の人々の間に反乱を引き起こす可能性がある。そうした反乱が都市にとっては悲惨と破壊しかもたらさないことは、過去に証明されている。ともかく昨今の大量死は神罰が下ったためであり、それ以外の原因はない。それゆえ、われわれの市では、これまでと同様に、噂を理由にしたユダヤ人に対するいかなる迫害も禁止し、彼らを誠実に安全に保護することを決定した。あなた方も同じようにすべきであるとわれわれは考える。

ユダヤ人の迫害が起きたときに、民衆の反乱がないように対策をとるように求める。真実が明らかになるまで、あなた方の町でユダヤ人を保護し、彼らを安全に守る決定をすべきである。もしあなたの町でユダヤ人に対する蜂起が起きれば、これまでの経験では、すぐに他の町に広まることは確かであり、おもな都市はすべて、この問題に慎重に注意深く対処すべきである。』(注18)

この冷静かつ誠実な書簡の宛先はアルザス地方の有力都市シュトラスブルク(ストラスブール)。黒死病流行下最悪のユダヤ人虐殺事件が起きることになる都市である。

シュトラスブルク(ストラスブール)の虐殺

エミール・シュヴァイツァー作「シュトラスブルクの虐殺」(1894年)

エミール・シュヴァイツァー作「シュトラスブルクの虐殺」(1894年)

現在はフランス領となりストラスブールの名で知られるアルザス地方の有力都市シュトラスブルクでも、1349年初頭からユダヤ人が井戸に毒を入れて回っているという噂が聞こえ始めると、市民たちがユダヤ人への迫害を唱えるようになり、少なからずユダヤ人の脱出が始まっていた。主導した市民たちにはユダヤ人からの借入があったため、借金の帳消しを狙ったものと見られている(注19)。

これに対し、市政府はユダヤ人居住区に護衛の兵を配置して市民の暴発を防ぐ措置をとる。市長ペーター・シュワーバー” Peter Swarber”は富裕層出身だが『頑固で良識ある不屈の男』(注20)であった。ユダヤ人に対する毒物投棄容疑の取り調べを求める市民に対し、市長は『ユダヤ人が井戸に毒を投げこんだというのなら、証拠をもってこい』(注20)と毅然とした態度で臨んだ。

上記のケルン市からの書簡だけでなく、シヨン城主からの毒物投棄裁判の書簡もシュトラスブルク宛のものであり、ユダヤ人迫害を煽る書簡を退けて、勇気をもってユダヤ人保護に乗り出しているというだけでも、称賛に値するだろう。

市民たちはシュワーバー市長率いる市政府のユダヤ人保護政策に強い不満を持った。彼らにしてみれば、市政府の方針はユダヤ人の保護が手厚すぎるように見える。ユダヤ人と市政府の癒着を批判する声も強まっていた。単なる弱者保護政策に利権と腐敗を見て不公平感を抱いていたのである(注21)。市民たちはユダヤ人への裁判とシュワーバー市長解任を求めた運動を展開するようになっていった。

市政府と市民の対立だけであれば、悲劇は起きなかったかもしれない。しかし、第三勢力の存在が事態を複雑にした。シュトラスブルク市の名門として知られる貴族ミュルンハイム家とツォルン家は古くから市の支配権を巡って対立を繰り返していたが、この頃はともに市政の主流から外れていた。犬猿の仲で知られた両家がこの混乱を復権の好機と捉えて、市民に接近を図ったのである。

1349年2月9日、市民代表はユダヤ人を逮捕して裁判にかけるよう市長に要求し、シュワーバーはこれを拒否して市民を宥める演説を行った。この演説に対して反市長派が「長い間ユダヤ人に売られていることを知らなかったのか?」と挑発したことで、市長は反対派の一掃に乗り出した。2月10日、市長による逮捕の網を逃れた反市長派の一人が市民を扇動しクーデターを敢行して、体制の転覆に成功する。2月13日、クーデター派は新たな議会を開催して、前市長ペーター・シュワーバーの全財産没収と市からの永久追放を決定し、即日実施された(注19)。

最早、シュトラスブルク市のユダヤ人たちを守るものは何もなくなった。そして、新政権の初仕事は自らを支持する「民意」に応えることだった。虐殺は、1349年2月14日、奇しくも聖バレンタインデーに始まった。同時代史料であるフリッチェ・クローゼナー「シュトラスブルク年代記」はその様子を生々しく描いている。

『かくして、つぎのサバトの日に有力参事会員らよってブルスカ上の掘っ立て小屋に、あたかも誘拐でもされるかのように連行されたユダヤ人たちは、彼らの墓地となる、焚殺用に準備された小屋に連れ去られ、その道すがら民衆に衣服をすっかり剥ぎ取られた。そして、そのなかには多額の金品が発見された。ところで、洗礼をうけることを選んだ少数のものたちは助かり、それより多くの容姿の端麗な女たちは心ならずも助けられ、助命された多くの少年が強制的に洗礼を施された。その他の多くのものたちが焚殺され、火から飛び出した多くのものたちも殺害された。』(注22)

この日、シュトラスブルク市に住む1884人のユダヤ人のうち約900人が殺害されたという(注14)。

シュトラスブルクへ黒死病が到来して、壊滅的な数の死者を出すことになるのはこの四カ月後、1349年6月中旬のことであった。クローゼナーはこう記している。

『被害の甚大さはだれもそれを免れるものがないとおもえるほどで、かつて聞いたこともないほどのおびただしい死者がでた。』(注23)

定着するユダヤ人差別

後に黒死病と名付けられることになるヨーロッパにおけるペストの流行は以後も幾度となく起こり、そのたびにユダヤ人や、ハンセン病者、ジプシー、女性たちなど多くのマイノリティへの迫害が飽くことなく繰り返され、ヨーロッパにおけるユダヤ人差別が定着していった。

ユダヤ人迫害が激化する一方だったイングランド、フランス、ドイツ、スペインなどから多くのユダヤ人が脱出し、彼らはユダヤ教徒に寛容だったハンガリー、ポーランド、ロシアなど東欧へと逃れ、やがて近代を迎えることになる。

黒死病流行期に爆発したユダヤ人への苛烈な迫害と暴力の連鎖は、ユダヤ人差別の歴史における非常に大きな転換点となった。

参考文献

書籍

・青山吉信・飯島啓三・永井一郎・城戸毅編著『イギリス史〈1〉先史~中世 (世界歴史大系)』山川出版社,1991年)
・小田内 隆「異端者たちの中世ヨーロッパ (NHKブックス)」(日本放送出版協会,2010年)
・神崎忠昭著『ヨーロッパの中世』(慶應義塾大学出版会、2015年)
・城戸毅 著『マグナ・カルタの世紀―中世イギリスの政治と国制1199ー1307 (歴史学選書) 』(東京大学出版会,1980年)
・柴田三千雄他編『フランス史〈1〉先史~15世紀 (世界歴史大系)』山川出版社, 1995年)
・関哲行『旅する人びと (ヨーロッパの中世 4) 』(岩波書店,2009年)
・アニェス・ジェラール、ジャック・ル・ゴフ著(池田健二訳)『ヨーロッパ中世社会史事典』(藤原書店,1991年,原著1986年)
・ジョン・ケリー著(野中邦子訳)『黒死病―ペストの中世史 (INSIDE HISTORIES)』(2008年、原著2005年)
・ヘンリー・R・ロイン編(魚住昌良監訳)『西洋中世史事典』(東洋書林,1999年,原著1989年)
・レジーヌ・ペルヌー著(福本秀子訳)『リチャード獅子心王』(白水社,2005年,原著1988年)

論文

・石坂尚武「イタリアの黒死病関係史料集(3)」(同志社大学人文学会『人文学 (179)』2006年、 139-236頁)
・佐々木博光「黒死病とユダヤ人迫害 : 事件の前後関係をめぐって」(『大阪府立大学紀要(人文・社会科学)』2004年、1-15頁)
・白岩千枝「史料から探る黒死病–イギリスを中心に」(『年報新人文学(07)』2010年、322-379頁)

ウェブページ

・“ Le massacre des Juifs de Strasbourg”(2020年4月11日最終閲覧)
・” The Massacre of the Jews at Clifford’s Tower | English Heritage ”(2020年4月11日最終閲覧)
・”Strasbourg massacre – Wikipedia“(2020年4月11日最終閲覧)
・”Jewish persecutions during the Black Death – Wikipedia“(2020年4月11日最終閲覧)

脚注

注1)ハドリアヌス帝(在位117~138年)の迫害。132年、ユダヤ戦争(バル・コクバの乱)の鎮圧の結果、ユダヤ人はパレスティナから追放されディアスポラが始まった。

注2)ヘラクレイオス帝(在位610~641)の迫害。ユダヤ教の公の場での礼拝を禁止した。

注3)西ゴート王シセブト(在位612~621)の迫害。約9万人のユダヤ教徒の強制改宗。

注4)1190年3月16日のヨーク市のユダヤ人虐殺については” The Massacre of the Jews at Clifford’s Tower | English Heritage ”が詳しい。  また、1189年のリチャード1世の戴冠式における、民衆によるユダヤ人への攻撃事件はレジーヌ・ペルヌー著(福本秀子訳)『リチャード獅子心王』(白水社,2005年,原著1988年)92頁。

注5) 城戸毅 著『マグナ・カルタの世紀―中世イギリスの政治と国制1199ー1307 (歴史学選書)』(東京大学出版会,1980年)111頁参照。イングランドでは死亡したユダヤ人の債権を国王が継承するという特殊な制度があった(青山吉信・飯島啓三・永井一郎・城戸毅編著『イギリス史〈1〉先史~中世 (世界歴史大系)』山川出版社,1991年)297頁)。

注6)戦費調達を目的とした史上初の全国三部会の開催(1302)、聖職者課税を巡る教皇との対立(「アナーニ事件」(1303)と「教皇のバビロン捕囚(アヴィニョン捕囚)」(1309~1377))、ユダヤ人迫害(1306)、テンプル騎士団の解体(1307逮捕、1312解散)、という十四世紀初頭のフィリップ4世治世下の一連の流れは1302年のクールトレ(金拍車)の戦いでの大敗など対フランドル戦争の苦戦を背景とする。このユダヤ人迫害も至極政治的・財政的なものであった。

注7) 佐々木12頁

注8)石坂214~236頁

注9) 小田内302~303頁

注10) 石坂222頁、供述調書

注11) 石坂218頁

注12) 石坂235頁

注13)ケリー330~332頁。

注14) 石坂216頁

注15)以下、祈願行列、鞭打ち苦行については白岩千枝「史料から探る黒死病:イギリスを中心に」342~346頁を参照してまとめ。

注16) 白岩344頁

注17)ケリー333頁

注18)白岩379頁「ケルン市当局の役人が、一三四九年一月十二日付でストラスブルグの市長や役人に宛てた書簡。」(白岩千枝訳)

注19) “Le massacre des Juifs de Strasbourg

注20)ケリー338頁

注21)佐々木5~6頁によれば、史料となるクローゼナー「シュトラスブルク年代記」には『市はユダヤ人によって潤っており、このため彼らを保護し、書面でもってそのことを保証もし、市もまた平和を享受した。』として、ユダヤ人の高慢さが、ユダヤ人が毒物を入れたという疑惑に結びついたとする。佐々木は『作者がユダヤ人迫害の遠因をユダヤ人たちの「高慢」にみている点が注目される。さらに、それを助長したのが市参事会の手厚い保護だと理解されているのも興味ぶかい』(佐々木6頁)としている。

注22) 佐々木3頁

注23) 佐々木5頁

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