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『黒死病” Black Death”』という語の由来についてまとめ

1347年から1353年にかけて、世界中に拡大し、特にヨーロッパで多大な犠牲者を出したペストは一般的に「黒死病” Black Death”」の名で呼ばれるが、この名は同時代には使われた形跡はなく、近世以降に登場して、十九世紀に一般的に使われるようになった言葉であった。その「黒死病」という語がいつから使われて浸透していったのかについて簡単にまとめ。

ミヒャエル・ヴォルゲムート作「死の舞踏」(1493年)

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十四世紀のペストが「黒死病」と呼ばれるまで

「黒死病” Black Death”」は近代になって使われるようになった言葉で、十四世紀当時ペストを特定する言葉は無く、同時代人はそれぞれの言葉でシンプルに「大いなる死」と呼んでいた。ジョン・ケリーによれば、当時使用された言葉として”la moria grandissima, la mortalega grande, très grande mortalité, grosze Pestilentz, peligro grande, huge mortalyte”などがある(注1)。また、十九世紀末英国の歴史家フランシス・エイダン・ギャスケイFrancis Aidan Gasquetの著書” The Great Pestilence (A.D. 1348-9) ”(1893)には、当時人々はそれを「疫病」「大量死」「死」「フィレンツェの病」などと呼んだとある(注2)。

十四世紀当時、直訳すれば“Black Death”の意味にもとれるラテン語”mors nigra”が使われた例がある(注3)。また、1631年、オランダの歴史家ヨハネス・イサクス・ポンタヌスは、一世紀のローマ大火の際に広がった疫病をセネカが黒死病の意味にもとれる”atra mors”という言葉を使ったことから、十四世紀のペスト流行時にも黒死病という表現が使われたと考えた(注1)。しかし、nigra, atraともに、『「暗色の」「黒色の」のほかに、「嫌悪すべき」「恐ろしい」の意味があり、この意味で使用されていた』(注4)。

“Black Death”に相当する語の初出は、1555年頃スウェーデンの年代記にある「黒死病” Svarta döden”」で、約50年後、デンマークの年代記でも「黒死病” Den sorte død”」が用いられた(注1)。1773年、ドイツでシュロッツァーにより「黒死病”der schwarze tod”」というドイツ語に訳され、1794年、スプレンガーによって一般的な用語として用いられるようになった。その後、ドイツ語”der schwarze tod”から、オランダ語の”de zwaarte dood”、フランス語の”la peste noire”、 英語の”the black death”がそれぞれ派生したとみられている(注5)。

英語で”Black Death”が文字通りの「黒死病」――十四世紀半ばに大流行して多数の死者を出した疫病(ペスト)――の意味で使われたのは、1823年、エリザベス・ペンローズ著『イングランド史』で、『「エドワード(三世)のフランスでの成功はthe black deathと呼ばれるほど恐ろしい疫病(pestilence)によって六年間中断されることになった」』(注5)と書かれているのが初出と考えられている。その後十九世紀に医学書、歴史書など専門書でも使用されるようになり浸透した。

以上のように、十四世紀以降蔓延したペストを指す「黒死病」の語は十九世紀以降に成立した近代語であった。

黒死病の「黑」の由来は何か?

何故、名前に「黒色”Black”」が使われたのか、由来はよくわかっていない。理由として説明されることが多いのは、ジョヴァンニ・ボッカッチョ著『デカメロン』(1353年)で『黒や鉛色の斑点を生じ、腕や腿や身体の他の部分にも、それらがさまざまに現われ』(注6)と描かれるような、症状の特徴に由来するとするものだが、皮膚の黒色への変色は他の伝染病でも多く見られ、ペストに特別なものではない。

白岩2010では見市雅俊論文「黒死病はペストだったのか―ヨーロッパ・ペスト史研究序説」より『病原菌によって侵された身体は大なり小なり黒ずむものであり、とくに、天然痘の方がむしろ「黒死病」と呼ぶのにふさわしい状態になるというのが実際のようである』(注7)という記述を引用し、『OEDでも、‘Black’の由来は不明』(注8)とされている点を指摘した上で、現状「黒死病」と名付けられた理由は明らかではないとしている。

ケリーも『中世のペストが「黒死病」と呼ばれるようになったのは、歴史に関する後世の誤解がもとだった』(注1)とし、宮崎も『黒死病(中略)にまつわる不可解な問題のひとつはその名称の混乱にある』(注4)と指摘しており、「黒死病」と呼ばれるに至る過程は病症を由来とするのではなく、よくわからないとみるのが主流の説であると思われる。

日本語の「黒死病」

日本語での「黒死病」という訳語について、明治二十七年(1894年)、順天堂医院(のちの順天堂大学)の医員菅野徹三が以下のように、当時中国を中心に流行していた「黒死病」に関し、近世の文献は原書も翻訳書も「黒死病」の語が見当たらないが、医学書にあるペストと同一のものであろう、とする旨書いている。

『聞ク近頃支那香港ニ於テ黑死病ヲ發シ其ノ勢頗ル猖獗ニシテ漸々蔓延ノ徴シアリト余輩ハ黑死病ナル名ニヨリテ其ノ最モ恐ルベキ流行病タルルヲ案出スト雖モ近世同病ノ流行殆ント絶ヘタルニヨリテ其ノ如何ナル疾患ナルヤニ至リテハ之ニ即答スルニ困スルモノナキニ非ズ近世ノ著書ニ至リテハ其原著タルト翻譯タルトヲ問ハズ黑死病ナル名ヲ記スモノ絶ヘテ之レナシ(以下略)』(注9)

同年の順天堂副院長佐藤左「黒死病ニ就テ (演説筆記)」(順天堂医事研究会雑誌第百七十九号)には、『獨乙ニ於テ「シュワルツェル、トード」(黒死ノ義)トイヘル名ノ存スル既ニ久シ然レトモ何レノ時代ヨリ此名アリシモノナルヤ今得テ之ヲ探究スルニ由ナシ(以下略)』(注10)と、ドイツ語からの翻訳である旨記されている。

同1894年6月の中外医事新報三四一号700~701頁の「黑死病流行」、同三四三号823~831頁の「黑死病彙報」など当時の医学誌で多く用例が見える( 注11)。また、同年、調査のために中国に派遣された北里柴三郎はペスト菌の発見に成功し、6月19日、内務大臣に宛てて『今回黒死病の病原発見せり』と電報を送っている(注12)。

以上、日本語訳の初出については不明だが、近代以降、特に1894年の中国でのペスト流行に際して、ドイツ語からの翻訳として定着したものと考えられる。

参考文献

・酒井シヅ『病が語る日本史 (講談社学術文庫)』(講談社,2008年)
・宮崎揚弘著『ペストの歴史』(山川出版社,2015年)
・ジョン・ケリー著(野中邦子訳)『黒死病―ペストの中世史 (INSIDE HISTORIES)』(2008年、原著2005年)
・白岩千枝著「史料から探る黒死病–イギリスを中心に」(『年報新人文学(07)』2010年、322-379頁)
・中瀬安清著『北里柴三郎によるペスト菌発見とその周辺 ペスト菌発見百年に因んで』(『日本細菌学雑誌(50巻)』1995年、637-650頁)
・菅野徹三『黒死病ニ就テ』(順天堂医事研究会雑誌第百七十八号、明治二十七年(1894年))
・佐藤佐『黒死病ニ就テ (演説筆記)』(順天堂医事研究会雑誌第百七十九号、明治二十七年(1894年))
・Gasquet.F.A “The Great Pestilence(A.D. 1348–9),NOW COMMONLY KNOWN AS The Black Death.“SIMPKIN MARSHALL, HAMILTON, KENT & CO., Limited.1893.
中外医事新報 – 国立国会図書館デジタルコレクション
Black Death – Wikipedia

脚注

注1)ジョン・ケリー45頁

注2) Gasquet.F.A “The Great Pestilence(A.D. 1348–9),NOW COMMONLY KNOWN AS The Black Death.“SIMPKIN MARSHALL, HAMILTON, KENT & CO., Limited.1893.  第一章に” at the time people spoke of it as “the pestilence,” “the great mortality,” “the death,” “the plague of Florence,” etc.,”とある。同書は宮崎揚弘著『ペストの歴史』(山川出版社,2015年)25頁にエリザベス・ペンローズ著以降に出た学術書のひとつとして挙げられており、”Black Death”という語の浸透を示す一冊と見られている。

注3)英語版wikipedia Black Death – Wikipedia に1350年、ベルギーの天文学者Simon de Covinoが「サートゥルナーリア祭での太陽の判断(” De judicio Solis in convivio Saturni”、英語”On the Judgement of the Sun at a Feast of Saturn”)」という詩の中で使ったとして、galicaの同写本の該当箇所にリンクがある。

注4) 宮崎24頁

注5) 白岩327頁

注6) 白岩328頁より、河島英昭訳『デカメロン(上)』講談社、一九九九年、十九頁の引用の孫引き

注7) 白岩328頁より、見市雅俊「黒死病はペストだったのか―ヨーロッパ・ペスト史研究序説」『中央大学文学部紀要』第三四号(一九八九年)、四一頁の引用の孫引き

注8) 白岩328頁

注9) 菅野徹三『黒死病ニ就テ』(順天堂医事研究会雑誌第百七十八号、明治二十七年(1894年)) 四六四頁

注10) 佐藤佐『黒死病ニ就テ (演説筆記)』(順天堂医事研究会雑誌第百七十九号、明治二十七年(1894年)) 五一四頁

注11) 中外医事新報 – 国立国会図書館デジタルコレクション

注12) 酒井シヅ『病が語る日本史 (講談社学術文庫)』(講談社,2008年)272頁。なお、同書では電報を送ったのは6月20日とあるが、中瀬安清著『北里柴三郎によるペスト菌発見とその周辺 ペスト菌発見百年に因んで』(『日本細菌学雑誌(50巻)』1995年、637-650頁)には6月19日とあり、後者の方が前後関係を丁寧に描いていることから、ここでは6月19日とした。また、北里が電報を送った件は前出の中外医事新報三四三号823~831頁の「黑死病彙報」にも『黑死病原發見の事を北里博士より内務省へ電報せられたる』(八二三頁)とある。

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