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騎士の中の騎士ウィリアム・マーシャルの生涯

初代ペンブルック伯ウィリアム・マーシャル(英語” William Marshal, 1st Earl of Pembroke”,フランス語” Guillaume le Maréchal”ギヨーム・ル・マレシャル)は十二世紀半ばから十三世紀初頭まで活躍した騎士。下級領主の四男からトーナメントで実力を示し、イングランド王ヘンリ2世の妃アリエノール・ダキテーヌに見出されて、ヘンリ2世とその第一王子で共治王のヘンリ若王、リチャード1世、ジョン王、ヘンリ3世の五人の王に仕えてペンブルック伯に叙され、最晩年は摂政として国政を主導した。

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幼少期――乱世のマーシャル家――

誕生

ウィリアムはイングランド南西部ウィルトシャーの小領主ジョン・マーシャルの四男として1144年または1146年頃に生まれた。祖父ギルバート、父ジョンともにイングランド王ヘンリ1世に仕え、厩舎長” Marshal of the Horses”を務めていた。マーシャル姓はこの役職に由来する。父ジョン・マーシャルは最初の妻との間にギルバート、ウォルターの二人の男子があり、1141年頃に離婚して、ソールズベリー伯パトリックの姉妹シビル・オブ・ソールズベリーと再婚、三男ジョンに続いて二人の間に生まれた二番目の子がウィリアムである。

イングランド王ヘンリ1世は王太子ウィリアムの死後、娘のマティルダを後継者に指名していたが、ヘンリ1世死後、反マティルダ派の支持を集めた王族モルタン=ブーローニュ伯エティエンヌがイングランドに上陸してイングランド王に即位した(スティーヴン王)。マティルダは夫のアンジュー伯ジョフロワ5世と協力してスティーヴン王派との内戦に突入する(無政府時代)。ノルマンディー地方とイングランドの諸侯は両派の間で二分された。

乱世を生き抜く父ジョン・マーシャル

アンジュー帝国

アンジュー帝国

この内戦の渦中で、ジョン・マーシャルはまずスティーヴン王の配下についてニューベリー城、マールバラ城、ラジャーシャル城など多くの城を獲得して自領を拡大、マティルダ派が優位になると、手のひらを返してマティルダ派に寝返った。1141年、前妻と離別してウィリアムの母となるマティルダ派の有力者ソールズベリー伯パトリックの姉妹シビルと再婚したのもこの戦況が背景となっている。同時代の記録ではジョン・マーシャルは「悪魔の手先、すべての悪の元凶」などと呼ばれている(注1)。

1152年、ジョン・マーシャルが籠るニューベリー城をスティーヴン王が包囲し、両者が話し合いのために一時休戦を結んだ。ジョンはこの間、主君であるマティルダに援軍を要請しつつ、スティーヴン王に対しては休戦延長を求め、人質として最年少(6~8歳)のウィリアムをスティーヴンの許に送った。休戦中にも関わらず防備を固めるジョンに対し、スティーヴンはウィリアムを人質に降伏を勧告するが、ジョンは「息子ならもっと立派なのをいくらでも作れる、ハンマーも金床も持っている」(注2)と言って、ウィリアムを見捨てた。処刑されるかに見えたが、ウィリアム・マーシャルの気丈な振る舞いに感銘を受けたスティーヴン王は助命し、人質として留められた。

1153年、マティルダの子アンジュー伯アンリとスティーヴン王との間で和議が結ばれることで内戦は終結。翌1154年、スティーヴン王が亡くなるとアンジュー伯アンリがイングランド王ヘンリ2世として即位した。ヘンリ2世はフランス王ルイ7世と離婚したばかりのポワトゥー女伯・アキテーヌ女公アリエノール・ダキテーヌと結婚していたから、ブリテン島から北部・西部フランスを版図とするアンジュー帝国が誕生する。

青年期

内戦終結とともに実家に戻ったウィリアムだったが、父の機略でマーシャル家の領地が大幅に増大したとはいえまだまだ小領主家であり、その四男のウィリアムには受け継ぐ土地も財産も無く、自力で道を切り開く必要があった。

1156年、ウィリアムは母シビルのいとこで代々ノルマンディー公の侍従を務めたノルマンディー地方タンカーヴィルの領主ギヨーム2世・ド・タンカーヴィル” Guillaume II de Tancarville”に預けられ、彼の下でラテン語から武術まで騎士としての教育と訓練を受けた。彼の初陣は1166年、フランドル伯軍がノルマンディー地方へ侵攻してきた際のことである。このとき、十分な戦利品を獲たわけではないが、満足いく活躍を見せたようだ。また、1164年または1167年、タンカーヴィルによって騎士に叙されている(注3)。

トーナメント

アンジュー公ルネ「トーナメントの形態と装置"Copie d’après le Livre des Tournois"」(1465-70)より集団戦の様子

アンジュー公ルネ「トーナメントの形態と装置”Copie d’après le Livre des Tournois”」(1465-70)より集団戦の様子

1167年、ウィリアムは主君タンカーヴィルとともにフランスのル・マンを訪れ、初めてトーナメントに参加した。トーナメントとは、十一世紀ごろからヨーロッパ各地で開催されるようになった、騎士が一定のルールの下で対戦する武芸競技である。一般的なルールだと、一騎打ちはなく、二人の騎士がチームを組んで疑似戦闘を行い相手を捕虜とすれば勝利となり、敗者に対して課せられる身代金や馬、武器、甲冑などの金品が報酬となる。マーシャルはトーナメントで目覚ましい活躍を見せた。

最初はタンカーヴィルとともに参加して勝利を重ね、後にフランス人騎士ロジェ・ド・ゴージ” Roger de Gaugi”という相棒を見出して、十カ月で103人の騎士を捕虜にしたこともある。よく知られたエピソードとして以下のようなものがある。

『ウィリアムの伝記によると、あるトーナメントの晩餐の席で、相手方の騎士のひとりが通りで転び、足を骨折した。それを目にしたウィリアムは「表へ飛び出すと、うめいている騎士のもとへ駆け寄り、鎧も何もかも両腕に抱きかかえると宿屋にかつぎ込んだ」。騎士を助けるためではなく、仲間に人質として差し出すためであった。ウィリアムはこう言葉をかけた。「さあ、これで支払いを済ますがよい」。伝記はウィリアムのこの行為を、いつもながら気前がよく、騎士にふさわしいと称賛し、「素晴らしい贈り物と馬と、そしてドゥニエ硬貨を差し出した」と評している。』(注4)

以後、ヘンリ若王に仕えるようになっても、若王やその供の者たちとともにたびたびトーナメントに参加して、勇名を轟かせた。生涯、500人の騎士を捕虜にしたという。このトーナメントの戦利品によって彼は富裕な財産を築くことになった。

イングランド王家への仕官

アリエノール・ダキテーヌ

アリエノール・ダキテーヌ

1160年代、アンジュー帝国はブルターニュ地方やウェールズ地方などへ遠征して支配地域を広げるとともに、フランス王ルイ7世とも争い、これを撃退していた。フランス王に使嗾されてアンジュー帝国領内の各地で反乱も起こり、特にポワトゥー地方では現地の有力家門リュジニャン家が特に独立の気風が強く、アンジュー帝国の支配に抵抗の意思を見せていた。そこで、ポワトゥー女伯である王妃アリエノール・ダキテーヌは自らポワトゥーへ乗り込んで支配体制の強化に努めていた。

1168年、ウィリアム・マーシャルは叔父のソールズベリー伯パトリックに従い、イングランド王ヘンリ2世の妃アリエノール・ダキテーヌがポワトゥー伯領を訪れる際の護衛部隊の一人となった。

1168年3月27日、アリエノール一行が移動中、ギー・ド・リュジニャン” Guy de Lusignan”の部隊に襲撃された。ウィリアム・マーシャルは『彼はだれしもが認めた勇猛さで戦いに臨み、生け垣を背に襲いかかる敵勢に面と向かいながら戦い続けた』(注5)という。しかし、奮戦空しく不意打ちを受けて負傷し捕虜となり、護衛隊長であったソールズベリー伯パトリックも戦死するという損害を受けつつ、アリエノール妃は無事襲撃から逃れることが出来た。マーシャルの活躍を耳にしたアリエノール妃は、彼の身代金を支払って自由の身にした上で、二人の王子、ヘンリとリチャードの武芸の師に抜擢した。

ウィリアム・マーシャルがアリエノール妃の目を引いたのは単に武勇に秀でていただけでなく、歌やダンスなど騎士としての高い教養を持っていたことが理由である旨、彼の伝記で挙げられている(注6)。

ヘンリ若王の側近として

ヘンリ若王~獅子心王と欠地王の人望ある長兄の惜しまれる早逝
ヘンリ若王(または「若ヘンリ」とも"Henry the Young King”,1155年2月28日生-1183年6月11日没)はイングランド王ヘンリ2世(在位1154年12月19日-1189年7月6日)と王妃アリエノール・ダキテーヌ(エレ...

1169年1月6日、ヘンリ2世との一連の戦いに敗北したフランス王ルイ7世はモンミライユ城で和平条約を結んだ。ヘンリ2世の嫡男ヘンリとフランス王女マルグリットとの婚約やフランス王家の主要官職の獲得などアンジュー帝国はフランス王に対し多数の譲歩を勝ち取った。翌1170年、ヘンリ2世は嫡男ヘンリ王子を共同のイングランド王に即位させるとともに、アンジュー伯、メーヌ伯、ノルマンディー公とし、王妃アリエノールに代わって次男リチャードをアキテーヌ公にしてポワトゥー伯とし、すでにブルターニュ公位を継承していた三男ジェフリーとあわせて、帝国の分割統治体制を確立する。このとき、マーシャルはヘンリ若王の側近として仕えることになった。

1173年から74年にかけて、ヘンリ若王は自身の権限拡大や父王が末弟ジョンへ若王管理下の城を譲渡することを求めたことなどを不満に思って、弟たちやフランス王と結んで反乱を起こすも、ヘンリ2世によって鎮圧され、元の地位に復している。このとき、マーシャルがどのような役割を担ったかは記録に無く不明であるが、1173年、反乱に際してヘンリ若王はマーシャルによって騎士への叙任を受けている。

1176年から79年にかけて、前述のようにヘンリ若王らとともに度々トーナメントに参加して勇名を馳せた。前出のロジェ・ド・ゴージと十カ月で103人の捕虜を獲得した逸話は77年からの十か月のことである。

若王妃との不倫疑惑と若王の死

1182年、ヘンリ若王の宮廷でヘンリ若王妃マルグリットとウィリアム・マーシャルが愛人関係にあると言う噂が流れた。真偽のほどは不明だが、ヘンリ若王の宮廷でマーシャルに対抗意識を持っていた有力貴族アダン・ド・イクブフ”Adam de Iquebeuf”の讒言であるとも言われる(注7)。同年末クリスマスのヘンリ2世御前会議の場で、マーシャルは告発者三人に対して決闘裁判を申し込んだ。しかし、ヘンリ若王がこれを認めなかったことで、マーシャルは若王の宮廷を去ることになった。若王の下を去ったとの情報はすぐに広まり、三人の領主からの誘いを受けたものの、マーシャルはこれらの誘いを断っている。

この頃、ヘンリ若王は実権を持たない形だけの王位であることに改めて不満を述べ、今回はヘンリ2世も若王の要求を受け入れて、他の王子にヘンリ若王へ臣従礼を捧げるよう求めた。第三王子ジェフリー、第四王子ジョンは素直に臣従礼を行ったが、第二王子リチャードは拒否し、1183年春、ヘンリ若王・第三王子ジェフリー連合軍とリチャードとの間で戦端が開かれる。リチャードが父王ヘンリ2世に仲裁を求め、リチャード=ヘンリ2世連合との対立構図となる。その混乱の渦中、1183年5月頃にヘンリ若王は病に倒れた。若王は宮廷を離れていたマーシャルを呼び寄せると自分の代わりにエルサレムへ巡礼に赴くことを遺言して、1183年6月11日、28歳の若さで亡くなった。

ヘンリ2世の側近として

イングランド王ヘンリ2世と武威の王権『アンジュー帝国』
誕生から即位まで 1066年、ノルマンディー公ギヨーム2世がブリテン島へ侵攻しイングランド王ウィリアム1世として即位したことで、イギリス海峡をまたぐノルマンディー公領とイングランド王領からなる海峡国家アングロ=ノルマン王国が誕生した。三代...

エルサレム巡礼から復帰まで

若王死後、暇を乞うマーシャルにヘンリ2世は二頭の良馬と100ポンドの資金を下賜したという(注8)。その後の具体的な旅路は明らかでないが、彼は二年間シリアに滞在し、イスラーム勢力との戦いでで多大な活躍をしたという。その後、エルサレム王となっていたギー・ド・リュジニャンや戦友となったテンプル騎士団、ヨハネ騎士団の面々に別れを告げ、ヨーロッパへと戻る。

1187~88年頃、マーシャルはヘンリ2世の側近として宮廷に復帰した。ヘンリ2世からランカシャー地方のカートメルに領地をあたえられたがこれは小規模なものである。あわせてウェールズからアイルランドにかけて広大な領地を持つペンブルック女伯イザベル・ド・クレアとの婚約が進められたが、結婚が実現するのはヘンリ2世死後、リチャード1世時代のことである。

ライオンハートを恐れさせた男

獅子心王リチャード1世

「獅子心王リチャード1世」(1841年,Merry-Joseph Blondel)
(パブリックドメイン画像)

このとき、帝国を揺るがしていたのが後継者となったリチャードとヘンリ2世の対立である。リチャードは母アリエノールからフランス南西部のポワトゥー伯領およびアキテーヌ公領を継承していたが、隣接するトゥールーズ伯との領土紛争がこじれてフランス王フィリップ2世の介入を招き、父王ヘンリ2世が仲裁に乗り出していた。しかし、調停が難航するなか父王ヘンリ2世とリチャードとの関係が悪化し、1188年8月、三たびリチャードが反旗を翻したのである。

これまで圧倒的な強さで子供たちの反乱を鎮めてきたヘンリ2世だったが、今回は精彩を欠き、敗北をくりかえした。すでに病に陥っていたのである。マーシャルはヘンリ2世の傍に仕えて王の護衛にあたった。

有名なエピソードがある。ル・マンに籠るヘンリ2世はリチャード軍の猛攻で敗走を余儀なくされたが、このとき、撤退するヘンリ2世軍を追撃しようと、鎧を身につけずに出陣したリチャードの前に槍を手にしたマーシャルが立ちはだかった。彼の気迫に動揺したリチャードは「待て、殺すな」と叫ぶと、マーシャルはリチャードの馬を刺殺するに留めて、王を守って撤退に成功している。

即位後、リチャード1世は帰順したマーシャルに「過日汝は余を殺そうとした。もし余が汝の槍を腕でそらさなかったならば、汝は目的と達していたであろう」と問うと、マーシャルは平然としてこう答えたという。「殿を殺そうとは思いませんでした。私は私が望む所へ正確に槍を向ける技を持っています。殿の身体を狙うことは殿の馬を刺すのと同じくらい私にとってはたやすいことです。私は殿の馬を殺しましたが、悪いことをしたとは思っていませんし、何の後悔もしていません。」リチャードはこの応答に喜んで「余、汝を許す。恨みは持たぬ」と言ったという。(注9)

ヘンリ2世を看取る

1189年7月、病身をおしてフランス王フィリップ2世との休戦会談を終えたヘンリ2世は居城シノン城に戻るやそのまま病に臥せって起きることも出来なくなった。休戦条約締結のためにフランス王から送られた反乱諸侯の一覧をマーシャルに読み上げさせたが、寵愛していた末子ジョンの名が挙げられると、これを遮って「もうよい、うんざりだ」と語って眠りに落ち、二度を起きることはなかった。

ウィリアム・マーシャルはヘンリ若王に続いてその父ヘンリ2世の最期を看取ることになった。

リチャード獅子心王時代のマーシャル

留守を預かるマーシャル

リチャード1世の治世下でマーシャルはさらに重用された。イザベル・ド・クレアとの結婚とあわせて、宰相にあたる行政長官” Chief Justiciar”に次ぐ行政官” Justiciar”の一人にも選ばれている。リチャード即位直後、マーシャルはヘンリ2世によって幽閉されていた母后アリエノール・ダキテーヌの解放の任を遂行している(注10)。リチャード1世が十字軍遠征に出ると、マーシャルは閣僚の一人として留守を預かった。

リチャード1世時代前半の内政は混乱していた。前任の行政長官ラヌルフ・ド・グランヴィルを解任したリチャードは行政長官二人、行政官五人の集団指導体制を敷いたが、二人の行政長官の一人エセックス伯が就任直後に病死すると、国璽を預かる尚書部長官ギヨーム・ド・ロンシャンがもう一人の行政長官ダラム司教と対立、政争の末失脚させ、行政長官と尚書部長官を兼任してリチャードの寵臣であることを背景に専横政治を展開した。

ギヨーム・ド・ロンシャン~専横政治を敷いて失脚した獅子心王の寵臣
イーリー司教ギヨーム・ド・ロンシャン(” Guillaume de Longchamp”生年不明~1197年1月31日没(注1))はイングランド王リチャード1世の寵臣。宰相にあたる行政長官と国璽を管理する尚書部長官(大法官)、さらに教皇特使...

諸侯の不満を糾合してロンシャンの専横に抵抗したのが王弟ジョン・ラックランド(後のジョン欠地王)である。マーシャルはロンシャンの専横を阻止するためジョンに味方してロンシャンを失脚させると、リチャード1世の指示により、行政長官代行に任命されたルーアン司教ゴティエ・ド・クータンス(フランス語” Gautier de Coutances”,英語” Walter de Coutances”ウォルター・ド・クータンス)と並んで国政を託された(注11)。しかし、リチャード1世がオーストリアで捕虜となったことで、この内紛で急速に台頭した王弟ジョンがフランス王フィリップ2世と結んで簒奪の意思を示したため、マーシャルはこれを牽制してジョンと対立している(注12)。

1194年2月、リチャード1世が虜囚から解放されて帰国した。リチャード1世は、1194年5月、ノルマンディーに上陸してまずは反意を示していた王弟ジョンを降伏させるが、このとき、リチャード1世の傍に母后アリエノールとともにマーシャルがあった(注13)。この後、マーシャルは王の下で対フランス戦争に活躍する。

対仏戦争での武勲

1194年7月4日、フレトヴァルに籠るフィリップ2世軍に対し、ヴァンドームに陣を敷いたリチャード1世は、フィリップ2世撤退の報を受けてマーシャル軍を後詰にヴァンドームに置いて追撃に移ったが、実は偽装撤退で反撃に遭い敗走を余儀なくされる。このとき、リチャード1世は、敵の陽動に乗らず兵力を温存していたマーシャルの判断を高く評価したという。

「ル・マレシャルは我らの誰よりもよくやった。必要な場合に我々を救えるのは彼なのだ。余は彼に敬意を表す。というのも彼は誰よりも多くを行ったし、強い予備軍があるときは敵を恐れることはないからだ。」(注14)

翌7月5日、フレトヴァルのフランス軍を撃破し、休戦条約が結ばれた。

1197年、フランスとの戦闘が再開すると、マーシャルはミリー城攻囲戦で目覚ましい活躍を見せた。53歳(あるいは51歳)と当時としては老齢にも関わらず、若い兵士たちの先頭で城壁にかけられた梯子を一番によじ登ってみせた。指揮していたリチャード1世は感嘆交じりにマーシャルにこう呼びかけている。

「マレシャル殿よ、そのような壮挙は貴殿のような身分の、名だたる人物がおかす危険ではあるまい!若い騎士たちが名声を勝ち取るのにまかせておけ!」(注15)

ミリー城を陥落させたリチャード1世軍はフィリップ2世の従兄であるボーヴェ司教フィリップ・ド・ドルー” Philippe de Dreux”を捕虜とした。

同年、マーシャルは外交官としてフランドル伯との同盟締結に尽力してもいる。

1199年3月、リチャード1世は王弟ジョンとマーシャルを伴ってアキテーヌ地方へ向かい、その途上でリモージュ副伯エマールの使者より、リムーザン地方で農民が見事な宝物を見つけたという話を聞かされ、リチャードはそれを見たいと願い幾人かの傭兵を連れてリムーザンへと向かった。ここでマーシャルは王と別れてノルマンディーに戻るが、これがリチャード1世との今生の別れとなる。3月26日、シャリュー城に到着したリチャードが城の周囲を見回っている時、城壁から放たれた矢に肩を射抜かれ、4月6日、亡くなった。

ジョン王時代のマーシャル

王位継承問題でのジョン王支持

リチャードには子供が無く、後継者についても明言していなかったため、二人の有力候補の間で王位継承を巡る対立が起きた。一人がヘンリ2世の第三王子ブルターニュ公ジェフリーの子アーサー、もう一人がヘンリ2世の第四王子ジョンである。ブルターニュ、アンジュー、トゥレーヌ地方の諸侯はアーサーを支持し、ノルマンディー地方とイングランドの諸侯はジョンを支持していた。また、この頃は継承に関する慣習法も統一されておらず、イングランドでは長男子相続が、大陸では分割相続が一般的な相続法である一方、アングロ・サクソン時代のイングランド王位継承は選挙原理に基づいていたという特徴がある(注16)。

この王位継承に大きな影響力を及ぼしたのがウィリアム・マーシャルであった。マーシャルは前行政長官のカンタベリー大司教ヒューバート・ウォルター、現行政長官のジェフリー・フィッツピーターと協議して、アーサーは若すぎるとしてジョンの継承を主張したという。これによってジョンの王位継承が確定し、見返りにウィリアム・マーシャルのペンブルック伯位継承が認められた。

このような王位継承を巡る対立にリチャード王時代の浪費による財政危機が絡んでジョン王の政権基盤は非常に脆弱であった。ジョン王時代初期、アンジュー帝国よりはるかに小さい領土しかないはずのフランス王家の方が、収益が高かったという研究もある(注17)。ゆえにジョン王治世下では対仏戦争のため自ずと重税傾向が強まらざるを得ない。

ジョン王との信頼関係と対立

1202年、第四次十字軍(1202~04年)で多くの諸侯が不在となった隙を突いて、フィリップ2世はジョン王とリュジニャン家の係争に介入して戦端を開き、1203年8月、リチャード1世が築いたノルマンディー地方の要衝ガイヤール城を包囲した。このとき、ウィリアム・マーシャルは増援部隊を率いて救援に向かったが、別動隊との連携が上手くいかず、撤退を余儀なくされている。この救援が失敗すると、ジョン王は資金難からこれ以上の兵力を集めることが出来ず、1204年3月6日、半年の攻囲戦の末にガイヤール城は陥落、続いてノルマンディーからアンジュー、ブルターニュ地方に至るアンジュー帝国の中枢がフランス軍によって征服された。

ガイヤール城(シャトー=ガイヤール)~要害堅固な獅子心王の城の攻防
「ガイヤール城(” Château-Gaillard ” , シャトー=ガイヤール)」はフランスのノルマンディー地域圏ウール県レザンドリー(” Les Andelys”)にある城塞。イングランド王リチャード1世によって1196年から98年に...

このフランスによるノルマンディー地方の征服に際して、ウィリアム・マーシャルは休戦条約交渉の大使としてフランスに派遣されたが、同時にマーシャルが持つノルマンディー地方の領地についてもフィリップ2世と交渉し、一年以内にジョン王がノルマンディーの奪還に成功しない場合、マーシャルのノルマンディー地方の領地についてフランス王に臣従礼を捧げることで同意している。(注12)。

1205年よりジョン王がポワトゥー地方へ出撃している間、イングランド防衛を担ったが、アイルランド・レンスター地方にあるマーシャルの領地を巡る他の在アイルランド諸侯との係争や、ジョン王の苛斂誅求に対する諸侯の不満などの問題に関してジョン王とマーシャルの関係が悪化し、1207年から1212年までマーシャルは宮廷を去り自領経営に注力している。1208年にはジョン王の不興を買って逃亡を余儀なくされた第四代ブランバー領主ウィリアム・ド・バローズ” William de Braose, 4th Lord of Bramber”を匿ったことでジョン王を怒らせた。

ペンブルック伯領の統治と家族

ペンブルック伯位は1138年、イングランド王スティーヴンによって有力諸侯ギルバート・ド・クレアに与えられたことに始まる。イングランドとウェールズの境界に位置するチェプストー城を中心としたストゥリガル”Striguil”と呼ばれる一帯やウェールズ地方西部ペンブルック城周辺(現在のペンブルックシャー)などを領地としており、イングランド王とウェールズ諸侯との関係上非常に重要な立場といえる。

歴代ペンブルック伯で特に名高いのが初代ギルバート・ド・クレアの子リチャード・ド・クレア(1130~1176)である。ストロングボウ(強弓)の異名で知られ、ヘンリ2世の不興を買った後、1170年にアイルランドへ渡って、アイルランドの大半を制圧し、ついにレンスター王として即位してしまう。その後ヘンリ2世のアイルランド遠征に際してレンスター王国を献上し、ロード・オブ・レンスターとして君臨した。マーシャルが結婚したイザベル・ド・クレアは、その”ストロングボウ”の娘であった。

マーシャルが獲得した領地はウェールズ、アイルランドそしてフランス・ノルマンディー地方にまたがる広大なものである。ウェールズではイングランドとの境界にあたるワイ川の河口付近にそびえるチェプストー城を中心としたストゥリガル領と南西部ペンブルック城を中心としたペンブルックシャー、アイルランドでは現在のキルディア、カーロー、キルケニー、ウェクスフォード、クィーンズ、およびキングスの一部からなるレンスターの領地、ノルマンディーではロングヴィル男爵領の半分であった(注18)また、1194年、兄ジョン・マーシャルが亡くなって本家であるマーシャル家領も継承された。

チェプストー城北西部マーシャル塔

「チェプストー城北西部マーシャル塔」
(パブリックドメイン画像 CC0 1.0)

また、マーシャルは英国最古の石造城塞であるチェプストー城の大幅な改築を行った。現存するチェプストー城の大部分はウィリアム・マーシャルとその子孫によって築かれている。マーシャルはベイリーの東側の外周を城壁で囲み、新たな城門と北西部に円形塔を築いた。この円形塔はマーシャルの名を取って「マーシャルの塔” Marshal’s Tower”」と呼ばれる。

チェプストー城” Chepstow Castle “~ウェールズにある英国最古の石造城址
チェプストー城” Chepstow Castle “は英国ウェールズ地方モンマスシャー” Monmouthshire ”にある中世城塞。1067年、イングランド王ウィリアム1世の重臣ウィリアム・フィッツオズバーンによって築かれ、ウェールズ侵...

1207年頃からマーシャルのアイルランド領地を巡って、現地諸侯やアイルランドへの支配を強化しようとするジョン王との間で対立が深まった。1207年、マーシャルはファーンズ司教アルビン・オモロイ” Albin O’Molloy, Irish bishop of Ferns.”の二つの邸宅を奪い、司教がマーシャルを破門すると言う事件があった。結局これは返されず、後にマーシャルの子孫に男子後継者が生まれず、マーシャル家が断絶すると、ファーンズ司教の呪いという噂が立つことになった。

ウィリアム・マーシャルと妻イザベラ・ド・クレアの間には男子五人、女子五人の計十人の子供が生まれている。

  • ウィリアム”William Marshal, 2nd Earl of Pembroke” (1190~1231)
  • リチャード”Richard Marshal, 3rd Earl of Pembroke” (1191~1234)
  • モード”Maud Marshal”(1194~1248)
  • ギルバート”Gilbert Marshal, 4th Earl of Pembroke” (1197~1241)
  • ウォルター”Walter Marshal, 5th Earl of Pembroke” (1199頃~1245)
  • イザベル”Isabel Marshal” (1200~1240)
  • シビル”Sibyl Marshal” (1201頃~1245)
  • エヴァ”Eva Marshal” (1203~1246)
  • アンセルム”Anselm Marshal, 6th Earl of Pembroke” (1208頃~1245)
  • ジョーン”Joan Marshal” (1210~1234)

マーシャルの復帰と内戦

1212年、フランス王との対立に加えてローマ教皇インノケンティウス3世との対立も重なったジョン王はウェールズ地方への支配強化を目論み、ペンブルック伯としてウェールズの有力諸侯であるマーシャルとの和解を図って宮廷に呼び戻した。以後、マーシャルはジョン王の忠実な助言者として尽力し、マグナ・カルタへ至る諸侯の反乱に際しては宮廷の長老として対立の調停に奔走した。

1214年、起死回生を狙ったジョン王は神聖ローマ皇帝やフランドル伯ら反フランス王諸侯を引き入れて大規模な反仏同盟を構築した。7月27日に行われた史上名高いブーヴィーヌの戦いは圧倒的多数の反仏連合軍をフランス王フィリップ2世が撃破する展開となり、翌1215年、これまでの圧政にイングランド諸侯が蜂起してジョン王に対し諸侯の権利認めるよう求め、ジョン王もこれを受け入れて両者の合意条項がマグナ・カルタと呼ばれる文書に取りまとめられ、1215年6月19日、ウィンザー城近郊テムズ河畔の草地ラニーミードでマグナ・カルタの調印へと至る。マーシャルもジョン王側の代表の一人としてこの調印に同席した。

しかし、マグナ・カルタ諸条項の履行を巡って、ローマ教皇インノケンティウス3世がマグナ・カルタを受け入れることによる権限の弱体化を恐れて介入し、諸侯は反乱軍を組織して歴史上第一次バロン戦争と呼ばれる内戦に至る。反乱諸侯はジョン王に代わってフランスの王太子ルイ(後のルイ8世)をイングランド王に擁立、フランスへイングランドへの侵攻を求めた。1216年5月、王太子ルイ率いるフランス軍がイングランドへ上陸し、いよいよアンジュー帝国は滅亡の危機に瀕することになった。各地でジョン王軍と反乱諸侯=フランス連合軍との間で激しい戦闘が展開され、マーシャルもジョン王派として戦っている。ロンドン周辺を中心位イングランド東部を支配下とした王太子ルイは要衝ドーヴァー城の攻略に乗り出すが、ジョン王の股肱の臣で知勇兼備の勇将ヒューバート・ド・バーグの堅守で攻略に手こずっていた。

ヒューバート・ド・バーグ~イングランドの危機を救った知勇兼備のジョン王の忠臣
初代ケント伯ヒューバート・ド・バーグ(またはバラ、バークとも” Hubert de Burgh, 1st Earl of Kent” , 1170頃生-1243年5月5日以前没)は、ジョン王、ヘンリ3世に仕えたイングランドの軍人・政治家。対...
ドーヴァー城~英国防衛の象徴となった難攻不落の「イングランドの鍵」
ドーヴァー城(Dover Castle)はケント州ドーヴァーのドーヴァー海峡を臨む海岸の岸壁上に建てられた城。「イングランドの鍵(Key of England)」という異名を持つ。城の地盤となっている石灰岩の白壁はブリテン島の古名アルビオン...

ヘンリ3世時代のマーシャル

幼君ヘンリ3世の擁立

1216年10月18日、ウィンザー城を拠点にイングランド西部平定のため各地を転戦していたジョン王が病死したことで事態が大きく動く。ジョン王の遺児ヘンリはこのときわずか9歳である。ジョン王派の諸侯はウィリアム・マーシャルにヘンリの後見となるよう求め、マーシャルは熟慮の末、これを受け入れた。

十三世紀、彼の死後すぐに著された「ウィリアム・マーシャル伝」はこのときの様子を劇的に描いている。

『「彼らはほとんど絶望的な家庭教師の仕事を私に託してきた。子どもは何の財産もなく、私は非常に年老いた男だ。」
話しているあいだ、彼は涙ぐみ、他の者も同情して泣いた。「さよう」とジョン・ド・アーリィが言った。ウィリアムの考え方を理解していた者だった。
「そなたはその職を引き受けたのだ。それは、どんな犠牲を払ってもやり通さなければならない仕事だ。しかし、我々が最期の時へと達した時には、事態が最悪の状態になったとしても、すばらしい栄誉がそのなかから必ずもたらされる・・・・・・この世でそのような栄光を得ることになる者はだれもいないだろう。」
ウィリアム・マーシャルは答えていった。
「神の剣にかけて、この忠告は真であり、申し分のないものです。私の心を突き刺しました。もし他の誰かが王を見捨てたならば、私がどうするかおわかりですか。王を肩に乗せ、一歩一歩、島から島へと、国から国へと、連れていきます。王を見捨てることはしません。たとえ、このことがパンを請うことを意味したとしても。」』(注19)

存亡をかけた決戦「リンカーンの戦い」

「リンカーンの戦いの様子」(十三世紀の写本Matthew Paris:" Čeština: Bitva u Lincolnu 1217."より)

「リンカーンの戦いの様子」(十三世紀の写本Matthew Paris:” Čeština: Bitva u Lincolnu 1217.”より)

幼君ヘンリ3世を擁するジョン王遺臣団は老将ウィリアム・マーシャルの下に団結して反撃を開始する。元々打倒ジョン王でまとまっていた反乱軍はジョン王の死によって大義名分を失った。王太子ルイ率いるフランス軍主力がドーヴァー城包囲で動けない中、反乱軍は次々と各個撃破され、1217年5月20日、ウィリアム・マーシャル率いるイングランド王軍とペルシェ伯トマ率いるフランス軍がイングランド東部リンカーンシャーのリンカーン城下の市街地で激突した。

マーシャル率いるイングランド軍は騎士約400、弩兵約250、他歩兵などを含む約1000名弱、対するフランス軍は騎士約600、歩兵1000名など約1600名以上である。このとき、リンカーン城は反乱勃発時以来一貫してジョン王派イングランド軍が守っていたが、城下の市街地はフランス軍が占領下に置いている。イングランド軍の接近の報にフランス軍では町から討って出て野戦に臨むべきとする積極策と、市街地の防備を固めるべきとする防御策とに二分されたが、マーシャルの強さを考慮して後者の防御策が選択された。

町の北門で攻防が展開されたがクロスボウ部隊が城壁を奪取して高所からクロスボウを放って圧倒して門を制圧。続いてクロスボウ部隊が屋根伝いに展開して市街地の高所を確保すると、門が開かれ、騎兵部隊が一気に雪崩れ込んだ。部隊の先頭は勿論ウィリアム・マーシャルである。

「ウィリアム・マーシャル伝」のリンカーンの戦いでのマーシャルの活躍がこの上なく格好よく描かれている。若い騎士たちがヘルメットを被り終えないうちに、「マーリンが飛ぶよりも速く、馬に拍車をかけ」て突入すると、敵陣深く切り込んで一気に道を開いて見せる。その様子を見たクロスボウ部隊を率いるウィンチェスター司教が「こっちだ!神はマーシャル殿とともにある!」と叫んで高所からクロスボウを打ちかけて援護し、この勇姿に意気上がる騎兵部隊が続いた(注20)。

20年前に獅子心王が讃えた「そのような壮挙」を、70歳を越えてもなお体現する姿は、フランス軍を恐れさせるに十分だった。そもそもマーシャルの武勇を恐れて防御策を講じたのにすぐに破られた挙句、そのマーシャルが単騎で突撃してきて、味方が次々蹴散らされていくのだからたまったものではない。フランス軍の戦線は三時間持たず崩壊し、指揮官ペルシェ伯トマも戦死した。奮戦の末包囲されて逃げ場を無くしたペルシェ伯に対しイングランド軍が降伏を呼びかけたが、「正当な王への反逆者であるイングランド人に降伏することはできない」(注21)と勇敢にも拒絶して討ち取られたのである。

リンカーンの戦いでの勝利に続いて、1217年8月24日、ヒューバート・ド・バーグ率いるイングランド艦隊がドーヴァー沖でフランス軍の補給・増援艦隊を壊滅させたことで完全に勝敗は決し、王太子ルイは退却した。後に南フランスを一気に征服して獅子王の異名で恐れられるフランス王歴代屈指の猛将ルイ8世若き日の敗戦であった。マーシャルは獅子心王と獅子王という当代きっての二人の獅子に苦杯を嘗めさせた唯一の人物である。

ウィリアム・マーシャルの死

Herbert Railton's illustration of the Earl of Pembroke's tomb

“Herbert Railton’s illustration of the Earl of Pembroke’s tomb”(1895) /パブリックドメイン画像

その後、ウィリアム・マーシャルは摂政として幼君ヘンリ3世を補佐して国政を主導、マグナ・カルタの改定再公布を行い、諸侯の不満を解消させるなど、国を二分した混乱の収拾は彼の人望と指導力に頼るところ大であった。

戦後処理が一段落した1219年3月、ウィリアム・マーシャルは体調を崩して摂政を辞し、1219年5月14日、帰らぬ人となった。

ウィリアム・マーシャル死後、彼と並ぶ功臣ヒューバート・ド・バーグが行政長官(宰相)としてマーシャルの摂政政府を受け継ぎ、ウィリアム・マーシャルの子第二代ペンブルック伯ウィリアム・マーシャルらの協力の下で新政府を主導し、ヒューバート・ド・バーグ宰相期(1219~32)に急速に再建が進んで、プランタジネット家の支配体制は、アンジュー帝国からイングランド王国へとゆっくり移行していくことになる。

「ウィリアム・マーシャル伝」について

ウィリアム・マーシャルの生涯については、彼の死後すぐに長男の第二代ペンブルック伯ウィリアム・マーシャルが吟遊詩人に書かせた長詩「ウィリアム・マーシャル伝” L’Histoire de Guillaume le Marechal”」の記述に大部分が基づいている。中世の多くの人物伝と同様に、記述の正確性に信頼を置くことはできないが、林愛沙「フィクションと歴史― ウィリアム・マーシャルを例として ―」によれば、『作者は、この伝記を書くにあたって、あくまでも正確であることに非常にこだわりを見せており、作成に用いられた一次資料はウィリアムの従騎士だったジョン・ドレルリー(John d’ Erley)による証言に依拠している』(注6)という。後継者の手による、批判的ではない武勲詩であり、少なからぬ脚色が当然含まれているだろう。

『この時代における「真実に対するこだわり」というのは、「史実に忠実であるか」ということではなく、いわば「もっともらしさ」であった。』(注22)

林は、『ウィリアム・マーシャル伝』の記述に後の騎士道ロマンスとの一致が少なからずみられることを指摘する。例えばヘンリ若王妃との不倫疑惑で、これは「トリスタンとイゾルデ」のエピソードと多くの類似があり、ウィリアム・マーシャルはトリスタンと重ね合わされている。

『「伝記」という枠の中でなお、ウィリアム・マーシャルをトリスタンと重ね合わせたことから、フィクションを利用してウィリアムを英雄化しようとする伝記作家の意図がうかがえる。』(注23)

『中世ロマンスの作者たちは、当時非常に史実性を持つと考えられていたアーサー王の時代に注目した。そこから彼らは、理想の騎士のモデルを開拓し、クルトワジーという宮廷風の文明化された行動を強調したのである。ただしその過程において、ウィリアム・マーシャルのような実在の騎士の事績や、王妃エレアノールを中心に発展した宮廷恋愛の技法が、フィクションを作り上げる上で少なからぬ貢献をしている。むしろ12 世紀フランスを中心とした、地位や財産を持たない若い騎士たちの行動様式と、宮廷風恋愛やクルトワジーといった騎士道観念の形成は、相互に影響を受けながら発展していったと考えられる。』(注24)

ウィリアム・マーシャルの生涯はそのまま騎士道の模範・理想像として参照され、彼は騎士の中の騎士として語り継がれることになった。

カルチャーの中のウィリアム・マーシャル

ウィリアム・マーシャルはウィリアム・シェイクスピアの史劇「ジョン王」を始め多くの文学作品や歴史小説・映画などにも登場する。映画「冬のライオン” The Lion in Winter”」(1968)では名優ナイジェル・ストックがウィリアム・マーシャルを演じた。また「ロック・ユー!” A Knight’s Tale ”」(2001)でヒース・レジャーが演じた主人公ウィリアム・サッチャー、「アイアンクラッド” Ironclad”」(2011)でジェームズ・ピュアフォイが演じた主人公トーマス・マーシャルはともにウィリアム・マーシャルを元にしたキャラクターである(注25)。他、リドリー・スコット監督/ラッセル・クロウ主演「ロビン・フッド” Robin Hood”」(2010)ではウィリアム・ハートがウィリアム・マーシャルを演じた。

参考文献

書籍

・青山吉信・飯島啓三・永井一郎・城戸毅編著『イギリス史〈1〉先史~中世 (世界歴史大系)』山川出版社,1991年)
・朝治 啓三,渡辺 節夫,加藤 玄 編著『中世英仏関係史 1066-1500:ノルマン征服から百年戦争終結まで』(創元社,2012年)
・城戸毅 著『マグナ・カルタの世紀―中世イギリスの政治と国制1199ー1307 (歴史学選書) 』(東京大学出版会,1980年)
・アンドレア・ホプキンズ著(松田英 他訳)『図説 西洋騎士道大全』(東洋書林、2005年)
・アンリ・ルゴエレル著(福本秀子訳)『プランタジネット家の人びと (文庫クセジュ)』(白水社,2000年)
・エドマンド・キング著(吉武憲司監訳)『中世のイギリス』(慶應義塾大学出版会,2006年,原著1988年)
・ジョセフ・ギース/フランシス・ギース著(栗原泉訳)『中世ヨーロッパの城の生活 (講談社学術文庫)』(講談社,2005年)
・フランシス・ギース著(椎野淳訳)『中世ヨーロッパの騎士 (講談社学術文庫)』(講談社,2017年)
・レジーヌ・ペルヌー著(福本秀子訳)『リチャード獅子心王』(白水社,2005年,原著1988年)

論文

・林愛沙「フィクションと歴史― ウィリアム・マーシャルを例として ―」(『表現文化 (3)』73-84頁、大阪市立大学、2008年)
・直江眞一「代襲相続法とジョン王の即位 : 「国王の事例」をめぐって」(『法政研究 61(3/4上)』95-132頁、九州大学法政学会、1995年)

ウェブページ

・Abels, Richard,”Medieval English genealogy: William Marshal—Events in Life and Historical Context
・Cartwright, Mark, “Sir William Marshal – Ancient History Encyclopedia
・”William Marshal, 1st earl of Pembroke | Facts & Biography | Britannica
・”William Marshal, 1st Earl of Pembroke – Wikipedia
・”Cultural depictions of William Marshal, 1st Earl of Pembroke – Wikipedia
・”John Marshal (Marshal of England) – Wikipedia
・”The Battle of Lincoln (1217), according to Roger of Wendover“(De Re Militari » The Society for Medieval Military History)
・”History of William the Marshal: The Battle of Lincoln, 1217“(De Re Militari » The Society for Medieval Military History)

脚注

注1) ジョセフ・ギース/フランシス・ギース著(栗原泉訳)『中世ヨーロッパの城の生活 (講談社学術文庫)』(講談社,2005年)45頁

注2) フランシス・ギース著(椎野淳訳)『中世ヨーロッパの騎士 (講談社学術文庫)』(講談社,2017年)127頁

注3) アンドレア・ホプキンズ著(松田英 他訳)『図説 西洋騎士道大全』(東洋書林、2005年)62頁/フランシス・ギース著(椎野淳訳)『中世ヨーロッパの騎士 (講談社学術文庫)』(講談社,2017年)129-130、159頁

注4) フランシス・ギース著(椎野淳訳)『中世ヨーロッパの騎士 (講談社学術文庫)』(講談社,2017年)133-134頁

注5) レジーヌ・ペルヌー著(福本秀子訳)『リチャード獅子心王』(白水社,2005年,原著1988年)20頁

注6)林愛沙「フィクションと歴史― ウィリアム・マーシャルを例として ―」(『表現文化 (3)』73-84頁、大阪市立大学、2008年)76頁

注7)林愛沙「フィクションと歴史― ウィリアム・マーシャルを例として ―」(『表現文化 (3)』73-84頁、大阪市立大学、2008年)79頁

注8) フランシス・ギース著(椎野淳訳)『中世ヨーロッパの騎士 (講談社学術文庫)』(講談社,2017年)143頁

注9) レジーヌ・ペルヌー著(福本秀子訳)『リチャード獅子心王』(白水社,2005年,原著1988年)82頁

注10) レジーヌ・ペルヌー著(福本秀子訳)『リチャード獅子心王』(白水社,2005年,原著1988年)84頁

注11) レジーヌ・ペルヌー著(福本秀子訳)『リチャード獅子心王』(白水社,2005年,原著1988年)210頁

注12) Abels, Richard,”Medieval English genealogy: William Marshal—Events in Life and Historical Context

注13) レジーヌ・ペルヌー著(福本秀子訳)『リチャード獅子心王』(白水社,2005年,原著1988年)247頁

注14) レジーヌ・ペルヌー著(福本秀子訳)『リチャード獅子心王』(白水社,2005年,原著1988年)250頁

注15)レジーヌ・ペルヌー著(福本秀子訳)『リチャード獅子心王』(白水社,2005年,原著1988年) 257頁

注16) 直江眞一「代襲相続法とジョン王の即位 : 「国王の事例」をめぐって」(『法政研究 61(3/4上)』95-132頁、九州大学法政学会、1995年)98-99

注17) 朝治 啓三,渡辺 節夫,加藤 玄 編著『中世英仏関係史 1066-1500:ノルマン征服から百年戦争終結まで』(創元社,2012年)52頁

注18) フランシス・ギース著(椎野淳訳)『中世ヨーロッパの騎士 (講談社学術文庫)』(講談社,2017年)144-145頁

注19)アンドレア・ホプキンズ著(松田英 他訳)『図説 西洋騎士道大全』(東洋書林、2005年)66頁

注20) “History of William the Marshal: The Battle of Lincoln, 1217“(De Re Militari » The Society for Medieval Military History)

注21) “The Battle of Lincoln (1217), according to Roger of Wendover“(De Re Militari » The Society for Medieval Military History)

注22) 林愛沙「フィクションと歴史― ウィリアム・マーシャルを例として ―」(『表現文化 (3)』73-84頁、大阪市立大学、2008年)77頁

注23) 林愛沙「フィクションと歴史― ウィリアム・マーシャルを例として ―」(『表現文化 (3)』73-84頁、大阪市立大学、2008年)81~82頁

注24)林愛沙「フィクションと歴史― ウィリアム・マーシャルを例として ―」(『表現文化 (3)』73-84頁、大阪市立大学、2008年)82頁

注25) “Cultural depictions of William Marshal, 1st Earl of Pembroke

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