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獅子心王リチャード1世の庶子フィリップ・ド・コニャックについて

フィリップ・ド・コニャック(フランス語” Philippe de Cognac”,英語” Philip of Cognac”)はイングランド王リチャード1世の庶子。後にフィリップ・ザ・バスタード” Philip the Bastard”の名でウィリアム・シェイクスピアの史劇「ジョン王」の主要登場人物として描かれた。

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フィリップ・ド・コニャックの生涯

獅子心王リチャード1世

「獅子心王リチャード1世」(1841年,Merry-Joseph Blondel)
(パブリックドメイン画像)

フィリップ・ド・コニャックについてわかっていることは非常に少ない。フィリップは後のイングランド王リチャード1世の庶子として1180年頃に生まれ、1190年代末までに成人を迎えた(注1)。母は不明だがアキテーヌ地方出身の女性であるという(注2)。

父リチャードは1169年、フランス王ルイ7世の娘アデライードと婚約したが、リチャードの父ヘンリ2世はアデライードを人質として利用するため、リチャードとの結婚を進めようとしなかった。リチャード自身も乗り気ではなかったようで、ヘンリ2世がフランス側の再三の要請にこたえて1177年、結婚の実現に前向きになっても、リチャードは先延ばしにしていた(注3)。このリチャードとアデライードの結婚問題がアデライードの姉マルグリットを妃とするリチャードの兄ヘンリ若王の不満となり(注4)、1183年におきた兄弟対立の遠因の一つになっている。結局不履行のまま人質状態におき続け、婚約から22年後の1191年に婚約解消した。フィリップはこのリチャードの長い独身期間の間にできた庶子である。

リチャード1世はフィリップをフランス南西部アキテーヌ公領ジャルナック領主の娘アメリ・ド・ジャルナックまたはコニャック(フランス語” Amélie de Jarnac ”,”Amélie de Cognac”,英語”Amelia of Cognac”アメリア・オブ・コニャック)と結婚させた。フィリップにはジャルナック領内のコニャック城が与えられたことからフィリップ・ド・コニャックと呼ばれる。しかし、妻アメリが亡くなると、リチャード1世はコニャック城を取り上げ、有力武将のロバート・オブ・ソーナム” Robert of Thornham”(注5)に与えた。なお、コニャック城は後にフランス王フランソワ1世(1494年生)の生誕地として知られることになる。

1199年4月6日、父リチャード1世がリモージュ副伯アデマール5世” Adémar V de Limoges”の反乱の渦中で流れ矢に当たって亡くなった。リチャード1世に仕えた年代記作家ロジャー・オブ・ハウデン” Roger of Howden”の「年代記” Chronica”」によれば、フィリップ・ド・コニャックは父の復讐のため、同年、アデマール5世を殺害したという(注6)。ただし、アデマール5世が1199年中に亡くなってはいるものの、フィリップによる殺害が事実かどうかは定かではない。

その後のフィリップについて、1201年のパイプ・ロール(財務記録)に”Et Philippo f. R. Ricardi 1 m. de dono R.” (“And to Philip, son of King Richard, one mark as a gift”リチャード王の子フィリップへ贈り物として一つの印)とあるという(注7)。また、英語版wikipediaには「アングロ・サクソン年代記」の1230年の項にフィリップが亡くなったという記述があると書かれているが、出典を探し切れなかった(注8)。いずれにしろ1201年の記録を最後に、十三世紀の早い時期に亡くなったとみられている。

シェイクスピア「ジョン王」のフィリップ・ザ・バスタード

フィリップ・ド・コニャックは1590年代に執筆されたウィリアム・シェイクスピアの史劇「ジョン王” King John”(ジョン王の世と死” The Life and Death of King John”)」の中でフィリップ・ザ・バスタード(” Philip the Bastard”庶子フィリップ)ことフィリップ・ファルコンブリッジ” Philip Faulconbridge”の名で登場して広く知られることになった。同作ではレディ・ファルコンブリッジ” Lady Faulconbridge”という架空のキャラクターをフィリップの母としている。

参考文献

・アンリ・ルゴエレル著(福本秀子訳)『プランタジネット家の人びと (文庫クセジュ)』(白水社,2000年)
・エドマンド・キング著(吉武憲司監訳)『中世のイギリス』(慶應義塾大学出版会,2006年,原著1988年)
・レジーヌ・ペルヌー著(福本秀子訳)『リチャード獅子心王』(白水社,2005年,原著1988年)
・” Philip of Cognac – Wikipedia
・” Philippe de Cognac — Wikipédia
・” Richard I the Lionheart.”(English Monarchs)
・” Sir Robert II DE THURNHAM, Baron Of Mulgrave, Sénéchal Du Poitou
・” Roger Of Hoveden | English historian | Britannica
・Roger of Howden, Chronica, vol. 4, p. 97.

脚注

注1)生年について英語版wikipdia” Philip of Cognac – Wikipedia“は1181年以前、フランス語版wikipedia” Philippe de Cognac — Wikipédia“は1180年頃、” Richard I the Lionheart.”(English Monarchs)は1180年代早期などとするが(全て2020年5月1日閲覧)、いずれにしても確実なものではなく、不明である。

注2) レジーヌ・ペルヌー著(福本秀子訳)『リチャード獅子心王』(白水社,2005年,原著1988年)57-58頁

注3)1177年、ローマ教皇の調停でルイ7世とヘンリ2世が会見し十字軍への参加同意などとあわせてリチャードとアデライードの結婚を進めることについても合意している(アンリ・ルゴエレル著(福本秀子訳)『プランタジネット家の人びと (文庫クセジュ)』(白水社,2000年)63頁)。

注4)レジーヌ・ペルヌー著(福本秀子訳)『リチャード獅子心王』(白水社,2005年,原著1988年)50-51頁

注5)ロバート・オブ・ソーナムはリチャード1世の信頼厚い有力武将。第三回十字軍に参加し1191年のキプロス征服で艦隊の指揮を執るなど軍功多数。アンジュー地方のセネシャル(代官、在任1196-99)。1211年没。彼へのコニャック城の委譲の出典とされるのは”Comptes d’Alfonse de Poitiers”, Archives historiques du Poitou, vol. 4, p. 21.

注6) Roger of Howden, Chronica, vol. 4, p. 97.

注7)文面は英語版wikipedia” Philip of Cognac – Wikipedia“(2020年5月1日閲覧)より。出典とされているのは” Pipe Roll for the Third Year of the Reign of King John.”

注8)英語版wikipedia” Philip of Cognac – Wikipedia“(2020年5月1日閲覧)” A passage in the Anglo-Saxon Chronicle briefly mentions Philip’s death in 1230, although it is unknown weather or not he actually died that year.”とのこと / 「アングロ・サクソン年代記」は九世紀にウェセックス王アルフレッドの命で記録が開始され、複数の写本からなるが、概ね十二世紀半ばまでの記録に留まる。”The Anglo-Saxon Chronicle by J. A. Giles and J. Ingram” ( Project Gutenberg )の場合、1154年まで。いずれかの写本の中にあるのだろうか。「アングロ・サクソン年代記」について詳しくは当サイトの記事『「アングロ・サクソン年代記」の概要、成立の歴史、主な内容まとめ』でまとめている。

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