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ダノター城”Dunnottar Castle”~スコットランドの美しき名城の歴史

ダノター城(”Dunnottar Castle”)はスコットランド・アバディーンシャー州ストーンヘイヴンの海岸沿いにある切り立った岸壁上に建つ中世城塞。現在は廃城となっているが、遺構がよく残っており、その美しさから観光地として人気を博している。七~九世紀頃にはすでに砦が築かれていたという記録が残るが、現存する建物の最古のものは1392~94年頃に築かれた石造のタワーハウスで、その他十五~十六世紀に建てられたものがほとんどである。スコットランド・ゲール語での城名「ダン・フォザー” Dùn Fhoithear”」は「棚状斜面の上に建つ砦」(注1)の意味。

Dunnottar Castle (Stonehaven, Scotland) – DJI Phantom 4 Drone Flight 4K

ダノター城のドローン空撮映像

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古ダノター城(注2)

ダノター城

「ダノター城」(パブリックドメイン画像)


ダノター城はスコットランド北東部最大の州アバディーンシャーの主要都市ストーンヘイヴンから約三キロ南にある、北海に突き出した広さ約1.4ヘクタールの岬の頂上部に位置している。

伝説では、ピクト人への布教で知られる修道士聖ニニアン(432年没)が五世紀頃にこの地に礼拝堂を建てたという。「アルスター年代記” Annals of Ulster”」には681年と694年にダノターに築かれた砦への包囲戦が行われたとされている(注3)。また、西暦900年、スコットランド王国の前身であるアルバ王国の王ドナルド2世(在位889~900年)がヴァイキングの攻撃を受けてポッター城(オッピドゥム・ポッター” Opidum Pother”)で殺害されたとの記録が「スコットランド年代記”Scottish Chronicle”」にあり、このポッター城がダノター城と見られている(注4)。

スコットランド王ウィリアム1世(獅子王、在位1165~1214年)の治世下でダノターはストーンヘイヴンを含むキンカーディン”Kincardine”(またはミーンズ” Mearns”)と呼ばれる一帯を管轄する地方行政の中心地となっていた。1276年、セント・アンドリュース司教ウィリアム・ウィシャート” William Wishart”によって石造の教会がこの地に建てられた。1297年、スコットランド独立戦争の指導者ウィリアム・ウォレス” William Wallace”がこの地の教会と城を占領していたイングランド軍を包囲し撃滅したと、十五世紀の詩人ブラインド・ハリー” Blind Harry”が書いている。

現存する建物が築かれる十四世紀末までの間のダノター城については文献上の記録に留まり、遺構などはみつかっていない。また、アバディーン大学の調査では現在地の北にあるダニシアー” Dunnicaer”で二世紀から四世紀にかけてのものとみられるピクト人の居住跡が見つかっており(注5)、古い砦は現在地より北に約50キロメートル離れたボウダン岬” Bowdun Head”にあったとする説(注6)もあるなど、現在地ではなかった可能性も指摘されている。

マリシャル伯家による築城

1359年頃、代々スコットランド王位のレガリア(王権の権威・正統性を示す宝剣・王冠・王笏などの宝物)を管理する「スコットランドのマリシャル” Marischal of Scotland”」職を継承していたキース家(注7)の当主ウィリアム(2世、1410年頃没)が王家との婚姻を通じてダノター周辺の領主権を獲得した。ダノターの領主権は一時他家に移るが、1392年、改めてウィリアム・キースが買い戻し、その後、1394年までに現在地にタワーハウスを建てている。この十四世紀末のタワーハウスが現存する最古の遺構となっている。

キース家は1458年、ウィリアム・キース(” William Keith, 1st Earl Marischal”初代マリシャル伯ウィリアム・キース、1483年没)がスコットランド王ジェイムズ2世によって伯へ陞爵、マリシャル伯となった。以後マリシャル伯家によって城としての整備が進められた。1581年、第5代マリシャル伯ジョージ・キース(”George Keith, 5th Earl Marischal”,1553頃生~1623年没)による大規模な築城・改築が開始され、ゲートハウスとその西側に並んで築かれた三段の銃眼が設置された五階建ての石造建物「ベンホルムの宿” Benholm’s Lodging”」、北東部の宮殿とその付属施設となる礼拝堂や円形屋根の「ホイッグの円蓋” Whigs’ Vault”」など現在の施設がほぼ築かれている。

十六世紀以降、ジェイムズ4世(1504年訪問)、メアリ女王(1562年と64年訪問)、ジェイムズ6世(1580年訪問)など代々のスコットランド王がダノター城へ訪問した記録が多く残っている。

「ダノター城縄張り図」

「ダノター城縄張り図」
© Jonathan Oldenbuck / CC BY-SA (wikimedia commonsより)
A ゲートハウスと「ベンホルムの宿」 ・ B トンネル ・ C タワーハウス ・ D 鍛冶場 ・ E 「ウォータートンの宿」 ・ F 厩舎 ・ G 宮殿 ・ H 礼拝堂 ・ I 副門 ・ J 「ホイッグの円蓋」 ・ K 球技等娯楽用の芝生 ・ L 衛兵室 ・ M 断崖 ・ N 北海

「ダノター城正門とベンホルムの宿(左)」

「ダノター城ゲートハウスとベンホルムの宿(左)」
© William Marnoch from Cambridge, UK / CC BY (wikimedia commonsより)

清教徒革命下のダノター城

清教徒革命とマリシャル伯家

「第7代マリシャル伯ウィリアム・キース」(1636年、ジョージ・ジェームソン作)

「第7代マリシャル伯ウィリアム・キース」(1636年、ジョージ・ジェームソン作)

清教徒革命、名誉革命、ジャコバイトの乱など十七~十八世紀の相次ぐ内乱に際し、ダノター城は非常に重要な役割を担った。

1603年、イングランド女王エリザベス1世が亡くなると、スコットランド王ジェイムズ6世がイングランド王を兼ねて同君連合(ステュアート朝)が成立した。二代目のチャールズ1世は失政を繰り返し、1639年、スコットランド長老派教会に対してもイングランド国教会のやり方を強要したことから、スコットランドの諸侯と教会は「国民盟約」を結んでチャールズ1世の介入に抵抗し戦争となる。苦戦したチャールズ1世は、イングランドで十一年ぶりに議会を開いて戦費負担を求めたが、議会は逆に「権利の請願」を出して抵抗したため、チャールズ1世は議会を解散、これにイングランド諸侯・市民が反乱軍を組織し、アイルランドも巻き込んでの内乱に陥った。後世、清教徒(ピューリタン)革命あるいは三王国戦争と呼ばれる。

第7代マリシャル伯ウィリアム・キース(1614~1671)は盟約派(Covenanters、カヴェナンター)に属して国王と対立した。1643年、ストーンヘイヴン一帯の制圧を目論む国王派のモントローズ伯ジェイムズ・グラハム(のちモントローズ侯)率いる国王派軍がダノター城を包囲した。国王派軍を退けたものの、ダノター城周辺は破壊され荒廃した。

革命は急速に急進化して、イングランド議会で国王廃位を唱える勢力が台頭、オリヴァー・クロムウェルによる強力なニューモデル軍の編成も穏健派やスコットランドにとっては脅威となった。そこで、盟約派の中でチャールズ1世との和解を目指す約定派(Engagers)が主流となり、1640年代後半、イングランド議会の穏健派とスコットランドの主流派らがチャールズ1世支持に転じ議会派に対抗した。

マリシャル伯も約定派としてチャールズ1世支持に回り、1648年、議会派軍と国王派軍の決戦プレストンの戦いに参加している。同会戦の敗北で捕らえられたチャールズ1世は1649年に処刑されたが、すぐに子のチャールズ2世が即位を宣言。1650年、マリシャル伯はチャールズ2世をダノター城に招待した。1651年1月1日、チャールズ2世はスクーン宮殿で戴冠式を行ったものの、クロムウェル軍が目前に迫っていたため、即位式で使用した宝剣や王冠などのレガリアをエディンバラ城に戻さず、ダノター城に運ばせた。また、6月にはダノター城で枢密院を開くこととし、事実上の宮廷とするとともに、バラスのジョージ・オギルヴィ(” George Ogilvie of Barras”)をダノター城の防衛司令官に任じた。

ダノター城包囲戦~レガリアの護り手

チャールズ1世処刑後、クロムウェルは急速に権力を確立し、内乱の平定を推し進めた。1649年、アイルランドを平定し、1650年9月3日のダンバーの戦いと翌51年9月3日のウスターの戦いで相次いでスコットランド軍を壊滅させ、チャールズ2世と王族は亡命を余儀なくされる。抵抗勢力はことごとくクロムウェルの軍門に下り、国王派最後の牙城となったのがダノター城であった。

1651年11月、トーマス・モーガン卿率いるイングランド共和国軍がダノター城の包囲を開始し、城内のオギルヴィに対して降伏を勧告するが、オギルヴィはこれを拒絶し、孤立無援の中で包囲戦を戦い抜くが、包囲軍に重砲が到着したことで1652年5月24日、降伏した。この包囲戦中、オギルヴィは密かにスコットランドのレガリア(宝剣、王冠、王笏)を運び出しダノター城の南にある小さな集落のキンネフ古教会(” Kinneff Old Kirk”)の床下に埋めて隠した。この任務はオギルヴィの妻エリザベス・ダグラスら女性たちが担った。

「キンネフ古教会"Kinneff Old Kirk"」

「キンネフ古教会”Kinneff Old Kirk”」
© Victuallers / CC BY (wikimedia commonsより)

レガリアの行方がわからないことに気付いたイングランド軍はオギルヴィ夫妻をさらに数年に渡ってダノター城に幽閉して尋問したが、すでに国外に持ち出されたとの噂が流れたことで、尋問は打ち切られた。このときレガリアを隠し通したことは歴史上大きな意味を持った。1660年、クロムウェル親子の護国卿政権が瓦解したあと、守り通されていたレガリアの存在が王政復古を容易にしたのである。ロンドン塔に収監されていたオギルヴィは解放後の1662年、この功績によって準男爵に叙されオギルヴィ準男爵家を開いている(サー・ジョージ・オギルヴィ初代準男爵” Sir George Ogilvie, 1st Baronet”)。

王政復古によってオギルヴィと同じくロンドン塔に収監されていた第7代マリシャル伯ウィリアム・キースも解放され、スコットランド玉璽管理者” Keeper of the Privy Seal of Scotland”の重職に就いた。

「エディンバラ教会蔵スコットランド王権のレガリア(レプリカ)」

「エディンバラ教会蔵スコットランド王権のレガリア(レプリカ)」
© kim traynor / CC BY-SA (wikimedia commonsより)

名誉革命下のダノター城~「ホイッグの円蓋」

「十七世紀末のダノター城」(1693年、ジョン・シーザー作)

「十七世紀末のダノター城」(1693年、ジョン・シーザー作)


チャールズ2世死後の1685年、弟のヨーク公ジェイムズがイングランド王ジェイムズ2世(スコットランド王としてはジェイムズ7世)として即位すると、カトリック派の容認を巡って国政が混乱した。チャールズ2世の治世末期から、議会はカトリック派の王族による王位継承を認めるか否かで二つの派閥に分裂していた。カトリック排除を推進して請願運動を展開する派閥をホイッグ、国王への忠誠を重視しホイッグの活動を嫌悪する派閥をトーリーと呼び、後に英国の二大政党へと発展する勢力である。

1685年、反国王運動を展開するホイッグ派の男女167人がダノター城に監禁され、拷問を受けて国王への忠誠を求められた。37人が忠誠を受け入れ、25人が脱獄し、7人が死亡し、残った人々はみな北米植民地のパースアンボイ(現在のニュージャージー州)へ移送された。城内の建物「ホイッグの円蓋” Whigs’ Vault”」はこの故事にちなんで名付けられたものである。

「ホイッグの円蓋” Whigs' Vault”」

「ホイッグの円蓋” Whigs’ Vault”」
© Mr. Jason Hayes / Whigs Vault Dunnottar Castle | The Whigs Vault in Dunnottar … | Flickr / CC BY-NC 2.0

ジェイムズ2世の強権的な姿勢はやがて支持勢力であるトーリー派の離反すら招き、1688年、ホイッグ派とトーリー派は手を結んで王位継承権を持つプロテスタントのメアリとその夫オラニエ公ウィレムにイングランドへの上陸と戴冠を求めた。1688年12月18日、オラニエ公ウィレムとメアリは抵抗を全く受けずにロンドンへ入城、同23日、ジェイムズ2世は一家と共にフランスへ亡命し、「名誉革命」が実現した。このときのマリシャル伯は9代目のウィリアム・キースである。マリシャル伯はウィリアム3世とメアリ2世の即位に賛成して名誉革命体制を追認し、1689年のダンディー子爵の反乱でもウィリアム3世配下としてダノター城に駐留し、反乱軍の捕虜を城内に収監した。

「無血革命」などと言われることもある名誉革命だが、確かにイングランドにおいてはそうであったかもしれない。しかし、スコットランドにおいては数多の血が流れた「流血革命」であった。スコットランド国民にしてみると今回の国王交替は、イングランドの都合で勝手にすげ替えられたものである。ウィリアム3世の対スコットランド政策も差別的で、スコットランド諸侯にとっては大いに不満を抱かされた。オランダの君主でもあるウィリアム3世の当面の目標は大陸での対フランス戦争に英国の軍事力を投入することにある。このためには出来る限り早くスコットランド諸侯を従属させなければならず、躊躇なく強引な手段が取られた。1692年2月13日のウィリアム3世配下によるグレンコーの虐殺事件は反イングランド感情に火を着け、スコットランド各地で諸侯反乱が勃発、1696年にはウィリアム3世暗殺未遂事件も発生した。

ジャコバイトの乱とダノター城の廃城

「1890~1900頃のダノター城」

「1890~1900頃のダノター城」(パブリックドメイン画像)

スコットランド国民は、亡命中のジェイムズ2世の復帰を求めて積極的な働きかけを行うようになる。彼らジェイムズ2世復権を目指す人々は「ジャコバイト」と呼ばれた。1701年にジェイムズ2世がフランスで客死し、1702年のウィリアム3世の事故死とメアリ2世の妹アンの即位、1707年のイングランドとスコットランドの合同によるグレート・ブリテン連合王国の誕生、1714年のアン女王の死に続く、ドイツのハノーファー家出身のジョージ1世の即位と続くことで、法的にカトリックの王族による即位、すなわちジェイムズ2世の王統の復権への道が閉ざされることになった。

1715年、ジャコバイト派はジェイムズ2世の遺児ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート(ジェイムズ老僭王)を擁し、総力を挙げて反旗を翻す。この反乱軍に第10代マリシャル伯ジョージ・キースもいた。マー伯を指導者としたジャコバイト軍は一時スコットランドの大半を制し、イングランドへも侵攻したがマリシャル伯も参戦したシェリフミューアの戦い(1715年11月13日)でイングランド軍を追い詰めながら止めを刺し切れず、その後勢いを失って、1716年中に鎮圧される。マリシャル伯も亡命を余儀なくされ、マリシャル伯領とともにダノター城は王室に接収された。

最後のマリシャル伯ジョージ・キースはその後プロイセンへ渡り、フリードリヒ2世(大王)に重用されて外交官として活躍することになるが、ダノター城の方は、1717年、ヨーク鉱山会社に払い下げられると、調度品はすべて売り払われ、建物は破壊されて廃城となった。

放置され荒廃していたダノター城は、1925年、初代クードレイ子爵ウィートマン・ピアソン” Weetman Pearson, 1st Viscount Cowdray”によって購入され、彼の妻クードレイ子爵夫人アニー・ピアソンによって修復が開始された。以後、ピアソン家の所有下で整備され、一般公開されて、人気の観光地となっている(注8)。また、城内で結婚式を挙げることができるサービスも行われている(注9)。

「夏のダノター城の夕景」

「夏のダノター城の夕景」
© Tore Sætre / CC BY-SA (wikimedia commonsより)

ダノター城の幽霊

まことしやかに語られるダノター城の噂話として幽霊にまつわるものは多い。ダノター城内の醸造所跡でくすんだ緑色のドレスに身を包んだ少女の幽霊が現れ、醸造所の出入り口付近で姿を消した。あるいはトンネルで鹿狩りの猟犬の幽霊が現れたとか、背の高いスカアンジナビア人の幽霊が衛兵室に入ったとか、「ベンホルムの宿」から大勢で会議をする声が聞こえるが、行ってみると誰もいない、などである(注10)。

参考文献

・青山吉信・飯島啓三・永井一郎・城戸毅編著『イギリス史〈1〉先史~中世 (世界歴史大系)』山川出版社,1991年)
・青山吉信編著『イギリス史〈2〉近世 (世界歴史大系)』(山川出版社,1990年)
・森護著『英国王室史話』(大修館書店,1986年)
・森護著『スコットランド王国史話』(大修館書店,1988年)
・森護著『英国王室史事典』(大修館書店,1994年)
・J・E・カウフマン/H・W・カウフマン共著(中島智章訳)『中世ヨーロッパの城塞』(マール社,2012年)
・Alcock, Leslie; Alcock, Elizabeth A (1992). “Reconnaissance excavations on Early Historic fortifications and other royal sites in Scotland, 1974–84; 5: A, Excavations & other fieldwork at Forteviot, Perthshire, 1981; B, Excavations at Urquhart Castle, Inverness-shire, 1983; C, Excavations at Dunnottar, Kincardineshire, 1984
・Wands, Jim “Origins of Dunnottar Castle – Dunnottar Castle – where legends come to life.
・”Dunnottar Castle Stonehaven
・“Dunnottar Castle – Wikipedia
・”Dunnottar Castle homepage“ダノター城公式サイト(英語)

脚注

1) Wands, Jim “Origins of Dunnottar Castle – Dunnottar Castle – where legends come to life.”(ダノター城公式サイトのブログ記事)より ”Fort on the shelving slope”

2) この項は主に“Dunnottar Castle – Wikipedia”の記述を中心に参照してまとめたもの。

3) Wands, Jim “Origins of Dunnottar Castle – Dunnottar Castle – where legends come to life.

4) Alcock, Leslie; Alcock, Elizabeth A (1992). “Reconnaissance excavations on Early Historic fortifications and other royal sites in Scotland, 1974–84; 5: A, Excavations & other fieldwork at Forteviot, Perthshire, 1981; B, Excavations at Urquhart Castle, Inverness-shire, 1983; C, Excavations at Dunnottar, Kincardineshire, 1984” pp.268-269.

5)” History – Dunnottar Castle – where legends come to life.

6) Alcock (1992). pp.281-282.

7)キース家は十二世紀頃に始まり、十四世紀にロバート・ザ・ブルース(スコットランド王ロバート1世)配下の有力武将としてバノックバーンの戦いなど対イングランド戦争で活躍したロバート・キース(1332年没)が1324年、「スコットランドのマリシャル」に任じられた。

8) Wands, Jim “Origins of Dunnottar Castle – Dunnottar Castle – where legends come to life.”によれば、2017年の来場者数は11万人であったとのこと。

9)” Weddings – Dunnottar Castle – where legends come to life.

10)” Dunnottar Castle Stonehaven”の” The Ghosts Of Dunnottar Castle”を参照。

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