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コルチェスター城~ローマ帝国の栄光を受け継ぐノルマン征服の象徴

コルチェスター城” Colchester Castle ”は英国エセックス州の主要都市コルチェスターにある中世の城塔。コルチェスター市にかつてあった古代ローマ属州時代の都カムロドゥヌムの遺構の資材を再利用して、イングランド王ウィリアム1世の命で1076年から1100年頃にかけて方形の天守塔(キープ)が築かれた。現在はコルチェスター博物館となっている。

Colchester Castle, Essex.
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ローマ帝国ブリタニア属州の都カムロドゥヌム

「カムロドゥヌムにあるローマ時代(一世紀)の門、バルケルン門の復元図」

「カムロドゥヌムにあるローマ時代(一世紀)の門、バルケルン門の復元図」
© Carole Raddato from FRANKFURT, Germany / CC BY-SA (wikimedia commonsより)

コルチェスター城があるコルチェスター市の歴史は非常に古く、紀元前一世紀、ケルト系の戦争神カムルス” Camulus”が祀られた聖地カムロドゥノン” Camulodunon”であった。一世紀、ローマ帝国軍の侵攻が開始した時はトリノヴァンテス族の主要な集落(オッピドゥム” Oppidum”)となっており、ブリタニア属州が成立すると属州全体の州都カムロドゥヌム” Camulodunum”としてローマ式の城塞都市(カストルム” castrum”)が築かれた。

西暦60年または61年、イケニ族の女王ブーディカ” Boudica”の反乱に際して、ブーディカ軍がカムロドゥヌム近郊の戦いでローマ軍を撃破し、カムロドゥヌムを征服、破壊した。反乱鎮圧後再建され、引き続き属州の都として繁栄したが、ローマ帝国のブリタニア支配が終わる四~五世紀には衰退し、ローマ撤退後はブリテン島東部という位置もあってアングロ・サクソン人や、後にヴァイキングの侵攻の被害を受けた。

また、後のアーサー王物語における王の宮廷キャメロット(カムロット)の語源に関する有力な説の一つとしてカムロドゥヌムあるいはカムルス神の名が語源であるとするものがある(注1)。

「カムロドゥヌムの遺構から発見された西暦175年頃の壺(コルチェスター博物館収蔵)」

「カムロドゥヌムの遺構から発見された西暦175年頃の壺(コルチェスター博物館収蔵)」
© Carole Raddato from FRANKFURT, Germany / CC BY-SA (wikimedia commonsより)

築城

コルチェスター城

「コルチェスター城」
Peter Broster / CC0


コルチェスターは、古代ローマ時代は属州の州都として栄えたが、七王国時代にイースト・アングリア王国が成立すると王国の首都となったレンドルシャムや七世紀頃に誕生したイプスウィッチなど繁栄の中心は北へ移動して、コルチェスターはイプスウィッチ近郊の小規模な集落の一つとなった。その後港が整備され、ウェセックス王国(イングランド王国)の支配下となった九世紀から十世紀にかけてイングランド東部の重要都市へと成長する。コルチェスターの名は十世紀頃から登場している。

1066年、ヘースティングズの戦いハロルド2世を倒し、イングランド王となったウィリアム1世は統治体制を確立するためイングランド各地に城を築いた。ウィリアム1世は有力家臣のユード・ダピファー(”Eudo Dapifer”,1120年没)に与え、築城を命じた。コルチェスター城の設計者はロンドン塔ホワイトタワーの設計者として知られるロチェスター司教ガンダルフ” Gundulf of Rochester”であったとみられ、ロンドン塔の築城開始と同時期の1070年代から築城が行われたとみられる。

コルチェスター城はローマ時代のクラウディウス帝を祀った神殿の遺構上にローマ時代の資材を再利用して築かれた。方形の天守塔(キープ)の基底部の大きさは46m×34m、十七世紀に上層部が破壊されたため現存するのは二階部分までだが、当初計画では四階建てで、後に計画変更されて三階建てで築城された。ロンドン塔ホワイトタワーの約1.5倍におよび、現存するキープとしてもヨーロッパ最大のものとなる。ローマ時代の城壁を再利用した高さ4mの城壁で囲まれたベイリーと防塁、堀などを備えた堅城であった。

当初、一階部分だけが築かれたが、これは1075年のデンマーク軍の侵攻など軍事的脅威が背景にあったとみられている。1076年から築城が再開され、1100年まで二期に分けて工事が行われた。

ノルマン征服の象徴

Henry Laver  (1829–1917) 「コルチェスター城(1916)」(パブリックドメイン画像)

Henry Laver (1829–1917) 「コルチェスター城(1916)」(パブリックドメイン画像)

この場所に築城された要因として、ローマ時代の遺構からの資材が利用しやすかったことやコルチェスターの地政的重要性とあわせて、ノルマン人の王朝が自らをローマ帝国と重ね合わせていた点が多く指摘されている。

『ノルマン人は過去の偉大なる帝国と自分たちを意図的に結びつけることで、自らがローマの後継者に値することを明白にしめそうとしたのである。』(注2)

ウィリアム1世の伝記「ノルマン人の公ウィリアムの事績録」(1070年頃成立)を著したポワティエのギヨーム(ウィリアム・オブ・ポワティエ)は、ウィリアム1世をユリウス・カエサル、ウィリアム1世の家臣団をローマの元老院に例えている。また、ローマ時代のカムロドゥヌム遺構は伝説のコルチェスター市創始者とされるローマあるいはブリトン人の王コオル老王(4世紀頃?)の宮殿跡だとも言われていた。このようなローマ帝国の遺構が残り、ブリトンの伝説にまつわるこの場所に、巨大な城を築くことで自身の王権の正統性をアピールしたとみられている。コルチェスター城はイングランド全土を睥睨する征服と支配の象徴であった。

第一次コルチェスター城包囲戦(1215~1216年)

「コルチェスター城"Colchester Castle"」(パブリックドメイン画像)

「コルチェスター城”Colchester Castle”」(パブリックドメイン画像)


ユード・ダピファー死後、コルチェスター城は王家の直轄として城代が派遣されて管理されていた。ヘンリ2世治世下でコルチェスター城はたびたび工事が行われており、防衛が強化されていたものとみられる。

リチャード1世時代の1196年に城代に任じられたウィリアム・ド・ランヴァレイ(” William de Lanvalai”1217年没)は、1215年、ジョン王と諸侯の間で交わされたマグナ・カルタの承認に際して諸侯代表の一人を務め、その後始まる第一次バロン戦争(1215~1217)でも反ジョン王の立場に立った。ジョン王はランヴァレイに替えて家臣のスティーヴン・ハレングッド” Stephen Harengood”をコルチェスター城の守備隊長とした。

第一次バロン戦争(1215~17年)はマグナ・カルタの履行を巡る王家と諸侯との対立で始まり、反乱諸侯がフランス王太子ルイ(後のルイ8世)を新イングランド王に擁立しようとすることで内戦となった。ジョン王はウィンザー城を拠点として反乱諸侯の鎮圧に乗り出す一方、1216年5月、諸侯の招きに応じて王太子ルイが率いるフランス軍がイングランドへ侵攻してロンドンを占領して一進一退の攻防となった。

着実に反乱諸侯の諸城を奪還して回ったジョン王は、1215年秋、自らは要衝ロチェスター城の攻略に乗り出すとともに、傭兵隊長サヴァリー・ド・ミューロン” Savary de Meuleon”を反乱軍に奪われたコルチェスター城の攻略に向かわせた。コルチェスター城に籠る反乱軍は激しく抵抗したが、1216年3月、ジョン王の本隊がコルチェスター城に到着したことで降伏した。

「魔女狩り」

戦後コルチェスター城は王家の直轄地となり、1226年以降、刑務所として利用された。著名な囚人として、1656年、クエーカー教徒のジェイムズ・パーネルが収監され、獄死している。

1580年代から1670年代にかけてヨーロッパ全土で「魔女狩り」が横行し、多くの犠牲者を出すことになったが、イングランドでの魔女狩りを主導したのが自称「魔女狩り将軍(注3)」マシュー・ホプキンス(1620-1647、注4)である。彼は清教徒革命の内戦の混乱に乗じてイングランド東部を中心に各地で魔女狩りを行い、拷問や不正な尋問を行って300人以上の「魔女」を見つけ出して処刑させ、非常に高額の報酬を得て財をなした。ホプキンスの魔女狩りの舞台の一つとなったのがコルチェスター城で、1645年、城内で多くの人々を尋問にかけ処刑している。

第二次コルチェスター城包囲戦(1648年)

スコットランドで起きた反乱鎮圧の戦費課税を巡る国王チャールズ1世とイングランド議会の対立から武力衝突となった第一次イングランド内戦(1642~1646年)は国王チャールズ1世がスコットランドへ逃れたことで一旦終結する。しかし、議会内急進派と穏健派の対立に絡んで穏健派が国王と接近したことで、1648年、第二次内戦(1648~1649年)が勃発した。

この内戦で国王派の拠点となったのがコルチェスター城である。国王派についたエセックス州平定のため議会派の有力指揮官トマス・フェアファクス(” Thomas Fairfax”)率いる議会派軍約5000名に対し、国王派の有力指揮官初代ノーリッチ伯ジョージ・ゴーリング(” George Goring, 1st Earl of Norwich”)率いる国王派軍約4000名は、1648年6月12日、コルチェスター城に籠城して抵抗した。

守備隊は北部の国王派の南下や南部のケント地方で議会軍と戦っているホランド伯軍の到着を、包囲軍はクロムウェルのニューモデル軍の再編成完了という、ともに増援を期待しての包囲戦で、両軍互角の兵力を有していたことから戦いは拮抗した。7月、フェアファクスはコルチェスター城の補給網を断つことに成功し、7月10日、セント・ネオッツの戦いで増援として期待されていたホランド伯軍がクロムウェル軍によって壊滅させられ、その後も抵抗をつづけたが、8月24日、天王山の戦いとなったプレストンの戦いで国王派軍が壊滅したため、増援の望みが完全に断たれ、8月28日、降伏した。

ノーリッチ伯は助命されたが、彼の下で部隊を指揮した二人の士官チャールズ・ルーカスとジョージ・ライルが責任を問われ処刑された。現在、彼らのモニュメントがコルチェスター城公園内に建てられている。

「コルチェスター城公園のチャールズ・ルーカスとジョージ・ライルのモニュメント」(パブリックドメイン画像)

「コルチェスター城公園のチャールズ・ルーカスとジョージ・ライルのモニュメント」(パブリックドメイン画像)

城の破壊と修復

1629年からコルチェスター城はカーライル伯家の所有となっていたが、包囲戦後の1649年にオリヴァー・クロムウェル配下の軍人でウィンザー城総督ジョン・レントールに売却された。1656年、軍人ジェイムズ・ノーフォークが購入し、1683年、石工ジョン・ウィリーが城を建築資材に転用することが許可されたが、費用対効果の問題から城の上部が取り壊されるに留まった。

1727年、コルチェスター城はウェブスター家の所有となり、結婚を通じて弁護士・政治家のチャールズ・グレイ(” Charles Gray”1696~1782)に受け継がれた。グレイは城を地元の穀物商や城の一部を郡刑務所として利用する市当局へ貸し出す一方、前世紀の破壊の修復を進め、現在見ることが出来るファサードや塔を増築し、城の周囲を公園にするなど、コルチェスター城の整備を進めた。

1922年、初代クードレイ子爵ウィートマン・ピアソン(” Weetman Pearson, 1st Viscount Cowdray”,1856~1927,注5)から多額の資金援助を受けたコルチェスター市が城を購入し、整備が進められて、現在コルチェスター博物館として一般公開されている。

参考文献

・青山吉信・飯島啓三・永井一郎・城戸毅編著『イギリス史〈1〉先史~中世 (世界歴史大系)』山川出版社,1991年)
・青山吉信編著『イギリス史〈2〉近世 (世界歴史大系)』(山川出版社,1990年)
・森島恒雄著『魔女狩り (岩波新書)』(岩波書店,1970年)
・チャールズ・スティーヴンソン 著(中島智章 監修/村田綾子 訳)『ビジュアル版 世界の城の歴史文化図鑑』(柊風舎,2012年)
・チャールズ・フィリップス著(大橋竜太監修,井上廣美訳)『イギリスの城郭・宮殿・邸宅歴史図鑑』(原書房,2014年)
・フィリップ・ヴァテール著(渡邉浩司,渡邉裕美子 翻訳)『アーサー王神話大事典』(原書房、2018年)
・”Colchester Museums“(公式サイト)
・”Colchester Castle and Roman Town Walls | Eastern England | Castles, Forts and Battles
・”Colchester Castle | Norman Connections | Discover Norman History
・”Iron-Age and Roman Colchester | British History Online
・”Camulodunum – Wikipedia
・”Colchester Castle – Wikipedia
・”Siege of Colchester – Wikipedia

脚注

1)カムロス神/カムロドゥヌムをキャメロットの語源とするのはあくまで説の一つ。キャメロットの語源については非常に多くの説があり、ウェールズ語の「カンボランダ(”cambolanda”円形の囲い地の意)」や「カンボグランナ(”camboglanna”湾曲した岸、または囲い地)」など。また、キャメロットの位置についてもカムロドゥヌムからコルチェスターとする説のほか、サマセット州のキャドベリー・カースル、コンウォールのキャメル、ハンプシャー州の州都ウィンチェスター市など。(フィリップ・ヴァテール著(渡邉浩司,渡邉裕美子 翻訳)『アーサー王神話大事典』(原書房、2018年)112-113頁)

2) チャールズ・スティーヴンソン 著(中島智章 監修/村田綾子 訳)『ビジュアル版 世界の城の歴史文化図鑑』(柊風舎,2012年)64頁

3) 「魔女狩り将軍」の訳は森島恒雄著『魔女狩り (岩波新書)』(岩波書店,1970年)93頁参照。なお英文では” Witchfinder General”なので直訳するなら「魔女発見将軍」となる。

4)日本語版Wikipediaを始め彼に関する多くの日本語サイトで没年不明(1647年以降)とされているが、英語版Wikipedia”Matthew Hopkins – Wikipedia“ではマシュー・ホプキンスの伝記Gaskill, Malcolm (2005), “Witchfinders: A Seventeenth-Century English Tragedy”を出典として1647年8月12日と明記されている。

5) メキシコでの石油事業や鉄道敷設、港湾建設など多数の事業を手掛け、現在の世界的メディア企業グループ・ピアソン” Pearson PLC”を急成長させた事業家であり、政治家、教育者、慈善活動家である。コルチェスター城への投資の他、スコットランドのダノター城を購入して修築・保存するなど英国の歴史的建造物の保護に大きな貢献があった。

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