スポンサーリンク

ロチェスター城” Rochester Castle ”~中世イングランドにそびえる摩天楼

ロチェスター城” Rochester Castle”はイングランド・ケント州ロチェスター市に建つ中世城塞。イングランドで最も高い1127年築城の天守塔(キープ)はロチェスター大聖堂とともに同市の象徴として愛されている。2011年の映画「アイアンクラッド”Ironclad”」は1215年に行われたロチェスター城の攻防戦を描いたもの。

Rochester Castle and Cathedral 4K Dji Mavic Pro Drone Footage
スポンサーリンク

古代~中世前期のロチェスター

ロチェスター城と大聖堂

「ロチェスター城と大聖堂」
© Clem Rutter, Rochester, Kent / CC BY

ロチェスター城が建つロチェスター市の歴史は古く、紀元前、古代ケルト人のカンティアキ” Cantiaci”族が集落(オッピドゥム”Oppidum”)を築いていた。メドウェイ川に面し、古代街道の一つワトリング街道が通っていた交通の要衝であった。

一世紀、ローマ帝国の征服下で都市が築かれ、現在のロチェスター橋と同じ場所にメドウェイ川を横断する橋を築いた。古名として残る「ドゥロブリヴァエ” Durobrivae”」は「橋」「要塞」「砦」などを意味する(注1)が、ローマ支配以前に軍事施設が築かれていたかは定かではなく、この名前がローマ以前からあるものか、ローマ征服後に名付けられたものかははっきりしない。また、” Durobrovum”や”Durobrivis”の名でも記録があり、これは「急流” Dourbruf”」のラテン語化に由来する可能性がある(注2)。

七王国時代、ロチェスターはケント王国の支配下となり、604年、カンタベリーに続いてロチェスターにも司教座がおかれ、キリスト教布教の拠点都市として栄えた。九世紀、ヴァイキングの侵攻によってロチェスターは度々破壊と略奪の目にあったが、完全に衰退することはなく、十世紀から十一世紀にかけて、貨幣鋳造権が認められたり、ロチェスター橋の修復が行われるなどの記録が残る(注3)。

築城

ロチェスター城

ロチェスター城(パブリックドメイン画像)

ノルマン征服後、ウィリアム1世は「バイユーのタペストリー」の作者として知られる義弟バイユー司教オドをケントの伯に任じた。ウィリアム1世死後の1088年、長男ノルマンディー公ロベール2世と次男イングランド王ウィリアム2世の間で内戦となり、オドはノルマンディー公に味方して、ロチェスターに木造の城を築いた。乱後、オドは失脚し、彼の築いた城も破却された。1089年頃、ウィリアム2世はロチェスター司教ガンダルフに築城を命じ、現在の城の南西部に城が築かれた。この最初期の城があったと思われる場所は「ボーレイ・ヒル” Boley Hill”」の名で呼ばれている。この頃のガンダルフによる石製の城壁が現在も残っている。

1090年頃のロチェスター城地図

1090年頃のロチェスター城地図

1127年、ヘンリ1世の命により旧来の城は破棄されて、新たにカンタベリー大司教ウィリアム・デ・コルベイル(” William de Corbeil”、フランス語” Guillaume de Corbeil”ギヨーム・ド・コルベイユ、1136年没)に城の継承権が与えられ、コルベイルによって現在のロチェスター城が築かれた。

このとき、おそらく十年ほどかけて築かれた天守塔(キープ)は21メートル×21メートルの正方形で、高さ34.5メートル、四隅に備えられた小塔はさらに3.5メートル高く、現存する天守塔としてはイングランドで最も高い。主な建材として使われている石はケント産のラグストーン(硬質の石灰岩、ケンティッシュ・ラグストーン”Kentish Ragstone”)で、当時、良質な建材として築城時に重宝された(注4)。以後、キープは大きな破損もなく当時の姿で現在まで残っており、ノルマン時代を知ることができる非常に稀有な城である。

以後ロチェスター城は代々カンタベリー大司教の管理下に置かれ、ヘンリ2世時代の十二世紀後半には堀や城壁などが整備・強化された。

第一次ロチェスター城包囲戦

第一次バロン戦争(1215~17年)はマグナ・カルタの履行を巡る王家と諸侯との対立で始まり、反乱諸侯がフランス王太子ルイ(後のルイ8世)を新イングランド王に擁立しようとすることで内戦となった。ジョン王はウィンザー城を拠点として反乱諸侯の鎮圧に乗り出す一方、1216年5月、諸侯の招きに応じて王太子ルイが率いるフランス軍がイングランドへ侵攻してロンドンを占領して一進一退の攻防となった。

このとき、ロチェスター城を管理するカンタベリー大司教位にはスティーヴン・ラングトンが就いていたが、ラングトンとジョン王は長く対立関係にあった。1205年、王に忠実だったカンタベリー大司教ヒューバート・ウォルターが亡くなると、ジョン王は自身に忠実なノリッジ司教ジョン・デ・グレイを推薦したが、ローマ教皇インノケンティウス3世はこれを退け、ラングトンをカンタベリー大司教に就けた。この任命問題はローマ教会との激しい政治闘争となり、ジョン王の破門にまで進展する。1213年、ようやく和解するが、対立の火種はくすぶったままであった。国内の不安が高まる中で、ラングトン大司教は諸侯に王への反抗を呼びかけ、諸侯の要求をとりまとめてマグナ・カルタを起草、交渉が決裂した結果始まるのが第一次バロン戦争と呼ばれる内戦であった。

マグナ・カルタの締結に際して、ラングトンはジョン王にロチェスター城の引き渡しを約束していたが、内戦が勃発すると引き渡しを拒否して反乱軍を迎え入れた上で、自身は国外へ逃亡した。ベルヴォア領主ウィリアム・ドービニー” William d’Aubigny, lord of Belvoir”以下騎士95名、歩兵(弩兵)45名がロチェスター城の守備を固め、1215年10月11日、ジョン王自ら率いる国王軍がロチェスター城の包囲を開始した。

国王軍は「ボーレイ・ヒル」に本陣を置き、五つの攻城兵器によって天守塔に対し激しい投石を行ったが、ダメージを与えることは出来なかったため、ジョン王は戦術を転換して坑道を掘って城壁を破壊し、ベイリー(城庭、日本の城でいう郭/曲輪にあたる)を占拠。守備隊は天守塔へ退却を余儀なくされた。ジョン王から腹心である行政長官ヒューバート・ド・バーグへ宛てた1215年11月25日付の書簡では「塔の下に火をつけるために、食べられないほど太った豚を40匹、昼夜を問わず最速で送るように」(注5)と指示が送られている。

また、10月26日、ロンドンからロチェスター城に向けて送られた補給部隊もジョン王によって退けられるなど、城内では兵糧の欠乏が目立つようになり、食い扶持を減らすため戦闘能力の劣るものを城外に出したが、ジョン王は見せしめのため、彼らの手足を切断させたという。11月30日、守備隊は降伏し、ロチェスター城包囲戦は終結した。このとき、ジョン王は慣習に基づき敵兵を処刑しようとしたが、側近サヴァリー・ド・ミューロン” Savary de Mauléon”の進言(注6)により思いとどまっている。

第二次ロチェスター城包囲戦

第一次バロン戦争後、ロチェスター城はイングランド王家の直轄となり、ヘンリ3世治世下で修復と増強工事が行われた。1226年から31年にかけて、二重の石製の城壁が築かれ、大広間、礼拝堂などが修復され、1244年に第二礼拝堂、1248年には厩舎がそれぞれ増設された。さらに1248年から50年にかけてゲートハウスが再建されている。

ヘンリ3世は度々大陸への出兵を繰り返したが、その費用は諸侯への課税に頼った。シチリア十字軍への参加費用調達のための課税案に対し諸侯が反発、1264年、第六代レスター伯シモン・ド・モンフォールを指導者として反乱が勃発した。この内戦は「第二次バロン戦争」または「シモン・ド・モンフォールの乱」と呼ばれている。

ロチェスター城の守備隊長ロジャー・ド・レイボーン” Roger de Leybourne”(注7)は国王を支持しており、国王派の重鎮サリー伯ジョン・ド・ワーレンも部隊を率いて入城。1264年4月17日、ハートフォード伯ギルバート・ド・クレア率いる諸侯軍がロチェスター城の包囲を開始した。翌4月18日には反乱軍の首魁レスター伯シモン・ド・モンフォール率いる主力がロチェスター市を占領して包囲に加わり、攻城兵器が用意されて総攻撃が行われたが、前回に続いて天守塔はびくともせず、4月26日、業を煮やした包囲軍が坑道を掘ろうとしたとき、ヘンリ3世と王太子エドワード(後のエドワード1世)の国王軍主力がロチェスター城救援のため進発したとの報告を受けたため、モンフォールらは包囲を断念して退却した。

衰退

「ロチェスター城天守塔内部」

「ロチェスター城天守塔内部」
©David Ansley / CC BY

包囲戦によってロチェスター城は大きな損害を被ったが、戦後、ロチェスター城の修復は先送りされ、崩壊が進んだ。修復が始められたのは1367年のことで、1370年まで三年かけて城壁などの修復が行われた。1381年、大規模な農民反乱である「ワット・タイラーの乱」で民衆に占拠され略奪と破壊が行われ、城内に捕われていた囚人たちが解放された。

ランカスター朝時代、ヘンリ4世によって城はアランデル伯の管理下となり、1423年、ヘンリ5世死後、ヘンリ5世妃キャサリン・オブ・ヴァロワに与えられた。キャサリン・オブ・ヴァロワ死後、王家の管理下となったが、城の軍事的重要性は低下しており、薔薇戦争を経てテューダー朝が成立した十六世紀には、無用の長物となっていた。1599年、エリザベス1世は新たに建設するアップノール城の建材として再利用するためロチェスター城の破壊を許可し、このとき天守塔を除く城壁や関連施設の多くが取り除かれた。

十七世紀、清教徒革命とイングランド内戦ではロチェスター城は利用されることはなく、1660年代には廃城となっていた。以後、十九世紀まで所有者は幾度か変わりながらも利用されることはなく、往時を偲ぶ廃城として観光名所となっていた。十九世紀ロマン主義を代表する風景画家ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーが描き、ロチェスターに住んだ作家チャールズ・ディケンズが作品” The Pickwick Papers”(1836)や” The Mystery of Edwin Drood”(1870)などに登場させている。

 Langton, Robert,"Charles Dickens and Rochester"(1880)の挿絵(カリフォルニア大学図書館収蔵)

Langton, Robert,”Charles Dickens and Rochester”(1880)の挿絵(カリフォルニア大学図書館収蔵)

参考文献

・青山吉信・飯島啓三・永井一郎・城戸毅編著『イギリス史〈1〉先史~中世 (世界歴史大系)』山川出版社,1991年)
・青山吉信編著『イギリス史〈2〉近世 (世界歴史大系)』(山川出版社,1990年)
・チャールズ・スティーヴンソン 著(中島智章 監修/村田綾子 訳)『ビジュアル版 世界の城の歴史文化図鑑』(柊風舎,2012年)
・チャールズ・フィリップス著(大橋竜太監修,井上廣美訳)『イギリスの城郭・宮殿・邸宅歴史図鑑』(原書房,2014年)
Ashbee, Jeremy” History of Rochester Castle | English Heritage
Rochester Castle
Rochester Castle – Wikipedia
History of Rochester, Kent – Wikipedia

脚注

1)” History of Rochester, Kent – Wikipedia ”参照。同記事の該当の記述で出典とされているのは” Glover, Judith (1982), The Place names of Kent, Batsford (1976), republished by Meresborough Books”

2) ” History of Rochester, Kent – Wikipedia ”参照。同記事の該当の記述で出典とされているのは” Kelly’s Directory of Rochester, 1951”

3) ” History of Rochester, Kent – Wikipedia ”参照。同記事の該当の記述で出典とされているのは” Rochester, The past 2000 years, City of Rochester Society (private pub), 1999”,” Stenton, Frank M (1971), Anglo-Saxon England, The Oxford History of England, II, OUP,p536”,” Harrison, Shirley & Evemy, Sally, Rochester upon Medway, the Tale of a City, The Word Team,p10”,” Whitelock, Dorothy (1974), The Beginnings of English Society, Pelican History of England, 2, Penguin,p77”

4)” The Gallagher Group | Kentish Ragstone

5)“ Rochester Castle – Wikipedia ”参照。”send to us with all speed by day and night forty of the fattest pigs of the sort least good for eating to bring fire beneath the tower”の訳。出典とされているのはBrown, Reginald Allen (1969), Rochester Castle, London: Her Majesty’s Stationery Office,p.14

6) 処刑することで反乱軍が他の城の国王派の守備隊に同じような扱いをするおそれがあると忠告した。

7)父で同名のロジャー・ド・レイボーンは1215年の包囲戦において守備側で参戦しており、父は反国王派、子は国王派と立場は正反対ながら、親子でロチェスター城の守備についた縁がある。また、彼はその第一次包囲戦が行われた1215年の生まれでもある。

タイトルとURLをコピーしました