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キャリクファーガス城――北アイルランドの要衝の攻防の歴史

キャリクファーガス城(パブリックドメイン画像)

キャリクファーガス城(パブリックドメイン画像)

キャリクファーガス城(Carrickfergus Castle,またはキャリックファーガス城/アイルランド語”Carraig Ḟergus”)は、アイルランド島北東部、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国を構成する北アイルランドのアントリム県の主要都市キャリクファーガスにある城である。

キャリクファーガスはアイリッシュ海を臨むベルファスト湾の北岸に位置し軍事・交通の拠点となる古都で、その名はダルリアダ王国の伝説の王ファーガス大王(五世紀末?)に由来する「ファーガスの岩(Carraig Fhearghais)」から転じたものと言われる。キャリクファーガス城は1180年の築城以来、その立地ゆえにアイルランド、スコットランド、イングランド三勢力対立の主戦場として度々争奪戦が起きた戦略的要衝であった。

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ノルマン人のアイルランド侵攻

「西暦900年頃のアイルランド勢力図」(パブリックドメイン画像)

「西暦900年頃のアイルランド勢力図」(パブリックドメイン画像)

十二世紀のアイルランドは諸王国がアイルランドの支配権をかけて争う戦国時代となっていた。アイルランド北西部(北イー・ネール)を支配するマク・ロフリンが宗主権を持つアイルランド上王(High King)として、アイルランド東部を支配するレンスター王ダーモット・マクマロー(英語”Dermod MacMurrough”, アイルランド語” Diarmaid mac Murchadha”)と同盟して最大勢力となっていたが、1166年、アイルランド西部を支配するコナハト王が新たにアイルランド上王に就くと諸勢力を束ねて仇敵レンスター王国へ侵攻する。1167年、王位を追われたダーモット・マクマローはイングランド王ヘンリ2世(在位1154-1189)に助力を請うた。

時のイングランド王ヘンリ2世は元々フランス中西部の有力諸侯アンジュー伯家出身で、婚姻関係や戦争を通じてノルマンディー、アンジュー、ブルターニュ、ポワトゥー、アキテーヌなどフランス北部から西部にかけての諸侯領を束ね、さらにイングランド王位を獲得してブリテン島とフランスの大半を支配する帝国――アンジュー帝国――を打ち立てていた。

ダーモット・マクマローからの臣従と引き換えに援軍の許可を出したヘンリ2世は、配下の“ストロングボウ(強弓)”の異名で知られるノルマン貴族リチャード・ド・クレア(Richard de Clare)らに出兵を命じた。ストロングボウはダーモット・マクマローを助けてコナハト王を破り、そのまま勢力を拡大してレンスター王死後の1171年、自らレンスター王に即位する。自立化の意図を隠さないストロングボウの勢力拡大を危惧したヘンリ2世は、同年アイルランドへ出兵してストロングボウを服従させると、翌年までにアイルランドを平定する。1175年、アイルランド諸侯はヘンリ2世を上級領主と認めるウィンザー条約を結び、ヘンリ2世は「アイルランド君主(Lords of Ireland)」として彼らの上に君臨することになった。

キャリクファーガス城の築城

このような背景で以後多くのノルマン人貴族がイングランドからアイルランドへ進出を開始する。ジョン・ド・コーシー(John de Courcy)もその中の一人として1177年、私兵を率いてアイルランド北部アルスター地方に侵攻し、アルスター地方北東部のウライド王国を滅ぼすとアルスター地方全域に勢力を拡大、アルスター王を自称するまでになった。キャリクファーガス城は、ウライド王国を滅ぼした直後、自らの拠点としてジョン・ド・コーシーが築いた城であった。ベルファスト湾に突き出した岬の突端の岩盤上に位置し、周囲の四分の三は海に囲まれた天然の要害で、建設当時、大ホールを含むいくつかの建物からなる主郭(インナーベイリー)の周囲を高層の城壁が囲む構造であった。

1205年、ジョン・ド・コーシーの勢力拡大を危惧したジョン王(在位1199-1216)の命を受けたノルマン貴族ヒュー・ド・レイシー(Hugh de Lacy)によってジョン・ド・コーシーは捕らえられ、キャリクファーガス城を含めたアルスター地方は新たにアルスター伯に叙されたヒュー・ド・レイシーの支配下に入った。1210年、自ら軍を率いてアイルランドへ親征してきたジョン王はキャリクファーガス城を直轄として駐留部隊が置かれた。

1205年からヒュー・ド・レイシーによってゲートハウスやキープ(主塔)などの建設が始められ、1217年、東側の海岸線に沿って新たな城壁の建設が進められた。以後1250年頃までかけて城の陣容が整えられる。

「キャリクファーガス城全図」

「キャリクファーガス城全図」
(出典:太田静六著『イギリスの古城 (世界の城郭)』吉川弘文館、 2010年、124頁)より

主塔(キープ)は1214年以前に築かれ、高さ27.5メートル、18メートル×16.8メートルの方形に近い矩形でアイルランドの城として屈指の大きさを誇る。城の北側の城門(ゲートハウス)は左右にそれぞれ直径12メートルの円塔が設けられている。非常に堅固な作りの要塞で、十六世紀からは大砲や火器に対応して改修が加えられたが、中世当時の構造をほぼそのまま現在まで残している点で非常に稀有な城の一つである。

スコットランド王家のアイルランド遠征

「夕刻のキャリクファーガス城」

「夕刻のキャリクファーガス城」
© Stewart, CC BY-SA 2.0 , via Wikimedia Commons


十三世紀末、王位継承問題に介入してスコットランドを支配下に置いたイングランド王エドワード1世(在位1272-1307)に対し、ウィリアム・ウォレスやロバート・ブルース(後のスコットランド王ロバート1世(在位1306-29))らスコットランド諸侯は独立戦争を起こし、1314年、バノックバーンの戦いでスコットランド軍がイングランド軍を壊滅させてスコットランドはイングランドの支配から脱した。

次の一手としてロバート1世は弟のエドワード・ブルースをアイルランドへ侵攻させることにした。イングランドの補給基地となっているアイルランドを抑えてイングランドの力を殺ぎ、さらに北(スコットランド)と西(アイルランド)と南(同盟中のフランス)の三方向からイングランドを包囲することが可能になる。またブルース家はアイルランドのレンスター王家の末裔を称しており、アイルランド支配の正当性を主張できた。

1315年5月26日、エドワード・ブルース率いるスコットランド軍5000名はキャリクファーガスの北に位置するラーンの沿岸に上陸し、親英派諸侯軍を撃破するとキャリクファーガスへ進軍した。スコットランド軍は市街地を支配下に収めたもののイングランド守備隊の抵抗でキャリクファーガス城を容易に落とせなかったため、イングランド軍を城に封じ込めたまま、キャリクファーガスを拠点にアイルランド征服に乗り出した。

スコットランド軍は多くの同盟者を得て一時はアイルランドの大半を支配し、1316年にはエドワード・ブルースがアイルランド王即位を宣言するほどだったが、当時全欧州に広がる大飢饉(1315-1317,注1)がその野望を打ち砕くことになった。スコットランド軍は慢性的な物資・食料の不足を掠奪によって補ったため民衆の不満が高まり多くの離反を招いた。1318年10月14日、ファーハートの戦い(Battle of Faughart)で親英派アイルランド諸侯軍に敗れてエドワード・ブルースが戦死、遠征軍はアイルランドからの撤退を余儀なくされた。

キャリクファーガス城は1316年9月に降伏するまで一年余りの籠城を余儀なくされたが、大飢饉の最中の長期間の籠城ということで城内の物資は欠乏し、馬や家畜を食い尽くすとやがて捕虜や戦死者の遺体を食糧にするほどになった。このとき城兵はスコットランド人捕虜八人の遺体を食ったという(注2)。

九年戦争とキャリクファーガスの戦い(1597年)

中世末期、イングランドは親英派アイルランド貴族であるキルデア伯家にアイルランド総督(Lord Deputy of Ireland)職を世襲させて統治を委任したためイングランドの影響は減退し続けた。この体制が一変するのがヘンリ8世(在位1509-47)時代である。大法官トマス・クロムウェル指揮下でアイルランド総督に対する統制強化を進め、これに反発して反乱を起こしたキルデア伯を討つと、総督職はイングランド政府から派遣することとして、アイルランド諸侯への支配強化を打ち出した。

ヘンリ8世時代から始まったアイルランドの再植民化はエリザベス1世(在位1558-1603)時代に強力に推し進められ、1568年、女王はアイルランド北東部アルスター地方の支配強化のためキャリクファーガス総督 (Governor of Carrickfergus) 職を創設、寵臣ウィリアム・ピアーズ(William Piers)を初代総督に任命し、キャリクファーガス城は行政府としての機能を持った。

アイルランド再植民化の背景としては対外関係の悪化が大きな要因である。ヘンリ8世時代にカトリックからプロテスタントへ転じ、1570年代にはスペインに反抗していたネーデルラント諸州を支援したため、特にスペインとの関係が悪化した。イングランドの背後を固めるためアイルランドにおけるイングランドの支配権確立は喫緊の課題となった。1570年代末から強大な軍事力を持った地方長官を派遣し、有力現地氏族の私兵保有を禁じ、その見返りに当主を地方統治の評議員に迎える政策が行われた。同時に改革に応じない氏族は軍事力で撃滅し、大規模な植民を行い、アイルランド社会のイングランド化が進められる。

アイルランド九年戦争中の勢力図(1600年頃)

アイルランド九年戦争中の勢力図(1600年頃) / 青:イングランド / 赤:反乱軍 / グレー:中立勢力
© Jacobfrid, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons

1595年、アルスター地方の有力氏族オニール家の長ティローン伯ヒュー・オニール(Hugh O’Neill, Earl of Tyrone)を盟主としてアイルランド諸侯が反乱を起こし「九年戦争(1595-1603)」が勃発した。1597年、赴任したばかりの第二代キャリクファーガス総督ジョン・チチェスター(John Chichester)はアルスター地方の中立派氏族マクドネル家と反乱軍対策で協力を求めていたが、マクドネル家は密かにヒュー・オニールと結び、キャリクファーガス城襲撃を計画していた。

1597年11月4日、ジェイムズ・マクソーリー・マクドネル(James MacSorley MacDonnell)率いるマクドネル軍約700名はキャリクファーガス城へ密かに近づいていたが、キャリクファーガス城守備隊がマクドネル軍の接近に気付き、チチェスター総督自ら出陣、騎兵隊による攻撃を命じる。マクドネル軍は急ぎ後退し、これを追撃しようとイングランド騎兵隊が突出、孤立したところに、潜ませていたスコットランド人弓兵隊やアイルランド人鉄砲隊などからなるマクドネル軍の伏兵800名が出現、包囲殲滅した。この戦いでキャリクファーガス総督ジョン・チチェスターは戦死し、彼の首はヒュー・オニールの元へ届けられた。

植民地支配の拠点

Arthur Chichester, 1st Baron Chichester (c) Belfast Harbour Commissioners; Supplied by The Public Catalogue Foundation

Arthur Chichester, 1st Baron Chichester
(c) Belfast Harbour Commissioners; Supplied by The Public Catalogue Foundation

九年戦争は1603年、反乱軍の敗北で幕を閉じ、イングランドによるアイルランドの植民地支配が始まるが、最初期に辣腕を振るったのがキャリクファーガスの戦いで戦死したジョン・チチェスターの弟・初代チチェスター男爵アーサー・チチェスター(Arthur Chichester, 1st Baron Chichester)であった。

アーサー・チチェスターは九年戦争期の1598年、兄の後を継いで第三代キャリクファーガス総督に就任、九年戦争で焦土戦術を駆使して多大な戦果を挙げ頭角を現した。1605年、キャリクファーガス総督からアイルランド総督へ昇進したあともキャリクファーガスやベルファストなどアルスター地方の植民地化を重視して、カトリック教会を弾圧して聖職者らを逮捕・処刑し、没収した先住民の土地を本国からの入植者に与えて各地にプランテーションを建設するなど厳しい植民地統治体制を築いて悪名を轟かせた。死後、チチェスターはキャリクファーガスの教会に葬られた。

アーサー・チチェスターに始まる苛烈な植民地統治政策は後任にも引き継がれ、十七世紀半ば以降アルスター地方は積極的な入植が行われて現在のアイルランド分断の土台が築かれた。

1640年代内戦下のキャリクファーガス城

この苛烈な支配への不満が爆発したのが1641年。英国(注3)王チャールズ1世(在位1625-49)と議会の対立が先鋭化し、急進派プロテスタントが台頭したことを受けて、10月、カトリック中心のアイルランドでアルスター地方を中心に大規模反乱が勃発した(アイルランド反乱)。

このアイルランド反乱勃発直後の1641年11月に起きたのが、キャリクファーガス城駐留部隊によるカトリック市民の虐殺事件である。このとき、キャリクファーガス城から約10マイル(16キロメートル)、ベルファスト湾の付け根に突き出した半島アイランドマージー(Islandmagee)の小教区でキャリクファーガス城の駐留部隊が市民――3000名とも言われる――の虐殺を行ったと言われている。カトリックの市民が虐殺されたという点は定説となっているものの、この事件については史料が少なく、当時から様々な説が流れていたため実際どのようなものであったか定かではない(注4)。

1642年、アルスター地方で反乱軍がスコットランド人入植者を虐殺しているとの噂を聞いてスコットランド人保護のためアルスター地方に進出してきたのがドイツ三〇年戦争で勇名を馳せたロバート・モンロ(Robert Monro) 将軍率いるスコットランドのカヴェナンター(注5)軍である。キャリクファーガス城に入城したモンロ将軍は焦土戦術を駆使して反乱軍の鎮圧を進め、44年にはベルファストを占領したが、46年、ベンバーブの戦い(Battle of Benburb)で反乱軍に大敗、キャリクファーガス城に撤退した。英国でオリヴァー・クロムウェルら議会派とチャールズ1世を奉じる王党派の戦いになるとモンロ将軍は王党派に属し、キャリクファーガス城で議会派の包囲を受け籠城して包囲戦が展開されたが、1648年9月、配下の裏切りにあって捕らえられ、キャリクファーガス城は議会派の支配下となった。

ウィリアマイト戦争とキャリクファーガス城

「キャリクファーガス城内のウィリアム3世像」

「キャリクファーガス城内のウィリアム3世像」
© Adam Bishop, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

1688年12月、カトリック重視政策に傾いた英国王ジェイムズ2世(在位1685-88)が王位を追われ、プロテスタントのオランダ君主オラニエ公ウィレムと妻メアリが英国王ウィリアム3世(在位1689-1702)、同女王メアリ2世(在位1689-94)として迎えられて世にいう名誉革命が起こった。この王位を巡る争いはアイルランドにおいて独立戦争の様相を呈し、キャリクファーガス城はこの戦争(ウィリアマイト戦争)でも最前線の城として激しい戦いの舞台となる。

国を追われたジェイムズ2世一派(ジャコバイト)は一時フランスへ亡命したあと、オランダ=イングランド=スコットランド同君連合の成立を危惧したフランスの支援でカトリック派が強いアイルランドを反抗拠点にするべく1689年3月、アイルランド南部キンセールへ上陸、対決姿勢を明らかにした。

新英国王ウィリアム3世は腹心ションバーグ公を総司令官としてアイルランドへ軍を派遣、1689年8月13日、ションバーグ公率いる遠征軍がアルスター地方に上陸、8月20日よりジャコバイト派が占領していたキャリクファーガス城の包囲戦が始まった。激しい砲撃を経て七日後にキャリクファーガス城は降伏し、9月中にアルスター地方は英国の支配下となった。1690年6月、ウィリアム3世自ら率いる約3万7千の本隊がキャリクファーガスからアイルランドに上陸する。同7月1日のボイン川の戦いでジャコバイト=アイルランド連合軍が大敗、1691年のリムリック条約でウィリアマイト戦争は終結し、アイルランド独立の夢は断たれることになった。

十八世紀~現代までのキャリクファーガス城

1830~69年頃のキャリクファーガス城(Alphonse Dousseau画)

1830~69年頃のキャリクファーガス城(Alphonse Dousseau画)
パブリックドメイン画像(CC0)


以後もキャリクファーガス城はたびたび戦場となった。七年戦争(1756-63)中の1760年2月、フランスの私掠船団がキャリクファーガス城を攻撃し、一時占領した。アメリカ独立戦争(1775-83)中の1778年4月24日、アメリカ海軍の指揮官ジョン・ポール・ジョーンズ(John Paul Jones)はキャリクファーガス沖に停泊中の英国の軍艦HMSドレイク号を湾内に誘い込んで一時間ほどの戦闘で降伏させた。この戦いが、アメリカ独立戦争における英国海域での初めてのアメリカ海軍の勝利となった。

1797年からは捕虜収容所として利用されるようになり、ナポレオン戦争中の1811年には大砲22門が設置された。このうち6門の大砲が現存している。第一次世界大戦中は駐屯地および武器庫として、第二次世界大戦中は空襲からの避難所として使用された。

1918年の総選挙で独立派のシン・フェイン党がアイルランド選挙区の大多数を獲得すると、英国政府はシン・フェイン党の弾圧に乗り出し、これに反発してアイルランド各地で義勇軍が蜂起しアイルランド独立戦争が勃発した。1921年、英愛条約によってアイルランド島北部のアルスター六県を除く地域に独立が認められ、翌22年、英国の一部としての北アイルランド自治政府と英国から独立したアイルランド自由国が誕生する。この政変を受けて、1928年、キャリクファーガス城は英国軍から北アイルランド政府へ管理権限が譲渡された。

以後、ヴィクトリア朝時代の増築や家財が撤去されてノルマン時代の状態に復元された上で、現在は一般公開され、多数の観光客で人気の城となっている。2020年2月、1930年代に作られて老朽化していた主塔の屋根が中世後期の形状に復元された。工事開始から完成までの様子が動画で公開されている。

2011年、英国王室のウィリアム王子が新設されたキャリクファーガス男爵に叙されたが、この称号は儀礼称号に留まりキャリクファーガス市やキャリクファーガス城に対する何らかの権限を伴うものではない。

参考文献

・青山吉信/飯島啓三/永井一郎/城戸毅編著『イギリス史〈1〉先史~中世 (世界歴史大系)』山川出版社,1991年)
・今井宏編著『イギリス史〈2〉近世 (世界歴史大系)』(山川出版社,1990年)
・上野格/森ありさ/勝田俊輔編著『アイルランド史 (世界歴史大系)』山川出版社,2018年)
・太田静六著『イギリスの古城 (世界の城郭)』(吉川弘文館 2010年)
・波多野裕造著『物語 アイルランドの歴史 欧州連合に賭ける“妖精の国” (中公新書)』(中央公論新社、1994年)
・森護著『スコットランド王国史話』(大修館書店,1988年)
・森護著『英国王室史事典』(大修館書店,1994年)
・チャールズ・フィリップス著(大橋竜太監修,井上廣美訳)『イギリスの城郭・宮殿・邸宅歴史図鑑』(原書房,2014年)

A History of Carrickfergus | Culture Northern Ireland
Carrickfergus Castle – Works to the Great Tower Roof | Department for Communities
Carrickfergus Castle – Wikipedia
Colm McNamee(1993)”The Bruce Invasions of Ireland“(History Ireland)
John Gibney(2013)”‘What about Islandmagee?’ Another version of the 1641 rebellion“(History Ireland)

脚注

1)1315年にヨーロッパ全土で起こり1317年まで続いた大規模な農作物の不作と飢饉。十~十三世紀末の中世の温暖期の終わりに起こった象徴的な災害で、全ヨーロッパの人口の約10~25パーセントを死に至らしめたと推測されている。

2)チャールズ・フィリップス著(大橋竜太監修,井上廣美訳)『イギリスの城郭・宮殿・邸宅歴史図鑑』(原書房,2014年)79頁参照

3)1603年以降について煩雑になるため「英国」で統一したが、ここでいう「英国」はイングランド王位とスコットランド王位を兼ねたイングランド=スコットランド同君連合、すなわちステュアート朝王権のこと。以下本記事ではウィリアム3世時代までの記述で登場する「英国」は同様の体制を指す。なお十八世紀の記述でいう「英国」は「グレートブリテン王国」、1801年のアイルランド併合以降の記述でいう「英国」は「グレートブリテン及びアイルランド連合王国」、1922年のアイルランド自由国成立以降現在までが「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」である。

4) アイランドマージーでの虐殺事件について詳しくはJohn Gibney(2013)”‘What about Islandmagee?’ Another version of the 1641 rebellion“参照。

5)カヴェナンター(Covenanters)はスコットランド長老派教会の急進派プロテスタント勢力。盟約派とも訳される。清教徒革命下の1643年、「厳粛な同盟と契約(Solemn League and Covenant)」を締結してイングランド議会派と同盟を結んだが後に対立した。

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