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エディンバラ城――スコットランド王家歴代の居城の歴史

エディンバラ城(Edinburgh Castle)はスコットランドの首都エディンバラ市にある中世の城。スコットランド王歴代の居城であり天然の要害に立つ堅固な要塞である。「翼の生えた岩の城」「乙女の城」(注1)とも呼ばれ、「英国史上最も包囲を受けた城」と評される(注2)。ユネスコ世界文化遺産「エディンバラの旧市街と新市街(Old and New Towns of Edinburgh)」を構成する建造物の一つ。

城が建つ岩山「キャッスル・ロック」は古くから砦として利用されていたが、エディンバラ城の築城は十一世紀頃とみられている。1130年頃に建てられた城内の「聖マーガレット教会堂」を除くと、現存する城の古い部分は1430年頃から1588年頃にかけて築かれたものが中心である。

エディンバラ城(Edinburgh Castle)

エディンバラ城(Edinburgh Castle)
© Ronnie Macdonald from Chelmsford, United Kingdom, CC BY 2.0 <https://creativecommons.org/licenses/by/2.0>, via Wikimedia Commons

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エディンバラ城の構造と建物

エディンバラ城内図

A 前庭(Esplanade) ・ B 正門(Gatehouse) ・ C チケット売り場(Ticket office) ・ D 落とし格子門とアーガイル塔(Portcullis Gate & Argyle Tower) ・ E アーガイル砲台(Argyle Battery) ・ F ミルズ・マウント砲台とワン・オクロック・ガン(Mills Mount Battery & One o’Clock Gun) ・ G 荷馬車小屋(Cartsheds) ・ H 西側防壁(Western Defences) ・ I 病院(Hospital) ・ J バッツ砲台(Butts Battery) ・ K スコットランド国立戦争博物館(Scottish National War Museum) ・ L 城主館(Governors House) ・ M 新兵舎(New Barracks) ・ N 軍刑務所(Military Prison) ・ O ロイヤルスコッチ博物館(Royal Scots Museum) ・ P 霧の門(Foog’s Gate) ・ Q 貯水池(Reservoirs) ・ R モンス・メグ砲(Mons Meg) ・ S 動物墓地(Pet Cemetery) ・ T 聖マーガレット教会堂(St. Margaret’s Chapel) ・ U ハーフムーン砲台(Half Moon Battery) ・ V クラウン・スクエア(Crown Square) ・ W 王宮(Royal Palace) ・ X 大広間(Great Hall) ・ Y アン女王館(Queen Anne Building) ・ Z スコットランド国立戦争記念館(Scottish National War Memorial)
© Jonathan Oldenbuck, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commons

エディンバラ旧市街の岩山「キャッスル・ロック(Castle Rock)」上にあり、南・西・北の三方向は切り立った崖で東側だけが緩やかな斜面を形成して、市街地から続く前庭(Esplanade)と1888年建設のゲートハウスが設けられ、城への唯一のアプローチとなっている。

「エディンバラ城正面からみたハーフムーン砲台」(パブリックドメイン画像)

「エディンバラ城正面からみたハーフムーン砲台」(パブリックドメイン画像)

エディンバラ城を特徴づけている半月系の稜堡「ハーフムーン砲台(Half Moon Battery)」は1573年から1588年にかけて建設された多数の大砲を配備できる砲座で、城の正面に殺到する敵に砲弾を降らせることができる。中世の主塔「デイヴィッドの塔(David’s Tower)」が存在した場所に建てられた。

城の主郭にある「クラウン・スクエア(Crown Square)」は1430年代に王の中庭として石が敷き詰められたのが始まりで、十五世紀中頃に王宮が、十六世紀初頭に大広間が築かれた。


王宮の壁を飾るスコットランド王家の紋章は1503年、ジェイムズ4世(在位1488-1513)とイングランド王ヘンリ7世(在位1485-1509)の娘マーガレット・テューダーの結婚を記念して作られたもので、スコットランド王家ステュアート家の花であるアザミとイングランド王家テューダー家の花である薔薇が絡み合い両家の融和を示すものとなっている。また、1566年、女王メアリ(在位1542-1567)が後のジェイムズ6世(在位1567-1625)を出産したことでもよく知られている。


大広間は清教徒革命下の1650年、オリヴァー・クロムウェルによって占領された際に兵舎に改造され、後に英国軍の病院として1886年まで利用されていた。現在は中世当時の姿に復元され、甲冑や武器などが飾られている。

「聖マーガレット教会堂」

「聖マーガレット教会堂」
© Chrys at English Wikipedia., CC BY-SA 2.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.0>, via Wikimedia Commons

「聖マーガレット教会堂(St. Margaret’s Chapel)」は1130年代に築かれた教会堂で、エディンバラ城内で最も古い建物である。後に存在が忘れ去られて十六世紀には火薬庫・武器庫として使われていた。1845年に再発見され、1851年から52年にかけて教会堂として修復された。

その他、1708年、アン女王(在位1707-14)にちなんで建てられたアン女王館(Queen Anne Building)や、元々中世の聖マリア教会に由来し近世以降武器庫として使われていた建物を再利用したスコットランド国立戦争博物館、1584年に築かれた落とし格子の門と1887年に築かれたスコッツ・バロニアル様式のアーガイル塔(Argyle Tower)などがある。

主な宝物

スクーンの石(Stone of Scone)

「スクーン宮殿にあるスクーンの石のレプリカ」

「スクーン宮殿にあるスクーンの石のレプリカ」
© Aaron Bradley from Vancouver, Canada, CC BY-SA 2.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.0>, via Wikimedia Commons

スコットランド王が即位する際、この石の上で戴冠式が行われていた伝統的な宝物。「運命の石」とも呼ばれる。1296年、イングランド王エドワード1世(在位1272-1307)によってスクーン修道院(スクーン宮殿)からイングランドへ持ち去られた。イングランドではウェストミンスター寺院に置かれてイングランド王の戴冠式で使用されていたが、1996年、700年ぶりにスコットランドへ返還され、現在エディンバラ城に保管されている。

オナーズ・オブ・スコットランド(Honours of Scotland)

「エディンバラ城蔵オナーズ・オブ・スコットランド(レプリカ)」

「エディンバラ城蔵オナーズ・オブ・スコットランド(レプリカ)」
© kim traynor / CC BY-SA (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.0)

スコットランド王の戴冠式で用いられていた王冠、剣、王笏。王冠はジェイムズ5世(在位1513-42)時代に作られ、1540年、メアリ・オブ・ギーズの戴冠式でジェイムズ5世が被ったのが最初の例。剣と王笏は1543年、メアリ女王の戴冠式で初めて用いられた。1651年、イングランド軍の侵攻に備えてダノター城に一時運ばれる。1707年のグレートブリテン王国成立以後はエディンバラ城内に隠され、1818年、作家サー・ウォルター・スコットによって再発見された。

モンス・メグ(Mons Meg)

モンス・メグ砲

「モンス・メグ砲」(1449年ブルゴーニュ公国製の大砲。エディンバラ城収蔵)
(パブリックドメイン画像)

1457年、ブルゴーニュ公フィリップ3世からスコットランド王ジェイムズ2世(在位1437-60)へ贈られた大型の射石砲。全長13フィート4インチ(約4.08メートル)、重さ約6トンで150キログラムの砲弾を3.2キロメートル先まで発射することが出来た。1460年のロクスバラ城包囲戦で初めて使われ、以後1550年代まで多くの戦いで使用された。1681年に破損し、1754年、ロンドン塔へ持ち去られた後、1829年にエディンバラ城に返還された。

ワン・オクロック・ガン(One O’Clock Gun)


日曜日、聖金曜日、クリスマスを除く毎日午後1時に城内に備えられた大砲から空包が発射され、時報として使われている。この習慣は1861年から始まり、2001年以降は英国陸軍のL118 105mm榴弾砲が使われている。

エディンバラ城の歴史

築城前~先史時代から中世前期

「キャッスル・ロック上のエディンバラ城」(パブリックドメイン画像)

「キャッスル・ロック上のエディンバラ城」(パブリックドメイン画像)

エディンバラ城はスコットランドの首都エディンバラ市の中心に高くそびえる通称「キャッスル・ロック」と呼ばれる、高さ約80メートル、海抜約130メートルの岩山の上に立っている。「キャッスル・ロック」は約3億5000万年前の石炭紀初期に火山の噴火で隆起した火山岩で、南・西・北の三方向は険しい断崖となっており、文字通りの天然の要害と言える地形である。

1988年から91年にかけて行われた調査で、青銅器時代後期(紀元前1000-前700年頃)または鉄器時代初期(紀元前800-前450年頃)に遡るキャッスル・ロックを含むエディンバラ一帯での定住の痕跡がみつかっているが、キャッスル・ロック上での定住の証拠としては不十分だった。しかし遅くとも紀元1~2世紀頃にはキャッスル・ロック上に集落を築いていたことは明らかとなっている(注3)。7世紀、エディンバラは周辺に勢力を誇ったゴドジン族(Gododdin)の中心都市「ディン・エイディン(Din Eidyn)」として史料に登場し、砦の存在も示唆されているがこれが現在のエディンバラ城の位置にあったかは定かではない。七王国時代、ゴドジン族はノーサンブリア王国に攻められて滅び、エディンバラもその勢力下に入った。

エディンバラという地名の由来として、ノーサンブリア王エドウィン(在位616-632)にちなんだエドウィン(Edwin)の町(Burgh)から転じてエディンバラになったという説があり、日本語文献でも紹介されている(注4)が、現在はこの説は否定されており、前出の「ディン・エイディン(Din Eidyn)」に由来するとするのが定説となっている(注5)。エディンバラという語は1124~1127年のスコットランド王デイヴィッド1世(在位1124-53)の勅許状に登場する例が初出である。

エディンバラ城の築城

「エディンバラ城(Alexander Nasmyth,1880年)」

「エディンバラ城(Alexander Nasmyth,1880年)」(パブリックドメイン画像,CC0)


エディンバラ城は十二世紀頃から歴史に登場する。ウィリアム・シェイクスピアの史劇で有名なマクベス王(在位1040-57)を討ってスコットランドの内乱を収めたマルカム3世カンモー(在位1058-93)がキャッスル・ロック上に石造の城を築いたのが始まりと見られている。デイヴィッド1世治世下の1139年から50年にかけて貴族たちの会議をエディンバラ城で開催し、以後エディンバラ城は王の居城となった。1130年頃、母のマルカム3世妃マーガレットのために教会堂を建て、この「聖マーガレット教会堂」がエディンバラ城内で現存する最古の建物となっている。

1174年、スコットランド王ウィリアム1世(在位1165-1214)がアニックの戦いで敗れてイングランドの捕虜となり、翌75年、ノルマンディー地方のファレーズ城で締結されたファレーズ条約でエディンバラ城は1186年に返還されるまでイングランドの支配下に置かれた。この時期のエディンバラ城は現在の城の北側、聖マーガレット教会堂周辺に限られ、確認できる限りでは石造の二棟の建物を除いて、城壁など防禦施設はほぼ木造であったと見られている。

スコットランド独立戦争のエディンバラ城争奪戦

「バノックバーンの戦い」(Edmund Blair Leighton,1907) パブリックドメイン画像

「バノックバーンの戦い」(Edmund Blair Leighton,1907)
パブリックドメイン画像

1286年、スコットランド王アレクザンダ3世(在位1249-86)死後の王位継承争いにイングランド王エドワード1世が介入してジョン・ベイリオル(在位1292-96)を傀儡王として擁立するが、スコットランド諸侯の圧力でジョン・ベイリオル王がイングランドと対立姿勢を強めると、1296年、エドワード1世は王を追放してスコットランドを統治下に置いた。二次に渡るスコットランド独立戦争(第一次:1296-1328、第二次:1332-57)の始まりである。

1296年3月、スコットランドへ侵攻したエドワード1世率いるイングランド軍はエディンバラ城を三日で陥落させ、以後、1314年まで占領した。スコットランド軍によるエディンバラ城の奪還は奇襲であった。1314年3月14日、スコットランド貴族マレー伯トマス・ランドルフ(Thomas Randolph, 1st Earl of Moray)は元守備隊の兵士から城の北側の断崖に一か所登れるルートがあることを聞き、夜半、30名の攻略部隊で密かに登攀作戦を敢行、不意を打たれた守備隊200名はあっという間に制圧された。

第一次スコットランド独立戦争はスコットランド側の勝利に終わったが、1332年のエドワード・ベイリオルの反乱に呼応して、翌33年、イングランド王エドワード3世(在位1327-77)がスコットランドへ侵攻した。1335年、イングランド軍は再びエディンバラ城を占領し、1341年まで保持した。1341年、リデスデール卿ウィリアム・ダグラス(William Douglas, Lord of Liddesdale)と彼の部下たちは商人に偽装して荷物の中に兵を隠して入城、荷車で門が閉まるのを防ぎ、周辺に潜んでいたスコットランド軍が城内に突入してエディンバラ城を奪還した。

難攻不落の大砲の城へ――十五~十六世紀の大規模築城

「1581年頃のエディンバラ城(Braun & Hogenberg)」(パブリックドメイン画像)

「1581年頃のエディンバラ城(Braun & Hogenberg)」(パブリックドメイン画像)

1367年、デイヴィッド2世(在位1329-32,1346-71)によって現在のハーフムーン砲台付近に主塔となるデイヴィッドの塔の建設が始められ、ロバート2世(在位1371-90)時代の1370年代に完成した。1573年のラング包囲戦で崩壊するまで、デイヴィッドの塔は王の居室および宝物庫として利用された。

1430年代から現在のクラウン・スクエアの建設が開始され、1458年にグレート・ホールが完成、1468年、現在の主郭となるアッパー・ワードが築かれた。十五世紀半ばから火薬兵器の技術革新が進み戦争で大砲が主力兵器として台頭するが、スコットランドでもジェイムズ2世治世下で大砲部隊が整備され、叔父ブルゴーニュ公フィリップ3世から1457年に贈られたモンス・メグ砲を始めとして多くの大砲が城内に揃えられた。

前女王メアリ派と新王ジェイムズ6世派との内戦の最後の戦いであるエディンバラ城に籠るメアリ派をジェイムズ6世派=イングランド連合軍が破ったラング包囲戦(1573)でデイヴィッドの塔を始め多くの施設が崩壊し、戦後大規模な修復作業が行われた。この過程で1573年から88年にかけて築かれたのが現在も残る巨大な砲座ハーフムーン砲台である。1584年には城の北側に落とし格子(portcullis)の門が設けられるなど、現在の城内の施設の多くがこの時期以降登場する。

ステュアート朝時代のエディンバラ城

「黒い晩餐」事件と陰謀の舞台

1437年、ジェイムズ1世(在位1406-37)が暗殺され、後を継いだ七歳の幼王ジェイムズ2世政権下で実権を巡って政争が起きた。エディンバラ城代ウィリアム・クライトンとスターリング城代アレクザンダ・リビングストンは結託して有力貴族ダグラス伯を除こうとし、1440年11月28日、前年に病没した父伯の後を継いだばかりの十六歳の少年ダグラス伯ウィリアム・ダグラスと弟デイヴィッドをエディンバラ城内で逮捕、処刑する凶行に出た。クライトンらはダグラス伯兄弟を招いて10歳の少年王ジェイムズ2世臨席の晩餐会をエディンバラ城で開催、宴が盛り上がったところで大皿に乗せられた黒牛の頭が運ばれたのを合図に、二人を逮捕、罪をでっちあげて略式裁判にかけ処刑した。「黒い晩餐(Black Dinner)」事件と呼ばれている。

成人して親政に乗り出したジェイムズ2世は手際よくクライトン、リビングストン両重臣を処断し、両名の兄弟謀殺に協力してダグラス伯位を継承していたブラック・ダグラス家の勢力を削ぐべく彼らを反乱に追い込んで戦いに勝利し所領を没収した。彼らとの戦いではモンス・メグ砲を始めとした大砲が活用された。先述の通り、ジェイムズ2世時代、エディンバラ城には多数の大砲が配備され城の改築が進んで防御力が大きく強化された。

1460年、事故死した前王に替わり八歳のジェイムズ3世(在位1460-88)が継いだ。1466年、ボイド卿ロバートとその弟エディンバラ城代アレクザンダ・ボイドらがジェイムズ3世を捕えてエディンバラ城に幽閉、国政を壟断した。1469年、ボイド派は失脚するが、国政は安定せず、1479年、ジェイムズ3世は反乱計画を立てたとして王弟オールバニ公アレクザンダを捕えてエディンバラ城に収監する。オールバニ公は密かに脱出してイングランドへ逃れると、薔薇戦争中のヨーク派政権を頼り、1482年、グロスター公リチャード(後のイングランド王リチャード3世)率いるイングランド軍とともに帰国、エディンバラ城を包囲する。この頃、ジェイムズ3世は他の貴族らの反乱にあって再びエディンバラ城に幽閉されていた。包囲中、イングランド軍が撤退し、オールバニ公とジェイムズ3世の和解が成立するが、国政は安定せず、1488年、ジェイムズ3世は反乱によって殺害される。エディンバラ城は王権を巡る陰謀の舞台となっていた。

新王ジェイムズ4世はこれまでの旧弊を改めて寛容政策に転じ、反乱者らの多くを免罪して引き続き重用したことで政権の安定化をもたらした。彼はエディンバラ市の整備を進め、彼の治世下で同市は名実ともに王国の首都となった。1501年、エディンバラ城下のホリールード修道院に新たに宮殿を築いて1503年にはイングランド王ヘンリ7世の娘マーガレット・テューダーとこの新築のホリールードハウス宮殿で結婚式を挙げた。ホリールードハウス宮殿は後にエディンバラ城に替わる王宮となり、現在も英国王室の別邸として利用されている。また、彼の時代からエディンバラ城の大規模な改築が始まり、クラウン・スクエアや大広間などは彼の治世の晩年1512年に完成した。

二人のメアリ

「メアリ・オブ・ギーズ肖像画(Corneille de Lyon,1537年頃)」(パブリックドメイン画像)

「メアリ・オブ・ギーズ肖像画(Corneille de Lyon,1537年頃)」(パブリックドメイン画像)

「メアリ女王肖像画(François Clouet,1558-60頃)」(パブリックドメイン画像)

「メアリ女王肖像画(François Clouet,1558-60頃)」(パブリックドメイン画像)

内紛と浪費、イングランドとの相次ぐ戦いと敗北で終わったジェイムズ5世の後を継いだのは生後六日の女児メアリであった。即位直後、国内は親英派と親仏派で分裂、イングランド軍の侵攻も繰り返されるなど不安定な情勢であった。女王の母でフランス貴族出身の親仏派メアリ・オブ・ギーズは娘の安全を守るためフランスへと逃れさせた。1554年、フランスの後ろ盾でメアリ・オブ・ギーズは摂政に就任、フランス軍を国内に招き入れて強権を振るった。1558年、フランス滞在中のメアリ女王とフランス王太子フランソワが結婚、翌59年、フランソワがフランス王に即位してフランソワ2世(在位1559-60)となり、メアリ女王もスコットランド女王に加えてフランス女王に即位する。

このような背景で、摂政メアリ・オブ・ギーズは国内で勢力を増していたプロテスタントへの弾圧を進めた。スコットランド宗教改革の指導者ジョン・ノックスの説教で民衆が蜂起し、カトリック派=親仏派とプロテスタント=親英派の対立となり、1560年1月、イングランド軍が後者の支援のためエディンバラ沖フォース湾に艦隊を派遣、このイングランド軍介入によってフランス軍は撤兵した。同6月、この事後処理のための交渉途中でメアリ・オブ・ギーズが亡くなり、7月6日、エディンバラ城でフランスとイングランドのスコットランドからの撤退などを定めた「エディンバラ条約」が締結された。同条約により1295年以来265年続いたスコットランド=フランス軍事同盟が終了し、後のスコットランド=イングランド合同を準備することになる歴史上非常に重要な条約で、エディンバラ城は英国の歴史を大きく動かす舞台となった。

1560年、夫フランソワ2世が若くして病死し、母后死後スコットランドへ帰国したメアリ女王はフランス育ちのカトリック教徒であり、プロテスタント派が優位となったスコットランドでは宗教対立の原因となった。また、再婚を巡って多くの候補の中からダーンリー卿ヘンリ・ステュアートを選んだ。ダーンリー卿はスコットランド王族であり、同時にイングランド王ヘンリ7世の娘マーガレットの孫にあたる。二人は結婚し、メアリはすぐに妊娠するものの、夫との関係は悪化、新たな愛人デイヴィッド・リッチオがダーンリー卿に殺害される事件も起こるなど彼女の身辺は非常に不穏なものとなった。このような中、1566年6月19日、メアリ女王はエディンバラ城で王子を出産する。後にスコットランド王とイングランド王を兼ねてスコットランド=イングランド同君連合初代国王ジェイムズ1世となる人物である。

ラング包囲戦

「1573年5月のラング包囲戦の様子を描いたスケッチ」(Holinshed's Chronicle, 1577年) Unknown author, Public domain, via Wikimedia Commons

「1573年5月のラング包囲戦の様子を描いたスケッチ」(Holinshed’s Chronicle, 1577年)
Unknown author, Public domain, via Wikimedia Commons

1567年、相次ぐ不祥事で権威が失墜したメアリ1世は退位を余儀なくされ、代わって生まれて間もない王子ジェイムズがスコットランド王ジェイムズ6世として即位した。退位したとはいえ、復権に意欲を見せるメアリは1568年、反乱軍を組織して抵抗の姿勢を見せるが5月13日、ラングサイドの戦いで大敗しイングランドへ落ち延びた。その後もスコットランド国内でジェイムズ6世派とメアリ派の内戦が展開、エディンバラ城はメアリ派の牙城として抵抗を続けた。

当時のエディンバラ城主サー・ウィリアム・カーカルディ・オブ・グランジ(Sir William Kirkcaldy of Grange)は当初はジェイムズ6世派だったが摂政マリ伯死後メアリ派に転じ、エディンバラ城からメアリ女王の復位を要求していた。1571年5月から始まった最初のエディンバラ城包囲戦では防御側の堅守で陥落させることが出来なかったものの、エディンバラ市街を王派が占領して72年7月、休戦が成立した。休戦協定が切れた73年1月、包囲戦が再開され、包囲側は井戸水を断つなど厳しい攻撃が続いた。同4月、王軍にイングランド軍の増援が到着し、5月17日から27門の大砲による砲撃が始まり、以後10日間の激しい砲撃でエディンバラ城の施設は大半が崩壊し、5月28日、ついにエディンバラ城の守備隊は降伏した。

この激しい戦いの後から始まる大規模な再建・修復工事によって現在のエディンバラ城が形作られることになる。

清教徒革命戦争下のエディンバラ城

1603年、イングランド女王エリザベス1世(在位1558-1603)が亡くなると、スコットランド王ジェイムズ6世がイングランド王を兼ねて同君連合(ステュアート朝)が成立した。王権の中心はロンドンに移り、エディンバラ城は偶に王が来訪する城の一つとなった。二代目のチャールズ1世(在位1625-49)は失政を繰り返し、1639年、スコットランド長老派教会に対してもイングランド国教会のやり方を強要したことから、スコットランドの諸侯と教会は「国民盟約」を結んでチャールズ1世の介入に抵抗し戦争となる。苦戦したチャールズ1世は、イングランドで十一年ぶりに議会を開いて戦費負担を求めたが、議会は逆に「権利の請願」を出して抵抗したため、チャールズ1世は議会を解散、これにイングランド諸侯・市民が反乱軍を組織し、アイルランド、スコットランドを巻き込んでの内乱に陥った。後世、清教徒(ピューリタン)革命あるいは三王国戦争と呼ばれる。

革命初期の1640年代は、イングランド議会派と同盟するスコットランド長老派カヴェナンター軍によってエディンバラ城は度々奪われていた。その後イングランド議会派が急進化して王政の廃止を唱えるようになるとスコットランド長老派はイングランド議会派と対立するようになり、1649年、チャールズ1世が処刑されると、イングランドとスコットランドの対立は決定的となった。

チャールズ1世の遺児チャールズ王子は新たにスコットランド王およびイングランド王への即位を宣言し、1651年1月1日、チャールズ2世(在位1660-85)はエディンバラ城から持ち出したスコットランド王位のレガリア(王権の権威・正統性を示す宝剣・王冠・王笏などの宝物)「オナーズ・オブ・スコットランド」を使ってスクーン宮殿で戴冠式を行ったものの、オリヴァー・クロムウェル率いるイングランド軍がエディンバラ城を占領下に置いたため、「オナーズ・オブ・スコットランド」をエディンバラ城に戻さず、ダノター城に運ばせた。ダノター城はこのレガリアを守り抜き、1660年の王政復古に大きく貢献する。

1650年7月からのクロムウェルのスコットランド遠征の天王山となった9月3日のダンバーの戦いでスコットランド軍が大敗し、イングランド軍はエディンバラへ雪崩れ込んできた。三か月の激しい包囲戦を経てエディンバラ城は陥落、イングランドの支配下に置かれた。

現代まで

「エディンバラ城」 © Andrew Shiva / Wikipedia / CC BY-SA 4.0

「エディンバラ城」
© Andrew Shiva / Wikipedia / CC BY-SA 4.0


1660年の王政復古後、王は引き続きイングランドのロンドンを政務の中心にして、エディンバラ城は軍の駐屯地として利用されるようになり、エディンバラに来た際はホリールードハウス宮殿を王宮とした。名誉革命ではエディンバラ城は城の明け渡しを拒否して、1689年3月から包囲を受け、6月14日降伏した。名誉革命で追放されたジェイムズ7世(イングランド王としてはジェイムズ2世、在位1685-88)を奉じる一派(ジャコバイト)が起こした1715年のジャコバイト蜂起では反乱軍によって占領された。続く1745年のジャコバイト蜂起ではエディンバラ市街は反乱軍に占領されたものの、城は守り抜き、反乱は失敗に終わった。これが「英国史上最も包囲を受けた城」と呼ばれたエディンバラ城の最後の戦いであった。

十八世紀半ばから十九世紀初頭、七年戦争期からナポレオン戦争期にかけての半世紀のエディンバラ城は捕虜収容所として使われた。1811年の大規模な捕虜脱走事件を契機に捕虜収容所としての利用は終わり、1830年代から一般公開が始まり、1880年代以降大規模な修復・増築工事が進められて二十世紀初めまでにほぼ現在の姿が完成した。

1991年、「ヒストリック・スコットランド(Historic Scotland)」(現「スコットランド歴史環境協会(Historic Environment Scotland)」の管理下に入り、1995年、ユネスコ世界文化遺産「エディンバラの旧市街と新市街(Old and New Towns of Edinburgh)」を構成する建造物の一つとなった。

参考文献

・青山吉信/飯島啓三/永井一郎/城戸毅編著『イギリス史〈1〉先史~中世 (世界歴史大系)』山川出版社,1991年)
・今井宏編著『イギリス史〈2〉近世 (世界歴史大系)』(山川出版社,1990年)
・太田静六著『イギリスの古城 (世界の城郭)』(吉川弘文館 2010年)
・森護著『スコットランド王国史話』(大修館書店,1988年)
・森護著『英国王室史事典』(大修館書店,1994年)
・チャールズ・スティーヴンソン 著(中島智章 監修/村田綾子 訳)『ビジュアル版 世界の城の歴史文化図鑑』(柊風舎,2012年)
・チャールズ・フィリップス著(大橋竜太監修,井上廣美訳)『イギリスの城郭・宮殿・邸宅歴史図鑑』(原書房,2014年)

・” Official Edinburgh Castle Website “(公式サイト)
・” History of the castle | Edinburgh Castle
・” Edinburgh Castle/Caisteal Dhùn Èideann (SM90130) “(Historic Environment Scotland)
・” Edinburgh Castle | History, Treasures, & Facts | Britannica
・” Edinburgh Castle – Wikipedia ”(2020年11月22日21時45分更新の版)
・” Etymology of Edinburgh – Wikipedia ”(2020年11月27日14時13分更新の版)
・” Lost Edinburgh: The Lang Siege | The Scotsman

脚注

1) 十六世紀イングランドの歴史家ウィリアム・カムデン(1551-1623)の1607年の著作” Britannia”の”Lauden or Lothien”の章の4にある。多くの塔が建つ強力な難攻不落を感じさせるエディンバラ城はブリテン人からは「翼の生えた岩の城(Castle Myned Agned)」と呼ばれ、スコットランド人は「乙女の城(Maidens Castle, Virgins Castle)」と呼んだという。 (William Camden,” Britannia “(1607).with an English translation by Philemon Holland)/「乙女の城」の別名は当時、アーサー王物語に登場する「乙女の城」と同一視されていたことに由来するとみられている。

2)” The castle is the most besieged place in Britain. “(History of the castle | Edinburgh Castle) / また英語版wikipedia” Edinburgh Castle – Wikipedia”(2020年11月22日21時45分更新の版)によると、「2014年に実施された調査によると、1100年の歴史の中で26回の包囲戦が確認され、『英国で最も包囲された場所であり、世界で最も攻撃を受けた場所の一つ』であることを主張している。」という。同記述の出典とされているのは Caldwell, David H (National Museums of Scotland) (2014). “Besieged”. Historic Scotland Magazine: 20–24.

3) Driscoll, S., Yeoman, P. (1997) Excavations within Edinburgh Castle in 1988-91. Society of Antiquaries of Scotland: Edinburgh.

4)森(1994)70-71頁、太田(1986)108-109頁などで紹介されている。

5)英語版wikipedia” Etymology of Edinburgh – Wikipedia”(2020年11月27日14時13分更新の版)参照。同記事で出典とされているのはHarris, Stuart (1996). The Place Names Of Edinburgh. London. p. 237.

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