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カーナーヴォン城(Caernarfon Castle)の特徴と歴史

カーナーヴォン城(またはカナーヴォン城/英語” Caernarfon Castle”/ウェールズ語カステス・カエルナルヴォン” Castell Caernarfon”、注1)はウェールズ北部グウィネズ州にある中世の城。イングランド王エドワード1世がウェールズ地方を征服した後、1283年から1292にかけて城塞建築家マスター・ジェイムズに命じて築かせた。コンウィ城、ハーレック城、ビューマリス城とともにユネスコ世界遺産「グウィネズのエドワード1世の城郭と市壁(Castles and Town Walls of King Edward in Gwynedd)」を構成する城の一つ。

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築城前

セゴンティウム要塞とノルマンの城

「河口に建つカーナーヴォン城」

「河口に建つカーナーヴォン城」
© Kadpot, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons


カーナーヴォン城はアングルシー島を対岸に臨むメナイ海峡に面したサイオント川河口に建てられているが、この地に最初に城が建てられたのは西暦77年または78年、北ウェールズを征服したローマの将軍グナエウス・ユリウス・アグリコラによって築かれたセゴンティウム(Segontium)要塞にさかのぼる。セゴンティウム要塞を経由してカーリオンとチェスターを繋ぐ街道(ウェールズでは「ヘレンの道」と呼ばれた、注2)も整備され、交通の要衝として発展する。

後にウェールズ語でカエル・サイオント(Cair Seiont)と呼ばれ、ラテン語” Cair Segeint”の名で830年頃成立の「ブリトン人の歴史(Historia Brittonum)」にブリタニアの主要都市の一つとして挙げられている(注3)。

1066年、イングランドを征服したウィリアム1世は北ウェールズにも進出し、ウィリアム1世死後ウィリアム2世時代の1093年頃、チェスター伯ヒュー・ダブランシュ(Hugh d’Avranches, Earl of Chester)がサイオント川とメナイ海峡に囲まれた半島、現在のカーナーヴォン城付近にモット・アンド・ベイリー様式の城を築いた。1115年、この城はグウィネズ公国が奪還、以後グウィネズ公の宮殿として使われていた。

中世ウェールズ伝承集「マビノギオン」に収録されている物語「マクセン・ウレディクの夢」(十二世紀頃成立)に登場する女帝エレンの居城アベル・サイントの城のモデルがカーナーヴォン城築城前に存在していたグウィネズ公の宮殿となったノルマン城であり、同作に登場する「エレン軍隊の道」は同地を通ったローマ街道「ヘレンの道」がモチーフになっていると見られている(注4)。

ウェールズの統一と独立の終焉

「カーナーヴォン城」

「カーナーヴォン城」
パブリックドメイン画像


長く小国の割拠状態が続き、イングランド王権に従属的な地位を余儀なくされていたウェールズ地方でも十三世紀に入ると統一の動きが活発になり始めた。親イングランドのウェールズ南部・北東部を除くウェールズ北西部・中部地域はグウィネズ、ポウィス、デハイバース三公国に分かれていたが、1195年、グウィネズ公となったサウェリン・アプ・イオルウェルス(Llywelyn ap Iorwerth, 大サウェリン,在位1195-1240)は他の二公国に征服戦争を仕掛け、1217年、東南部を除く全ウェールズの統一に成功する。ウェールズの統一による勢力拡大を危惧したイングランド王ヘンリ3世が軍を派遣して治世の後半は領土の縮小を余儀なくされたものの、統一ウェールズ体制は継続した。

大サウェリン死後の継承争いを経て公位を継いだ孫のサウェリン・アプ・グリフィズ(Llywelyn ap Gruffydd,サウェリン末代公,在位1246-82)は混乱期の失地回復とさらなる領土拡大に臨み、シモン・ド・モンフォールの乱などイングランドの内乱(第二次バロン戦争)に乗じて最大版図を築いた。1258年、彼は前公ダフィズ・アプ・サウェリンが1244年に初めて名乗ったウェールズ大公(プリンス・オブ・ウェールズ)をイングランドとの和平条約で初めて使用しウェールズ大公としての国際的な承認を得た。

サウェリン大公の絶頂期は続かず、1272年、イングランド王にエドワード1世が即位すると、エドワード1世は臣従礼や召集の拒否を理由に、1276年、サウェリンを反徒と宣言し、ウェールズ側も反発、翌1277年、イングランド軍はチェスターからウェールズへ侵攻を開始した。その後多くの激しい戦いが繰り広げられ、1277年の第一次侵攻、1282-83年の第二次侵攻を経てウェールズ全土は完全にイングランドの支配下に置かれた。

築城

「アイアンリング・オブ・キャッスルズ」

「アイアンリング・オブ・キャッスルズ」

「アイアンリング・オブ・キャッスルズ」
1-フリント城(Flint Castle) 2-ハワーデン城(Hawarden Castle) 3-ルズラン城(Rhuddlan Castle) 4-ビルス城(Builth Castle) 5-アベリストウィス城(Aberystwyth Castle) 6-デンビー城(Denbigh Castle) 7-カーナーヴォン城(Caernarfon Castle) 8-コンウィ城(Conwy Castle) 9-ハーレック城(Harlech Castle) 10- ビューマリス城(Beaumaris Castle)
© Eggishorn, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons

エドワード1世はウェールズ征服に際して、支配体制を強固なものとするため、ウェールズ各地に城を築かせた。「アイアンリング・オブ・キャッスルズ(”Iron Ring of Castles”あるいはリング・オブ・アイアン” Ring of Iron”)」の異名で知られるこれらの城塞網の築城を指揮したのが築城技術者として名高いセント・ジョージのマスター・ジェイムズ(Master James of Saint George)である。かつてのグウィネズ公国の首都に築かれたカーナーヴォン城はこの「アイアンリング」の中核であることを期待された城であった。

エドワード1世は征服したグウィネズ公国を直轄地である王領に編入、三つの州に分割した。この王領全体の首府をカーナーヴォンと定めて支配体制を確立する。エドワード1世は旧来のウェールズの慣習を無視して地代や臨時税などの厳しい取り立てを行い、反乱がおきるとその都度鎮圧にあたった。「アイアンリング」諸城はいずれも海岸線に築かれてイングランドからの補給や増援を受けやすく、またグウィネズの中央部であるスノードニア地方を取り囲むように築かれ、文字通り支配の「鉄環」となった。

マスター・ジェイムズによって築かれた城塞群は従来の城と比べて大きな変化がみられた。ヨーロッパではモット・アンド・ベイリー様式からの発展形として巨大な主塔(キープ/ドンジョン)を中心として周囲を城壁が囲む構造が主流だったが、攻城技術の進展に応えて防御力が強化されていった結果、城壁の各所に主塔と同様の働きをする城塔が配置されるようになり、必ずしも主塔を持たない構造へと変化した。アイアンリングの各城もほぼ主塔を設けず城壁と円形または矩形の塔を組み合わせて築かれており、エドワード1世の名をとって「エドワーディアン・キャッスル(Edwardian castle)」と呼ばれる。

カーナーヴォン城の特徴

カーナーヴォン城の築城は1283年夏から1292年までと1295年から1323年までの二期に分けて工事が行われ、その後断続的に1330年頃まで続けられて費用が尽き未完成のまま工事が終了した。工費は1292年までの第一期だけで1万2千ポンド(現在の通貨価値で1800万米ドル以上=日本円で18.7億円以上、注5)、1284年から1330年までの間にあわせて2万~2万5千ポンドが費やされた。

カーナーヴォン城図

A-水門跡(Site of Water Gate)、B-鷲の塔(Eagle Tower)、C-女王の塔(Queen’s Tower)、D-井戸塔(Well Tower)、E-外郭(Lower Ward)、F-大広間(Great Hall)、G-キッチン(Kitchens)、H-チェンバレンの塔(Chamberlain Tower)、I-王の門(King’s Gate)、J-主郭(Upper Ward)、K-黒の塔(Black Tower)、L-穀物庫塔(Granary Tower)、M-北東の塔(North-East Tower)、N-貯水塔(Cistern Tower)、O-女王の門(Queen’s Gate)
Credit:Cadw, OGL v1.0 , via Wikimedia Commons

城の南側はサイオント川に面し、メナイ海峡から川の河口にあたる西側には巨大な城塔「鷲の塔(Eagle Tower)」が置かれ、東側と北側にそれぞれ「王妃の門」「王の門」という城門が築かれ、北側は市壁に囲まれた市街地が広がる。城壁に築かれた12の塔には矢狭間が設けられ、城壁を伝って相互に兵員の移動が迅速に行うことが可能で小人数でも効率的に防御にあたれる工夫が施されていた。

「鷲の塔(カーナーヴォン城)」

「鷲の塔(カーナーヴォン城)」
© Mervyn Hughes, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons

「鷲の塔(Eagle Tower)」は高さ30メートル以上でカーナーヴォン城の塔の中でも最大の大きさで、三つの小塔=櫓を持ち多数の矢狭間と殺人孔が備えられた死角の無い構造で強力な防御力を誇った。各小塔には鷲の紋章が彫られていたことからこの名がつけられた。この塔はエドワード1世の腹心でウェールズ初代行政長官を務めたオットー・ド・グランゾン(Otto de Grandson,またはオットン・ド・グランディソン” Othon de Grandison”)の執務室が置かれており、ウェールズ支配の中枢としての役割を担っていた。

「王の門(カーナーヴォン城」

「王の門(カーナーヴォン城」
© Steve Collis from Melbourne, Australia, CC BY 2.0 , via Wikimedia Commons

城の二つの門は1294年に起きたグウィネズの王族マドッグ・アプ・サウェリン(Madog ap Llywelyn)の反乱で城が占領されたことの反省で1295年からの第二期工事で築かれた。ともに左右に置かれた大きな多角形の城塔で挟まれた門で、複数の矢狭間と殺人孔が築かれた。しかし、本来の計画では「王の門」は跳ね橋や複数の落とし格子や直角に曲がる通路(虎口)と多くの門柱が築かれる予定であったが、未完成のままとなった。

「カーナーヴォン城と市街地空撮写真」

「カーナーヴォン城と市街地空撮写真」
© Cadw (OGL v1.0 or OGL v1.0 ), via Wikimedia Commons

市壁は鷲の塔と北東の塔から伸びて全長約734メートル、八つの塔と二つの門が備えられてぐるりと市街地を囲む構造である。市壁は旧ノルマン時代の城の敷地に合わせて築かれ、イングランド王の領地であったフランス南東部ガスコーニュ地方で多く見られたパスティード建築の影響を強く受けたものとみられている。また、市壁の門は「黄金の門」など、ビザンツ帝国の都コンスタンティノープルにちなんだ名前が付けられており、人々にローマ帝国を想起させた。

カーナーヴォン城の歴史

エドワード2世の生誕

「カーナーヴォン城」

「カーナーヴォン城」
© Steve Collis from Melbourne, Australia, CC BY 2.0 , via Wikimedia Commons


築城が始まってから間もない1284年、身重のエリナー王妃がカーナーヴォン城に滞在した。おそらく「鷲の塔」が先行して完成していたとみられ、1284年4月25日、エリナー妃は王子エドワード(後のエドワード2世)を出産した。

このときエドワード1世がウェールズの領主たちに向かって「ウェールズで生まれ、英語を解さない者」として生まれたばかりのエドワード王子を見せてプリンス・オブ・ウェールズに叙し、臣従を促したという有名な逸話があるが、これは後世の作り話である。十六世紀、ウェールズ出身の著名な聖職者デヴィッド・パウエル(David Powel (1549/52 – 1598))が創作した物語(注6)で、誕生時エドワード1世はウェールズに居らず、エドワード王子がプリンス・オブ・ウェールズに叙されたのも1301年のことである。

1294年、グウィネズの王族マドッグ・アプ・サウェリンが反旗を翻し、瞬く間にウェールズ全土へ勢力を拡大した。カーナーヴォン城も反乱軍の攻撃を受けて占領され、市街地にも火がかけられ大きく荒廃した。95年に反乱が鎮圧された後、カーナーヴォン城は修復・強化され、1330年頃までにほぼ現在の形になった。

ウェールズ反乱

1400年、それまでのウェールズに対する苛斂誅求の不満がランカスター朝成立の混乱の中で爆発し、ウェールズ人小領主オワイン・グリンドゥール(Owain Glyndŵr)を指導者にして蜂起し、すぐにウェールズ全土へと広がった。グリンドゥールはほぼウェールズ全土を支配下に収め、プリンス・オブ・ウェールズを称してフランス王やイングランドの反ランカスター家勢力とも連合、ウェールズを事実上独立国として抗戦を続けたが、1415年頃までに鎮圧させられた。

このウェールズ大反乱の中、カーナーヴォン城は1401年、1403年、1404年の三度に渡ってグリンドゥール軍の包囲を受けたが、いずれも退けている。アイアンリング諸城が悉く陥落するなかで唯一包囲軍を撃退し、堅城としての名を知らしめた。1401年の包囲戦時、カーナーヴォン城近郊で行われたトゥースヒルの戦い(Battle of Tuthill)はグリンドゥール軍によって現在のウェールズ国旗であるレッドドラゴンの旗が初めて掲げられた戦いとして知られている。わずか30名ほどの守備隊で包囲を退け続けられたのは、カーナーヴォン城が多角形平面の城塔を歩廊が通っており城壁のどこに取りつかれても矢狭間と殺人孔を駆使してこれを阻止できる構造になっていたからであった。

荒廃

「カーナーヴォン城」ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー画(1830-35年頃)

「カーナーヴォン城」ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー画(1830-35年頃)
パブリックドメイン画像、サンパウロ美術館収蔵


十六世紀になるとウェールズの支配は安定したため城の重要性は低下し、多くのアイアンリング諸城と同様にカーナーヴォン城も荒廃が進んだ。1620年代には城内で屋根が残っていたのは「鷲の塔」と「王の門」だけだったという。1646年、清教徒革命(イングランド内戦)で議会軍に占拠されたのがカーナーヴォン城最後の戦いであった。

その後、取り壊しは免れたものの廃虚となり、十九世紀には多くの画家にインスピレーションを与えて多くの風景画のテーマとして描かれていた。1870年代から政府の支援で修復が進められ、1908年英国政府の管理下に置かれた。

現代

プリンス・オブ・ウェールズ叙位式

「「カーナーヴォン城『女王の門』前のデイヴィッド・ロイド・ジョージ像」

「カーナーヴォン城『女王の門』前のデイヴィッド・ロイド・ジョージ像」
© Libby norman, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

長く忘れ去られていたカーナーヴォン城が一躍注目されることになるのが、1911年7月13日、王太子エドワード(後のエドワード8世)のプリンス・オブ・ウェールズ叙位式会場としてカーナーヴォン城が選ばれたことだった。それまで、プリンス・オブ・ウェールズの叙位式はウェストミンスター宮殿など様々な場所で行われており、カーナーヴォン城は十六世紀の作り話を除くと縁もゆかりもない場所であった。

カーナーヴォン城でプリンス・オブ・ウェールズ叙位式を開催することとなったのはウェールズ愛国者でカーナーヴォンを自らの選挙区とする有力政治家デイヴィッド・ロイド・ジョージの強い進言によるものだった。現在ロイド・ジョージの彫像がカーナーヴォン城下に建てられている。廃城は急ピッチで式典会場として整備され、叙位式で行われたエドワード皇太子によるウェールズ語でのスピーチはその後の慣習となった。

チャールズ皇太子のプリンス・オブ・ウェールズ叙位式動画(0:50~、British Pathé)

1969年7月1日、この前例に倣ってチャールズ皇太子のプリンス・オブ・ウェールズ叙位式もカーナーヴォン城で開催され、初めてテレビ中継されるなど大きな注目を浴び、ウェールズの人々からも歓迎を受けたが、一方で、1969年3月にはサウェリン・アプ・グリフィズがプリンス・オブ・ウェールズの座を追われて以来のウェールズ支配を示すものだとして抗議行動も起きた。

「チャールズ皇太子のプリンス・オブ・ウェールズ叙位式に対する抗議行動の写真(1969年3月)」

「チャールズ皇太子のプリンス・オブ・ウェールズ叙位式に対する抗議行動の写真(1969年3月)」Credit:National Library of Wales,Geoff Charles
パブリックドメイン画像(CC0)

世界遺産登録、人気の観光地へ

「カーナーヴォン城の夕景」

「カーナーヴォン城の夕景」
© RICHARD OUTRAM, CC BY 2.0 , via Wikimedia Commons


カーナーヴォン城は英国王室の所有する城で、城主はエリザベス2世女王から任命されている。2020年現在の城主はグウィネズ統監エドマンド・シーモア・ベイリー(Edmund Seymour Bailey, Lord Lieutenant of Gwynedd)氏が務めている(在任2018年~、注7)。1984年からはウェールズ自治政府の歴史環境部門Cadwの管理下に置かれて整備が進められ、一般公開されている。

1986年、ユネスコ世界遺産「グウィネズのエドワード1世の城群と市壁群(Castles and Town Walls of King Edward in Gwynedd)」に、コンウィ城、ハーレック城、ビューマリス城とともに城塞と市壁が登録された。

参考文献

・青山吉信/飯島啓三/永井一郎/城戸毅編著『イギリス史〈1〉先史~中世 (世界歴史大系)』山川出版社,1991年)
・今井宏編著『イギリス史〈2〉近世 (世界歴史大系)』(山川出版社,1990年)
・太田静六著『イギリスの古城 (世界の城郭)』(吉川弘文館 2010年)
・瀬谷幸男 訳『伝ネンニウス著 ブリトン人の歴史ー中世ラテン年代記』(論創社、2019年)
・森護著『英国王室史話』(大修館書店,1986年)
・森護著『英国王室史事典』(大修館書店,1994年)
・森野聡子 訳『ウェールズ語原典訳マビノギオン』(原書房、2019年)
・チャールズ・スティーヴンソン 著(中島智章 監修/村田綾子 訳)『ビジュアル版 世界の城の歴史文化図鑑』(柊風舎,2012年)
・チャールズ・フィリップス著(大橋竜太監修,井上廣美訳)『イギリスの城郭・宮殿・邸宅歴史図鑑』(原書房,2014年)
・「カムリの地名のカタカナ表記」(日本カムリ学会|日本ウェールズ学会)
・”Caernarfon Castle | Cadw
・”Segontium Roman Fort | Cadw
・Mark Cartwright “Caernarfon Castle – Ancient History Encyclopedia
Caernarfon Castle – Wikipedia“(5 December 2020, at 03:29 (UTC).)
Caernarfon town walls – Wikipedia“(27 October 2019, at 16:09 (UTC).)

脚注

1) ウェールズ語のカナ表記は「カムリの地名のカタカナ表記」(日本カムリ学会|日本ウェールズ学会)参照

2)森野聡子 訳『ウェールズ語原典訳マビノギオン』(原書房、2019年)450頁

3)瀬谷幸男 訳『伝ネンニウス著 ブリトン人の歴史ー中世ラテン年代記』(論創社、2019年)62頁/ラテン語” Historia Brittonum – Wikisource

4)森野聡子 訳『ウェールズ語原典訳マビノギオン』(原書房、2019年)446-450頁

5) Mark Cartwright “Caernarfon Castle – Ancient History Encyclopedia

6) 森護著『英国王室史話』(大修館書店,1986年)611-613頁 / Roy Martin Haines (2003). King Edward II: His Life, His Reign, and Its Aftermath, 1284-1330. McGill-Queen’s Press – MQUP. p. 3

7)” This is who the Queen has appointed Constable of Caernarfon Castle – North Wales Live

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