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ユッセ城(Château d’Ussé)――「眠れる森の美女」の城の歴史

ユッセ城(Château d’Ussé)はフランス中部、ロワール川の支流アンドル川沿いのリニー=ユッセにある城塞。1424年に初めて築城され1462年頃から1535年頃まで工事が進められた中世の城を基礎に、十七世紀半ばから十九世紀末までかけて宮殿として整備された。お伽話「眠れる森の美女」のモデルとなった城として知られる。「フランス歴史建造物」指定。ロワール渓谷の他の城とともにユネスコ世界遺産「シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷」の一つを構成している。

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ユッセ城の歴史

築城以前のユッセ

1699年のユッセ城のイラスト

1699年のユッセ城のイラスト
“Veüe du chasteau et des terraces d’Ucé, en Touraine, à 2 lieües de Chinon et à 2 lieües de St Michau, appartenant à M. de Valentiney // 1699 : [dessin] / [Louis Boudan?] | Gallica”
credit: Louis Boudan, Public domain, via Wikimedia Commons


ユッセ城が建つユッセは六世紀頃、ユセロム(Ucerum)の名で記録に登場し、シノンとトゥールの間でロワール川とその支流アンドル川の水運を管理する交通の要衝として栄えた。最初の領主として1004年に名前が登場するのがゲルドゥアン1世・ド・ソーミュール(Guelduin I de Saumur)である。

ゲルドゥアン1世はソーミュール、ポンルヴォワ、ユッセの領主で、ブロワ伯ティボー2世・ウード2世の二代に仕え、ブロワ伯とアンジュー伯フルク3世との争いで活躍、「ソーミュールの悪魔(Le diable de Saumur)」の異名で恐れられた武将であった。1040年、本拠地であるソーミュール城を失った子のゲルドゥアン2世・ド・ソーミュールが新たな拠点としてユッセに木造の城を築いた。

最初の築城と長い工事(1424-1535頃)

ユッセ城

「ユッセ城(Château d’Ussé)」
credit: Alf van Beem, Public domain, via Wikimedia Commons


1099年、オリヴィエ・デュッセ(Olivier d’Ussé)がユッセの領主となり、1391-93頃、ユッセ家からトゥレーヌ地方の名門ビュエイユ家に領主が替わった。現在のユッセ城の基礎となる城は1424年、ジャン5世・ド・ビュエイユ(Jean V de Bueil , 1406生-1478没)によって築かれた。

ジャン5世・ド・ビュエイユは百年戦争後期フランスの有力武将で、ジャンヌ・ダルクの戦友として知られ、オルレアン包囲戦を始め多くの戦いに参加した。1450年から61年まで元帥と並ぶ軍事の重職フランス提督(Amiral de France)に就任、百年戦争のフランス勝利に多大な貢献をした人物である。1451年、サンセール伯位継承。半自伝的な騎士文学「ル・ジュヴァンセル( Le Jouvencel )」(1466年)を著し、後世、文人騎士として知られている。

ジャン5世の子サンセール伯アントワーヌ・ド・ビュエイユ(Antoine de Bueil, 1440から1445年頃生-1506年以降没)は1462年、フランス王シャルル7世と愛妾アニェス・ソレルの間に生まれた娘ジャンヌ・ド・ヴァロワと結婚。40,000エキュもの多額の婚資を得て、ユッセ城の本格的な築城に乗り出したが、散財しすぎて資金難に陥り、1485年、ジャック・デスピネ(Jacques d’ Espinay d’Ussé,1465頃生-1506没、注1)に未完成のまま売却された。その後、ジャックの子シャルル・デスピネと妻リュクレース・ド・ポンス(Lucrèce de Pons)によって建築が進められ、シャルルが亡くなる1535年まで工事が行われた。

ユッセ城はジャン5世・ド・ビュエイユが1424年に着手し、ビュエイユ家、エスピネ家によって1535年まで工事が進められた中世城塞を基礎としている。城内の最も古い建物は1521年から1535年頃までの間に建てられたノートルダム参事会聖堂の礼拝堂で、シャルル・デスピネとリュクレース・ド・ポンス夫妻の頭文字CとLが各所に見られている。また、現在のガード・ルームは十五世紀当時の城の入り口であった場所に建てられている。

ユッセ城礼拝堂

ユッセ城礼拝堂
© Zairon, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons

1557年、ついにエスピネ家も資金難に陥ったためブルボン=モンパンシエ家へと売却され、以後、ブルボン=モンパンシエ家からエルブフ侯ルネ2世・ド・ロレーヌ=ギーズ(René II de Lorraine-Guise, marquis d’Elbeuf)、オマール公シャルル1世・ド・ロレーヌ(Charles I de Lorraine, duc d’Aumale)、ネムール公アンリ1世・ド・サヴォワ=ネムール(Henri I de Savoie-Nemours)など十七世紀半ばまで城の所有者は転々とした。

宮殿化するユッセ城(十七~十八世紀)

「ユッセ城空撮写真」

「ユッセ城空撮写真」
© Lieven Smits, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons


1659年、ヴァレンティネ侯トマ・ベルナン(Thomas Bernin, marquis de Valentinay)が城主となり、彼の下で1664年、ヴェルサイユ宮殿の庭園設計などで名高いアンドレ・ル・ノートル(André Le Nôtre,1613-1700)が招聘され、庭園が整備された。

1700年、トマ侯の子ルイ1世・ベルナン・ド・ヴァレンティネ(Louis I Bernin de Valentinay,1627年以前生-1709年没)がユッセ城主としてユッセ侯に叙され、ようやく彼とその子孫の下でユッセ城は安定的に管理されるようになった。

ユッセ候は当時のフランス随一の築城技術者・フランス元帥セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン(Sébastien Le Prestre de Vauban)と交流が深く、ルイ1世の子ルイ2世・ベルナン・ド・ヴァレンティネはヴォーバンの娘ジャンヌ・フランソワーズ・ル・プレストル・ド・ヴォーバンと結婚した。このような関係からユッセ城はヴォーバンによる改修が加えられ、応接室「ヴォーバンのサロン(Salon Vauban)」やアンドレ川を見下ろすテラス、フランス式庭園などが設けられた(注2)。

次のルイ3世が後継者無く、彼の娘アンリエット=マグデレーヌの代にユッセ候家は絶えて、1780年に城は売却され、1785年を最後に領主もいなくなりフランス革命を迎えた。

「ユッセ城の庭園」

「ユッセ城の庭園」
© Manfred Heyde, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

ユッセ城のヴォーバン・サロン

ユッセ城のヴォーバン・サロン
© Guerinf, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons

現代まで

1807年、デュラス公アメデ=ブルターニュ=マロ・ド・デュルフォール(Amédée-Bretagne-Malo de Durfort, duc de Duras)がユッセ城を購入し、再びユッセ城に城主が誕生した。デュラス公は、フランス革命中は英国へ逃れ1801年に帰国、ナポレオン政権とは距離を置いて、後の復古王政でルイ18世の側近となった。1813年3月、皇帝ナポレオンの権威失墜を見たブルボン家支持者たちがユッセ城で会合を持ち復古王政の可能性を探った。1817年、デュラス公と親交深かった作家・政治家のフランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン(François-René de Chateaubriand)がデュラス公夫人へレバノン杉を贈り、現在も城内に植えられている。

デュラス公の娘ラ・ロシュジャクラン侯爵夫人クレア・ルイーズ・オーガスティン・フェリシテ・マクロヴィ・ド・デュルフォール(Claire Louise Augustine Félicité Maclovie de Durfort, 1798-1883)によって1829年から1883年までかけて内部の装飾、ネオゴシック様式の回廊の追加、中庭の東側ファサードの改良など最後の大幅な増改築が行われて、ユッセ城が現在の姿となった。

デュルフォール・ド・デュラス家最後のラ・ロシュジャクラン侯爵夫人はユッセ城を甥のベルトラン・ド・ブラカス伯爵(Bertrand de Blacas)に譲り、ベルトラン伯の孫娘と結婚したブラカス公ピエール・ド・ブラカス・ダルプ(Pierre de Blacas d’Aulps de La Baume-Pluvinel, 1913-1997)がユッセ城を継承、ブラカス公爵家が現在のユッセ城の所有者となっている。

ユッセ城の大回廊

ユッセ城の大回廊
© Zairon, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons

「眠れる森の美女」の舞台

ジョン・コリア作「眠れる森の美女」(1921年)

ジョン・コリア作「眠れる森の美女」(1921年)
パブリックドメイン画像

ユッセ侯ルイ1世・ベルナン・ド・ヴァレンティネが作家シャルル・ペロー(Charles Perrault, 1628-1703)の友人であった縁で、ペローがユッセ城を訪れてインスピレーションを受け、「眠れる森の美女(La Belle au bois dormant)」(1697年出版)の舞台として描かれたと見られている。

『なかのひとりは、あれは、ゆうれいが出るというひょうばんの、古い荒城だといいました。
 すると、またひとりが、あれはこの国の魔法使や、わるいみこたちが、夜会をする場所だといいました。
 そのなかで、わりあい、おおぜいのもののいうところでは、あれは昔から人くい鬼の住んでいるお城で、ちいさなこどもをつかまえては、みんなあそこへさらって行って、それで、たれもあとからついてこられないように、あのとおり、じぶんだけ通って行ける森をこしらえて、その中でゆっくりたべるのだということでした。
 王子は、このうちのどれを信じていいか、わからないので、まよっていますと、そのとき、ひとり、この土地に古くからいる年よりのお百姓が、こういいました。
「王子さま、失礼ではございますが、わたくしが五十年も前、父から聞きました話では、――その父はまた、もとは、じじいから聞いたのだと申しますが、――このお城の中には、それはそれは美しい王女のお姫さまが住んでおりまして、もう百年のあいだ、ずっと眠りつづけたあと、ちょうど百年めに、ある王様の王子が来て、目をさましてくださるのを、待っているのだということでございます。」』(シャルル・ペロー著、楠山正雄訳「眠れる森のお姫さま」青空文庫)

現在、城内には「眠れる森の美女」のシーンを再現した様々な模型が展示されている。

ユッセ城内の「眠れる森の美女」の模型

ユッセ城内の「眠れる森の美女」の模型
© Tango7174, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons

参考文献・リンク

・佐藤賢一著『ヴァロワ朝 フランス王朝史2 (講談社現代新書)』(講談社,2014年)
・佐藤賢一著『ブルボン朝 フランス王朝史3 (講談社現代新書)』(講談社,2019年)
・柴田三千雄編『フランス史〈2〉16世紀-19世紀なかば (世界歴史大系)』(山川出版社, 1996年)
・松本慎二著『世界遺産で巡るフランス歴史の旅 (朝日選書)/a>』(朝日新聞出版, 2013年)
・藤井 信行 著「
ヨーロッパの古城と宮殿 (ビジュアル選書)」(新人物往来社,2012年)
・ロベール・ポリドリ/ジャン=マリー・ペルーズ・ド・モンクロ 著(鈴木亨訳)『ロワール古城紀行』(クーネマン出版社,2001年)
・シャルル・ペロー著、楠山正雄訳「眠れる森のお姫さま」青空文庫
ユッセ城公式サイト(フランス語/英語)
・”Son Histoire – Le Château d’Ussé | Château de la Belle au Bois Dormant – Loire
・”Château d’Ussé — Wikipédia“(2020年8月31日4時17分更新版)
・”Château d’Ussé – Wikipedia“(2020年12月17日20時26分更新版)
・Nicolas Mémeteau”Ussé (37)“(2006年11月9日更新記事)

脚注

1) 生没年は”Jacques d’ Espinay d’Ussé (c.1465 – 1506) – Genealogy“参照。

2) なお、ロベール・ポリドリ/ジャン=マリー・ペルーズ・ド・モンクロ 著(鈴木亨訳)『ロワール古城紀行』(クーネマン出版社,2001年)は『(前略)17世紀に建築を指揮したのはヴォーバンといわれてきた。しかし実際の建築は、大階段の考案者であることが確かな、館の所有者の従兄弟であるサン=イラリオンの僧院長が指揮したのではないかと考えられる』(334頁)と指摘している。本記事では公式サイト他参考記事の説明を元にヴォーバンによる設計とする定説を採用している。

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