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スコットランド王マクベスの虚像と実像

ウィリアム・シェイクスピアの代表的戯曲「マクベス」の主人公としてその名を知られるマクベス(英語”Macbeth”,スコットランド・ゲール語” MacBheatha”, 中世ゲール語“Mac Bethad”)は十一世紀に実在したスコットランド(アルバ)王(在位1040-1057)である。歴史上のマクベスに関する史料は少なく分かっていることは限られているが、シェイクスピアによる創作上のキャラクターとは大きくかけ離れている。

「マクベス王の肖像画」(1684-86年頃)

「マクベス王の肖像画」
(Jacob Jacobsz de Wet II画,1684-86年頃,ホリールード宮殿収蔵)

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マクベス王時代までのスコットランド

「中世前期のスコットランド勢力図」

「中世前期のスコットランド勢力図」(パブリックドメイン画像)
Alba:アルバ(スコットランド)王国
Fortriu:ピクト人の国
Dalriada:ダルリアダ王国

ローマ帝国のブリテン島支配が終わった五世紀頃からアイルランド北部のスコット人がカレドニア地方(現在のスコットランド)へと移住を開始し、九世紀頃までにスコット人と原住民のケルト諸語を話すピクト人やブリトン人、ノース人、デーン人などが混住するようになった(注1)。九世紀半ば頃、スコット人の王ケニス・マカルピン(Kenneth MacAlpin,810-858)の下に統合されたと伝わるが史料が少なくこの頃の経緯は定かではない(注1) (注2)。以後ケニス・マカルピンに始まる王朝はアルバ王国と呼ばれ、後にスコットランド王国へと発展した。

アルバ王国の領土は当初、現在の首都エディンバラやスターリングなどがあるフォース湾沿岸地域を中心にその北部に広がるスペイ川の南にかけての一帯に限られていたが、十世紀から十一世紀初めにかけて徐々に南下して拡大し、マルカム2世(Malcolm II,在位1005-34)治世下で1016年頃にツイード川へ進出、1030年頃までにスコットランド南西部一帯を支配していたブリトン人王国ストラスクライド王国を吸収した。レノックスやアーガイルなどもこの頃に服従したとみられる。

アルバ王国は王位継承方法として、長子相続ではなく、王が亡くなると横にスライドして前王の弟たちが王位継承していく「タニストリー」という継承方法をとった。「『国王は王家一族のなかの王位継承候補者の間から選ぶ』(注3)のを原則とし、その『王位継承候補者』は、在位の国王の孫までを含む適齢以上の男子すべて」(注3)を対象としている。しかし、この慣習により王族の間で王殺しのインセンティブが働くこととなり、短命の王が続くこととなった。

この伝統を改めたのが前述の領土拡大を成し遂げた英傑マルカム2世(Malcolm II,在位1005-34)である。彼は生前から王族ではなく自身の子孫への継承を唱え、1034年に王族によって暗殺されるものの、その遺志通り孫(長女の子)のダンカン1世(Duncan I,在位1034-40)が王位に就いた。伝統的なタニストリーか新たに採用された直系相続か、王位継承方法を巡る変革の過程でマクベスは登場する。

マクベスの生涯

マリ王マクベス

マクベスはスコットランド王に即位する以前はマリ(Moray、注4)を支配する領主であった。九世紀頃から1130年にスコットランドに併合されるまでの二世紀余りの期間、マリはゲール語で地方勢力の支配者を意味するモーマー(Mormaer)と呼称された君主が統治する国(Mormaerdom)の一つで、マリ王国(Kingdom of Moray)とも呼ばれ、自治的な支配体制を維持していた。Mormaerの訳語として領主、地区知事、伯、王などがあるが、ここではスコットランド王の権力から独立した体制であることを踏まえて「王」、その支配体制(Mormaerdom)を「王国」と表記する。

「モーマー(Mormaer)」――中世スコットランドに割拠した地方勢力
モーマー(Mormaer)はゲール語で「偉大な」を意味する”mor”と「執事」または「廷臣」を意味するmaerまたはmaorからなる語で、十世紀初頭から十三世紀にかけてのスコットランドで各地に割拠していた自立した地方勢力の支配者を意味し、そ...

中世スコットランドのモーマー

「中世スコットランドのモーマー」
Deacon of Pndapetzim at English Wikipedia, Public domain, via Wikimedia Commons

当時のマリ王国の版図は主要都市インヴァネスを中心にハイランド地方にまで広がっていたとみられている。十一世紀当時、マリ王家はダルリアダ王国の名門ローン一族(注5)に属すると主張しており、伝説のダルリアダ王ファーガス大王(注6)の末裔を称していたアルバ(スコットランド)王家とも縁が深い。

マクベスはマリ王フィンドレイ(スコットランド・ゲール語” Findláech”,英語” Findlay”/在位1014以前-1020、注7)の子で、1005年頃に生まれた。母はスコットランド王マルカム2世の娘であった可能性がある。父フィンドレイ王は「アルスター年代記」や「レンスターの書」などのアイルランド側史料ではアルバ王と書かれており(注8)、これは事実ではないものの、当時、アルバ王に模されるほど非常に勢威ある君主として認められていたとみられている。

1020年、フィンドレイ王は甥のマルカムによって殺されてマリ王位はマルカムに移り(在位1020-1029)、マリ王マルカム死後、その兄弟のギラコムガン(Gille Coemgáin)が王位を継いだ(在位1029-1032)。ギラコムガン王の妻が後のマクベス夫人グロッホ(Gruoch,注9)で、同王とグロッホの間の子が後にマクベスの後継者となるルーラッハ(Lulach,?-1058)である。

1032年、詳細は不明だがギラコムガン王が殺害されたことでマクベスが跡を継ぎマリ王に即位し、あわせて前王妃グロッホは新王マクベスの妃とされた。マリ王時代のマクベスの事績はほとんど知られていないが、「アングロ・サクソン年代記」の1031年の条に、北海帝国のクヌート1世がスコットランドを訪れた際、スコットランド王マルカム2世とともにマクベスら二人の王がクヌート王の下を訪れ臣従したという記録がある(注10)。

スコットランド王への即位

ウィリアム・シェイクスピアの史劇「マクベス」ではスコットランド王ダンカン1世を家臣のマクベスが自城に招き寝込みを襲って暗殺し王位を簒奪するが、これは史実ではない。祖父マルカム2世死後、王位を継いだダンカン1世は功を焦ったか外征を繰り返して失敗した。1039年、大軍を率いて南下しノーサンブリア伯領ダラムを包囲するが大敗し、翌1040年、今度は北に目を向けてマリ王国へ侵攻する。1040年のおそらく8月14日頃、ダンカン1世率いるスコットランド軍と迎え撃つマクベス率いるマリ軍が現在のエルギン市近郊で会戦となりダンカン1世は戦死した。

ダンカン1世を破ったマクベスはスコットランド王に即位することとなった。このような対立から即位へ至る背景はよくわかっていないが、前王マルカム2世時代にクヌート王へ臣従するのと合わせてマクベスもスコットランド王に臣従していた可能性や、ダンカン1世の即位に際して後見として強い影響力を持っていて、ダンカンがマクベスの影響力を排除しようとしたとする説などがある(注11)。あるいはマルカム2世の娘を母に持ち北海諸島に支配権を拡大していた独立勢力オークニー伯トルフィン・シグルドソンとマクベスが同盟関係にあって、この反ダンカン1世勢力を削ごうとしたとの説もある(注12)

北海諸島の覇者オークニー伯トルフィン・シグルドソン
オークニー伯トルフィン・シグルドソン(Thorfinn Sigurdsson ,1009頃-1065)はヴァイキングである。通称「強者トルフィン(Thorfinn the Mighty)」。十一世紀、オークニー諸島、シェトランド諸島、ヘブリ...

マクベス王の治世

ダンカン1世を討ったマクベス軍だが、ダンカン1世の二人の遺児マルカム(後のマルカム3世)とドナルベイン(後のドナルド3世)を取り逃がし、マルカムはイングランドへ、ドナルベインはアイルランドへと逃れ捲土重来を期した。あるいは、兄弟は従兄弟に当たるオークニー伯を頼ったとする説もある(注13)。

1045年、故ダンカン1世の父(マルカム2世の長女の夫)ダンケルド修道院長クリナン(Crínán of Dunkeld)がマクベスに反旗を翻したが鎮圧され、クリナンは戦死した。また、1046年、ノーサンブリア伯シワード(Siward, Earl of Northumbria、1055年没、注14)がスコットランドに侵攻してマクベス王を追放し、一時別のスコットランド王を立てたがすぐにマクベスが復権したという(注15)。クリナンの反乱とノーサンブリア伯の侵攻の関連性は不明だが、いずれもマクベス王は勝利し、以後マクベス王の治世は盤石なものとなった。

マクベスの治世は17年に及ぶが、これは短命が続いた初期のスコットランド王と違い、マクベスまでの歴代在位期間ではコンスタンティン2世(在位900-943)、マルカム2世(1005-1034)に次いで長く、ほぼ安定した平和な時代を築いた点で特筆される。1050年、当時ヨーロッパ諸国の君主が行っていたのと同様にマクベス王もローマへ巡礼し、貧民に喜捨を行って、自らの罪を悔い改めた。また教会の庇護者としても知られ、この傾向は次代のマルカム3世にも受け継がれることになった。このようなエピソードから『マクベスの実像については、不明な点が多い。しかし、はじめてヨーロッパを舞台に活躍したスコットランド王として、その姿が浮かび上がるのである』(注16)と評される。

マクベス王の死

1054年7月、ノーサンブリア伯シワードが再びスコットランドへ侵攻した(注14)。陸海双方からの大規模な侵攻作戦で、フォース湾周辺で激しい戦いとなりマクベス王は敗走、スコットランド軍の有力者が多く戦死し、対するノーサンブリア軍にも多くの損害が出てシワードの息子と娘婿を始め多くの者が戦死した(「ダンシネーンの戦い」または「七人の眠り聖人の戦い」注17)。死者数はスコットランド軍3000名、ノーサンブリア軍1500名だったともいわれる。また、ノーサンブリア伯の後ろ盾でストラスクライド王国が一時的に復興し、マクベス王の権力は著しい弱体化を余儀なくされた(注18)。

1057年、前スコットランド王ダンカン1世の遺児マルカムが軍を率いてスコットランドへ侵攻、マクベスはこの攻勢に耐えきれず部下たちとマリ領へ撤退する途上の8月15日、アバディーンシャーのランファナン砦(注19)周辺で戦闘となり戦死した(ランファナンの戦い)。あるいはこの戦いで重傷を負い、数日後にスクーンで亡くなったとも言われる。

マクベス死後、ルーラッハが跡を継ぎスコットランド王に即位したが、1058年3月17日、新王ルーラッハはマルカムによって暗殺され、代わってマルカムがスコットランド王マルカム3世(在位1058-93)として即位した。マリ王位はルーラッハの娘婿マエル・スネフタイ(Máel Snechtai,1085年没)が継ぎ、1130年、ルーラッハの娘の子オエングス(Óengus)がスコットランド王デイヴィッド1世に戦いを挑んで滅ぼされた(注20)。その後、マリ王国はスコットランドの王族ウィリアム・フィッツ・ダンカン(William fitz Duncan)の支配(在位1130-1147)を経て、1147年、スコットランド王国に併合された。

伝承・創作の中のマクベス

「マクベス」と「ホリンシェッド年代記」

ウィリアム・シェイクスピアの戯曲「マクベス」(1606年頃)に登場するマクベス王は、スコットランド王ダンカンの家臣で、対ノルウェー戦争で軍功を挙げた勇猛な将軍として登場する。しかし、三人の魔女からマクベスが王になるという予言を教えられ、マクベス夫人から主君殺しを唆されたことで、自身の居城にダンカン王を迎え入れた際に暗殺を実行、王位の簒奪に成功した。スコットランド王となったマクベスだがかつての戦友バンクォーを始めとした有力貴族を次々と粛清するなど悪政を行って信望を失ったため、国外に逃亡していたダンカン王の遺児マルカムがイングランドの協力を取り付け、旧臣を糾合してスコットランドへ侵攻した。両軍の決戦でマクベスはファイフ領主マクダフとの一騎打ちで倒され、スコットランド王位はマルカム王子が奪還、マクベス夫人も自害するという悲劇が描かれている。

シェイクスピアが「マクベス」を執筆するにあたって主要な素材として用いたのがラファエル・ホリンシェッド(Raphael Holinshed,1580年頃没)の” Holinshed’s Chronicles of England, Scotland, and Ireland”(通称「ホリンシェッド年代記」1577年)である。シェイクスピアは「マクベス」を始め「リア王」「シンベリン」「リチャード3世」など多くの作品の参考資料として「ホリンシェッド年代記」を活用した(注21)。

シェイクスピアの「マクベス」と違い、「ホリンシェッド年代記」ではダンカン王は柔弱な性格でスコットランドの継承法に反して諸侯に相談せずマルカムを後継者としたため、マクベスとバンクォーが中心となってダンカン王を討ち、マクベスが即位した。シェイクスピアと違い、年代記ではマクベスの即位は正当性が認められており、シェイクスピアは年代記中の別のスコットランド王ダフ王暗殺の経緯をマクベスの物語に転用したとみられている。マクベス王は安定した治世を実現した英君として描かれているが、一方でバンクォーが王位簒奪するのを恐れて殺害に及び、魔女に唆されて次第に暴君となって信望を失い、マクダフによって討たれる物語となっている(注21)。

マクベスとバンクォー

「三人の魔女と出会うマクベスとバンクォー」(テオドール・シャセリオー作、1855年、オルセー美術館蔵、パブリックドメイン画像)


シェイクスピアがマクベス王を「ホリンシェッド年代記」の記述とは反対に悪辣なキャラクターに改変した要因にバンクォー(Banquo)の存在がある。「ホリンシェッド年代記」や「マクベス」に登場するバンクォーはスコットランドの王族で十六世紀当時の王家であるステュアート家の祖と信じられていた。「マクベス」冒頭で三人の魔女はマクベスを指して「やがては王様に、おなりになる方」と言い、バンクォーについては「自分は王にならずとも、代々の王様の、その父祖となる方」と呼びかける(注22)。バンクォーに始まるステュアート家の王統の正当化のため、マクベスを対照的に悪しきキャラクターとして描こうとしたとみられる。

バンクォーの史料上の初出は十五~六世紀スコットランドの歴史家ヘクター・ボイス(1465–1536)が著した歴史書” Scotorum Historia”(1526-27頃)で、ホリンシェッドもボイスを参照して年代記にバンクォーを登場させたとみられている。ステュアート家の祖ウォルター(1106頃-77)は、バンクォー死後ウェールズに逃れたバンクォーの遺児フリーアンス(Fleance)とウェールズ王グリフィズ・アプ・サウェリン(Gruffydd ap Llywelyn ,1010頃-63,注23)の娘との間の子であるとされた。シェイクスピアが「マクベス」を著した当時の国王ジェイムズ1世(スコットランド王としてはジェイムズ6世/スコットランド王としての在位1567-1625、イングランド王としての在位1603-25)もこの伝承を信じており、バンクォー以来の血統を主張することで自身の即位を正当化させた(注24)。

なお、バンクォーとフリーアンスの親子が実在していた可能性について完全には否定できないものの、現在、バンクォーをステュアート家の祖とする説に対しては否定的な見解が主流となっており、スコットランド王家となったステュアート家の系図を伝統的なアルピン王家へとつなげるため十六世紀初め頃までに創作された架空の人物と考えられている。

スコットランド王家ステュアート家のルーツについて
バンクォーの伝承 スコットランド王家となったステュアート家の祖について、古くは十一世紀の王族バンクォー(Banquo)という人物であると信じられていた。バンクォーは伝承ではロックハバー(Lochquhaber)の領主で(注1)、エイ王...

参考文献

・青山吉信/飯島啓三/永井一郎/城戸毅編著『イギリス史〈1〉先史~中世 (世界歴史大系)』(山川出版社,1991年)
・木村正俊著『ケルト全史』(東京堂出版、2021年)
・森護著『スコットランド王国史話』(大修館書店,1988年)
・ロザリンド・ミチスン著(富田理恵,家入葉子 訳)『スコットランド史―その意義と可能性』(未来社,1998年)
・ウィリアム・シェイクスピア著(安西徹雄 訳)『マクベス(光文社古典新訳文庫)』(光文社、2008年)
・常見信代論文「史料と解釈 : スコットランド中世史研究の問題」(『北海学園大学人文論集 (62)』2017年)
・坂下拓治論文「中世スコットランド史と公文書史料」(『史学 86』2017年)
・Anderson, Alan Orr (1908), Scottish annals from English chroniclers, A.D. 500 to 1286.
・Ingram, James Henry(Translator)”The Anglo-Saxon Chronicle“(The Project Gutenberg)
・Mookherjee, Taarini ” Macbeth in Historical Context”(Columbia College)
・Round, J.H. The Origin of the Stewarts
Banquo, {FICT} (c.990 – 1043)(Genealogy)
History of the Stewarts | Famous Stewarts | Walter(The Stewart Society)
Holinshed’s Chronicles, 1577(The British Library)
・” The Annals of Ulster”(University College Cork)
・” Peel Ring of Lumphanan, castle, Peel Bog of Lumphanan (SM90238)”(Historic Environment Scotland)
・” Macbeth, King of Scotland – Wikipedia
・” Duncan I of Scotland – Wikipedia
・“ Malcolm III of Scotland – Wikipedia
・” Banquo – Wikipedia
・” Mormaer of Moray – Wikipedia
・” Gruoch – Wikipedia
・” Siward, Earl of Northumbria – Wikipedia

脚注

1) 近年、アイルランド北東部からスコットランドへのスコット人移住説を否定する説も有力となっている。詳しくは常見信代「史料と解釈 : スコットランド中世史研究の問題」(2017)参照。

2) 中世スコットランドの文書史料は同時代の他の地域と比較しても非常に少ないが、この理由については坂下拓治「中世スコットランド史と公文書史料」(2017)に詳しい。

3) 森護著『スコットランド王国史話』大修館書店,1988年,22頁

4) マレーと日本語表記されることもある。スコットランド北東部マリ湾周辺、現在のマリ・カウンシル・エリア

5) 伝説のダルリアダ王ファーガスの兄弟で、エルクの息子ローンLoarn mac Eircを始祖と称する一族

6) エルクの息子ファーガス。アイルランド北東部にあったダルリアダ王国を建国したと伝わる五世紀頃の伝説のダルリアダ王

7) 日本語カナ表記では定訳が無くフィンドレック、フィンドレイヒなどの表記があるが、ここでは英語化表記Findlayにあわせてフィンドレイとした。

8) 「アルスター年代記」の1020年の条” Finnlaech son of Ruaidrí, king of Alba, was killed by his own people.”アイルランド・コーク大学による英訳” The Annals of Ulster”を参照

9) マクベス夫人グロッホの父ボイトはスコットランド王ケネス2世またはケネス3世の子とみられる。シェイクスピアはマクベス夫人を夫を唆す権力欲の強い女性に描いたが、彼女については史料がほとんど無くどのような人物であったか不明である。またシェイクスピアの「マクベス」では最後に自害するが、死因や死亡時期についても同様に謎に包まれている。

10) 「アングロ・サクソン年代記」1031年の条” This year went King Knute to Rome; and the same year, as soon as he returned home, he went to Scotland; and Malcolm, king of the Scots, submitted to him, and became his man, with two other kings, Macbeth and Jehmar; but he held his allegiance a little while only.”マルカム2世、マクベスとともにクヌートへ臣従の挨拶を行った王Jehmarは十一世紀にギャロウェー、クライド湾沿岸地域、マン島、さらにアイルランドのダブリン周辺などアイリッシュ海をまたぐ海峡国家を築いたリンズ王国の王Echmarcach mac Ragnaill(?-1065頃没)のこと。
Ingram, James Henry(Translator)”The Anglo-Saxon Chronicle“(The Project Gutenberg)

11) 前者の説は” Macbeth, King of Scotland – Wikipedia”後者の説は” Duncan I of Scotland – Wikipedia”参照。該当の記述の出典とされているのは両方とも” Duncan, A. A. M., The Kingship of the Scots 842–1292: Succession and Independence. Edinburgh University Press, Edinburgh, 2002”

12) 木村正俊著『ケルト全史』(東京堂出版、2021年)377頁

13) “ Malcolm III of Scotland – Wikipedia”参照

14) ノーサンブリア伯シワードはスコットランドと国境を接するイングランド北部ノーサンブリア地方を領する有力貴族で、クヌート大王治世下で登用された四人の伯の一人である(1020年代にヨーク伯に叙され、ノーサンブリア伯としては1041年から在位)。1042年、クヌート大王死後北海帝国が三代で絶えるとエドワード証聖王によるアングロ・サクソン朝の復興を支持した。政権内ではウェセックス伯ゴドウィン一門の台頭に対抗する最大の勢力だったが、1052年、シワード伯が支援したエドワード証聖王によるゴドウィン家排除のクーデターが失敗に終わり、ハロルド・ゴドウィンソン(のちのイングランド王ハロルド2世)が実権を掌握、シワード伯が政権での影響力を減退させている中での1054年のスコットランド侵攻劇という背景がある。翌1055年、シワード伯は亡くなり、死後、幼い後継者に代わってハロルド・ゴドウィンソンの弟トスティが伯位を継承、シワード一代で絶えることになった。

15) Anderson, Alan Orr (1908), Scottish annals from English chroniclers, A.D. 500 to 1286. , p.84 に” Earl Siward with a great army came to Scotland, and expelled king Macbeth, and appointed another; but after his departure Mac Bethad recovered his kingdom”とある。

16) ロザリンド・ミチスン42頁

17) 戦地とされるダンシネーンの丘(Dunsinane Hill)から名前を取って「ダンシネーンの戦い」と呼ばれる。ただし、1054年のノーサンブリア軍とスコットランド軍の戦いの場所をダンシネーンの丘とした初出は十五世紀初頭の文献であるため、戦地については議論がある。アングロ・サクソン年代記の1054年の条に戦いのあった日が”Seven Sleepers”(七人の眠り聖人の日=7月27日)とあることから”Battle of the Seven Sleepers”(七人の眠り聖人の戦い)とも呼ばれている。

18) このときストラスクライド王に擁立されたストラスクライド王家の末裔がマルカムという名の人物で、後のスコットランド王マルカム3世とは別人だが、後世彼とマルカム3世が混同されることになった。

19) 英語では” Peel Ring of Lumphanan”または” Peel Bog of Lumphanan”。Peelは名詞として使われる場合、一般的には「野菜や果物の皮」を意味するが、特にスコットランドとイングランドの境界付近に建てられた望楼付きの要塞建築のことも”Peel”と呼ばれている。ランファナン砦についての最初の記録は十三世紀末のもので、現存する遺構も十三世紀に建てられたものだが、マクベスの時代にはすでに土塁(モット)が築かれていたとみられている。” Peel Ring of Lumphanan, castle, Peel Bog of Lumphanan (SM90238)”(Historic Environment Scotland)

20) マクベス王死後のマリ王国については君主の名前が残っているだけで詳細は不明。スコットランド王に従属していた可能性も。最後のオエングス(アンガス)王は1130年、デイヴィッド1世の不在をついてスコットランドへ侵攻したが同4月16日、スコットランド東部ブレシン(Brechin,現在のアンガス・カウンシル・エリアの都市)の北で行われたストラキャスロの戦い(Battle of Stracathro)で敗死した。

21) ” Holinshed’s Chronicles, 1577 – The British Library

22) 台詞は安西徹雄訳『マクベス(光文社古典新訳文庫)』(光文社、2008年)から引用

23) グリフィズ・アプ・サウェリンは11世紀のウェールズ王。1055年、群雄割拠のウェールズをほぼ統一したが、1063年、ハロルド・ゴドウィンソン(後のハロルド2世)率いるイングランド軍の侵攻を受け、追い詰められた果てに家臣に裏切られて非業の最期を遂げた。

24)Mookherjee, Taarini ” Macbeth in Historical Context”(Columbia College)

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