長柄桜山古墳群周辺と六代御前の墓

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徳富蘆花碑と蘆花記念公園

徳富蘆花碑

徳富蘆花碑

蘆花記念公園

蘆花記念公園

逗子市郷土資料館への登り道

逗子市郷土資料館への登り道

明治三〇年、小説家徳富蘆花は赤坂から逗子に拠点を移し、田越川沿いの旅館柳屋に宿を取って、四年間ここで執筆活動を行いました。兄蘇峰が主宰する國民新聞に逗子をはじめとする湘南地域の自然を描いた「湘南歳余」「湘南雑筆」を連載、随筆集「自然と人生」や代表作となった小説「不如帰」を発表しました。

その徳富蘆花や国木田独歩など明治の文人たちに愛された旅館柳屋の跡地に徳富蘆花碑が建てられています。

徳富蘆花碑近くから住宅街を抜けて仙元山に連なる桜山という丘陵の方へ足をのばすと、徳富蘆花の名を冠した公園が整備されています。ここはかつて徳川宗家十六代当主徳川家達の別荘があった一帯を活用したものです。

逗子市郷土資料館

逗子市郷土資料館

逗子市郷土資料館

郷土資料館からの眺め

郷土資料館からの眺め

逗子市郷土資料館の桜

逗子市郷土資料館の桜

その徳川家達の邸宅が現在逗子市郷土資料館として利用されています。大正元年に建設された木造平屋建てのかわらぶき、一九〇・七七平方メートルになる建物で、大正五年に増築された離れの別館もあります。なお、2018年4月から翌19年3月まで閉館中とのことです。

郷土資料館には逗子・葉山ゆかりの文学者関連資料や市内の文化財、民俗資料、歴史資料などが陳列されているほか、背後の丘陵地から発見された長柄桜山古墳からの出土品なども展示されていました。

郷土資料館からは葉山港、相模湾、江の島や、富士山などを望むことができて風光明媚なスポットです。

長柄桜山古墳

長柄桜山古墳ハイキングコース

長柄桜山古墳ハイキングコース

長柄桜山古墳ハイキングコース

長柄桜山古墳ハイキングコース地図

平成十一年三月に地元の考古学愛好家の方によって発見された四世紀後半に造られたとみられる全長九〇メートルと八八メートルという大規模な二基の前方後円墳を歩くことが出来る山道が郷土資料館の裏手からハイキングコースとして整備されています。丁度古墳は逗子市と葉山町の市町境に位置しているので、両自治体の共同管理下にあります。

この長柄桜山古墳は田越川流域を望む丘陵地の頂上に位置していますが、田越川流域は相模湾から三浦半島を横断して東京湾から房総半島へと繋がる古代の交通ルートの一つであったと考えられており、この長柄桜山古墳はそのような交通ルートを支配した有力な首長のものであったと考えられています。ヤマトと房総半島、その先の東北をもつなぐ古東海道の結節点であり、持田遺跡や池子遺跡など周辺の様々な遺跡からはヤマト王権とつながりがある出土品が発見されています。

古墳に埋葬されていたのが誰なのかはわかっていません。ヤマトタケルの東征伝説の経路として焼津から三浦半島の走水へとたどり着いてそこから東京湾を渡って房総半島へといった伝承になっていますが、ヤマトタケル伝承と各地の古墳の位置は少なからず一致することから、古代の様々な人物の伝承を繋ぎ合わせつつ創造されたのがヤマトタケル伝説で、そのモデルの一人となったといわれる鎌倉・三浦半島付近を支配していた鎌倉別という人物の墓説が有力だといわれています。

何故四世紀後半にこの逗子葉山地域にヤマト王権と深い関係がある強力な首長が登場したのかというと、それは当時の東アジアをとりまく軍事情勢の緊迫化にあるといいます。

『すなわち、この頃の大王と列島の首長たちにとって、最大の関心事は、地域支配の主導権争いよりも、地域支配を成り立たせる鉄などの重要財をどう確保するかの方にあった。高句麗南下に始まる朝鮮半島の紛争激化にともない、重要財の供給先となっている東アジアへ直接的・軍事的関与が求められる時代に突入したからである。そのため、外交を主導する立場のヤマト王権は朝鮮半島の同盟国と中国南朝の協力を得て、対外戦争に備えた軍事王権としての性格を強めていく。各地首長層もこの王権外交に積極的に参加することで、生産力と結びつく先進文物・知識を入手する機会を得られたのである。』(田中史生論文「長柄桜山古墳群の時代を考える」(郷土誌葉山第四号 第二特集「長柄桜山古墳群」収録))

そのような当時の国際情勢とヤマトと東国の間の海上交通の発展が、海上交通の要衝であったこの逗子葉山地域にヤマト王権と密接な強い首長を登場させ、長柄桜山古墳という大規模な遺跡群が残されることになったと考えられています。

長柄桜山古墳二号墳

長柄桜山古墳二号墳

長柄桜山古墳二号墳

二号墳頂上付近

二号墳頂上付近

二号墳から一号墳へ

二号墳から一号墳へ

郷土資料館からさほど急ではない山道を一〇~一五分ほど歩くと大きく盛り上がった地帯が見えてきます。これが長柄桜山古墳二号墳です。二号墳は前方後円墳で全長八八メートル、面積八二〇八平方メートルに及ぶ大規模なもの。二号墳はハイキングコースとして立ち入りが可能で、頂上まで登ることができます。二号墳からコースにそって緩やかな道を一〇分ほど歩くと一号墳が見えてきます。

長柄桜山古墳一号墳

長柄桜山古墳一号墳

長柄桜山古墳一号墳

長柄桜山古墳一号墳

長柄桜山古墳一号墳

長柄桜山古墳一号墳

長柄桜山古墳一号墳

一号墳も前方後円墳で全長九〇メートル、面積六八六九平方メートルと大規模なもの。ロープが張られて立ち入りは不可となっていますが、ロープ越しにその形ははっきりと見ることができます。

ハイキングコースは郷土資料館裏手からだけではなく六代御前の墓の裏手から登るコース、長柄交差点付近から登るコース、葉桜住宅付近から登るコースなどがあり、色々なコースが楽しめます。

その入口のひとつ「六代御前の墓」は平清盛の曾孫にあたる人物、六代御前の最期の地とされる場所です。

六代御前の墓

六代御前最期之故碑

六代御前最期之故碑

六代御前の墓がある高台

六代御前の墓がある高台

六代御前の墓

六代御前の墓

六代とは、平維盛の嫡男、平清盛の曾孫にあたる人物で、平正盛、忠盛、清盛、重盛、維盛と続く伊勢平氏の直系の六代目に当たることから幼名として六代と名付けられました。承安三年(一一七三)生まれ。平高清とも呼ばれますが、高清を名乗ったかどうかは確かではありません。

平家の栄華を支える後継者として成長するはずでしたが、治承四年(一一八〇)、以仁王の挙兵に始まる怒涛の戦乱は平家の滅亡と鎌倉政権の樹立によって幕を閉じ、平家滅亡後の文治元年(一一八五)、母新大納言局(藤原成親の娘)とともに京都偏照寺の奥、大覚寺の北、菖蒲谷とよばれる一帯に潜んでいたところを北条時政によって捕縛されます。時政によって殺害されるところでしたが、頼朝の強い協力者で平家打倒に暗躍していた僧侶文覚が頼朝に六代は自分の弟子であるとして助命を嘆願、赦されて文覚に預けられて出家し妙覚と名乗りました。建久五年(一一九四)、頼朝と面会したとき、頼朝は六代の聡明さを見抜いたと言われますが、そのまま身の安全を保障され、寺を与えられたということです。

僧侶として生きていた妙覚=六代でしたが、正治元年(一一九九)、源頼朝の急死とそれに続く土御門天皇の外戚である源通親(土御門通親)襲撃計画事件に連座しての文覚の佐渡流罪・失脚という相次ぐ後ろ盾の喪失は、彼の立場を非常に危険なものとします。文覚の逮捕とともに平氏の直系である六代も政権を危うくするものとして捕えられ、即日斬首されました。享年二十六歳でした。

斬首地はこの墓の田越川の対岸にあった池の周囲という話もあれば、もっと上流域のあたりだという説、あるいは六浦のあたりであるとする説などもあり、確かなのは田越川流域であるということだけです。また遺体がどこに葬られたかは定かではなく、この墓は墓ではなく、江戸時代、六代の家臣斎藤氏の末裔を名乗る水戸藩士斎藤仁左衛門によって建てられた供養塚です。

長柄桜山古墳へとのぼるコースはこの裏手から伸びています。

参考書籍
・葉山郷土史研究会編「郷土誌葉山第四号 第二特集「長柄桜山古墳群」」
・逗子市教育委員会・葉山町教育委員会編「シンポジウム前期古墳を考える~長柄・桜山の地から」
・長柄桜山古墳群パンフレット
・三浦 佑之 著「口語訳 古事記―人代篇 (文春文庫)
・手帳-逗子の郷土誌第170号 三浦澄子「六代御前塚墓の伝承聞書」
・五味文彦・本郷和人編著「現代語訳吾妻鏡〈2〉平氏滅亡
・逗子市指定文化財一覧29六代御前の墓伝説地


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JR逗子駅より海岸回りバスで「富士見橋」下車


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逗子駅・新逗子駅からバスで六代御前まえ下車

Kousyou

「Call of History ー歴史の呼び声ー」管理者。個人ブログはKousyoublog。英独仏関係史、欧州中世史、近世日本社会史、鎌倉幕府史などに興味があります。

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