太平洋戦争末期の日本本土侵攻計画「コロネット作戦」と「オリンピック作戦」

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葉山・逗子・鎌倉など三浦半島から湘南に至る相模湾沿岸を歩いてみると、思いのほか戦時中の基地や砲台などの軍事施設跡が残っていることに気付く。その施設跡について歴史を調べてみれば、太平洋戦争末期、相模湾こそが日米双方で本土進攻計画の上陸・防衛の要衝と考えられていたことに行き着く。実行されないままに終わった幻の相模湾上陸計画は「コロネット作戦」と呼ばれていた。

コロネット作戦の全貌について、大西・栗田・小風著「相模湾上陸作戦―第二次大戦終結への道 (有隣新書 (52))」(1995年)が詳しい。非常に資料的価値が高い本だと思うが、残念ながらamazonは在庫薄なようだ。しかし、神奈川県内の書店では二店に一店ぐらいの頻度でよく見かけていたのでネットより書店に行くと容易に入手できると思う。以下、同書を中心に簡単にまとめ。

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1)日本本土侵攻計画の立案

米軍が日本本土侵攻の可能性を考慮し始めたのは1942年5月で、対日本反攻戦略の最終段階と位置づけられていた。本格的な検討は43年8月、英米共同で独降伏後の対日本戦略で日本の無条件降伏のための本土侵攻が必要と認識されていた。当時の侵攻ルートは45年春の北スマトラ強襲と台湾侵攻を最有力とする四案でいずれも台湾侵攻を主軸としたものだったが、その後の戦局の変化によって日本本土攻略計画は大きく変更が加えられていく。

43年秋より始まるマッカーサー将軍指揮の陸戦部隊とニミッツ提督指揮の海上部隊による陸路と海路の侵攻作戦で44年7月のサイパン陥落により日本の絶対国防圏を崩壊させ、それに先立つ6月のマリアナ沖海戦で日本海軍機動部隊を壊滅させたこととあわせて米軍は太平洋地域の制海制空権を掌握。また、同時期欧州戦線でも43年9月の伊降伏、44年5月独軍ソ連から撤退、6月ノルマンディー上陸作戦と連合軍が形勢逆転しており、日本無条件降伏に向けた日本本土侵攻が現実問題として浮上した。

1944年7月11日、米統合参謀本部は下部機関に日本本土侵攻作戦を予定にいれた作戦計画の立案を指示、9月4日、南九州侵攻作戦案立案、45年1月31日マルタ島会談でローズベルト大統領がチャーチル首相に同案を提示、同首相も承諾、45年3月29日、統合参謀本部は、事前作戦としての九州侵攻作戦「オリンピック」(45年12月)、本作戦となる関東平野侵攻作戦「コロネット」(46年3月)の二段階計画からなる対日侵攻作戦「ダウンフォール」を発表した。

オリンピック作戦は以下の三点を目的としていた。
(1)日本に対する海上封鎖作戦と空爆作戦の強化
(2)敵主要戦力の牽制と破壊
(3)さらなる前進作戦の支援

1945年12月1日、第三・第五艦隊の艦砲射撃と第二十航空軍の支援で米陸軍第六軍の歩兵・騎兵五個師団が宮崎海岸、志布志湾、吹上浜に上陸、6日には鹿児島湾と種子島にそれぞれ別部隊が上陸し、45年中に九州南部を制圧、航空基地を設置してコロネット作戦時に空爆や航空支援に備えるものだった。

2)関東平野侵攻作戦「コロネット作戦」

オリンピック作戦終了後の46年3月に展開されるのが関東平野侵攻作戦コロネット作戦である。同作戦は後に原爆実験の成功によって保留となるため、最終調整が行われず複数の作戦計画が存在している。その中で太平洋陸軍の作戦計画が最も具体性があるとされている。各案とも九十九里浜と相模湾の二正面作戦を基本線として鹿島灘(大洗町周辺)も考慮しつつ相模湾の湘南海岸、特に茅ヶ崎を主上陸地点としていた。

茅ヶ崎を主上陸地点としたのは
(1)東京、横浜への道路網およびその状態が良好であり、大兵力を移動させるのに適していること
(2)東京、横浜へ進行する際の自然障壁が少ないこと
(3)相模川を西側面の防壁として利用でき、東海道(鉄道および道路)を利用しての日本軍支援部隊を阻止できること
(4)上陸後直ちに作戦上必要な航空機の陸上基地を確保できること
などの理由で、相模野台地は一五個師団を展開しうると判断されていた。

九十九里浜は上陸時最も大軍を展開するだけの容量があり、最初の8マイルは平野部を容易に侵攻でき、二~四か所の飛行場の確保も可能だが、20マイル先の印旛沼が障害となる。北側を迂回するか、印旛沼と利根川の間の狭い縦走地形を進むしかない。その先千葉・印旛沼ライン西側の平坦部を道路網を使って侵攻することになるが、江戸川まで困難にさらされる、としている。

これに対して鹿島灘は、上陸可能な北部は上陸直後に急勾配の断崖に阻まれてそれを登る必要があり、さらに利根川は常時渡渉不可能、かつ道路網も大軍移動を維持するのは困難と判断されている。

以上のような理由から茅ヶ崎を中心とした湘南海岸を主上陸地点、第二目標九十九里浜の二正面作戦による関東侵攻作戦が立案される。投入される兵員は上陸から作戦完了までの60日で陸上兵力1,069,959人、車両195,483輌、うち地上戦闘部隊は637,550人、兵站・輸送・医療等後方支援の戦務部隊432,409人で非常に兵站を重視した構成になっている。戦闘部隊だけでノルマンディー作戦の四倍にも及ぶが、ドイツ降伏を前提として兵力を日本に集中させるものだった。米軍は決戦時の日本軍の総兵力を35万~37万と見積もっている。また、米軍は侵攻に際して義勇兵の抵抗があれば毒ガス兵器(サリン)の使用を考慮に入れており、大規模なジェノサイドを行う可能性があった。勿論、当時も化学兵器の使用はジュネーヴ議定書で禁じられている。

茅ヶ崎上陸部隊はアイケルバーガー中将指揮下で第八軍の歩兵師団10、機甲師団2、主力となる第24歩兵師団はレイテ島奪還の主力であった。Yデイ当日に地上戦闘部隊203,434人、戦務88,656人、航空8,914人の計301,004人が投入される。

九十九里浜はホッジス将軍指揮下の第一軍で歩兵師団6、海兵師団3、主力の第一・第四海兵師団は沖縄戦を戦った精鋭部隊であった。Yデイ当日の構成は地上戦闘部隊153,782人、戦務73,177人、航空14,367人が投入される。

Yデイ20日前から日本国内各地の海空軍基地への爆撃、陸戦部隊に対する航空機の攻撃、艦砲射撃が始められ、15日前に茅ヶ崎海岸、九十九里浜海岸への爆撃開始、相模川に架かる橋や千葉県周辺の各交通網に対して爆撃が開始、8日前に東北と九州の軍基地に対して一斉爆撃、また中国でも極東空軍によって在中国日本空軍の動きが封じられる。四日前には相模湾の機雷掃海作戦が実施され、侵攻準備が整えられる。

Yデイ当日、九十九里浜と茅ヶ崎に上陸作戦が敢行され、その日のうちに橋頭堡を確保、茅ヶ崎には5日目と10日目に次々と増援が投入され、九十九里浜にも5日目に増援部隊が投入される。以上の第一陣に続いて、30日目までに各軍三個師団で増強、35日目までにさらに三個師団が投入される。以後日本の無条件降伏まで毎月四個師団づつ増援部隊が投入される予定であった。この間内地侵攻を支援する航空基地が占領地域に順次設営されていくとともに、各日本軍施設に対して空と海からの攻撃も続行される。

茅ヶ崎海岸上陸の第八軍第一陣は日本軍一個師団が守る要塞を攻略して橋頭堡を築き、浦賀・三浦半島方面の別動隊を除いて相模川沿いに厚木、相模原を北上、多摩川の渡河地点を確保、三隊に分かれてA隊は原町田付近から東進、横浜を奪取する。B隊は日野から国道二十号線(甲州街道)を利用して東京に侵攻、首都の日本軍主力と交戦しこれを撃滅、C隊は二個機甲師団からなり北上して埼玉県熊谷、茨城県古河に展開、東北地方からの奥州街道を使った日本軍増援の動きを封鎖、さらに事前爆撃で東海道が使用不能となったことで中山道を北上する名古屋・中部方面からの日本軍増援を封鎖した後、反転して東京へ侵攻し、交戦中のB隊の支援に回る。浦賀別動隊は横須賀の海軍鎮守府・陸軍横須賀要塞守備隊を撃破して東京湾西岸地域を確保する。

九十九里浜上陸の第一軍も橋頭堡を築いた後は三隊に分かれ、a隊は房総半島を南西に進み東京湾東岸の要衝館山を確保、b隊は利根川河口の要衝銚子を確保、本隊となるc隊は水戸街道、陸前浜街道からの日本軍増援部隊を阻止するため千葉・印旛沼間の縦走地形を日本軍と交戦の上で確保し、その後東京へ進撃、茅ヶ崎から東京に侵攻している第八軍の支援を行う。

非常に精緻な、さすが米軍という計画だったが、一つだけ読み違えをしていた。彼らは『日本軍は、我軍の上陸を阻止することが難しいということを多分認めるであろう。それ故、日本軍は平野内部において積極的な反攻を試みるであろう』(P133)と合理的に、日本軍は水際決戦に拘らず、上陸防衛戦では損害を最小にして兵力を温存、米侵攻軍に対し内地での消耗戦を展開すると予測していた。しかし、その頃日本軍は合理的な判断をかなぐり捨てて本土決戦に際して水際での玉砕戦術を取るつもりでいたのだった。

3)日本の本土決戦計画「決号作戦」

1944年7月7日のサイパン島陥落は日本の絶対国防圏を崩壊させ、米軍による本土爆撃を可能とした。権力を集中させていた東条英機内閣はその責任を問われ退陣、参謀本部の松谷誠大佐を中心に早期の戦争終結を図るべきとする和平論が起こるが、松谷大佐は突然左遷され、戦争継続をうたう小磯国昭内閣が成立する。一大決戦を挑むことで戦局打開を図るという方針だったが、同10月レイテ沖海戦で日本海軍は壊滅、レイテ島から撤退する大敗となり翌45年2月にはフィリピンにも米軍が侵攻してマニラ陥落、戦局は悪化の一途を辿っていた。

重臣の間では近衛文麿が一刻も早い和平を訴えていたが、平沼、木戸、牧野、若槻、広田、岡田、東条ら重臣はこぞって一撃を加えて戦局を有利にしてからの和平交渉を唱え、天皇も迎合してずるずると和平の機会を失い戦局を悪化させていた。その後、一撃後の和平のはずが沖縄決戦論へ、さらに本土決戦論へと決断を先送りする形で方針が定められていた。

「大戦果を挙げての和平」という希望的観測の上の政治決定はやがて「こうあるべき」という原理原則論に固執した計画へ、そして「こうするしかない」という精神論へと絵に描いたように追い詰められていく。

1945年1月に大本営によって作成された帝国陸海軍作戦計画大綱で本土決戦を想定した作戦計画が立てられ、軍制改革が実施、五つの方面軍に再編される。本土決戦時の兵力想定は関東128万人との計画であったが、実際はその兵員確保は困難であった。5月の動員令では三分の二が未教育兵、兵器の充足率は30%にも満たなかった(軽機関銃23%、歩兵銃28%、小銃50%)という。

本土決戦「決号作戦」では米軍主力上陸を関東方面と予測、関東方面の作戦「決三号」は田中静壱大将が立案、田中は「昭和二一年春を公算最も大」、上陸地点を相模湾、九十九里浜、鹿島灘とほぼ正確に予測し、相模湾を予想上陸地点の第一案としつつも兵力を展開できる九十九里浜に兵力を集中させることとした。相模湾の防衛は赤柴八重蔵中将率いる第五十三軍(二個師団)のみでしかないが、赤柴中将は徹底した陣地構築を進めて相模湾沿岸を要塞化していた。

海岸防衛には二つの戦術があるとされる。第一は敵の上陸を防ぐ直接配備・水際決戦戦術で、第二は上陸を限定的に許すが持久戦で敵を消耗させる後退配備・奥地決戦戦術である。前者は制空制海権を敵に握られている場合は損失を招くだけで補給も困難となるという欠点があり、現にこの水際決戦戦術が日本軍の南方での敗因となっていた。そのためサイパン陥落後は後退配備戦術が日本軍の主流となっていたが、本土決戦作戦の際に再び前者が、一兵たりとも皇土たる本土に入れてはならないという皇国観念に基づく強硬論の浮上とともに優勢となっていた。さらに精神論に基づく水際決戦戦術の重視はすなわち教育訓練よりも陣地構築等築城を重視することになるという悪循環を生んだ。

田中静壱司令官はこれを問題視して水際決戦から後退配備へと戦術転換を図り、相模湾の防衛線もその思想に基づく築城がなされていたが、強い皇国主義者だった赤柴の意見具申が通り、相模湾、九十九里浜とも再び水際決戦戦術へと方針転換、敵味方の「砲弾を浴びながら突進し、敵と刺し違える」という玉砕戦術が「新決三号作戦計画」とされた。精神論を叫ぶ上層部の下、兵員の士気も装備も悪く、第五十三軍の一隊第三四九連隊2,883名の場合、小隊に重機関銃は二丁のみ、小銃は一五~六丁で兵士所持の武器は竹のさやの短剣があるのみだったという。敵上陸時には爆薬を抱えて特攻、敵戦車の下に潜り込み下敷きになることが命じられていた。

4)終戦

着々とダウンフォール作戦の計画が進んでいたが、原爆実験が成功したことでトルーマン大統領はコロネット作戦を保留として、ソ連参戦、原爆投下、その後無条件降伏無い場合にはオリンピック作戦で本土爆撃の橋頭堡を築いてダメ押しをするという方針に戦略を転換した。1945年8月6日と9日、広島、長崎に原爆が投下、同9日、ソ連が対日宣戦布告、14日、御前会議でポツダム宣言の受諾が決定され、9月2日、日本はミズーリ号上で降伏文書に調印。太平洋戦争は終結し、日本本土侵攻作戦は幻のまま終わった。

ただし、同書では戦後の日本本土進駐作戦(ブラックリスト作戦)の進駐軍の展開過程がコロネット作戦の進軍過程と酷似していることを指摘しており、コロネット作戦が進駐計画に転用されたと推定している。また朝鮮戦争時には頻繁に茅ヶ崎で米軍が演習を行っているがその中のブロンコ作戦が共産軍に占領された日本の奪還作戦の演習であったともいい、コロネット作戦はその後も駐日米軍の作戦に少なからず影響を与えたと考えられている。

太平洋戦争末期の本土決戦計画を巡っては、純軍事的な話でしかないにも関わらず、米軍の精緻さ周到さに対して、日本が追い詰められて迷走している様子が対比として非常に色濃く見えてきて、とても興味深い。米軍にとっては本土侵攻はあくまで案の一つでしかないのに、日本にとっては本土決戦は唯一絶対の戦略であり、その戦略も希望的観測と原理原則への固執と精神論とがあいまって合理的判断とはかけ離れた状態で実施されていた。補給を重視する米軍と、武器一つ満足にそろえられないのに続々と兵員だけ増やす日本軍という対比も興味深い。

また、散歩をしていると徐々に、古戦場だった、城址だった、基地だったなどの知識と、丘陵、崖線、河川、坂の存在などの認識があわさって、直感的に戦争の匂いを嗅ぎとれるようになる。コロネット作戦の関東侵攻作戦は散歩しながら体で覚えていた地形ととてもマッチしていて、納得性が高いものだった。

単純に地形を考えたら日野から分倍河原へ多摩丘陵を横目にしつつ抜けて甲州街道に出るのが妥当だし、天然の要害と化している鎌倉はほぼ無視して三浦半島を攻略するのも正しいし、町田を抜けて横浜へと侵攻するのも一番移動しやすいだろう。立川と調布の航空施設をいかに無力化するかという面から首都攻防前の主戦場はその二か所になるだろうか。多分、千葉や鹿島の地形に明るい人なら同じように納得性があるんじゃないだろうか。そういえば大洗は地の利と共に米軍が回避するのもさもありなんの強力女子高生戦車部隊がありましたっけか・・・と、まさかのガルパンオチでエントリを終える。

Kousyou

「Call of History ー歴史の呼び声ー」管理者。個人ブログはKousyoublog。英独仏関係史、欧州中世史、近世日本社会史、鎌倉幕府史などに興味があります。

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