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事件・軍事・戦争

チェスターの戦い(613-616年頃)

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チェスターの戦い(Battle of Chester)は613年から616年の間のいずれかの時期、現在のイングランド北西部チェシャー州のチェスター市近郊でエセルフリス王率いるバーニシア王国軍がブリトン人諸国連合軍を撃破した戦い。戦後、ブリトン人の勢力は弱体化し、ノーサンブリアに統一王権を築いたアングロ・サクソン人勢力によってイングランド北東部のブリトン人諸国が相次いで征服されていくこととなった。ブリトン文化の継承者としてのウェールズ人およびウェールズ地方形成の端緒となった戦い。

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背景

「六世紀後半から七世紀前半のノーサンブリア地方勢力図」

「六世紀後半から七世紀前半のノーサンブリア地方勢力図」
Credit: myself, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

ローマ帝国の支配が終わるとハンバー川以南の地域はブリトン人が自立したが、五世紀半ば以降、アングル人やサクソン人と呼ばれた大陸のゲルマン系の人々がブリテン島南部、東部を中心に渡来・定住するようになった。後にアングロ・サクソン人と総称される彼らは武力征服に乗り出しブリトン人の勢力を駆逐、六世紀後半から七世紀前半にかけてブリテン島南部から東部、北東部にかけて次々とアングロ・サクソン系部族国家が建国された。

六世紀のブリトン人勢力はイングランド北東部(ノーサンブリア地方)から中西部、ウェールズ地方、南西部のドゥムノニア半島(コンウォール)にかけて多数の勢力が存在していた。ノーサンブリア地方にはゴドジン(Gododdin)王国、フレゲッド(リージッド”Rheged”)王国、エルメット(Elmet)王国などのブリトン人王国があったが、入植してきたアングル人によって六世紀後半から七世紀始めにかけての時期にリンディスファーン島を中心としてバーニシア王国が、同じくアングル人によってヨークを中心とした地域にデイラ王国が誕生した。

バーニシア王国デイラ王国とブリトン人諸国は三つ巴の争いとなったが、両アングル人王国によってブリトン人勢力は次第に勢力を削がれていき、バーニシア王国エセルフリス王が登場すると、600年頃、エセルフリス王はカトラエスの戦いでゴドジン王国軍を壊滅させてゴドジン王国はエディンバラ周辺にまで縮小、604年頃にはエセルフリス王がデイラ王国を征服し、ノーサンブリア地方に支配的な勢力を確立した。

「七世紀のノーサンブリア勢力図」

「七世紀のノーサンブリア勢力図」
credit: myself / CC BY-SA / wikimedia commonsより

チェスターの戦い

チェシャー州地図

チェシャー州地図
Credit: Nilfanion, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

チェスターの戦いが起きた時期について、「アングル人の教会史」は603年、「アングロ・サクソン年代記」は607年、「ティゲルナハ年代記」は611年、「アルスター年代記」「カンブリア年代記」は613年など史料によってまちまちだが、613年からエセルフリスが亡くなる616年の間に起きたとするのが有力である(1Dawson, Edward.(2008).Æthelfrith’s Growing Fyrd.)。

613年から616年の間のいずれかの時期、エセルフリス王率いるバーニシア王国軍がブリトン人の勢力下にあったチェスターへ侵攻、ウェールズ地方中部のポウィス王国を中核としたブリトン人連合軍を撃破した。戦いの様子について、八世紀のノーサンブリア王国の修道士ベーダが著した「アングル人の教会史」(731年)が詳しく描いている(2CHAP. II. How Augustine admonished the bishops of the Britons on behalf of Cathol“(Sellar, A.M.(1907). Bede’s Ecclesiastical History of England,LONDON GEORGE BELL AND SONS.,Christian Classics Ethereal Library./高橋博 訳(2008)『ベーダ英国民教会史』講談社、77-78頁)。強力な軍隊を編成したエセルフリス王はチェスターに侵攻すると、開戦前に戦場から離れた場所にブリトン人側の護衛がついたウェールズ地方バンガー・オン・ディー修道院の司祭たちが集まって戦勝を祈願していたため、彼らを攻撃するよう命じ、司祭たち1200人が虐殺され、生き残ったのは50名であったという。また「アングロ・サクソン年代記」(3大沢一雄(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社、33-34頁)では殺害された司祭は200名、生き残り50名であったとしている(4なお、司祭たちの虐殺について、マンチェスター大学中世史学部のニック・ハイアム教授はこれは歴史的事実を記したものではなくベーダが「神の摂理」を表すために創作したものであるとした(Sitch, Bryan .(2014).Lecture: November 2013, Aethelfrith of Nothumbria and the Battle of Chester. Medieval Yorkshire NS 1 (2014), p. 71.))。

チェスターの戦いでは「アングロ・サクソン年代記」、ベーダアングル人の教会史」などによればバーニシア軍が多くの損害を出しつつ多数のブリトン人連合軍を殺害したという。「カンブリア年代記」によれば、ブリトン人側の指導者セラフ・アプ・クナン(Selyf ap Cynan)とイアゴ・アプ・ベリ(Iago ap Beli)の二人が戦死したとされる(5Ingram, James,(1912).Medieval Sourcebook: The Annales Cambriae (Annals of Wales).Fordham University.)。「アルスター年代記」ではチェスターの戦いで戦死したセラフ・アプ・クナンはブリトン人の王とされることから、ブリトン人連合軍を率いていた人物とみられ、後にポウィス王国では歴代ポウィス王の一人に位置づけられた(6チャールズ=エドワーズ、トマス(2010)「第一章 王国と民を俯瞰する」(チャールズ=エドワーズ、トマス(2010)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(2) ポスト・ローマ』慶應義塾大学出版会、50頁))。また、イアゴ・アプ・ベリもグウィネズ王国の王の一人とされる人物であるため、このとき敗れたのはウェールズ地方のブリトン人王国の連合軍であったとみられている。

「中世ウェールズにおけるカントレヴ(小王国を基にした地方区分)地図」

「中世ウェールズにおけるカントレヴ(小王国を基にした地方区分)地図」
“Cantrefs of Wales”
ウェールズ古代歴史建造物王立委員会(Royal Commission on the Ancient and Historical Monuments of Wales)作成地図が改変されたもの
Credit: XrysD, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons
https://rcahmw.gov.uk/mapping-the-historic-boundaries-of-wales-commotes-and-cantrefs/

発掘された人骨

1930年から31年にかけてチェスター市の南2キロメートル付近にあるヘロンブリッジ(Heronbridge)のローマ時代の居留地の遺構で行なわれた発掘調査で発見されマンチェスター博物館に収められた12体の人骨はいずれも激しい外傷の痕跡が残っており、1933年の論文でチェスターの戦いの犠牲者のものである可能性が示唆されていたが、その後、2012年に博物館内で再発見されたことが発表されるまで行方がわからなくなっていた(7Sitch (2014). pp. 68-70)。その後の調査でこれらの人骨はいずれも剣や槍など刃物による攻撃で致命傷を負っており、すべて男性で年齢層も十代から四十歳前後であった(8Sitch (2014). p. 74)。

2004年に同じヘロンブリッジ遺跡で行なわれた発掘調査で発見された二体の人骨を分析した結果、どちらも男性の骨で頭蓋骨に致命的な外傷を受けており、頭部への数度の剣による打撃で死亡したことが判明した。また放射性炭素年代測定によると一つは95%の確率で西暦430-640の範囲内、59%の確率で西暦530-620の範囲内、もう一つは95%の確率で西暦530-660の範囲内、51%の確率で西暦595-645の範囲内であるとの測定結果が出た(9Sitch (2014). p. 70)。これらの分析結果から、この二体の遺骨はチェスターの戦いに参加した犠牲者の遺骨である可能性が高いとみられており、前述の十二体の人骨も含めて丁寧な埋葬の跡があることから、勝者であるバーニシア王国軍の犠牲者を埋葬したものではないかと考えられている(10Sitch (2014). p. 74)。

戦いの影響

チェスターの戦いによってブリトン人の勢力がイングランド北東部とウェールズ地方とに分断されたとする説もあるが、戦後、バーニシア王国はウェールズまでは侵攻せず(11Ziegler, Michelle.(1999).The Politics of Exile in Early Northumbria. The Heroic Age, Issue 2, Autumn/Winter 1999)、直後にエセルフリス王が亡くなったこともあってチェスター周辺の征服には至っていない(12チェスター周辺を含むペナイン山脈以西地域へのアングロ・サクソン人の入植は七世紀半ば以降とみられている(Ziegler.(1999)))。しかしウェールズ地方のブリトン人勢力が弱体化したことでイングランド北東部のブリトン人諸国はノーサンブリア地方に統一権力を確立したノーサンブリアのエドウィン王(在位616/617-633年)によって順次征服されていった。

イングランド北東部を失ったことでブリトン人の勢力はウェールズ地方とドゥムノニア半島を残すのみとなり、ドゥムノニア半島もアングロ・サクソン勢力の一つウェセックス王国の勢力下に入った後はウェールズ地方にブリトン人の文化を継承するウェールズ人が形成された。中世のウェールズ人たちは喪失したイングランド北部からスコットランド南部にかけての、かつてのブリトン人勢力圏を「古き北方(ウェールズ語:アル・ヘーン・オグレッズ”Yr Hen Ogledd”、英語:オールド・ノース”Old North”)」と呼んで民族的源郷と位置づけ、諸王国とも王家の祖として「古き北方」に由来する建国神話を形成し、様々な伝承や物語の素材として語り継ぐこととなった(13森野聡子(2019)『ウェールズ語原典訳マビノギオン』原書房、357頁)。

参考文献

脚注

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