ドゥーン・ネフタンの戦い(Battle of Dun Nechtain)、またはネフタンズミア(Nechtansmere)の戦い、あるいはダンニヒェン(Dunnichen)の戦いは、685年5月20日、ノーサンブリア王エッジフリス率いるノーサンブリア王国軍をフォルトリウ王ブリデ3世率いるピクト軍が撃破した戦い。エッジフリス王が戦死してノーサンブリア王国によるブリテン島北部征服の野心が挫かれ、ノーサンブリア王国の宗主権下にあったピクト人が自立、ローマ・カトリック式教会慣習のピクト人教会への導入も頓挫することとなった。
背景
ローマ帝国のブリテン島支配が終わった五世紀以降のブリテン島北部では、フォース湾以南にブリトン人が自立して多数の部族国家を形成、フォース湾以北は北東部にローマ属州時代(43年-409/410年)からブリテン島北部の先住民として属州の北辺を脅かしたピクト人が引き続き勢力を持ち、北アイルランドから進出したスコット人が南西部アーガイル地方とノース海峡をまたぐ海峡国家ダルリアダ王国を築いた。
ピクト人の勢力はハイランド地方南東部に南ピクト王国、北東部に北ピクト王国の二勢力に大きく分かれ、北ピクト王国はカイト(Cait),フィダッハ(Fidach)、ケ(Ce)の三王国、南ピクト王国はフォルトリウ(Fortriu)、フィブ(Fib)、キルキン(Circinn)、フォトラ(Fotla)の四王国から構成される(1木村正俊(2021)『スコットランド通史 政治・社会・文化』原書房、50頁/久保田義弘(2013)2-3頁)。ピクト人諸王国の中で現在のストラスアーンあるいはマリからイースターロスにかけての地域を支配(2伝統的にはストラスアーンと考えられてきたが、近年はマリやイースターロスにあった可能性も有力となっている)していたフォルトリウ王国が力を持つようになる。
637年、ダルリアダ王国がマグ・ラスの戦いで北アイルランドのイー・ネール王朝との戦いに敗れて北アイルランドを喪失したことから大きく弱体化、一方でフォース川以南ではアングル人によってブリトン人諸王国が相次いで滅ぼされ、ノーサンブリアにアングル人による統一王権が成立する。ノーサンブリアのアングル人王朝はデイラ王国のエドウィン王時代にイングランドに覇権を確立、これに代わったバーニシア王国のオスワルド王によってピクト人も服従を余儀なくされるようになり、オスワルド王の弟オスウィウ王によって誕生したノーサンブリア王国にピクト人への宗主権が引き継がれた。
ブレトワルダとしてブリテン島全土に覇権を確立したノーサンブリア王オスウィウ死後の672年頃、ピクト人はノーサンブリア王国に対して反乱を起こしたが、新ノーサンブリア王エッジフリス(Ecgfrith/在位:670年-685年)によって鎮圧され、ピクト王ドレスト6世が退位、ブリデ3世が即位した。ブリデ3世はフォルトリウ王国を権力基盤とし、ストラスクライドのブリトン人王国アルト・カルト王国の王族で前ノーサンブリア王オスウィウの兄エアンフリスの妻を通じてエッジフリス王とは従兄弟にあたると言われる(3チャールズ=エドワーズ、トマス(2010)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(2) ポスト・ローマ』慶應義塾大学出版会、68頁)。
親ノーサンブリア政権の樹立を期待されたブリデ3世だが、エッジフリス王の意に反して積極的な拡大政策に乗り出したとみられ、676年にはダルリアダ王国へ侵攻した(4アルスター年代記の676年3月の条には現在のアーガイル・アンド・ビュート州にあるオー湖で多くのピクト人が溺死したとの記録がある)。679年、ノーサンブリア王エッジフリスがトレントの戦いでマーシア王国に敗れハンバー川以南への影響力を落とすとブリデ3世は攻勢を強め、681年、ダノター城を攻囲、682年にはオークニー諸島へ進出、続いてダルリアダ王国の首都ドゥナドを占領するなど版図を大きく拡大した。
戦い
684年、ノーサンブリア王エッジフリスはアイルランド北部・中部を支配するイー・ネール王朝勢力下のブレガへ軍を派遣し、破壊と殺戮を尽くして多数の捕虜を連行した。ノーサンブリア王国の栄光を称揚することが多い聖職者ベーダも「アングル人の教会史」でこの残虐行為を厳しく批判している。この軍事行動の目的を直接的に示した史料は無いが、当時のノーサンブリア王国がウィットビー教会会議(664年)を経てローマ・カトリック教会の慣習を推進することを大義としてブリテン島北部だけでなくアイルランド北部に対しても支配権を唱えていたことに由来すると考えられている(5チャールズ=エドワーズ(2010)56-57頁)。
685年5月、エッジフリス王はリンディスファーン司教クスベルト(カスバート)らの反対を押し切ってノーサンブリア王国の支配に抵抗するピクト人討伐のため北部へ進軍を始めた。ブリデ3世率いるピクト軍は退却を装ってノーサンブリア軍を領土の奥深くへと誘い込んだ。685年5月20日、ピクト軍はノーサンブリア軍をダンニヒェン丘陵の北の狭隘な谷地にあるネフタン湖(ネフタンズミア)の沼地に建つネフタン砦(ドゥーン・ネフタン)におびき寄せて奇襲攻撃を敢行したためノーサンブリア軍は壊滅、エッジフリス王も戦死させた。この戦いについて最も詳しく描いているベーダ「アングル人の教会史」の記述は以下の通りである。
「というのは、この翌年、同じ王は友人たち、とりわけ司教に叙階されたばかりの祝福された記憶のカスバートによって、大いに自重するように戒められたにもかかわらず、無分別にもピクト人の国を蹂躙するために軍を指揮して侵略したからである。そのとき彼は逃走を装った敵によって通り抜けもできないような沼沢地の要塞に誘いこまれ、自分の軍勢の大部分と一緒に斬殺された。五月二十日、年齢四十歳、統治十五年のことである。前記したように彼の友人たちはこの戦いを控えるように諫言していたし、さらにこの前年に何ら害を加えていないスコット人を攻撃することのないようにと尊敬すべき教父エグバートが戒告したにもかかわらず、王はそうしたものすべてに耳を傾けようとしなかったために、その罰として審判が下ったのである。」(6高橋博 訳(2008)『ベーダ英国民教会史』講談社、245-246頁)
リポン修道院の司祭スティーヴン・オブ・リポンによって710年から720年頃に書かれた「ウィルフリッド伝(ラテン語:Vita Sancti Wilfrithi, 英語:Life of St Wilfrid)」には672年のピクト人反乱鎮圧でノーサンブリア騎兵部隊の活躍があったとの記録があるが、ドゥーン・ネフタンの戦いでの戦勝を記念して作られたと考えられているアバーレムノの教会墓地にあるシンボルストーンには騎兵たちとの戦いの様子が描かれており、この戦いにノーサンブリア軍の精鋭として騎兵部隊が参加していたとみられている。このノーサンブリア騎兵部隊は638年にノーサンブリアのオスワルド王によって滅ぼされたブリトン人国家ゴドジン王国が騎兵部隊を使っていたという記録があることから、徴用されたブリトン人の騎兵部隊であった可能性がある(7チャールズ=エドワーズ(2010)53-54、57頁)。
戦いの影響
ドゥーン・ネフタンの戦いの結果、ブリテン島北部におけるノーサンブリア王国の影響力が失われ、後にスコットランドとなるピクト人の領土の独立が確定した。この後、ブリデ3世によって南部ピクト諸王国の中でフォルトリウ王国の上級支配権が確立されたとみられ(8「アルスター年代記」の693年の条にブリデ3世死亡とともに「フォルトリウ王(Rex Fortrenn)」の称号が付されているのがフォルトリウ王の初出で、南部ピクト人を従えるようになっていたとみられる(常見信代(2017)「史料と解釈 : スコットランド中世史研究の問題」(『北海学園大学人文論集 (62)』25-52頁)41頁/チャールズ=エドワーズ(2010)66頁)、八世紀、オエンガス1世(在位731-761年)によってピクト王国が統一されブリテン島有数の強力な王国が誕生することとなる。
また、アングル人の宣教師たちは駆逐されてノーサンブリア王国が推進していたローマ・カトリック式慣習の導入も見送られ、ピクト王国の教会はアイルランド式慣習へと回帰しハイランド地方にアイルランド式慣習が定着した。しかし、ネフタン3世(在位706-724年)はノーサンブリア王国と宗教問題で交渉を開始、アイオナ修道院の修道士を追放して同修道院のローマ・カトリック式受け入れを支援した。このようなピクト王国の教会におけるローマ・カトリック式とアイルランド式慣習の対立はネフタン3世に対する王位争いも絡んで尾を引き、スコットランド王国誕生後の十一世紀にローマ・カトリック式修道制が正式に採用されるまで対立は続いた(9Mark, J. J. (2014). The Battle of Dun Nectain. World History Encyclopedia. /チャールズ=エドワーズ(2010)68頁)。
ノーサンブリア王国はこの戦いの敗北によってブリテン島北部における影響力を失い、679年のトレントの戦いの敗北も相まってブリテン島におけるノーサンブリア王国の覇権は終焉を迎えたが、エッジフリス王の後を継いだ異母兄アルドフリス王(在位685-704/705年)は学問と芸術を奨励、彼の治世下で八世紀半ば頃まで続く「ノーサンブリア・ルネサンス」と呼ばれる文化・芸術活動の隆盛期が始まった(10Northumbrian Renaissance – The Anglo-Saxons)。しかし、文化的繁栄の裏で相次ぐ短命な王権、領主層の弱体化など国力の衰退は大きく進むこととなった。
参考文献
- 上野格/森ありさ/勝田俊輔(2018)『世界歴史大系 アイルランド史』山川出版社
- 木村正俊(2021)『スコットランド通史 政治・社会・文化』原書房
- 瀬谷幸男訳(2019)『ブリトン人の歴史ー中世ラテン年代記』論創社
- 高橋博 訳(2008)『ベーダ英国民教会史』講談社、講談社学術文庫
- チャールズ=エドワーズ、トマス(2010)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(2) ポスト・ローマ』慶應義塾大学出版会
- 久保田義弘(2013)「中世スコットランドのピクト王国」(『札幌学院大学経済論集 6』 1-24頁)
- 常見信代(2017)「史料と解釈 : スコットランド中世史研究の問題」(『北海学園大学人文論集 (62)』25-52頁)
- Mark, J. J. (2014). The Battle of Dun Nectain. World History Encyclopedia.
- Sellar, A.M.(1907). Bede’s Ecclesiastical History of England,LONDON GEORGE BELL AND SONS.,Christian Classics Ethereal Library.
- “The Annals of Ulster” at University College Cork’s CELT – Corpus of Electronic Texts
- Annals of Tigernach at University College Cork’s CELT – Corpus of Electronic Texts