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事件・軍事・戦争

テッテンホールの戦い(910年)

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テッテンホールの戦い(Battle of Tettenhall、テテンホールの戦いとも)またはウェンズフィールドの戦い(Battle of Wednesfield)は910年8月5日、現在のイングランド中部ウェスト・ミッドランズ州ウォルヴァーハンプトン近郊で起きた、ウェセックス王国マーシア王国の連合軍がノーサンブリア地方のヴァイキングに勝利した戦い。この戦いで敗れたヴァイキング勢力は大幅に弱体化し、後のアングロ・サクソン人勢力によるイングランド統一を決定づけた。

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背景

「912年頃のミドランズ地域(ウェセックス北部、マーシア、デーンロー)地図」

「912年頃のミドランズ地域(ウェセックス北部、マーシア、デーンロー)地図」
Credit: Robinboulby at the English Wikipedia, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons


九世紀半ばから本格化したヴァイキングと呼ばれるスカンディナヴィア半島出身者(ノース人)たちの活動は武力による征服戦争へと発展、865年、ヴァイキングは「大軍勢(大異教徒軍)」と呼ばれる統一された軍団を形成してブリテン島へ侵攻した。ブリテン島では彼らヴァイキングは出身地の名を取ってデーン人と呼ばれた。ノーサンブリア王国イースト・アングリア王国など残されたアングロ・サクソン諸王国がデーン人の「大軍勢」の攻撃で相次いで滅亡する中で対ヴァイキング戦争の中核となったのがアルフレッド大王率いるウェセックス王国である。

878年、アルフレッド大王エディントンの戦いに勝利してデーン人の王グスルムと和平条約を結び、ハンバー川以南のブリテン島はノース人の居住する東部とアングロ・サクソン人勢力下の西部に二分されることとなった。デーンローはブリテン島南東部の旧イースト・アングリア王国を勢力圏としたデーン人王国、旧ノーサンブリア王国南部を勢力圏としたヨーク王国(ヨールヴィーク)、その間の旧マーシア王国東部地域に誕生したダービー、レスター、リンカーン、ノッティンガム、スタンフォードの5つのヴァイキングによる植民都市(ファイブ・バラ)の勢力圏からなる。一方、アングロ・サクソン人勢力は、領土の東側を失い弱体化したマーシア王国も883年頃アルフレッド大王に臣従、北部のバンバラ周辺に逃れたノーサンブリア王国の残党(バンバラ領)を除き、ウェセックス王国に統合されることとなった。

893年に大規模な軍事行動が起きた以外、ヴァイキングとは和平が続いたが、899年にアルフレッド大王が亡くなりエドワード古王(または長兄王、Edward the Elder)が即位すると王族のエセルウォルド(Æthelwold1アルフレッド大王の兄エセルレッド1世の子)が王位継承に異を唱えて反乱を起こした。エセルウォルドはノーサンブリアのデーン人たちと協力して勢力を拡大、イースト・アングリアのデーン人と同盟して介入を促してマーシアやウェセックスへ侵攻したが902年にエセルウォルドが敗死、反乱は鎮圧された。この反乱を契機としてデーン人による軍事行動が活発化する。以後、ウェセックス王エドワードと、マーシアのエセルレッドと結婚し事実上マーシアの統治者となっていた姉エセルフレドが協力して対ヴァイキング戦争を指揮することとなる。

テッテンホールの戦い

「910年頃のイングランド地図」

「910年頃のイングランド地図」(エセルフレドの夫マーシアのエセルレッド死亡直前の地図)
Credit: Philg88, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons


エセルウォルドの乱後、デーン人との間で小規模な戦闘が繰り返されたが、905または906年頃、現在のバッキンガムシャーとベッドフォードシャーの州境付近とみられるティディングフォード(Tiddingford)でデーンローの王たちと和平条約が結ばれた。しかしこの和平は長続きせず、909年、エドワード王はウェセックスとマーシアから兵を動員してノーサンブリア地方へ侵攻、五週間に渡ってノーサンブリアを劫略し多くのデーン人を殺害したという(2大沢一雄(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社、104頁)。このとき、ヨーク王国領リンジーのバードニー修道院からノーサンブリアのオスワルド王の遺骸が持ち出され、エセルフレドによってマーシア領内のグロスターにあるセント・ピーター修道院に収められて聖オスワルド修道院と改名された。

910年、この侵攻への報復としてヨーク王国はウェセックス王国に対する大規模な攻勢を実行に移した。ヨーク王国軍を中核としてデーンロー各地から集められたデーン人の軍勢は船団を編成してブリストル海峡からセヴァーン川を遡上、現在のシュロップシャー州ブリッジノース付近へ侵攻して各地を劫略して多くの財を奪い集めた。その後、デーン人の軍勢は船団に戻らず陸路でノーサンブリアへの帰還を目指して北上する。船団への退路が断たれたのか、それとも船団がどこか別の地域に散ってしまったのか、それとも別の理由か、なぜ彼らが船団に戻らなかったのかは不明である(3Wirral Archaeology CIC(2022).’The Battle of Tettenhall’,Wirral Archaeology CIC.)。

アングロ・サクソン年代記」によると、このときエドワード王はケントで約百隻の船団を編成して海岸沿いに東南方向(イースト・アングリア方面)へ航海させた(4大沢一雄(2012)104頁)。デーン軍はウェセックス軍主力がこの船団に乗っていると考えて陸路では攻撃を受けることがないと油断していたという。この間にエドワード王はウェセックスとマーシアから軍を進めさせ、910年8月5日、現在のイングランド中部ウェスト・ミッドランズ州ウォルヴァーハンプトン近郊と考えられているテッテンホール(またはウェンズフィールド)でウェセックス=マーシア連合軍がデーン軍の後背を急襲した。ウェセックス=マーシア連合軍の指揮者について記録がないため定かではないが、伝統的にエセルフレドが率いていたとみなされることが多い。

戦いの経過は定かではないがウェセックス=マーシア連合軍の圧勝に終わり、デーン軍は数千の死者を出し、「アングロ・サクソン年代記」によればエオウィルスとハールヴダンの二人の王、「エセルウェアード年代記(Chronicon Æthelweardi5十世紀、エドウィ、エドガー二代に仕えた有力貴族エセルウェアードによる「アングロ・サクソン年代記」のラテン語訳本で原著にはない追記情報が多く記載されている。テッテンホールの戦いに関する記述部分は次の通り。

“After a year the barbarians broke the peace with King Eadweard, and with Æthelred, who then ruled the Northumbrian and Mercian areas. The fields of the Mercians were ravaged on all sides by the throng we spoke about, and deeply, as far as the streams of the Avon, where the boundary of the West Saxons and Mercians begins. Then they were transported across the river Severn into the west country, and there they ravaged great ravagings. But when rejoicing in rich spoil they returned towards home, they were still engaged in crossing to the east side of the river Severn over a pons to give the Latin spelling, which is called Bridgnorth by the common people. Suddenly squadrons of both Mercians and West Saxons, having formed battle-order, moved against the opposing force. They joined battle without protracted delay on the field of Wednesfield; the English enjoyed the blessing of victory ; the army of the Danes fled, overcome by armed force. These events are recounted as done on the fifth day of the month of August. There fell three of their kings in that same ‘storm’ (or ‘battle’ would be the right thing to say), that is to say Healfdene and Eywysl, and Inwær also hastened to the hall of the infernal one, and so did senior chiefs of theirs, both jarls and other noblemen. “Campbell, Alistair (1962). The Chronicle of Æthelweard, (London Edinburgh Paris Melbourne Johannesburg Toronto and New York: Thomas Nelson and Sons Ltd). via The Fourth Book of The Chronicle of Æthelweard. De Re Militari: the Society for Medieval Military History.
)」(978-988年頃)によればエオウィルスとハールヴダンとインウェルの三人の王が戦死したという。

影響

この戦いの結果、ヨーク王国は918年頃にマン島の王ラグナルが即位するまで空位期間となりノーサンブリア地方におけるデーン人ヴァイキングの統治が著しく弱体化した。この戦いの後エドワード王と夫の死に伴いマーシア女王となったエセルフレドの姉弟は協力してデーンローとの国境地帯に防衛と侵攻の拠点となる多くの城塞からなる城塞網を築いてデーンロー征服の準備を整えた。918年までにエセルフレドがファイブ・バラのうちダービーとレスターの二都市を攻略、エドワード王は917年にデーン人のイースト・アングリア王国を征服した。918年、君主不在のヨーク市の有力者たちはエセルフレドへの服従を決定するが履行される直前にエセルフレドが急死し、ノーサンブリア地方の征服は先延ばしとなるものの、927年、エドワード王の後を継いだエセルスタン(アゼルスタン)王によってノーサンブリア地方の征服が実現、全イングランドが統一されイングランド王国が誕生する。

テッテンホールの戦いはアングロ・サクソン勢力によるイングランドの統一体制実現へ至るヴァイキング勢力に対する決定的勝利がもたらされた点や、ノーサンブリア地方に権力の空白が生まれた結果、新たにアイルランドのダブリンやアイリッシュ海沿岸からスコットランド北部にかけての諸島王国を拠点とするアイルランド系ヴァイキングがノーサンブリア地方に進出、937年のブルナンブルフの戦いやその後の954年まで続くノーサンブリア地方の動乱の遠因となった点も重要視されている(6Wirral Archaeology CIC(2022))。

参考文献

脚注

  • 1
    アルフレッド大王の兄エセルレッド1世の子
  • 2
    大沢一雄(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社、104頁
  • 3
    Wirral Archaeology CIC(2022).’The Battle of Tettenhall’,Wirral Archaeology CIC.
  • 4
    大沢一雄(2012)104頁
  • 5
    十世紀、エドウィ、エドガー二代に仕えた有力貴族エセルウェアードによる「アングロ・サクソン年代記」のラテン語訳本で原著にはない追記情報が多く記載されている。テッテンホールの戦いに関する記述部分は次の通り。

    “After a year the barbarians broke the peace with King Eadweard, and with Æthelred, who then ruled the Northumbrian and Mercian areas. The fields of the Mercians were ravaged on all sides by the throng we spoke about, and deeply, as far as the streams of the Avon, where the boundary of the West Saxons and Mercians begins. Then they were transported across the river Severn into the west country, and there they ravaged great ravagings. But when rejoicing in rich spoil they returned towards home, they were still engaged in crossing to the east side of the river Severn over a pons to give the Latin spelling, which is called Bridgnorth by the common people. Suddenly squadrons of both Mercians and West Saxons, having formed battle-order, moved against the opposing force. They joined battle without protracted delay on the field of Wednesfield; the English enjoyed the blessing of victory ; the army of the Danes fled, overcome by armed force. These events are recounted as done on the fifth day of the month of August. There fell three of their kings in that same ‘storm’ (or ‘battle’ would be the right thing to say), that is to say Healfdene and Eywysl, and Inwær also hastened to the hall of the infernal one, and so did senior chiefs of theirs, both jarls and other noblemen. “Campbell, Alistair (1962). The Chronicle of Æthelweard, (London Edinburgh Paris Melbourne Johannesburg Toronto and New York: Thomas Nelson and Sons Ltd). via The Fourth Book of The Chronicle of Æthelweard. De Re Militari: the Society for Medieval Military History.
  • 6
    Wirral Archaeology CIC(2022)
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