ビスマルクというと最近はすっかり第二次大戦中のドイツ海軍の戦艦、しかも美女ということになっているが、元々は鉄血宰相として知られた十九世紀プロイセンの政治家、ドイツ帝国建国の立役者で、芸術的な外交手腕で欧州にビスマルク体制として知られる勢力均衡を生み出したオットー・フォン・ビスマルク(1815~98)のことだ。彼の存在感は絶大で、日本の明治維新の元勲たちもこぞって彼に憧れ、彼を範として近代国家建設に邁進した。
ビスマルクは確かにすごかった。十九世紀欧州政治に冠絶した存在であった。しかし、その手腕や影響力は実際どんなものだったのだろうか。ビスマルクの評価についてはその死後から、国民的英雄として神話化するものから後のヒトラーに繋がるナチズム的支配体制を築いたと断罪するものまで紆余曲折、激しい論争を経て、実証的なビスマルク像が形成されてきたのだそうだ。本書は、近年の研究成果を踏まえて、等身大の政治家ビスマルクを描いた一冊となっている。
本書ではビスマルクの二面性に注目している。「伝統」的なプロイセン・ユンカーで自身のユンカーとしての利益とプロイセン国家の利益を一致したものとして捉え、それを徹底的に追求する一方、その手段を全く選ばない現実主義的姿勢から「革新」的なドイツ・ナショナリズムを利用し、自身が属するはずの伝統的保守主義の思想や理念に反することも躊躇しなかった。
「自分自身を国家と同一視するほど自尊心が強く、自己の権益に固執する俗っぽい政治家」(P236)としての顔と同時に、プロイセンの覇権確立のためにドイツ・ナショナリズムを利用し、ドイツ帝国建国に際しては立憲主義を採用し、勢力均衡維持のために列強の帝国主義的植民地建設の欲求を存分に満たして利用するなど、ほとんど思想信条を歯牙にもかけていない。その徹底したマキャベリズムに特徴があることが描かれている。
一方で、それらを上手く掌で転がしていたのかというとそうではなく、彼が利用しようとしたドイツ・ナショナリズムにしろ、立憲主義と議会にしろ、列強の帝国主義的拡大にしろ、ビスマルクの思惑を超えて事態が次々と展開し、内政も外交もほぼ急場しのぎの連続だった。
内政について言うならカトリックや社会主義者を敵として弾圧・排除(文化闘争)した「負の統合」という手段を通して国民的統合を成し遂げようとしたが、カトリックにしろ社会主義勢力にしろ、弾圧されればされるほど勢力を拡大し、議会でも与党を圧迫してビスマルクの内政を困難なものに追い込んだ。世界に先駆けた各種社会保険の採用はビスマルクの功績として知られるが、すでに第一党になっていた社会主義労働党の圧力でむしろ労働者を取り込もうとしたビスマルクの意図とはかけ離れた形で実現することになったようだ。内政については彼の望むような成功は収められなかったと評価されている。
外交は彼の「術」が存分に発揮されたが、それでも本書で描かれる情勢の変化に追いつくだけで精一杯なビスマルクの苦闘っぷりは読んでいて胃が痛くなるレベルだ。あの穴を塞ぎ、この出っ張りを削り、あっちとそっちをつなぎあわせて、あれ?繋ぎ合わせたら今度はあそこが割れちゃったどうしよう・・・と次々押し寄せてくる無理難題を弥縫していく。ビスマルク体制の複雑怪奇さは、確かに急場しのぎの体制以外の何物でもない。そして急場しのぎの体制ながら、絶妙なところで均衡していた点から、ビスマルク以外にそれを維持することが出来なかったというのも納得できる。本書で紹介される様々な史料で語られるビスマルクの言を読めば、彼は全く先行きが見えていなかったし、常に思惑を超えた事態に対応せざるを得なかったことがわかる。その結果として、確かに高い成果を残し続る、天才的政治センスがあった。
面白かったことの一つとしてビスマルクの現実主義がある。彼の現実主義は彼の強烈な自意識から来ている。彼は伝統的保守主義者で古きよきユンカーの価値観を持っていたが、「保守主義勢力が後生大事に崇め奉っていた理念や原理原則、イデオロギーといった類のものに囚われていては守れるものも守れないと考え」(P52)、「このような考えをプロイセンという国家にも適用」(P52)した。
「彼は、『至高なる自我』というべきか、その強烈な自意識・自尊心のゆえに、神への奉仕とプロイセン国家への奉仕を同一視し、さらには自分自身をプロイセン国家と重ね合わせている。彼にとって、大国としてのプロイセンの国益を保持・拡大することは、自身の権益を保持・拡大することを意味するため、ますますそれに邁進する。そして、それを実現するためには、正統主義や保守反動的な理念などの原理原則に固執していてはならず、唯一の健全な基盤である『国家エゴイズム』に立脚しなければならないというのである。」(P52)
「人々は、原則が試練に直面しない間はその原則を守るのですが、いったんそれが試練に直面すると、彼らはまるで農夫がスリッパを放り捨てるようにその原則を投げ捨て、生まれたままの足で走ってしまうのです。(一八四七年三月一四日妻ヨハナに宛てた手紙)」(P50)
口では現実主義と言いながら「後生大事に崇め奉っていた理念や原理原則、イデオロギーといった類のものに囚われてい」る例が枚挙に暇がないことを考えると、「現実主義」の困難さを改めて認識させられる。と、同時に「国家エゴイズム」に立脚した現実主義の実行者としてのビスマルクを現実主義者たらしめていたものが、国益の保持・拡大とユンカーとしての自身の権益を保持・拡大することとを結びつけることによって生まれていたというのも、非常に興味深い点だ。
現代においては、特定の層や個人の権益拡大の手段としての現実主義というのはあるべきではないが、国益の保持拡大と、国民の利益の保持拡大とがイコールになることを前提としての現実主義というのはいかほどあるのか。ビスマルク内政の限界であった国民の一部を抑圧し排除する「負の統合」と良く似た手法を前提とした「現実主義」をよく目にするのは、現実主義に内在する限界なのか、それとも「国家エゴイズム」の主体たる国民国家の限界なのか。
プロイセン国家の拡大をひたすら追求した結果としてドイツ帝国の誕生というプロイセン国家の消滅の扉を開く主人公となる歴史の展開のアイロニーは、やはり切ないものがある。
もう一つの興味深い話は欧州に平和をもたらしたビスマルク体制が、オスマン帝国の植民地化という犠牲の上に成り立っていたことだ。ドイツ帝国の成立後、ビスマルクの国家安全保障は、ドイツが諸外国にとって脅威ではないことを証明し続けることと、結果として徹底的に痛めつけることになったフランスを孤立させ続けることだった。そこで、平和の調停者として振る舞うために、領土補償政策を執った。列強の植民地拡大の欲求をオスマン帝国を分割することで充足させ、欧州の平和を維持する。ビスマルク曰く「たとえトルコを犠牲にしてでも、ヨーロッパの平和を維持すべきであると考えている」(P187)
イスラーム世界を草刈り場にして領土を拡大した列強の猛威が、やがて第一次世界大戦の引き金となり、そして現代まで続くイスラームとヨーロッパとの根深い対立の連鎖の原点になるのだから、このビスマルク体制の理解はそのまま現代を理解することと密接につながってくるなぁ、と改めて認識させられた。ビスマルク外交を通じて英国はエジプト(スエズ)を、ロシアはベッサラビアを、オーストリア・ハンガリーはボスニア・ヘルツェゴビナを獲得し、セルビア、モンテネグロ、ルーマニアが独立し、ブルガリアが三分割され・・・と、ビスマルク体制下ではなんとかなっていたが、やがてそれら各地で火の手が上がり、世界を大戦に巻き込み、現代史でも紛争の舞台となっていくのだから。
そんなわけでビスマルクについては研究書も山ほど出ているわけだが、近年のビスマルク研究動向はどんなもので、ビスマルクはどう理解されているか、コンパクトな入門書としては申し分なかった。あとビスマルク神話の形成過程についても言及されているので、そちらも興味深い。