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人物

エドレッド(イングランド王)

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エドレッド(Eadred)は第三代イングランド王(在位946年5月26日-955年11月23日)。ウェセックス王エドワード古王(または長兄王)の子。即位直後の947年、ノーサンブリア地方のデーン人がエリック・ブラッドアクス(エリック血斧王)こと前ノルウェー王エイリーク・ハラルドソンを擁立して再独立し、その後も鎮圧と独立を繰り返して混乱が続いたが、954年、エイリーク王を殺害し再征服した。生来病弱で健康問題を抱え30代前半の若さで病死した。

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イングランド王国の成立とノーサンブリア問題

十世紀のブリテン諸島勢力図

十世紀のブリテン諸島勢力図
Credit: Ikonact, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commons

八世紀末から始まったヴァイキングのブリテン諸島侵攻に対し、ウェセックス王国がアングロ・サクソン諸国を糾合して対抗し、アルフレッド大王エドワード古王エセルスタン(またはアゼルスタン)王の三代かけてヴァイキング領(デーンロー)の再征服が完了、927年、イングランド王国が成立した。937年、最後のヨーク王グスフリスの子ダブリン王オーラフ・グスフリースソンがアルバ王コンスタンティン2世、ストラスクライド王オワインと同盟を結び、ノーサンブリア地方の旧領奪還を目指してイングランドへ侵攻したが、ブルナンブルフの戦いでイングランド軍が連合軍に大勝、周辺諸国の脅威が取り除かれイングランド王国の統一体制が確立した。

エドマンド1世即位直後の939年、ブルナンブルフの戦いで敗れてアイルランドのダブリンに逃がれていたオーラフ・グスフリースソンがヨークへ帰還、現地のデーン人の支持を受けてノーサンブリア(ヨーク)王に即位した。オーラフ・グスフリースソンは急速に領土を拡大しノーサンブリア地方とリンカーン、レスター、ノッティンガム、スタンフォード、ダービーの旧デーン人植民都市(ファイブ・バラ)を勢力下に置いたが、941年、オーラフ・グスフリースソンが亡くなり従兄弟のオーラフ・シフトリクソン(Olaf Sihtricson)が後を継ぐと、エドマンド1世の反撃が始まり944年までに再征服を完了した。鎮圧後も引き続きノーサンブリア地方は不安定なまま、エドマンド1世の後を継いだエドレッド王にとっても最大の懸念であった。

生涯

「エドワード古王、エセルスタン王、エドマンド1世、エドレッド王の肖像画」(ナショナル・ポートレート・ギャラリー)

「エドワード古王、エセルスタン王、エドマンド1世、エドレッド王の肖像画」(ナショナル・ポートレート・ギャラリー)
The National Portrait Gallery History of the Kings and Queens of England by David Williamson
Credit: Public domain, via Wikimedia Commons

エドレッドはウェセックス王エドワード古王と三人目の王妃エドギフとの間に生まれた。前王エドマンド1世は実兄、前々王エセルスタンは異母兄にあたる。946年5月26日、兄王エドマンド1世が亡くなり、残された二人の遺児エドウィ、エドガーはともに幼く、エドレッドは生前から王位継承権者としての地位を与えられており(1エドマンド1世時代にはすでにラテン語で王位継承権を持つ者を示すクリト(Clito)の称号を使って勅許状(charter)に署名しており(S505,S511、ともにThe ELECTRONIC SAWYER , Online catalogue of Anglo-Saxon chartersより)、「アングロ・サクソン年代記」でも古英語で王位継承者を示すエセリング(Ætheling)の称号が使われている(“and then succeeded to the kingdom Edred Atheling his brother”The Anglo-Saxon Chronicle by J. A. Giles and J. Ingram. AD946./””Eadred 16. Prosopography of Anglo-Saxon England.))、ウィタンが開催され実弟のエドレッドが王に選ばれ、キングストン・アポン・テムズで戴冠式が行なわれた(2“The nobles elected king and he was consecrated at Kingston. The king then distributed gifts to many. “Eadred 16. Prosopography of Anglo-Saxon England.)。

エドレッド王が即位してからはエドレッド王の即位に服従の姿勢を見せていたヨーク市の有力者たちだったが、947年、掌を返して前ノルウェー王エイリーク・ハラルドソン(ノルウェー王としてはエイリーク1世、通称エリック・ブラッドアクス)をノーサンブリア王に推戴した。948年、この事態を受けてエドレッド王は軍を率いてノーサンブリア地方へ侵攻し全土を劫略、この過程でノーサンブリア王国時代を代表する石造りの教会建築であったリポン修道院が破壊された。エドレッド王の怒りに恐れをなしたノーサンブリアのウィタンはエイリーク王を見限り追放、エドレッド王に賠償金を支払って服従を示した(3大沢一雄(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社、125頁)。

949年、ノーサンブリアの有力者たちはアイルランドへ逃れていたオーラフ・シフトリクソンへヨークへの帰還を促し、オーラフ・シフトリクソンがノーサンブリア王へ復帰したが、ほどなくして彼らはオーラフ王を裏切り、952年、オーラフ・シフトリクソンを追放、エイリーク・ハラルドソンを再び招いて王に推戴するなど体制が二転三転する。この混乱の中、エドレッド王はヨーク大司教ウルフスタン(Wulfstan)を捕らえて、Iudanburgという城に投獄した(4大沢一雄(2012)126頁/”Here in this year Eadred ordered that Wulfstan be brought into the fortress at Iudanburg because he had often been accused before the king. “Eadred 16. Prosopography of Anglo-Saxon England.)。ウルフスタン大司教はオーラフ・グスフリースソンへの領土割譲条約斡旋に始まりオーラフ・シフトリクソンの追放やエイリーク・ハラルドソンの招聘と復帰など一連の混乱を主導していた。

954年、ノーサンブリアの有力者たちはウルフスタンという後ろ盾を失ったエイリーク・ハラルドソン王を追放、エドレッド王に臣従することを決めた(5大沢一雄(2012)126頁)。退位後エイリーク・ハラルドソンはエドレッド王の重臣バンバラのオスウルフ(Oswulf)によって殺害される(6十三世紀の歴史家ウェンドーバーのロジャーによって編纂されたラテン語年代記”Flores Historiarum”に記述がある(Coxe, Henry Octavius .(1841).Rogeri de Wendover Chronica.VOL.1.,pp.402-403.)/青山吉信「第5章 イングランド統一王国の形成」(青山吉信(1991)『世界歴史大系 イギリス史〈1〉先史~中世』山川出版社、164頁)。オスウルフは九世紀にノーサンブリア王国がヴァイキングによって滅ぼされた後バンバラを中心に誕生したノーサンブリア王国からの亡命者たちによって建てられたバンバラ政権の指導者一族と言われ、ノーサンブリア地方の有力な豪族であった。エドレッド王はオスウルフにノーサンブリア全土の統治権を与え、イングランド王国誕生後から繰り返されたノーサンブリア地方のデーン人反乱はこれで終息し、以後イングランド王国の統治が安定化した。

エドレッド王は生来病弱で、食事の時には食べ物の汁だけを吸い、残ったものを少し噛んでから吐き出していたという(7“He was very sickly all through his reign. At meal times he would suck the juice out of his food, chew what was left for a little and then spit it out.(from Vita S. Dunstani)”Eadred 16. Prosopography of Anglo-Saxon England.)。このため、国政の大部分を母エドギフ、前王時代から重用されイングランド南東部を支配して半王と呼ばれたイースト・アングリアのエセルスタン、グラストンベリー修道院長ダンスタン、カンタベリー大司教オダら重臣たちに委任していた。特に治世の後半は勅許状の大半がグラストンベリー修道院で作成されており、ダンスタンが実務を担っていたとみられている(8Hayden, Josh . “Charter Analysis and Reassessing the Reign of King Eadwig, 955-959.” Hampshire Archive Trust.)。

955年11月23日、三十代前半の若さで病死し、遺骸はウィンチェスターのオールド・ミンスターに埋葬された。子供は無く、前王エドマンド1世の子エドウィが王位を継いだ。

参考文献

脚注