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人物

エドマンド1世(イングランド王)

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エドマンド1世(Edmund I)は第二代イングランド王(在位939年10月27日-946年5月26日)。920/921年頃生-946年5月26日没。即位直後のヴァイキング勢力によるノーサンブリア地方の再独立に対処して944年までに乱を平定した。スコットランドやウェールズとも良好な関係を築いて国境安定化に努め、法典の制定や修道院改革の支援など内政を整え、誕生間もないイングランド王国の統一体制維持に尽力した。ウェセックス王エドワード古王(または長兄王)の子で、前王エセルスタンは異母兄、第三代イングランド王エドレッドは実弟、第四代イングランド王エドウィ、第五代イングランド王エドガーはともに実子。

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イングランド王国の成立

十世紀のブリテン諸島勢力図

十世紀のブリテン諸島勢力図
Credit: Ikonact, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commons

八世紀末から始まったヴァイキングのブリテン諸島侵攻に対し、ウェセックス王国がアングロ・サクソン諸国を糾合して対抗し、アルフレッド大王エドワード古王(または長兄王とも)の二代かけて反撃と再征服が進められ、エセルスタン王時代の927年、残るヴァイキング勢力ヨーク王国(ヨールヴィーク)の支配下にあったノーサンブリア地方の征服が完了、全イングランドの統一に成功する。征服後、エセルスタン王は初めてイングランド王(Rex Anglorum)の称号を使う(1The Electronic Sawyer: Online Catalogue of Anglo-Saxon Charters,S400., London, British Library, Add. 15350, ff. 70r-71r (s. xii med.),)など、このイングランド統一が実現した927年にイングランド王国が成立したと考えられている。

征服直後の927年7月12日、現在のカンブリア州ペンリス近郊にあったイーモント橋にエセルスタン王、アルバ(スコットランド)王コンスタンティン2世、ストラスクライド王オワイン、デハイバース(2十世紀当時南部を除くウェールズ地方の大半を勢力下に置いた王権)王ハウェルら諸王侯が集まり講和会議が開かれ七年間の休戦などが決められたが、934年、休戦期間が終了するとエセルスタン王はスコットランドへ侵攻、アルバ王コンスタンティン2世ら諸王を臣従させた。937年、最後のヨーク王グスフリスの子ダブリン王オーラフ・グスフリースソンがアルバ王コンスタンティン2世、ストラスクライド王オワインと同盟を結び、ノーサンブリア地方の旧領奪還を目指してイングランドへ侵攻したが、ブルナンブルフの戦いでイングランド軍が連合軍に大勝、周辺諸国の脅威が取り除かれイングランドにおける統一体制が確立した。

生涯

「エドワード古王、エセルスタン王、エドマンド1世、エドレッド王の肖像画」(ナショナル・ポートレート・ギャラリー)

「エドワード古王、エセルスタン王、エドマンド1世、エドレッド王の肖像画」(ナショナル・ポートレート・ギャラリー)
The National Portrait Gallery History of the Kings and Queens of England by David Williamson
Credit: Public domain, via Wikimedia Commons

エドマンド1世はウェセックス王エドワード古王と三人目の王妃エドギフとの間に生まれた。939年の即位時18歳であったという「アングロ・サクソン年代記」の記録から920年または921年頃の生まれとみられる(3大沢一雄(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社、122-123頁)。937年、異母兄エセルスタン王に従いブルナンブルフの戦いに参戦した。「アングロ・サクソン年代記」の937年の条には兄王とともにエドマンドの武勲を讃える詩が書かれている(4大沢一雄(2012)116-122頁)。939年10月27日、エセルスタン王が死去し、エドマンドが新たに王位に就いた。

即位直後の939年、ブルナンブルフの戦いで敗れてアイルランドのダブリンに逃がれていたオーラフ・グスフリースソンがヨークへ帰還、現地のデーン人の支持を受けてヨーク王に即位した。オーラフ・グスフリースソンは旧ヨーク王国(ヨールヴィーク)の回復を目指してマーシア北東部へ侵攻、急速に領土を拡大する。エドマンド王も対抗したが、ヨーク司教ウルフスタンらの調停でエドマンド王はリンカーン、レスター、ノッティンガム、スタンフォード、ダービーの旧デーン人植民都市(ファイブ・バラ)の割譲を余儀なくされた。

941年、オーラフ・グスフリースソン王が亡くなり、従兄弟のオーラフ・シフトリクソン(Olaf Sihtricson)がヨーク王位を継ぐと、942年、エドマンド王はヨーク王国領へ侵攻、割譲した五都市すべてを奪還した。その後オーラフ・シフトリクソン王と前王オーラフ・グスフリースソンの弟ラグナル・グスフリースソン(Ragnall Guthfrithson)が王位を巡って争うようになり、エドマンド王は両者の争いに乗じて944年までに再征服を完了、オーラフ・シフトリクソン、ラグナル・グスフリースソン両者ともイングランドから追放した。

さらにヨーク王国と協力していたストラスクライド王国へウェールズ地方のデハイバース王ハウェルとともに侵攻、全土を蹂躙して王族二人を捕らえて失明させるなどして945年までに降伏させた。エドマンド王は支配下においたストラスクライド王国をアルバ(スコットランド)王マルカム1世に租借し、引き換えに同盟を結んで北方境界の安定化を図った。また、ヨーク王国と協力関係にあったウェールズ北部グウィネズ王国のイドウアル・アブ・アンラウド(Idwal ab Anarawd)が942年にイングランドによって殺害、親イングランド派のデハイバース王ハウェルによってグウィネズ王国が占領され、ウェールズ地方はほぼデハイバース王国の統一下に置かれた。これによってウェールズとの境界も安定化した(5Breeze, Andrew (1997). “Armes Prydein, Hywel Dda and the Reign of Edmund of Wessex”. Études Celtique. 33: pp.218–219.)。

エドマンドは姉たちがヨーロッパの王侯と結婚していたことからヨーロッパ外交へ深く関与することとなった。エドマンドの異母姉エドギフ(Eadgifu)は西フランク王シャルル単純王と結婚し、西フランク王ルイ4世を産み、異母姉妹エドギス(Eadgyth)は東フランク王(後の神聖ローマ皇帝)オットー1世と結婚している。945年、ルイ4世がノルマンディー公国での内乱に介入した際に捕らえられてパリ伯・ネウストリア辺境侯ユーグ・ル・グランの虜囚となると、エドマンド1世はオットー1世とともにユーグ・ル・グランへ圧力をかけて解放させた。

短い治世で軍事外交面だけでなく内政でも様々な成果を残し、従来のアングロ・サクソン法を継承して3つの法典(エドマンド王第一法典、第二法典、第三法典)を制定した。また、エセルスタン王時代にイースト・アングリアのエアルドールマンに任じられていたイースト・アングリアの豪族エセルスタンの一族を重用して彼の三人の兄弟をそれぞれ南マーシアおよび東マーシア、ケント、中部ウェセックスのエアルドールマンに相次いで任じ、エセルスタンに王に次ぐ地位を与え、エセルスタンは半王(half-king)と呼ばれた。他に、エドマンド王は修道士ダンスタンをグラストンベリー修道院長に抜擢、ダンスタンはエドガー王時代にカンタベリー大司教に就任してイングランドにおけるベネディクト派修道院改革を主導することになるが、グラストンベリー修道院にベネディクト派の修道制が導入され、その先駆的な改革が行なわれた。

946年5月26日、エドマンド王はグロスターシャーのパックルチャーチ(Pucklechurch)でレオファ(Leofa)という人物に刺殺されたと「アングロ・サクソン年代記」に記されている。十二世紀の歴史家ウスターのジョンは盗賊レオファの襲撃から執事を救おうとして殺害され、ダンスタンによってグラストンベリー修道院に埋葬されたと描いている(6“A.D. 946. On the feast of St. Augustine, the doctor of the English, being Tuesday, the seventh of the calends of June [26th May], in the fourth indiction, Edmund, the great king of England, was stabbed to death at the royal vill called Pucklechurch, by Leof, a ruffianly thief, while attempting to defend his steward from being murdered by the robber. The king thus perished after a reign of five years and seven months: his body was carried to Glastonbury and buried by St. Dunstan the abbot. Edred, his brother and next heir, immediately succeeded him in due course, and was crowned at Kingston by St. Odo, archbishop of Canterbury, on Sunday the seventeenth of the calends of September [16th August]. King Edred reduced the entire kingdom of Northumbria to allegiance, as his brother had done before, and the Scots swore fealty to him.”The Chronicle of John of Worcester – 456 to 1140 A.D.)。エドマンドの二人の息子オズウィとエドガーはともに幼かったため、弟のエドレッドが後を継いでイングランド王に即位した。

参考文献

脚注

  • 1
    The Electronic Sawyer: Online Catalogue of Anglo-Saxon Charters,S400., London, British Library, Add. 15350, ff. 70r-71r (s. xii med.),
  • 2
    十世紀当時南部を除くウェールズ地方の大半を勢力下に置いた王権
  • 3
    大沢一雄(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社、122-123頁
  • 4
    大沢一雄(2012)116-122頁
  • 5
    Breeze, Andrew (1997). “Armes Prydein, Hywel Dda and the Reign of Edmund of Wessex”. Études Celtique. 33: pp.218–219.
  • 6
    “A.D. 946. On the feast of St. Augustine, the doctor of the English, being Tuesday, the seventh of the calends of June [26th May], in the fourth indiction, Edmund, the great king of England, was stabbed to death at the royal vill called Pucklechurch, by Leof, a ruffianly thief, while attempting to defend his steward from being murdered by the robber. The king thus perished after a reign of five years and seven months: his body was carried to Glastonbury and buried by St. Dunstan the abbot. Edred, his brother and next heir, immediately succeeded him in due course, and was crowned at Kingston by St. Odo, archbishop of Canterbury, on Sunday the seventeenth of the calends of September [16th August]. King Edred reduced the entire kingdom of Northumbria to allegiance, as his brother had done before, and the Scots swore fealty to him.”The Chronicle of John of Worcester – 456 to 1140 A.D.