エドワード古王または長兄王(Edward the Elder、874年頃生-924年7月17日没)は十世紀初頭のウェセックス王国の君主。ウェセックス王およびアングロ・サクソン王(在位:899年10月26日-924年7月17日)。アルフレッド大王の第二子で父王の後を継ぎ、姉のマーシア女王エセルフレドと協力してヴァイキングの征服地を相次いで奪還、ノーサンブリア地方を除くイングランド地域の大半にウェセックス王国の支配を拡大した。イングランドの政治的統一は、彼の息子で後を継いだエセルスタン王の治世下で達成された。
異名について
日本語では「長兄王」と訳されることが多い異名”The Elder”は、10世紀末に聖職者ウルフスタンによって書かれた『聖エセルウォルド伝(Vita S. Aethelwoldi』でエドワード殉教王(在位975-978年)と区別して「年長の、より古い方の」という意味で初めて用いられた(1岡地稔「付録」(岡地稔(2018)『あだ名で読む中世史―ヨーロッパ王侯貴族の名づけと家門意識をさかのぼる』八坂書房)31頁)。このような経緯から兄弟姉妹での最年長の男子を意味する「長兄王」の訳は必ずしも元の意味を反映しているとはいえず、古い方のエドワード王という元の趣旨を踏まえた「古王」と訳されることもある(2鶴島博和訳(デイヴィス、ウェンディ(2015)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(3) ヴァイキングからノルマン人へ』慶應義塾大学出版会)など)。ここでは古王の異名を優先している。
時代背景
ブリテン島中部・南部に割拠したアングロ・サクソン人の諸王国は八世紀後半、ミドランズ地域に栄えたマーシア王国のオファ王が支配的な地位を確立して統一への道を歩み始めた。オファ王死後、ブリテン島南部のウェセックス王国がエグバート王の治世下で勢力を盛り返し、825年、エレンダンの戦いでエグバート王率いるウェセックス王国軍がマーシア王国軍を撃破、以後アングロ・サクソン諸王国はウェセックス王国の下で統一されていく。
九世紀半ばから本格化したヴァイキングと呼ばれるスカンディナヴィア半島出身者(ノース人)たちの活動は武力による征服戦争へと発展、865年、ヴァイキングは「大軍勢(大異教徒軍)」と呼ばれる統一された軍団を形成してブリテン島へ侵攻した。ブリテン島では彼らヴァイキングは出身地の名を取ってデーン人と呼ばれた。ノーサンブリア王国、イースト・アングリア王国など残されたアングロ・サクソン諸王国がデーン人の「大軍勢」の攻撃で相次いで滅亡する中で対ヴァイキング戦争の中核となったのがアルフレッド大王率いるウェセックス王国である。
878年、アルフレッド大王はエディントンの戦いに勝利してデーン人の王グスルムと和平条約を結び、ハンバー川以南のブリテン島はノース人の居住する東部とアングロ・サクソン人勢力下の西部に二分されることとなった。デーンローはブリテン島南東部の旧イースト・アングリア王国を勢力圏としたデーン人王国、旧ノーサンブリア王国南部を勢力圏としたヨーク王国(ヨールヴィーク)、その間の旧マーシア王国東部地域に誕生したダービー、レスター、リンカーン、ノッティンガム、スタンフォードの5つのヴァイキングによる植民都市(ファイブ・バラ)の勢力圏からなる。一方、アングロ・サクソン人勢力は、領土の東側を失い弱体化したマーシア王国も883年頃アルフレッド大王に臣従、北部のバンバラ周辺に逃れたノーサンブリア王国の残党(バンバラ領)を除き、ウェセックス王国に統合されることとなった。
生涯
誕生から即位まで
エドワードはウェセックス王アルフレッドと王妃エアルフスウィスの間の子で、第一子で長女のエセルフレド(870年頃生-918年没)に続く第二子で最初の男子として874年頃に生まれた。アルフレッド大王に仕えた修道士アッサーが893年頃に書いた「アルフレッド王の生涯」によれば、幼少期は三女のエルフスリスとともに王宮で育てられ、男女の家庭教師が付けられて深い学識と教養を身につけたという。
893年、これまでフランク王国の沿岸部を主戦場としていたヴァイキングの有力な指導者ハステイン(Hastein)がブリテン島へ上陸、デーンローのデーン人たちを率いて休戦条約を破りウェセックス王国に対し大規模な攻勢に出た。デーン人たちは少数の部隊に分かれてブリテン島南東部周辺を掠奪して回ったあと戦利品を持ち寄って撤退するべく現在のサリー州ファーンハムに集結したところをウェセックス軍に撃破される。このファーンハムの戦いでウェセックス軍を指揮したのがエドワードであったと考えられており(3Battle Of Farnham 893 Ad.Heritage Gateway.)、これがエドワードの戦績として最初のものである。アルフレッド大王はこの侵攻に対して戦力を二つに分けており、エドワード王子の勝利に続いてアルフレッド大王率いる主力はミルトンでハスティン率いるデーン軍主力を撃破した。
即位と従兄弟エセルウォルドの反乱
899年10月26日、父アルフレッド大王の死にともないエドワードはウェセックス王およびアングロ・サクソン王に即位した。同年、新王エドワードに対しアルフレッド大王の兄エセルレッド1世(在位865-871年)の子エセルウォルド(Æthelwold)が王位継承に異を唱えて反乱を起こす。当時のヨーロッパ諸国における王位継承で長子相続は一般的でなく一族の最年長者や最有力者が就くことが多くみられ、ウェセックス王国でもアルフレッド大王の父エセルウルフ王死後四人の息子たちが順に王位を継承してアルフレッド大王は兄弟の末弟であった。このためエセルウォルドにも王位継承を主張するだけの正当性があり、広く支持を集めて反乱は大規模化した。
エセルウォルドは手勢を率いて父エセルレッド1世が埋葬されているドーセット州のウィンボーン修道院があるウィンボーンとトウィナム(クライストチャーチ)の荘園を占拠し、鉄器時代の丘砦遺跡バドベリーリングに陣を張った。エドワード王が軍勢を率いてこれを包囲するとエセルウォルドは全ての門に柵を築いて「生か死のいずれかを選ぶつもりだ」(4大沢一雄(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社、102頁)と勇ましく語って対決姿勢を明らかにしたが、その言葉を隠れ蓑にして密かに陣を引き払って包囲網を脱出、デーン人の支配下にあるノーサンブリア地方へ逃れた。
901年、ノーサンブリアへ逃れていたエセルウォルドは勢力を立て直すと船団を率いてエセックスへ上陸、イースト・アングリアのデーン人と同盟して介入を促し、902年からデーン軍がマーシア王国へ侵攻して各地を劫掠した。エドワード王は全軍を率いてマーシアを掠奪して撤退するデーン軍を追撃、マーシアと接するイースト・アングリアの境界にあたるウーズ川沿岸地域を蹂躙してエドワード王は撤退を命じたが、ケント地方の有力者たちを中心とした軍の一部が撤退命令に従わずさらにデーン軍と交戦する。こうして偶発的に起こったホルムの戦いは両軍の将帥クラスの多くが戦死する激しい戦いとなり、反乱の指導者エセルウォルドも戦死、反乱は鎮圧された。これによりエドワード王の支配体制が確立された一方、ヴァイキング勢力との和平関係は終わりを迎え、再び全面的な戦争へ突入することとなった。
マーシア王国との関係
880年代、ウェセックス王アルフレッドにマーシア王エセルレッド2世が臣従することでアングロ・サクソン人の勢力はウェセックス王国へ統一された。886年、アルフレッド大王はウェセックス王と併せてアングロ・サクソン人の王を称するようになる。これと同時期、アルフレッド大王はマーシア王改めマーシアのエアルドールマン(領主)エセルレッド2世に長女エセルフレドを嫁がせることで関係を強化した。エドワード王が継いで間もない902年頃、エセルレッドが病に臥せるようになり、妻エセルフレドがマーシア王国の統治を実質的に担うこととなったが、両国の関係は従来通りウェセックス王の宗主権下で協調して進んだ。
911年、エセルレッドが亡くなるとエセルフレドがマーシアの女王として即位した。エセルフレド女王は即位に際して弟のエドワード王にマーシア王国からオックスフォードとロンドンを割譲している。これによってウェセックス王国とマーシア王国は政治的統一への道が開かれた(5Æthelflæd, Lady of the Mercians , Order of Medieval Women.)。マーシアの支配に関してはエセルフレドが自立した裁量権を持ったとみられ、対ヴァイキング戦争に向けて緊密な姉弟の協調関係が成立した。この協調関係に基づいて910年頃から15年頃にかけてマーシア、ウェセックス両国でデーンローとの境界沿いに多数の城塞が築かれている。
対ヴァイキング戦争
エセルウォルドの反乱以後、デーンローのデーン人による軍事行動は活発化し、910年、ウェセックス=マーシア連合軍がテッテンホールの戦いでノーサンブリアを支配していたヴァイキングのヨーク王国(ヨールヴィーク)軍を撃破、911年にはヨールヴィーク軍が和平を破ってマーシア王国へ侵攻、ウェセックス=マーシア連合軍によって撃退されるなど戦線は拡大しつつあった。このような背景でエドワード王は姉エセルフレドと協力してマーシア、ウェセックス両国のデーンローと接する境界沿いに城塞網を構築して対ヴァイキング戦争の準備を整えたウェセックス=マーシア連合は917年頃より大規模な攻勢に出た。
917年、エセルフレド女王はマーシア軍を率いて四人の重臣の犠牲を払いつつもファイブ・バラの一つダービー市とそれに属する領域の征服に成功した。同年、エドワード王が侵攻してきたイースト・アングリアのデーン人の軍勢を二度にわたって撃破してイースト・アングリアのデーン人王国を征服する。918年、エセルフレド女王はダービー市に続いてレスター市を平和的手段で服従させ支配下に置いた。さらにヨーク王国の首都ヨーク市の住民もエセルフレドの支配下に入ることを約束したが、これが履行される直前の918年6月12日、エセルフレド女王はタムワースで死去する。姉エセルフレド死後、エドワードはファイブ・バラの残りの都市のうちノッティンガム、スタンフォードの攻略に成功し、918年中にヨールヴィーク王国とリンカーン市周辺を残してデーンローの中部・南部地域を支配下に置いた。
エセルフレド死後、マーシア王国では娘のエルフウィンが新たに女王として即位したが、918年12月、エドワード王は軍勢を率いてマーシアへ侵攻、エルフウィン女王の「マーシアにおけるあらゆる権力を剥奪」(6大沢一雄(2012)109頁)して廃位の上でウェセックス王国へ連行した。これによってマーシア王国はウェセックス王国へ完全に併合され、後にイングランド王国へ発展する統一アングロ・サクソン王国が名実ともに成立した。
920年代に入るとエドワード王は精力的に王国内を回って各地にさらに城塞を築いて支配を固め、残るデーン人勢力を掣肘した。920年から923年にかけてイースト・アングリア、ケント、サリー、エセックスなどでデーン人による大規模な軍事行動が頻発したがことごとくエドワードによって撃滅された。また、923年、スコットランド南西部のストラスクライド王国の王やエセルフレドに臣従していたウェールズ地方のダヴェド、ポウィス、グウィネズの三王国の王もエドワード王への臣従を表明し、ブリテン島においてエドワード王の王権は揺るぎない地位を築いた。
エドワード王の死
924年、旧マーシア王国のチェスターでマーシア人とウェールズ人による大規模な反乱が勃発、エドワード王自ら軍勢を率いてこれを鎮圧したが、反乱終結直後の924年7月17日、チェスター近郊の王領地ファリンドンで死亡した。マームズベリーのウィリアムは病とするが、反乱鎮圧時の傷が原因とも言われ死因は定かではない。イングランド統一を目前にした急死であった。遺骸はウィンチェスターのニュー・ミンスター(十二世紀からハイド修道院)に埋葬された。
姉エセルフレドによって養育されていた長子エセルスタンが後を継いでウェセックス王およびアングロ・サクソン王に即位し、王位継承を巡る内乱を治めた後の927年、残るノーサンブリア地方を征服、全イングランドを統一してイングランド王(Rex Anglorum)を称し、イングランド王国(927年-1707年)が誕生する。
三度の結婚と子供たち
エドワードは893年頃最初の結婚をした。同時代史料には名前がなく、十二世紀の歴史家マームズベリーのウィリアムによる「歴代イングランド王の事績(Gesta Regum Anglorum)」ではエグウィン(Ecgwynn)という名であるとされている。身分が低く正妃ではなかった可能性もある。エグウィンとの間にはエセルスタンとダブリン王シトリックの妃となった名前不明の娘がいる。十二世紀頃に成立した伝承ではタムワースのポールズワース修道院長、聖エディスがこの名前不明の娘であるとも言われるが定かでない(7Who was St. Editha?.Tamworth Heritage Trust.)。また、エドワード王の901年の勅許状に署名があるアルフレッドがエドワードの弟か息子のどちらかと考えられている(8ENGLAND, ANGLO-SAXON & DANISH KINGS)
- エセルスタン(Æthelstan):ウェセックス王(在位924-927)、初代イングランド王(在位927-939)
- ?:ダブリン王シトリック妃
エドワード即位前後の900年頃、エグウィン妃との結婚は終わり、新たにウィルトシャーのエアルドールマン、エセルヘルムの娘エルフフレド(Ælfflæd)を妻に迎えた。史料によって食い違いがあるため名前や生没年、長幼の順番、事績などは不確かだが、エドワードとエルフフレドの間には男子二人と女子六人または七人が生まれたとみられる。
エルフフレドとの間の男子
- エルフウェアード(Ælfweard):エドワード王死後エセルスタンの即位に対抗してウェセックス王に推されたが直後の924年8月に亡くなった。
- エドウィン(Edwin):エルフウェアード死後、反エセルスタン派の象徴となったが933年、海難事故で溺死。
エルフフレドとの間の女子
- エセルフレダ(Æthelfleda):ハイド修道院の史料ではエルフフレドとの間の最初の娘とされているが、エドフレダと同一人物の可能性がある。
- エドフレダ(Edfleda):ウィルトン修道院に入り修道女となった
- エドギフ(Eadgifu):次女?西フランク王シャルル3世妃。西フランク王ルイ4世の母。シャルル3世退位後の923年帰国、936年よりランのノートルダム修道院長。951年9月26日没。
- エセルヒルド(Æthelhild):三女?ウィルトン修道院に入り修道女となった
- エドヒルド(Eadhild):四女?パリ伯・ネウストリア辺境侯のユーグ・ル・グランと結婚。937年頃没。
- エドギス(Eadgyth):五女か六女?東フランク王オットー1世(後の神聖ローマ皇帝)妃。シュヴァーベン大公リウドルフとロートリンゲン公コンラート妃リウトガルトを生む。946年1月26日没。
- エルフギフ(Ælfgifu):五女か六女?マームズベリーのウィリアムによれば「アルプス近郊のある公爵」と結婚したといい、複数の候補が推定されているが定かでない
919年頃にエルフフレドが亡くなり、920年頃までにケントのエアルドールマン、シゲヘルムの娘エドギフ(Eadgifu)と結婚した。二人の間には男子二人、女子二人が生まれている。
- エドマンド(Edmund):第2代イングランド王(在位939-946年)エドマンド1世。946年5月26日没
- エドブルガ(Eadburga):ウィンチェスターのナナミンスター修道院に入り修道女となる。960年6月15日没。死後に列聖され聖エドブルガとして崇敬された。
- エドギフ(Eadgifu):史料によって複数の結婚相手の名が挙げられるが定かでない。異母姉エルフギフと同一人物の可能性がある
- エドレッド(Eadred):第3代イングランド王(在位946-955年)。955年11月23日没
参考文献
- 大沢一雄(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社
- 岡地稔(2018)『あだ名で読む中世史―ヨーロッパ王侯貴族の名づけと家門意識をさかのぼる』八坂書房
- アッサー(1995)『アルフレッド大王伝』中央公論新社、中公文庫
- デイヴィス、ウェンディ(2015)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(3) ヴァイキングからノルマン人へ』慶應義塾大学出版会
- ”The Anglo-Saxon Chronicle by J. A. Giles and J. Ingram” Project Gutenberg
- Battle Of Farnham 893 Ad.Heritage Gateway
- Blake, Matthew; Sargent, Andrew (2018). “‘For the Protection of All the People’: Æthelflæd and Her Burhs in Northwest Mercia”. Midland History. 43 (2): 120–54. doi:10.1080/0047729X.2018.1519141. / Keele Repository(DOC)
- Giles, J. A.(1847).William of Malmesbury’s Chronicle of the Kings of England.,LONDON:HENRY G. BOHN, YORK STREET, COVENT GARDEN.M.DCCC.XLVII.
- McComb, Michael.(2023)’Edward the Elder: England’s Forgotten Founding Father‘
- Edward The Elder. Encyclopedia.com
- Æthelflæd, Lady of the Mercians , Order of Medieval Women.
- Who was St. Editha?.Tamworth Heritage Trust.
- ENGLAND, ANGLO-SAXON & DANISH KINGS