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アルフレッド大王(ウェセックス王)

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「アルフレッド大王( ” Alfred The Great ” 古英語 “Ælfrēd ”)」はウェセックス王エゼルウルフと王妃オズブルフの第四男として849年に生まれた。いずれも短い在位期間となった三人の兄に続いて871年4月23日、ウェセックス王に即位。デーン人の侵攻を撃退して、彼らをカトリックに改宗させ、その勢力範囲をイングランド東北部「デーンロー」に留めた。軍制改革、行政機構の整備、「アルフレッド法典」の制定、「アングロ・サクソン年代記」の編纂、学芸の保護など多岐に渡る業績を上げた。899年10月26日没。

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アングロ・サクソン人の王国

アングロ・サクソン系諸国家が割拠して争った七王国時代は829年、ウェセックス王エグバートマーシア王国を倒したことでウェセックス王家の宗主権が確立する。イングランドで統一の兆しが見えはじめた一方、最大の懸案となったのがデーン人の侵攻である。

八世紀末からデーン人がブリテン島への移動を活発化させ、移住だけに留まらず略奪や現地勢力との対立、軍事衝突に至るようになり、830年頃から本格的な戦闘が始まる。エグバート王時代はまだ小規模なもので食い止められたが、850年代に入るころからデーン人も組織化して大規模な武力侵攻に至り、イングランド全土を戦場としてアングロ・サクソン人とデーン人の熾烈な戦いが繰り広げられた。

「アルフレッド大王像」(ウィンチェスター市、Sir William Hamo Thornycroft製作、1899年)

「アルフレッド大王像」(ウィンチェスター市、Sir William Hamo Thornycroft製作、1899年)
© Odejea, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commons

「七世紀頃のブリテン島」

「七世紀頃のブリテン島」
credit:Kmusser, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

アルフレッドの誕生

アルフレッドは849年、ウェセックス王エゼルウルフ(Æthelwulf)と王妃オズブルフ(Osburh)の第四男として生まれた。853年、敬虔なエゼルウルフ王は、五歳のアルフレッドに多くの供をつけてローマへ送り出す。アルフレッドはローマ教皇レオ4世に拝謁して親書を持ち帰り、855年、今度はエゼルウルフ王自らアルフレッドを連れてローマを訪れ、新教皇ベネディクトゥス3世に拝謁、多くの贈り物を献上した。二度のローマ訪問の目的について、基本的に信仰心以上のものではなかったと考えられている(1高橋博(1993)『アルフレッド大王―英国知識人の原像』朝日新聞出版、朝日選書、16頁)。あるいは、教会との緊密な関係を構築することで、異教徒デーン人討伐の協力を得る目的もあったかもしれない。

母オズブルフはゴート人の血を引くエゼルウルフ王の高名な執事オズラックの娘であったと伝わる。「アルフレッド王の生涯」の著者アッサーはオズブルフの人柄について『とても信心深い女性で、心も清く、家柄も高貴であった』(2アッサー(1995)『アルフレッド大王伝』中央公論新社、中公文庫、63頁)と記す。

ある日――おそらく855年以前のエピソードと考えられている――、オズブルフは息子たちに向かって自身のサクソン詩の本を見せながらこう言った。
「あなた方のうちで誰でもよろしい。この本を一番早く覚えた子に、差し上げましょう。」(3アッサー(1995)78頁
アルフレッドは教師のところに行って熱心に教えを乞いながら兄たちの誰よりも早く覚えて母親の前で朗誦してみせたという。少年時代の勉学熱心なアルフレッド少年を表すエピソードとして知られている。しかし、母オズブルフはほどなくして亡くなったようである。

青年時代のアルフレッド

長兄エゼルバルドの反乱

856年、エゼルウルフ王はローマ巡礼からの帰路西フランク王シャルル禿頭王の下に寄って王女ジュディトを妻に迎えた。当時13歳の少女であり、フランク王国との関係を緊密化させた政略結婚である。若い新妻を連れ帰ったエゼルウルフ王とアルフレッド少年を待っていたのが、長兄エゼルバルドの反乱であった。

エゼルバルド一味はエゼルウルフ王を国内に入れないよう図ったが、貴族たちの抵抗にあいこの謀叛は失敗に終わる。エゼルウルフ王は寛大な処置を示して、王国の中枢ウェセックスの統治をエゼルバルドに、自身はケント、サリー、サセックスなど東部を治めることとした。

兄たちの治世

858年1月、エゼルウルフ王が亡くなり、遺命によって王国は長子エゼルバルドと次子エゼルベルフトで分割すること、エゼルバルドが後継者無く死んだときは三子エゼルレッド、四子アルフレッドが順次継承することとされた。

ウェセックス王位を継いだエゼルバルドの治世は非常に評判が悪い。新王エゼルバルドはまず父王の妃ジュディトを無理やり自分の妃として批判を招き、為政者としても無能でデーン人の侵攻に抗しきれず国土の荒廃を招いた、と記録されている。王国にとって幸運だったのは、彼が在位わずか二年で後継者無く亡くなったことであった。続いて、遺命に反して次子エゼルベルフトが王位につき、『五年間、平和と愛情と栄誉のうちに王国を統治』(4アッサー(1995)75頁)して亡くなる。

長兄、次兄の短命政権の後、866年、王位に就いたのが三兄エゼルレッドであった。このエゼルレッド政権時代から、アルフレッドの活躍が始まる。

アルフレッドの初陣

この頃、デーン人の侵攻は日に日に激しさを増していた。865年、デーン人の大船団がイースト・アングリア王国に上陸、現地で馬を調達して大規模な騎兵部隊を編成して劫略してまわった。大軍勢あるいは大異教徒軍と呼ばれている。867年、この部隊が北上してヨークからノーサンブリア王国へと侵攻、内紛で対立していた同国はデーン軍の攻勢に二人の王が殺害され、北方の雄として繁栄を誇ったノーサンブリア王国は敢無く滅亡した。

868年、アルフレッドはマーシア王家の血を引くガイエ太守エゼルレッド・ムキルの娘エアドブルフと結婚した。当時のマーシア王国はかつて七王国に号令したころの勢威は消え、ウェセックス王を宗主と仰ぐ従属国である。同年、イースト・アングリア王国を劫略しノーサンブリア王国を滅ぼしたデーン人の大部隊がマーシアへ向けて南下を開始していた。

記録に残るアルフレッド最初の戦いがこのときである。兄王エゼルレッドとともに大規模な軍を率いたアルフレッドはマーシアに出陣し、ノッティンガムへ軍を進めてデーン人と睨み合った。デーン軍は城塁に籠り、ウェセックス軍はこれを崩すことができず、マーシア人とデーン人の和平が成立して軍を引いた。

アッシュダウンの戦い

アッシュダウンの戦い(871年)
アッシュダウンの戦い(Battle of Ashdown)は、871年1月8日、ウェセックス王エゼルレッドと弟アルフレッドが率いるウェセックス王国軍が、「大軍勢(または大異教徒軍)」の名で知られたヴァイキング連合軍に勝利した戦い。 前段階 八世紀末から始まるヴァイキングの活動は九世紀半ばから本格化した。850年代までは個々の集団がブリテン諸島から大陸沿岸にかけて襲撃や略奪を行っていたが、865年、...

870年、ウェセックス軍が退いた後、デーン人はイースト・アングリア王国へ転進、迎え撃ったイースト・アングリア王エドマンドが戦死して七王国時代ブレトワルダを輩出したこともある古豪イースト・アングリア王国も滅亡した。

871年、イースト・アングリア王国を滅ぼしたデーン人の軍団がついにウェセックス王国へ侵攻を開始し、バークシャー地方の王領地レディングへ到来、バークシャー太守エゼルウルフがこれを迎え撃った。激戦の末、デーン人の二人の首領の一人を討ちデーン軍を撃退する。四日後、エゼルレッド王とアルフレッドが軍を集結させてレディングに到着、デーン軍主力と激しい戦いになるが敗走を余儀なくされ、先の戦いで奮戦したバークシャー太守エゼルウルフが戦死した。

その四日後、立て直したウェセックス軍はラテン語で「モンス・フラクスィニ(とねりこの丘)」を意味するアッシュダウンでデーン軍に決戦を挑んだ。後世アッシュダウンの戦いと呼ばれる。

デーン軍は高地に陣取り部隊を二手に分けて二人の王が率いる主力を中枢とし、複数の首領が率いるもう一方の部隊で盾壁を編成したという。これに対してウェセックス軍は低地に布陣して同様にエゼルレッド王軍とアルフレッド軍に分けて攻勢をかける。アルフレッド部隊が敵前衛部隊を、エゼルレッド王本隊が敵主力を突く作戦であったが、エゼルレッド王は祈祷に入ったまま動こうとしない。しびれを切らしたアルフレッド軍は敵前衛に攻勢をかけ、遅れてエゼルレッド王軍も到着し、しばらく激しい戦いが繰り広げられた後、デーン軍が総崩れとなり、二人の王の一人を始め多数の首領たちを討ち取る大勝利を挙げた。『この戦いの勝利を敬虔で沈着なエゼルレッドに帰すか、それとも決断力にとむ勇猛なアルフレッドに求めるかを決めることは容易ではない』(5高橋博(1993)45頁)と高橋は評している。

その二か月後、マートンの戦いではデーン軍が勝利して両者痛み分けとなった。マートンの戦い直後の871年4月23日、エゼルレッド王が亡くなり、父王の遺言通り王弟アルフレッドが即位した。

アルフレッド大王の戦い

席捲するデーン人

即位直後、デーン軍はテムズ川を北上してウェセックスに侵攻、アルフレッド自らウィルトンで迎え撃ち敗走させたが、追撃時、デーン軍別動隊と遭遇して返り討ちにあった。以後も一進一退の攻防を繰り返し、大きな戦闘だけで一年に九回もの戦闘が行われて両軍疲弊したため、アルフレッドは和解金の支払いにより休戦条約を締結、五年間の平和が訪れ、アルフレッドは体制の立て直しに尽力し、875年には新たに侵入してきたデーン軍を海戦で撃破した。

デーン軍はいくつかの部隊に分かれて各地に侵攻、略奪と破壊を繰り返したが、その被害を被ったのがマーシア王国である。ときのマーシア王ブルフレッドはアルフレッドの姉エゼルスウィスを妃としてウェセックス王国の宗主権下にあった。872年と873年にブルフレッド王は繰り返しデーン人と和平を結ぶが、874年、デーン軍の侵攻の前にローマへの亡命を余儀なくされ、そのまま878年に客死した。デーン人はブルフレッド王に代わりケオルウルフ2世を傀儡に立てたが悪政を敷いたためデーン人によって追放され、879年、一時はイングランドを統一せんばかりに栄えたマーシア王国も滅亡する。

877年8月、アルフレッドはエクセターに集結したデーン軍を撃破して撤退させたが、デーン軍はマーシアに退いて農耕を始めるなど定住するようになり、878年、グロスターに定住していたデーン軍がチップナムに侵攻、略奪が繰り広げられて住民たちも多くが追われることになった。

アセルニー隠棲と「アルフレッドのパン」の伝承

この頃、アルフレッドはデーン人の脅威から逃れてサマーセットの沼沢地アセルニーに籠って窮乏生活を強いられていた。デヴォンシャーの太守オッダの指揮下でデーン人を撃破するなど各地で散発的な抵抗が繰り広げられていたが、アルフレッドは捲土重来を期してアセルニーを城砦化して隠棲を続けた。アセルニーは貧しい地域で食料を手に入れるのにも困るほどだったが、一方でエクセターやチップナムなどから等距離にあってデーン軍が侵攻してきた場合に急行しやすい場所にあった。

アルフレッド大王のアセルニー隠棲については、後世様々な伝承が語られるようになった。

「アルフレッドのパン」の伝承は十世紀末頃、アルフレッドの異母兄弟と言われる聖ニーオットの伝記に登場し、十六世紀、カンタベリー大司教パーカーがアッサーの「アルフレッド王の生涯」を編纂するときにこの逸話を挿入したとされる(6高橋博(1993)59-63頁)。

アセルニーを旅するアルフレッドが近くの牛飼いの家を訪れて休息をさせもらっていた。彼が王とは知らない牛飼いの妻は多忙な家事もあってかまどで焼いていたパンをアルフレッドに任せたが、しばらくするとパンが焦げる匂いがする。妻が駆けつけるとパンはそのままだったので、なぜパンを裏返さないのかと怒鳴りつけた。

十六世紀のパーカー版では牛飼い、聖ニーオット伝では豚飼いになるなど細かい違いがあるが、パンの焼き方もわからない世間知らずな大王が、アルフレッド王だと知らない庶民の夫婦に怒られるという微笑ましいエピソードとして長く愛さている。

エディントンの戦いとウェドモアの和約

エディントンの戦い(878年)
エディントンの戦い(Battle of Edington)またはエサンダンの戦い(Battle of Ethandun or Eðandun)は、878年5月上旬、アルフレッド大王が率いるウェセックス王国軍が、「大軍勢(または大異教徒軍)」の名で知られたヴァイキング連合軍に勝利した戦い。戦後、ウェセックス王国とヴァイキング勢力の指導者グスルムとの間で休戦と両国間の領土が画定され、イングランドはアン...

878年の復活祭の日(3月23日)、アセルニー城砦のアルフレッド大王は攻勢に出ることを決意し、その七週間後、セルウッドの森の「エグバートの石」と呼ばれる場所に軍を進めた。その名の通り、祖父エグバート王ゆかりの地と考えられるが、場所がどこなのかは特定できない。サマーセットシャー、ウィルトシャー、ハンプシャーの住民が王の下に参集し、翌々日、エディントンでデーン軍と交戦に至る。

エディントンの戦いではデーン軍に対してウェセックス軍は「緊密な盾壁」(7アッサー(1995)97頁)を築いて襲い掛かり、一方的な戦いとなった。窮したデーン軍は敗走して近隣の城(ブラットン城と考えられている)に逃げ込み、アルフレッド大王はこれを包囲して十四日後、デーン軍は降伏した。

勝因としてアルフレッドがデーン軍に学んで移動時に馬を活用して高速に移動する騎馬歩兵隊を編成したこと、アルフレッドが優秀な家臣を多く抱え、彼に対する家臣団の高い信頼感を醸成していたことなどが挙げられる(8高橋博(1993)69頁)。

降伏したグスルムらは多数の人質をウェセックス王国に差し出した上で、ウェセックス王国領からの撤退と指導者グスルムがアルフレッド大王によってキリスト教へ改宗することを約束した。

デーン人の平定

以後、ブリテン島を席捲していたデーン人の多くはフランク王国へと転進して大陸沿岸を荒らしまわる一方、ブリテン島に残ったデーン人をアルフレッドは次々と破り、886年、ロンドンを奪還、886年から890年の間の時期にアルフレッド大王はデーン軍が支配していたロンドンを攻略してあらためてグスルムと国境線を画定する条約を結び、「ロンドンからチェスターへ続くウォトリング街道の東北部をグスルムが、南西部をアルフレッド大王が統治する」(9アッサー(1995)330頁)こととした。

ウェドモア条約
ウェドモア条約(Treaty of Wedmore)またはウェドモアの和約(Peace of Wedmore)は878年、ウェセックス王国のアルフレッド大王とヴァイキングの指導者グスルムとの間で戦われたアルフレッド大王後の講和条約。グスルムに対し、ウェセックス領からの撤退とキリスト教への改宗を求めた。後にアルフレッド大王とグスルムの間で締結された両者の領土を画定し貿易や人命金などについて定めたアル...

以後、890年にグスルムが亡くなるとデーン人の勢力は衰え892年以降鎮静化し、896年の襲来を最後にしばらくの平和が訪れることになった。その後アルフレッドの次代エドワード古王からエドガー平和王にかけてデーン人の抵抗を排してデーン人支配地域をウェセックス王国へ奪還していき、統一イングランド王国が確立していく。それが揺らぐのは、精強さで知られるジョムズヴァイキングたちの大規模襲来が始まる980年頃からのことになる。

アルフレッド大王の軍事行動地図

アルフレッド大王の軍事行動地図
credit:Hel-hama, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commons

886年のブリテン島

886年のブリテン島
Public Domain,via Wikimedia commons

アルフレッド大王治世の諸改革

軍制改革

対デーン戦争が一段落する治世後半、アルフレッド大王は数々の改革を断行した。まずは軍を二分して半年毎の軍役交代制にし、築城や都市の防壁の建設などを集落(ハイド)単位で担わせ、下級貴族(セイン)の増員など軍制改革行った。(10青山吉信著「第五章 イングランド統一国家の形成」(青山吉信(1991)『世界歴史大系 イギリス史〈1〉先史~中世』山川出版社)157頁,高橋博(1993)61頁

アルフレッド法典の制定

特筆される改革が「アルフレッド法典」の制定である。過去にケント王エゼルベルフトによるエゼルベルフト法典、ウェセックス王イネによるイネ法典、また現存していないがマーシア王オファによるオファ法典などが編纂されていたが、アルフレッド大王はこれらを踏襲しつつ、各条文について取捨選択の上で新しい条項を加えて新しい法典として作成、自ら注釈を書くなど学識の高さを示してもいる。(11青山吉信(1991)157頁,高橋博(1993)96頁

アルフレッド法典では、国王の生命を脅かす陰謀を働いたものへの罰則など「反逆罪」が規定され、マーシアを除いて太守職の世襲を禁じ、教会は世俗の権威により保護を受けるとするなど、王権の確立が図られた(12高橋博(1993)93-95頁)。また、また殺人や傷害、窃盗など多くの犯罪に対する罰則や賠償、人命金の規定などが盛り込まれ、適切な運用を監視できるよう裁判所の判決一つ一つに王自ら目を通したという(13高橋博(1993)98頁)。

学問の奨励と文芸復興

アルフレッド王は戦災によって荒廃した教会組織の再生のため諸国から多くの聖職者を呼び寄せ、教会再建とともに学問の奨励や文芸の復興を図った。「アルフレッド王の生涯」を著したウェールズ人アッサー、ガリアの司教グリムバルドとジョンなどが招かれ、国内でも司教ウェルフェルス、マーシアのブレイムンド、エゼルスタン、ウェルウルフなど聖職者が多く登用されている。

宮廷学校や修道院学校などが建てられて教育に力を入れ、ラテン語文献の英語訳を命じてもいる。アルフレッド治世下で英訳されたものにポエティウス「哲学の慰め」、教皇グレゴリウス1世「牧者の心得」、ベーダアングル人の教会史」、オロシウス「異教徒を駁する歴史」などがある。大王は特に「牧者の心得」を重視して、序文を自ら書いて、全教会に配布を命じた。

『勤勉に学ばなかった者には教えられる技術など存在しないのに、学識のない者が無思慮にも教育の仕事を手がけるのはなぜか。しかも、教育の技術こそは技術中の技術のはずなのに、心の傷が体の傷よりいっそう曖昧なものだと知らない者がいようか。世間の医者はどんな病気なのか、どんな薬草を用いたらよいのかわからないとき、自分の目に見えない傷を治そうとすることに恥じ入る。しかし、精神的教訓のなんたるかをまったく認識しないで、心の傷を治す医者になりたいと願い、またそう願うことを恥ずかしいと思わぬ者もいる。』(14「牧者の心得」高橋博(1993)128-129頁より

ここは第一章の冒頭でアルフレッドが書いた部分ではないが、学問奨励のために教師の育成を重視していた王の意思が感じられる。

「アングロ・サクソン年代記」の編纂

アルフレッド大王は、当時残っていた過去の記録や文書、伝承を収集、同時代のデーン人の侵攻や情勢を加えて紀元0年からの歴史書「アングロ・サクソン年代記」の編纂を命じた。同文書はアルフレッド大王死後も書き継がれ、1154年までのブリテン諸島史を知る重要な史料となっている。

「アングロ・サクソン年代記」
「アングロ・サクソン年代記(Anglo-Saxon Chronicle)」はアルフレッド大王治世下の九世紀末、当時、残っていた古い記録や文書、民間の伝承を集め、デーン人の侵攻を中心に同時代の記録を追加されて編纂が始められた年代記形式の歴史書。後に複数の写本が作られて各地の教会や修道院でそれぞれ書き継がれ、これらの写本類をあわせると、西暦0年から1154年までの記録が残されている。複数の写本で構成さ...

アルフレッド大王の子供たち

王妃エアルフスウィスとの間に二男三女が生まれている。

  • エゼルフレード(Æthelflæd,870頃~918年)アルフレッドの第一子で長女。アルフレッド大王の信頼厚かったマーシア太守エゼルレッドと結婚。アルフレッド大王死後、夫エゼルレッドとともに弟エドワード古王を支えてデーンロウの奪還に貢献した(15アッサー(1995)243頁)。対ヴァイキング戦では自ら軍を率いて戦うこともあり、戦術家として知られる女傑(16高橋博(1993)188-189頁)。聡明で人望厚く「マーシアの貴婦人” Lady of the Mercians”」の異名を持つ。
  • エドワード古王(Edward the Elder,874頃~924年)アルフレッド大王死後王位を継いだ長子。王太子時代の893年、ファーナムの戦いでデーン人を撃破。王位継承後、デーンロウの奪還に尽力し、各地に城塞を築いて支配を固めた。
  • エゼルイヴ(Æthelgifu,生没年不詳)アルフレッドの次女。ドーセットシャーのシャフツベリー女子修道院の院長となった。病気がちでヴェイルを被っていたという(17アッサー(1995)238頁)。
  • エルフスリゥス(Ælfthryth,877-929年)アルフレッドの三女。フランドル伯ボードゥアン2世と結婚した。
  • エゼルウェアルド(Æthelweard,880年頃~920年”)アルフレッド大王の次男で末子。学問に秀でアルフレッドの宮廷学校で学んだ。

アルフレッド大王の死

戦争から内政まで精力的に活躍したアルフレッド大王だが、彼は20歳頃に発病して以来、突発的に激痛に襲われる持病を持っており、常にこの痛みや、この持病から様々な病気を発病させる恐れと闘いながら王としての務めを果たしていた。

899年10月26日(901年あるいは900年説もある)、50歳でその波乱の生涯を終え、ウィンチェスター大聖堂に安置された。王位は長子エドワードに継がれ、遺言によって子供たちに所領・財産の分与が行われた。

彼の支配した領域の広さも、その影響力も同時代のヨーロッパの君主たちの中では微々たるものであったが、勤勉さや勇敢さ、統治能力、学問への理解、行動力、倫理観など非常にバランスよく卓越した多彩な才能を持った人物であったことは間違いない。後にイングランド王となるウェセックス王家の基礎を築き、イングランド統一への道を示した。歴代イングランドの君主の中でも屈指の人気を誇り、後に「大王”The Great”」の尊称で呼ばれることになった。

「西暦879年のウェセックス王国」

「西暦879年のウェセックス王国」
© Rob, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

西暦945年のウェセックス(イングランド)王国

「西暦945年のウェセックス(イングランド)王国」
© Rob, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

参考文献

脚注

  • 1
    高橋博(1993)『アルフレッド大王―英国知識人の原像』朝日新聞出版、朝日選書、16頁
  • 2
    アッサー(1995)『アルフレッド大王伝』中央公論新社、中公文庫、63頁
  • 3
    アッサー(1995)78頁
  • 4
    アッサー(1995)75頁
  • 5
    高橋博(1993)45頁
  • 6
    高橋博(1993)59-63頁
  • 7
    アッサー(1995)97頁
  • 8
    高橋博(1993)69頁
  • 9
    アッサー(1995)330頁
  • 10
    青山吉信著「第五章 イングランド統一国家の形成」(青山吉信(1991)『世界歴史大系 イギリス史〈1〉先史~中世』山川出版社)157頁,高橋博(1993)61頁
  • 11
    青山吉信(1991)157頁,高橋博(1993)96頁
  • 12
    高橋博(1993)93-95頁
  • 13
    高橋博(1993)98頁
  • 14
    「牧者の心得」高橋博(1993)128-129頁より
  • 15
    アッサー(1995)243頁
  • 16
    高橋博(1993)188-189頁
  • 17
    アッサー(1995)238頁
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