ビーファハウツフェルツの戦い

ビーファハウツフェルツの戦いまたはベヴェルフーツヴェルドの戦い(オランダ語” Slag op het Beverhoutsveld ”,英語” Battle of Beverhoutsveld ”1“Beverhoutsveld”の日本語定訳はないので、ここではgoogle翻訳のオランダ語翻訳音声に基づいてカナ表記した。ホール、バート・S.(1999)『火器の誕生とヨーロッパの戦争』平凡社、ベネット、マシュー他(2009)『戦闘技術の歴史2 中世編』創元社ともに英語読みに近い「ベヴェルフーツヴェルド」、wikipedia日本語版の「ローゼベーケの戦い – Wikipedia」(2022年1月4日閲覧)では「ベーフェルハウツスフェルト」と表記されている)は1382年5月3日、フィリップ・ファン・アルテフェルデ率いるヘント市軍がブリュージュ(ブルッヘ)市近郊(現在のベルギー王国フランデレン地域ウェスト=フランデレン州)でフランドル伯に与するブリュージュ市軍を撃破した戦い。英仏百年戦争の最中におきたヘント反乱(Revolt of Ghent ,1379-1385)の重要な戦いで、欧州戦史上、火薬兵器が勝敗に決定的な影響を与えた最初の戦闘として知られる。

戦闘の背景「ヘント反乱」

十二~十三世紀から毛織物工業が栄えたフランドル諸都市では貿易相手としてイングランドとの関係が深まったが、百年戦争が始まると領主であるフランドル伯はフランス王に与したのに対し、諸都市は経済関係からイングランド王に接近した。1338年、ヘント市では有力商人ヤコブ・ファン・アルテフェルデが指導者となり、1340年にはイングランド王エドワード3世をヘントに迎え、エドワード3世はヘント市でフランス王を称する。しかし、1345年、アルテフェルデは暗殺され、1346年、クレシーの戦いで戦死した前伯ルイ1世(ルイ・ド・ヌヴェール)を継いだフランドル伯ルイ2世(ルイ・ド・マル)によってアルテフェルデ一族が追放され伯に対する諸都市の反抗はひとまず沈静化した。

フランドル伯ルイ2世の娘で伯位継承者であるマルグリットはブルゴーニュ公フィリップ1世・ド・ルーヴルと結婚していたが、1361年、フィリップ1世が亡くなり未亡人となると、マルグリットの再婚相手を巡ってフランスとイングランドとの間で外交戦となり、フランス王ジャン2世の末子新ブルゴーニュ公フィリップ2世との再婚が決まった。この報復としてイングランドはフランドル船の襲撃や経済封鎖などを行ったため、諸都市は再びフランドル伯と距離を置くようになり、1379年、ヘント市の勢力圏にある一帯への運河開削権が伯の支配下にあるブリュージュ市に認められたことで、ヘント市を中心とした諸都市が反乱を起こした。

フランドル伯による封鎖戦術によって苦境に立ったヘント市は、1382年1月、ヤコブ・ファン・アルテフェルデの子フィリップ・ファン・アルテフェルデを指導者に迎え、ブリュージュ市へと攻勢に出ることにした(2朝治啓三,渡辺節夫,加藤玄(2012)『中世英仏関係史 1066-1500:ノルマン征服から百年戦争終結まで』創元社208-210頁、森田安一(1998)『スイス・ベネルクス史』山川出版社、新版 世界各国史213-216頁を参照してまとめ)。

戦闘

「ビーファハウツフェルトの戦い」(フロワサール年代記、十五世紀、ベルリン州立図書館収蔵)

「ビーファハウツフェルトの戦い」(フロワサール年代記、十五世紀、ベルリン州立図書館収蔵)
Froissart, chronicles, book III, miniatuur: copy by Paul Hermans, Public domain, via Wikimedia Commons


1382年5月3日、アルテフェルデ率いるヘント軍約6000は、ブリュージュ市外に沼地(または池)を側面にしてもう一方の側面には砲車を配置し、防御陣地を築いて布陣した。

ホール(1999)によれば、この砲車は「リボーディオー(ribaudiaux)」という『鉄の帯をつけた背の高い手押車で、全面には長い鉄の大釘が何本も突きだしており、彼らがいつも押しながらいっしょに前進するもの』(3ホール(1999)87頁)で、この上に『三門か四門の小さい砲を前に向けて』(4ホール(1999)87頁)載せていた。

対するブリュージュ軍はフランドル伯自身が率いており、ヘント軍の数倍、説によっては五倍に及ぶ大軍で伯が集めた職業軍人の部隊と多数のブリュージュ市民兵で構成されていた。伯はヘント軍が補給の問題を抱えており持久戦に望む方が良いという進言に従って静観の構えだったが、昼過ぎ、血気にはやる市民兵たちはフランドル伯の命令を無視して攻勢に出た。統率の取れないブリュージュ軍に対し、ヘント軍の約200門ともいわれる火砲が集中砲火を浴びせ、続けて分遣隊の側面攻撃をくわえた。

ホール前掲書によれば『ヘント軍は「車両を動かして池を迂回したので、ブリュージュの人々は太陽が目に入るようになり、ひどく不利な状態になった。ヘント軍は『ヘント!』と叫びながらブリュージュ軍めがけて突撃した」』(5ホール(1999)87頁)と、十四世紀末頃成立したフロワサールの年代記にある。もう一度、集中砲火と別動隊の側面攻撃が繰り返されたことで、ブリュージュ市民兵は恐慌状態となって潰走し、このパニックが中核である重騎兵などから構成された職業軍人の部隊にも波及して総崩れとなり、ブリュージュ市は夜までにヘント軍の占領下に入った。大敗した指揮官フランドル伯ルイ2世は召使の姿に身をやつして市内に隠れ、翌日密かに脱出した。

意義とその後

ホール前掲書によればこの戦いは『火器が重要な役割を演じた最も初期の戦の一つとして重要である』(6ホール(1999)88頁)という。

『ルイ・ド・マルは慎重な行き方をとり、自分に損害を与えることはできそうもない軍隊を、時間、暑さ、飢えでこたえさせて負かそうとした。しかし血気にはやるブリュージュ市の市民軍が攻撃を強行し、その結果始まった退却は一挙に潰走になだれを打った。フロワサールが二〇〇両の砲運搬車と言っているのはあまり信用できないようにみえるかもしれないが、約五〇〇〇の野戦軍にとって大量の火薬兵器があったことを認めさえすれば十分である。』(7ホール(1999)88-89頁

十四世紀初頭にヨーロッパに入った火薬はすぐに兵器に転用され、1330年代に大砲が登場する。百年戦争期、1370年代から本格的に戦闘で利用されるようになるが、この時期の大砲の効果は非常に薄く、ほぼ補助兵器に留まっていた。ただし、火薬を使って打ち出される石弾には心理的効果があり、たびたび恐慌状態に陥っていた記録が残る。その火薬兵器が戦況を左右した最初の戦いであり、防御的陣形で集中的に運用することで効果を発揮するという火薬兵器の特徴が見出された点で戦史上の画期となった戦いであった。

敗北したフランドル伯はフランス王に助けを求め、1382年11月27日、フランス軍主力とヘント軍が戦ったローゼベーケの戦いでは、アルテフェルデは再び密集隊形で側面からの大砲による集中砲火を浴びせ別動隊で攪乱する計画を立てたが、フランス軍騎兵の機動力を恐れたヘント軍の部隊長たちは前進しての先制攻撃を求め、アルテフェルデもこの声に押されて部隊をより前面に動かすことになった。しかし、大砲はそう簡単に動かせないため、密集陣形の前進に大砲・火器の移動が追いつけなくなる。このヘント軍の状況を把握したフランス軍指揮官オリヴィエ・ド・クリッソン大元帥は騎兵を下馬させ、攻撃力の高い歩兵による波状攻撃で翻弄、ヘント軍は敗走しアルテフェルデ自身も戦死した。

両戦闘は防御的態勢での集中運用で補助的な効果を発揮する反面、技術的限界から攻撃力・機動力に欠け臨機応変な対応が出来ないという当時の大砲・火薬兵器の特徴をよく表す事例となった。

参考文献

脚注

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