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エディントンの戦い(878年)

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エディントンの戦い(Battle of Edington)またはエサンダンの戦い(Battle of Ethandun or Eðandun)は、878年5月上旬、アルフレッド大王が率いるウェセックス王国軍が、「大軍勢(または大異教徒軍)」の名で知られたヴァイキング連合軍に勝利した戦い。戦後、ウェセックス王国とヴァイキング勢力の指導者グスルムとの間で休戦と両国間の領土が画定され、イングランドはアングロ・サクソン人とデーン人の領土に二分されていくこととなった。

「エディントンの戦い(エサンドンの戦い)の記念碑」

「エディントンの戦い(エサンドンの戦い)の記念碑」
Photo © Phil Williams (cc-by-sa/2.0)
https://www.geograph.org.uk/photo/367815

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ヴァイキングの脅威

八世紀末から始まるヴァイキングの活動は九世紀半ばから本格化した。850年代までは個々の集団がブリテン諸島から大陸沿岸にかけて襲撃や略奪を行っていたが、865年、ヴァイキング勢力はグスルム、バッグセッジ、骨なしイーヴァル、ハーフダン・ラグナルソンら複数のデーン人指導者からなる連合を組み、一つの大規模な集団、通称「大軍勢1“The Great Army”古英語”micel here”/または大異教徒軍”The Great Heathen Army”古英語”mycel hæþen here”)」として活動を開始する。ノーサンブリア王国イースト・アングリア王国が「大軍勢」の前に相次いで滅亡し、871年はアッシュダウンの戦いを始めとするウェセックス王国とヴァイキング勢力の激しい戦いが一年を通して繰り返された後、五年間の休戦協定が結ばれた。

874年、マーシア王ブルグレッドがヴィキングの攻勢によってローマへ亡命し、875年、大軍勢は二つの勢力に別れて一方は871年の対ウェセックス戦争を指揮したハーフダン・ラグナルソン指揮下でノーサンブリア方面へ移動して北部の支配体制を強化し、もう一つのヴァイキング軍はグスルムという名のデーン人が指導者となってマーシア王国へ侵攻、傀儡王を立ててマーシア王国の半分を事実上支配下に置いた。同年、ウェセックス王国軍がヴァイキングの補給艦隊を襲撃、876年、エクセターの戦いでウェセックス王国とデーン軍は休戦条約を締結する。

戦闘

「アルフレッド大王像」(ウィンチェスター市、Sir William Hamo Thornycroft製作、1899年)

「アルフレッド大王像」(ウィンチェスター市、Sir William Hamo Thornycroft製作、1899年)
© Odejea, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

878年1月、休戦期間の終了とともにグスルム率いる「大軍勢」がウィルトシャー北部チッペナムのウェセックス王領に侵攻して占領下に置き、ここを拠点としてウェセックス王国の征服に乗り出した。危機に瀕したアルフレッド大王は一時サマーセットの沼沢地であるアセルニーに避難を余儀なくされた。ヴァイキングがウェセックス王国内の支配領域を広げる間、アルフレッド大王は窮乏生活を余儀なくされながらも同地に要塞を築いて態勢の立て直しに尽力、5月初め頃(2復活祭の日(3月23日)の七週間後)、反撃のためアセルニーを出てセルウッドの森と呼ばれる森林地帯の東にあった「エグバートの石(Ecgbryhtesstan)」と呼ばれる場所で軍の徴募と編成に乗り出し、翌日アイリー・オーク(Iley Oak)という場所へ出て、二日にはエサンダン(Ethandun/Eðandun)と呼ばれる地へ進軍する。ここでグスルム率いる「大軍勢」と戦いが繰り広げられることになった。

アルフレッド王の生涯」で”Ethandun”、「アングロ・サクソン年代記」でEðandunと表記される戦地エサンダンがどこであったかについて、諸説あるが現在ではウィルトシャーのウエストベリー近郊にあるエディントン村が通説となっている。十六世紀後半の歴史家ウィリアム・キャムデンに始まるエサンダン=ウィルトシャーのエディントン説は確固とした裏付けがあるわけではなく推測の域を出ないものの、周辺の地形が史料上の記述とよく一致することや、エディントンがアルフレッド時代以降ウェセックス王家と縁が深いことなどの点で二十世紀初頭までに支持が広がり通説として定着した。エサンダンの戦いと呼ぶべきとする意見も根強いが、エディントンの戦いと書かれることがほとんどである。他の候補地としてはバークシャーのエディントンやサマーセットのエディントンなど(3アッサー/小田卓爾訳(1995)『アルフレッド大王伝』中央公論新社、中公文庫、246-247頁/リーズ、B.A./高橋博 訳(1985)『アルフレッド大王 イギリスを創った男』開文社出版、146-147頁/また、Talk:Battle of Edington – Wikipediaの”Requested move to Battle of Edington”以下の議論スレッドも参照した。)。

ウィルトシャーのエディントンに比定しての戦闘の過程について、アルフレッド大王はグスルムら「大軍勢」主力が占領下に置いた王領チッペナム奪還に向けてサマーセット州にあったアセルニーを出て現在のサマーセット州、ドーセット州、ウィルトシャー州の境界付近に沿って北上、ソールズベリー平原を東に見ながらウォーミンスターからチッペナム方面へ向かったとみられる(4小田卓爾(1995)190、246-247頁/リーズ、B.A.(1985)146-147頁)。ウェセックス軍の動きを捕捉したグスルムは軍をわざわざチッペナムに呼び寄せるのではなく、行軍途上のウェセックス軍を討つため自らも出撃してエディントン付近に集結、北上してきたウェセックス軍と会戦した(5小田卓爾(1995)247頁)。戦闘は二段階あり、まず丘陵地での野戦があり、この野戦はウェセックス軍の圧勝に終わった。続けて敗走し城塞に逃げ込んだヴァイキング軍に対して攻城戦が行われ、二週間の包囲の末に兵糧が尽きたグスルムら「大軍勢」は降伏を申し出た。

ウェドモア条約とデーンローの成立

降伏したグスルムらは多数の人質をウェセックス王国に差し出した上で、ウェセックス王国領からの撤退と指導者グスルムがアルフレッド大王によってキリスト教へ改宗することを約束した。三週間後、グスルムは三〇人の家臣を引き連れてアセルニー近郊のアラーという場所でアルフレッド大王に謁見、洗礼を受け、八日目にウェドモアに移り、計十二日間滞在したあと、ウェセックス王国を去った。彼らは880年まで現在のグロスターシャーの都市サイレンセスターに逗留してから、ヴァイキングの領土となっているイースト・アングリアまで退いた。

同時期、イングランドを席巻していた「大軍勢」はほぼ壊滅しつつあった。877年、有力な指導者であったハーフダン・ラグナルソンがアイルランドで戦死(ストラングフォード湖の戦い)し、878年、ハーフダン・ラグナルソンの兄弟らが率いる部隊がデヴォン州北部でウェセックス王国に臣従する現地の領主らによって討伐され、アッサーによればこのとき1200名の死者が出たという。「大軍勢」の残存勢力は880年以降矛先を大陸に向けてイングランドを去り、その後もヴァイキングの脅威は小規模な戦闘にとどまり暫定的に平和が訪れた。

以後、886年から890年までの間の時期に、アルフレッド大王とグスルムとの間でウェセックス王国とデーン人の領土の境界を画定し、平和貿易や人命金などを定める協定が結ばれた。厳密には878年の休戦協定をウェドモア条約、文書化されたこの条約をアルフレッド=グスルム条約となるが、一般的には両方をまとめてウェドモア条約と呼ばれている。のちにイングランドはウェセックス王国とデーン人の領土「デーンロー」に二分されていった。以後、ウェセックス王国は制服戦争を優位に進め、927年、アルフレッド大王の孫アゼルスタン王が旧ノーサンブリア王国南部を勢力下とするデーン人王国(ヨールヴィーク)を滅ぼし、全イングランドの統一に成功、イングランド王国が誕生した。

「九世紀末、デーンロー成立時のイングランド」

「九世紀末、デーンロー成立時のイングランド」
Credit: Hel-hama, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

西暦945年のイングランド王国

西暦945年のイングランド王国
© Rob, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

参考文献

脚注

  • 1
    “The Great Army”古英語”micel here”/または大異教徒軍”The Great Heathen Army”古英語”mycel hæþen here”
  • 2
    復活祭の日(3月23日)の七週間後
  • 3
    アッサー/小田卓爾訳(1995)『アルフレッド大王伝』中央公論新社、中公文庫、246-247頁/リーズ、B.A./高橋博 訳(1985)『アルフレッド大王 イギリスを創った男』開文社出版、146-147頁/また、Talk:Battle of Edington – Wikipediaの”Requested move to Battle of Edington”以下の議論スレッドも参照した。
  • 4
    小田卓爾(1995)190、246-247頁/リーズ、B.A.(1985)146-147頁
  • 5
    小田卓爾(1995)247頁