エレンダンの戦い(825年)

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エレンダンの戦い(Battle of Ellendun)またはエランドン/エランダンの戦い(Battle of Ellandun)は、825年、ウェセックス王国マーシア王国の間で行われた戦い。ウェセックス王国の勝利に終わり、ブリテン島南部のアングロ・サクソン諸王国に対するマーシア王国の覇権を終わらせてウェセックス王国の優位を確立した。このあとマーシア王国を占領したウェセックス王エグバートブレトワルダの一人に数えられ、ウェセックス王国による全イングランド統一へ向けた覇権確立の第一歩となった。

「エレンダンの戦い」( Hutchinson, Walter, ."Story of the British nations, a glorious and vivid panorama of the mightiest empire in history" )
Credit: G. D. Rowlandson, Public domain, via Wikimedia Commons

「エレンダンの戦い」( Hutchinson, Walter, .”Story of the British nations, a glorious and vivid panorama of the mightiest empire in history” )
Credit: G. D. Rowlandson, Public domain, via Wikimedia Commons

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背景

757年、マーシア王となったオファ王(在位757-796年)は征服活動を推進、8世紀から9世紀初頭にかけてマーシア王国はブリテン島南部諸王国に対し覇権を確立し、ときに上級権力として君臨し、ときに直接統治を行うなど柔軟な支配を行った。ウェセックス王国マーシア王国の勢力拡大に対抗して独立を守っていたが、786年、キネウルフ王(在位757-786年)が王族によって暗殺されると、オファ王の娘を妻として支援を受けるベオルフトリクと、ウェセックス王家の血を引くケント王国の王子エグバートとの間で後継者を巡って争いが起こり、オファ王の支援を受けるベオルフトリクが即位(在位786-802年)、ついにマーシア王国に従属した。

ウェセックス王国の王位争いに敗れたエグバートはオファ王の脅威から逃れてフランク王国に亡命し、オファ王死後ブリテン島へ帰還、802年、ルフトリク王死後ウェセックス王に即位する(在位786-802年)。一方マーシア王国ではオファ王死後傍流のコエンウルフ王(Coenwulf,在位796-821年)が即位して、両国間では小規模な戦闘にとどまり大きな戦いは起きていない。この間、ウェセックス王エグバートはコーンウォール地方へ侵攻して勢力を拡大するなど国力の強化に努めていた。

823年、マーシア王コエンウルフの後を継いだ兄弟チェオルウルフ(在位821-823年)を追放したベオルンウルフ(在位823-826年)がマーシア王に即位した。べオルンウルフは出自が不明で、前王をクーデターによって追放して即位した背景などから、国内の権力基盤が脆弱であったと考えられている。

戦い

マーシアとウェセックスのどちらが戦端を開いたか、史料からは明らかでないが、825年、まずコーンウォール地方のガルフォードでブリトン人の反抗があり、続いてエグバート王率いるウェセックス王国軍とべオルンウルフ王率いるマーシア王国軍がエレンダンという場所で激しい戦いになった。戦場がどこであったかは不明だが、現在のイングランド南部ウィルトシャー州スウィンドン近郊のロートン(Wroughton)であったとする説が通説となっている。

『この年に、ガルフォードでウェールズ人たちとデヴォンの人々との戦いがあった。その同じ年に、ウェセックス王エグバートとマーシア王べオルンウルフがエレンダンで戦い、エグバートが勝ったが、そこでは、大量殺戮が行われた。その後、彼は、その軍勢の中から息子エゼルウルフ、彼に仕える司教エアルフスタンおよび太守ウルフヘアルドを、大部隊とともに、ケントに送った。彼らはケント王バルドレッドを、テムズ川を越えた北方に追放した。ケント人たちは屈服した。サリー、サセックス、およびエセックスの人々も服従した。なぜなら、彼らは、王の同族の者たちから、それまで不当にもひき離されていたからである。また、同じ年に、イースト・アングリア王とその人民は、王エグバートに対して、マーシアの脅威から彼らを守る保護者、守護者となることを求めた。そして、その同じ年に、イースト・アングリア人が、マーシア王べオルンウルフを殺した。』(1大沢一雄(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社、75頁より一部改変の上引用

エレンダンの戦いでマーシア軍に大勝したエグバート王は王子エゼルウルフを指揮官とした部隊をケント王国に派遣、ケント王国を始めとしてエセックス、サリー、サセックスなどこれまでマーシア王国に服従していたイングランド南部諸国をウェセックス王国の支配下とし、イースト・アングリア王国を支援、べオルンウルフ王はイースト・アングリア軍によって殺害された。

影響

この戦いの結果、イングランドの殆どを支配下においていたマーシア王国に替わってウェセックス王国が覇権を確立する。イングランド南部は完全にウェセックス王国の支配下となり、829年にはウェセックス王国がマーシア王国に侵攻、マーシア王ウィラフ(在位827–829年/830-839年)は追放されてマーシア王国ウェセックス王国に占領された。このときを持って「アングロ・サクソン年代記」はエグバートブレトワルダとなったとする。830年にウィラフ王が復権してマーシア王国は復活するものの、以後、ブリテン島中部・南部におけるウェセックス王国の優位は揺るがないものとなる。

九世紀半ばから本格化するヴァイキングの侵攻に対し、アングロ・サクソン諸王国はウェセックス王国を中心にまとまり、ヴァイキング勢力とウェセックス王国とが勢力を二分する時代を経て、927年、ウェセックス王アゼルスタンによって全イングランドの統一が達成され、イングランド王国が誕生することとなった。

参考文献

脚注