「バイユーのタペストリー」

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「バイユーのタペストリー(英語 “Bayeux Tapestry”,仏語 “Tapisserie de Bayeux” 」は1066年10月14日、ノルマンディー公 ギヨーム2世(のちのイングランド王ウィリアム1世)とイングランド王ハロルド2世(ハロルド・ゴドウィンソン)とが戦ったヘースティングズの戦いの様子を描いた、長さ68.58メートル、幅45.7センチメートルから53.6センチメートルのリネン生地に刺繍された刺繍絵である。

フランス・ノルマンディ地方の都市バイユーに保管されていたことから、「バイユーのタペストリー」と呼ばれる。なお、綴織(tapestry)ではなく刺繍作品だが、十八世紀以降、歴史史料として認識されていく過程で慣例的にと呼ばれてきたものである。(1鶴島博和(2015)『バイユーの綴織(タペストリ)を読む―中世のイングランドと環海峡世界』山川出版社,5頁


The Bayeux Tapestry – Seven Ages of Britain – BBC One

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バイユー司教オド

製作を指示した人物として、かつてはウィリアム1世妃マティルダが有力視されていたが、現在はバイユー司教オドによるものとするのが定説となっている。バイユー司教オドはウィリアム1世の異父弟で1030年頃生まれ、1049~50年頃ノルマンディー公領統治の安定化のためバイユー司教に任じられた。イングランド征服後、ドーヴァー城主をはじめイングランドで王に次ぐ所領を治め、王不在時のイングランド摂政と目される政権のナンバー2となった。1082年に失脚してルーアンに幽閉され、兄王の死後、長子ノルマンディー公ロベールと次子イングランド王ウィリアム2世との後継争いではノルマンディー公側について敗北、所領を全て没収され、1097年、亡くなった。(2鶴島博和(2015)193-4頁)

製作時期は1070年代、鶴島は製作場所としてケントのセント・オーガスティン修道院、製作責任者として同修道院長のスコランドを挙げている。(3鶴島博和(2015)194頁)

描かれている内容

バイユーのタペストリーでのヘースティングズの戦いの様子(Bayeux Tapestry - Scene 52, Public domain, via Wikimedia Commons)

バイユーのタペストリーでのヘースティングズの戦いの様子(Bayeux Tapestry – Scene 52, Public domain, via Wikimedia Commons)

前述の通り「バイユーのタペストリー」は、長さ68.58メートル、幅45.7センチメートルから53.6センチメートルのリネン生地に刺繍された刺繍絵で、9枚の布地を継ぎ合わせて作られ、「10色の毛糸で刺繍され、625の人と190の馬、35の犬、想像上のものも含めた506の生物、37の船、33の建築物と37の木あるいは林」(4鶴島博和(2015)5頁)が描かれている。場面ごとにラテン語の銘文が縫い付けられ、後世、その銘文にあわせて1~58まで番号が振られた布が縫い付けられた(5鶴島博和(2015)15頁

タペストリーはウェセックス朝最後の王エドワード証聖王ハロルド・ゴドウィンソンとの会談に始まり、ポンテュー伯ギーに囚われるハロルド、ノルマンディー公ギヨームウィリアム1世)のブルターニュ遠征、ノルマンディー公の許に送られ臣従を宣誓して解放されるハロルドエドワード証聖王の死とハロルドの即位、ハレー彗星の目撃、ノルマンディー公のイングランド遠征、ヘースティングズ城の築城、ヘースティングズの戦いなどが描かれている。最後はイングランド軍の敗走で終わっており、続きが存在していたと考えられている。

バイユーのタペストリーで有名なハレー彗星の登場シーンは第32番のシーン。同時代史料の「アングロ・サクソン年代記」(九世紀後半~1154年)によると1066年4月24日に彗星が現れ一週間輝いていたという。(6鶴島博和(2015)92頁、94頁)また、同時代の目撃証言として中国では1066年4月2日から6月7日まで「北の空に明るく見えた」との記録があり、日本でも治暦二年(1066年)三月六日(4月3日)の扶桑略記に「暁彗星東方見」との記録があるという(7鶴島博和(2015)271頁

バイユーのタペストリーでハレー彗星を見上げる男たちの様子(Bayeux Tapestry - Scene 32, Public domain, via Wikimedia Commons)

バイユーのタペストリーでハレー彗星を見上げる男たちの様子(Bayeux Tapestry – Scene 32, Public domain, via Wikimedia Commons)

製作から現在まで

1070年代に製作された「バイユーのタペストリー」の変遷について、次に史料上登場するのは1476年のバイユーの司教座教会の財産目録での記録で、十七世紀初頭には一部の写しが作成され1730年には銅版画が作成されている。またこの頃、毎年六月末から七月にかけてバイユーで開催される聖ヨハネの祭りではバイユーの大聖堂の外壁に飾られるのが常となっていた。この銅版画の作成によって広く知られるようになり、修復作業も行われ始め、この修復作業とあわせて場面ごとの番号が振られたと考えられている。

フランス革命後の戦時体制下でタペストリーは荷馬車の覆いにするため裁断されそうになったが、1794年には逆に国威発揚のシンボルと捉えられるようになり、ナポレオン即位後にはナポレオンによって保護された。その後歴史家によるタペストリー研究が進められた。第二次大戦がはじまるとナチス・ドイツにとってタペストリーはゲルマン精神の表象と捉えられるようになり、各地を転々としたあとドイツに持ち去られる直前の1945年3月、バイユーに帰還した。(8鶴島博和(2015)200-202頁

リンク

参考書籍

脚注