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カトゥウェッラウニ族

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カトゥウェッラウニ族(Catuvellauni)はローマ帝国によるブリテン島征服時(西暦43年)に抵抗した部族連合の中心となった部族。紀元前一世紀後半頃から、テムズ川以北、現在のハートフォードシャー州周辺に勢力を持ち、クノベリヌス王(在位:西暦9年頃-40年頃)のころに周辺に支配を拡大して強勢を誇った。最後の王カラタクス(在位:43年頃-50年頃)はローマ軍の侵攻後、各地でゲリラ戦を展開し激しく抵抗した。

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名前について

カトゥウェッラウニの部族名はガリア語で「War-Chiefs(戦争指導者)」を意味し、ローマ時代、同様の意味をもつフランス・シャンパーニュ地方にいたベルガエ人部族カタラウニ族との関係がある可能性が指摘されている(1Schön, Franz (2006). “Catalauni“. Brill’s New Pauly.)が、はっきりとしない。

カトゥウェッラウニの名はプトレマイオスの二世紀の著作「地理学」第二巻二章に初めて登場し、ハートフォードシャー、ベッドフォードシャー、ケンブリッジシャー南部にかけて支配地域が示されている(2Ptolemy’s Geography at LacusCurtius Book 2-2)。カッシウス・ディオが著した三世紀前半の歴史書「ローマ史」によれば西暦43年、クラウディウス帝の命でローマ軍四万がブリテン島へ侵攻、すでに故人となっていたクノベリヌスの子トゴドゥムスとカラタクスを破りカトゥウェッラウニ族の支配下にあったドブンニ族(3Dobunni , 「ローマ史」ではBodunniの綴り)の領土を征服したという(4Dio Cassius, Roman History,Book 60:20.1-2)。

「ローマ支配以前のブリテン島南部諸部族勢力地図」

「ローマ支配以前のブリテン島南部諸部族勢力地図」
Yorkshirian , CC BY-SA 4.0 ,via Wikimedia Commons

紀元前のカトゥウェッラウニ族

「セント・オールバンズ市で発見されたBC20-10年頃のタスキオウァヌス王の金貨」(1919年発見)

「セント・オールバンズ市で発見されたBC20-10年頃のタスキオウァヌス王の金貨」(1919年発見)
Credit:© The Trustees of the British Museum ,Museum number 1919,0213.452, Creative Commons Attribution-NonCommercial-ShareAlike 4.0 International (CC BY-NC-SA 4.0) .

ローマ侵攻以前のカトゥウェッラウニ族に関する歴史は発掘された多くの貨幣によって辿ることが出来る。タスキオウァヌスは、紀元前20年ごろウェルラミオンで貨幣を発行したカトゥウェッラウニ族の王である。ウェルラミオンを中心として周辺を支配し、紀元前15年から紀元前10年の短い間だけ隣接するトリノウァンテス族の首邑であったカムロドゥノン(5ローマ時代の属州首都カムロドゥヌム、のちのコルチェスター市)で貨幣を発行していることから勢力を拡大したが、その後はクノベリヌスの代まで貨幣の発行はウェルラミオンに限られることから征服は長く続かなかったとみられている(6ローマ帝国からの圧力で支配継続を断念したともいわれている(Penman, Giles (2021). “The Catuvellauni before Rome“. University of Warwick.)。)。

このタスキオウァヌスの先代王とみられているのがカエサルの「ガリア戦記」に登場するカッシウェッラウヌスである。彼はユリウス・カエサルによる第二次ブリテン島侵攻(紀元前54年)でブリトン人諸部族をまとめあげて抵抗戦争を指揮したブリトン人指導者である。「ガリア戦記」には彼の部族名は明記されていないが、テムズ川以北を領土としていたとあり(7「ガリア戦記」5-11.講談社(1994)163頁)、これがカトゥウェッラウニ族の版図に相当することから、カトゥウェッラウニ族の王であった可能性が高いと考えられている。

ユリウス・カエサルのブリタニア侵攻(前55-前54年)
紀元前55年と翌54年、二度に渡ってブリテン島へ侵攻したユリウス・カエサル率いるローマ軍と現地のブリトン人部族連合とのあいだで起きた戦争のこと。 背景 紀元前58年、属州ガリア・キサルピナと属州ガリア・トランサルピナ(後のガリア・ナルボネンシス)のプロコンスル指揮権を獲得したユリウス・カエサルは、ケルト系のヘルウェティイ族が移住のためローマ属州を通過する許可を求めてきたことを口実として、ガリア地方...

クノベリヌス王時代

クノベリヌス
クノベリヌス(ラテン語"Cunobelinus",西暦40年頃没)は一世紀前半、ブリテン島南東部の広い地域を支配したカトゥウェッラウニ族の王(在位:西暦9年頃-40年頃)。ローマ帝国の歴史家スエトニウスは「ブリトン人の王」と呼んだ()。ウィリアム・シェイクスピアの戯曲「シンベリン」の主要登場人物シンベリン王のモデルとされた人物である。 カトゥウェッラウニ族 カトゥウェッラウニ族はテムズ川以北、現在...

タスキオウァヌス王の子がクノベリヌス王である。ウェルラミオンとカムロドゥノンの両方で貨幣を発行し、刻銘からカムロドゥノンへ都を移したこと、タスキオウァヌスの息子であることが明らかとなっている。クノベリヌス王はアトレバテス族を征服し、自身の子アドミニウスをカンティアキ(現在のケント地方)の王に据えるなど西暦9年頃から40年頃まで約30年に及ぶ長い治世の間にブリテン島南東部にかけての広い一帯に支配を広げ、歴史家スエトニウスは「ブリトン人の王」と呼んだ(8Suetonius, Lives of the Twelve Caesars: Caligula 44-2)。ウィリアム・シェイクスピアの戯曲「シンベリン」の主人公シンベリン王のモデルとして知られている。

クノベリヌスはビールを象徴する大麦を貨幣に彫り(9ポターによれば『これはプロパガンダの一つと解釈されるだろう。つまり、ブリテン島のビールの品質と、それを飲むことの政治的な「正しさ」を擁護しているのである』(ポター、ティモシー・ウィリアム「第一章 ブリテン島の変容――カエサルの遠征からボウディッカの反乱まで」(サルウェイ、ピーター(2011)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(1) ローマ帝国時代のブリテン島』慶應義塾大学出版会、29頁)という)、ラテン語の王を意味するREXを称してもいて、ローマを意識した統治をしていたとみられている(10ポター(2011)29頁)。クノベリヌス王時代に本拠地となったカムロドゥノン周辺からは「鎖帷子、鉄で覆われた胸当て、輸入された青銅製品、ブドウ酒や油を入れるイタリア製アンフォラが一五点、アウグストゥス帝をかたどった銀のメダル(前一七年のものと年代推定されている)」(11ポター(2011)30頁)などが見つかっており、大陸との密接な交流がうかがえる。また前一世紀から後一世紀にかけてのブリテン島南東部の特徴として、ワインや豚肉など地中海地域の食文化も好まれ(12ポター(2011)31頁)、発見された墓の埋葬形式も大陸との共通点が多い(13ポター(2011)32頁)。

「コルチェスター市で発見されたAD10-40年頃のクノベリヌス王の金貨」(1855年発見)

「コルチェスター市で発見されたAD10-40年頃のクノベリヌス王の金貨」(1855年発見)
Credit:© The Trustees of the British Museum ,Museum number 1855,0820.1, Creative Commons Attribution-NonCommercial-ShareAlike 4.0 International (CC BY-NC-SA 4.0) .

ローマ帝国の侵攻

クラウディウス帝のブリタニア侵攻(43年)
「クラウディウス帝のブリタニア侵攻(Claudian invasion of Britain)」は西暦43年、クラウディウス帝の命でアウルス・プラウティウス率いるローマ帝国軍がブリテン島へ侵攻、現地のブリトン人部族と交戦して服従させた戦争のこと。後にクラウディウス帝自ら親征し、ブリテン島南部をローマ帝国の属州とした。以後、属州の支配地域は拡大し、五世紀初頭(409-410年頃)にローマ帝国軍が撤退...

「玉座のクラウディウス帝に語り掛けるカラタクス」(1800年頃、作者不明)
Credit:© The Trustees of the British Museum ,Museum number 1871,1209.5276, Creative Commons Attribution-NonCommercial-ShareAlike 4.0 International (CC BY-NC-SA 4.0) .

スエトニウスによると、西暦40年頃、アドミニウスが父クノベリヌスによって追放され、ローマへ亡命、カリグラ帝に助けを求めた(14Suetonius, Lives of the Twelve Caesars: Caligula 44-2)。カリグラ帝はブリテン島への侵攻を企図したが実現しなかった。西暦40年頃、クノベリヌス王が亡くなり息子のトゴドゥムスが王位を継ぎ、トゴドゥムスの兄弟カラタクスアトレバテス族の再征服を実施した。41~42年頃、アトレバテス族の王ウェリカはローマへ逃れてクラウディウス帝に助けを求め、これが引き金となってクラウディウス帝はブリテン島への侵攻を命じる。

トゴドゥムスとカラタクスの兄弟は侵攻してきたローマ軍四万を迎え撃つがメドウェイ河畔の戦いとテムズ河畔の戦いで相次いで敗北し、後者の戦いでトゴドゥムスも戦死しカトゥウェッラウニ族の領土はローマ軍によって征服された。クラウディウス帝の親征を待ってカムロドゥノンも攻略され、ブリトン人諸部族の王十一名がカムロドゥノンを訪れてクラウディウス帝の前で降伏した。カムロドゥノンはカムロドゥヌムと名を変えて第二十軍団ウァレリア・ウィクトリクスの駐留基地となり、後に凱旋門とクラウディウス帝を祀った神殿が築かれ、ローマ属州ブリタンニアの首都としてローマ帝国によるブリテン島支配の中核都市となった。

カラタクスは西暦50年頃まで各地を転戦してゲリラ戦を展開しローマ支配に抵抗をつづけたが、西暦50年、ウェールズ地方のシルレス族とオルドウィケス族を束ねて反乱を起こし、ローマ総督オストリウス・スカプラ率いるローマ軍とオルドウィケス領のどこかで決戦に及んだが敗北、ブリガンテス族の領土へと逃げ込み、ブリガンテス族の女王カルティマンドゥアに捕らえられてローマへ引き渡された。

タキトゥスの「年代記」によるとローマ市へ連行されたカラタクスはクラウディウス帝の前に引っ立てられてきたが、多くの民衆が見守る中で堂々とした振る舞いで演説を行い、クラウディウス帝も感心して恩赦を与えたという(15Tacitus, Annals 12:37-38(タキトゥス(1981)『年代記(下) ティベリウス帝からネロ帝へ』岩波書店、岩波文庫、84-85頁))。また、カッシウス・ディオによれば、ローマの街をみたカラタクスは「これほど多くの富があるにもかかわらず、なぜ私たちの粗末な小屋まで欲しがるというのか」(16Dio Cassius, Roman History,Book 61:33. 日本語訳はポター(2011)43頁)と述べたという。カラタクスはその後ローマで生涯を終えたと言われ、カトゥウェッラウニ族の歴史も終わりを迎えた。

その後、属州の首都カムロドゥヌムとなった旧カムロドゥノンとともにカトゥウェッラウニ族のかつての首邑ウェルラミオンもウェルラミウムと名を変え、自治市(ムニキビウム)の地位を獲得して属州の有力都市の一つとして繁栄し、五世紀にローマン・ブリテン時代が終焉を迎えた後、カムロドゥヌムは現在のコルチェスター市へ、ウェルラミウムは現在のセント・オールバンズ市へと発展を遂げた。

参考文献

脚注

  • 1
    Schön, Franz (2006). “Catalauni“. Brill’s New Pauly.
  • 2
    Ptolemy’s Geography at LacusCurtius Book 2-2
  • 3
    Dobunni , 「ローマ史」ではBodunniの綴り
  • 4
    Dio Cassius, Roman History,Book 60:20.1-2
  • 5
    ローマ時代の属州首都カムロドゥヌム、のちのコルチェスター市
  • 6
    ローマ帝国からの圧力で支配継続を断念したともいわれている(Penman, Giles (2021). “The Catuvellauni before Rome“. University of Warwick.)。
  • 7
    「ガリア戦記」5-11.講談社(1994)163頁
  • 8
    Suetonius, Lives of the Twelve Caesars: Caligula 44-2
  • 9
    ポターによれば『これはプロパガンダの一つと解釈されるだろう。つまり、ブリテン島のビールの品質と、それを飲むことの政治的な「正しさ」を擁護しているのである』(ポター、ティモシー・ウィリアム「第一章 ブリテン島の変容――カエサルの遠征からボウディッカの反乱まで」(サルウェイ、ピーター(2011)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(1) ローマ帝国時代のブリテン島』慶應義塾大学出版会、29頁)という
  • 10
    ポター(2011)29頁
  • 11
    ポター(2011)30頁
  • 12
    ポター(2011)31頁
  • 13
    ポター(2011)32頁
  • 14
    Suetonius, Lives of the Twelve Caesars: Caligula 44-2
  • 15
    Tacitus, Annals 12:37-38(タキトゥス(1981)『年代記(下) ティベリウス帝からネロ帝へ』岩波書店、岩波文庫、84-85頁)
  • 16
    Dio Cassius, Roman History,Book 61:33. 日本語訳はポター(2011)43頁
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