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チェアディッチ(ウェセックス王)

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チェアディッチ(Cerdic)は六世紀頃にブリテン島で活動していた人物。同時代史料がなく九世紀末以降の文献にしか登場しないため実在していたか否かはっきりしないが、のちにイングランド王国へ発展するウェセックス王国の建国者とされる。歴代のウェセックス王・イングランド王は彼の末裔であると主張した。

「チェアディッチの肖像画」(ジョン・スピード、1611年、ケンブリッジ大学図書館収蔵)

「チェアディッチの肖像画」(ジョン・スピード、1611年、ケンブリッジ大学図書館収蔵)
Credit: John Speed, ‘The Theatre of the Empire of Great Britaine’, Cambridge University Library,. Public domain, via Wikimedia Commons

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「アングロ・サクソン年代記」の記述

九世紀後半にウェセックス王アルフレッドの命で編纂が開始された「アングロ・サクソン年代記」によれば、西暦495年、チェアディッチとその息子キンリッチ1アルフレッド王に仕えた修道士アッサーが著した「アルフレッド王の生涯」(893年頃)に書かれている王家の系譜ではキンリッチはチェアディッチの息子クレオダの子、すなわちチェアディッチの孫であるとしている(アッサー(1995)『アルフレッド大王伝』中央公論新社、中公文庫、61-62頁))が五隻の船団を率いて現在のハンプシャー州南部に上陸したという。508年、二人は軍を率いて現在のハンプシャー州サウサンプトンの西ネットリー・マーシュでブリトン人の王ナタンレオドとその配下5000人を殺害、519年、ウェセックス王国を建国してチェアディッチが初代の王となったとされている。527年、ミドランズ西部ウスターシャー州チャーフォードまで遠征してブリトン人と戦い、530年、ワイト島を征服、534年、チェアディッチは死去し、キンリッチが王位を継いだという。複数の文献で伝えられる系譜によれば、チェアディッチの父の名はエレサ(Cerdic)、北欧神話の主神ウォーデン(オーディン)の末裔であるとされている。

以下「アングロ・サクソン年代記」の該当する記述部分

四九五年。この年に、二人の王侯(two ealdormen)チェアディッチ(Cerdic)とその息子キンリッチ(Cynric)が、五隻の船を率いて、ブリテンのチェディッチゾラ(Cerdics-ore)というところに来て、来たその日に、ウェールズ人と戦った。

五〇八年。この年に、チェアディッチとキンリッチが、ナタンレオド(Natan-leod)という名のブリトン人の王を殺した。また、王ととともに五千人の人々を殺した。その地方は、その後、チェアディッチスフォルド(Cerdicsford)まで、ナタンレア(Natan-lea)と名付けられた。

五一九年。この年に、チェアディッチとキンリッチが、王国を継承した。同じ年に、彼らは、現在チェアディッチスフォルド(Cerdicsford)と呼ばれているところで、ブリトン人と戦った。そして、その日以来、ウェスト・サクソン族の王の子孫が統治して来た。

五二七年。この年に、チェアディッチとキンリッチは、チェアディッチスレア(Cerdic’s-lea)というところで、ブリトン人と戦った。

五三〇年。この年に、チェアディッチとキンリッチは、ワイト島を占領し、ウィフトガラスビルグ(Whit-garas-byrg)で、数人の人を殺した。

五三四年。この年に、チェアディッチが死んだ。そして、息子のキンリッチが、二十六年間続けて統治した。彼らは、二人のおい、ストフ(Stuf)とウィフトガル(Wihtgar)にワイト島を与えた。(2大沢一雄(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社、28-29頁より一部改変の上引用。英語部分は GILES, J.A. (1914).’THE ANGLO-SAXON CHRONICLE.‘,G. BELL AND SONS, LTD.参照の上で補足

チェアディッチの歴史性

このような「アングロ・サクソン年代記」の記述は三世紀以上後に書かれたもので記述を裏付ける他の同時代史料が無く、それぞれの事件の年代も疑問視されており、信憑性は低い。従来、ウェセックス王国は「アングロ・サクソン年代記」の記述を踏まえてチェアディッチらが征服し後に王国の首都が置かれたハンプシャー州ウィンチェスター周辺に六世紀前半頃誕生したと見られていたが、近年のアングロ・サクソン系墓地の発掘・分析を中心とした考古学的な調査結果では、六世紀後半から七世紀前半にかけて、より内陸に入ったオックスフォードシャー南部のローマ時代の都市ドーチェスター・オン・テムズを中心としたテムズ川上流域に誕生したとみる説が有力となっている(3Hamerow, H. , Ferguson, C., Naylor, J. (2013), ‘The Origins of Wessex Pilot Project‘, Oxoniensia 78: 49-69./ Hamerow, H., Ferguson, C. ,Naylor, J. , Harrison, J.,McBride, A. ‘The Origins of Wessex: uncovering the kingdom of the Gewisse‘ , University of Oxford.)。

大陸から渡ってきたアングロ・サクソン人の一派ウェスト・サクソン族の指導者とされるが、”Cerdic”という名前はゲルマン語起源ではなくブリトン語起源とする説が有力で、ブリトン語の人名Coroticos(Caraticos)に由来し、Cereticという名前の一形態で、ウェールズ語の”caredig”(親切な、愛しい人)に相当する名前であると考えられている(4Coates, Richard .(1990).’On Some Controversy Surrounding Gewissae / Gewissei, Cerdic and Ceawlin‘, Nomina, 13 , pp. 3–4.”The Cerdic of the genealogical preface to the A-Text of the Chronicle is, as has long been known, ultimately derived from a British name, once given *Coroticos, but now accepted as having been *Caraticos, comparable with the name Ceretic (with i-affection of two syllables) in the Welsh Annals and with Welsh caredig ‘beloved’. “)。829-30年頃に書かれた「ブリトン人の歴史」37章にはブリトン王ヴォルティゲルンの部下としてサクソン人との通訳を務めたケレティック(Ceretic)という人物が登場しており(5伝ネンニウス著/瀬谷幸男訳(2019)『ブリトン人の歴史ー中世ラテン年代記』論創社、34頁)、チェアディッチとの関連や同一人物の可能性を指摘する見解もある(6Mark, J. J. (2015). Cerdic. World History Encyclopedia. )。

アングロ・サクソン年代記」でチェアディッチとキンリッチがエアルドールマン(ealdorman)と記述されている点もチェアディッチの出自が疑問視される要因となる。エアルドールマンはアングロ・サクソン時代のイングランドにおける地方貴族・有力者の総称で、「アングロ・サクソン年代記」が編纂された九世紀当時は州を監督するため国王に任命された官職のことを指す。歴史家からは「出自も権限も特定されていない独立した侵略者の一団の指導者を表す言葉として、ここで使われるのは奇妙なことである」(7 Myres, J. N. L. (1989). The English Settlements. Oxford University Press, pp. 146–147)という指摘があるなど、独立勢力ではなくなんらかの王権の権威を背景に軍事・行政権を任命されていた領主層であった可能性がある。

また、初期のウェセックス王国を指してゲウィッセ(Gewisse)王国と呼ぶのが通説である。ベーダ「アングル人の教会史」(731年)でウェセックス王をゲウィッセ王と書かれているのが初出で、766年のウェセックス王キネウルフ(在位757-786年)の勅許状(Chaerter)でもゲウィッセ王を称している他、ウェセックス王エグバートの825年の勅許状でも自らをゲウィッセ王と称しており、十二世紀にもウィンチェスター周辺を指してゲウィッセと呼ぶ記録が残る(8Shore,Thomas William.(1906).’Origin of the Anglo-Saxon Race‘,Elliot Stock.pp.224-225.)。ウェセックス王を称したのはカドワラ王(在位685-688年)が最初の例であるため、初期はゲウィッセ王を称していたとみられる。この名の由来は諸説あるが部族名あるいは氏族名に由来すると考えられ、チェアディッチはこのゲウィッセという部族あるいは氏族の長であったとみられる。

イングランド王家の祖として

チェアディッチは実在していたか否か定かではなく、実在性や出自、時代背景など議論が続く半伝説的人物だが、九世紀末、アルフレッド王時代にウェセックス王家の祖としての系譜が整えられ、ノルマン・コンクエストによってアングロ・サクソン王朝が絶えた後も、イングランド王ヘンリ1世はウェセックス王家の血を引くスコットランド王女マティルダを王妃に迎えて母系を通じてチェアディッチの王統を継承させた。ヘンリ1世の孫で内乱を平定してプランタジネット朝を創始したヘンリ2世も王位継承に際してアングロ・サクソン系イングランド人の心服を得るため自身がチェアディッチの王統であることを重視するなど、後にチェアディッチの王統であることがイングランド王家の権威の正統性を構成するようになった。

参考文献

脚注