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シャトー・ディフ

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シャトー・ディフ(仏: Château d’If)またはイフ城はプロヴァンス地方の主要都市マルセイユ沖のイフ島にある十六世紀の城。1540年頃から1871年(1シャトー・ディフ公式サイトには”Les opposants au pouvoir y sont emprisonnés dès 1580 et jusqu’en 1871, Protestants et Républicains en tête.”(1580年から1871年までプロテスタントと共和主義者を中心とした、政府の反対派が投獄されていた)とある。)まで刑務所として使われ、アレクサンドル・デュマの冒険小説 「モンテ・クリスト伯」 の舞台として有名となった。

「マルセイユ市街を背後に臨むシャトー・ディフ」

「マルセイユ市街を背後に臨むシャトー・ディフ」 Public domain, via Wikimedia Commons

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築城まで

シャトー・ディフは1520年代にフランス王フランソワ1世の命でマルセイユ沖にあるラトノー(Ratonneau)島など四つの島で構成されるフリウル諸島(Îles du Frioul)の一つイフ島に築かれた。フリウル諸島はその位置ゆえに古くから砦が築かれるなど地中海の要衝として重視されていた。

インドサイ来訪

1516年1月23日、ポルトガル王マヌエル1世(Manuel I de Portugal)が教皇レオ10世に贈ろうと輸送中のインドサイがイフ島に立ち寄り、これを一目見ようとフランス王フランソワ1世も駆けつける騒ぎになった。このサイはグジャラート・スルターン朝のムザッファル・シャー2世(“Muzaffar Shah II”,グジャラート語” મુઝફ્ફરશાહ બીજો ”)からポルトガル王に贈られたもので、アルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer)の木版画で非常に有名となった(2このあとイタリア沖で輸送船は沈没しインドサイも死んでしまった。デューラーの木版画は1515年にリスボンで描かれたものだが、不正確な描写や誇張も見られ、デューラーが直接サイを観察して描いたものではない。また英語版wikipediaはBedini, Silvano A. (1997). The Pope’s Elephant. Manchester: Carcanet Press.を参照してこれはフリウル諸島のラトノー島かポメーグ島の可能性もあるとしている(Wikipedia contributors, ‘Dürer’s Rhinoceros’, Wikipedia, The Free Encyclopedia, 15 December 2021, 10:59 UTC, https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=D%C3%BCrer%27s_Rhinoceros&oldid=1060418743 [accessed 27 December 2021])。)。

アルブレヒト・デューラー作「サイの木版画(1515年)」(ナショナル・ギャラリー・オブ・アート収蔵)

アルブレヒト・デューラー作「サイの木版画(1515年)」(ナショナル・ギャラリー・オブ・アート収蔵)
Public domain, via Wikimedia Commons

築城の背景

築城目的について、公式サイトによれば、海岸線の防衛、新設された王国艦隊の航路の確保と居留、1480年に併合されたばかりのマルセイユ市の監視という三つの機能を果たすことが期待されていたという(3シャトー・ディフ公式サイトトップページによる” protéger les côtes d’une invasion, couvrir les sorties et le mouillage de la toute nouvelle flotte de galères royales, et surveiller Marseille, rattachée au Royaume de France en 1480. “( http://www.chateau-if.fr/ ))。

マルセイユ市を含むプロヴァンス伯領は九世紀のプロヴァンス王国に由来を持ち、その後も中世を通して神聖ローマ皇帝に臣従する自立した封建諸侯であった。十四世紀からフランスの王族アンジュー公が伯位を兼ね、1480年、最後のアンジュー公ルネ1世死後、フランス王ルイ11世によってフランス王国に併合されている。

プロヴァンス伯は同時にイタリアのナポリ王位継承権を持ち、代々のアンジュー公はナポリ王位を巡ってイベリア半島のアラゴン王家と争っていた。1494年、アラゴン王家出身のナポリ王フェルディナント1世が死ぬと、フランス王シャルル8世はナポリ王位を主張してイタリアへ侵攻し「イタリア戦争」が始まる。イタリア戦争は1559年のカトー・カンブレジ条約まで続き、1520年代はスペイン王と神聖ローマ皇帝を兼ねたハプスブルク家のカール5世とフランス王フランソワ1世の対立が中心となっていた。

築城

このような背景でプロヴァンス地方はフランス王国の南東端、主戦場であったイタリア半島への橋頭堡となる位置にある。1524年8月、スペイン軍がマルセイユを包囲したが、9月、フランソワ1世が救援に向かい防衛に成功している。この包囲戦で出た資材がシャトー・ディフ築城用に一部転用されているが、包囲戦と築城に直接的な関連があるかどうかは確実ではない。1524年から27年にかけてイフ島に塔が築かれ、1529年4月中旬から要塞の建築が始まった。いつ頃完成したかは定かでないが、1531年、駐留部隊が派遣されている(4Château d’If Teachers” / Wikipedia contributors, ‘Château d’If’, Wikipedia, The Free Encyclopedia, 8 December 2021, 14:53 UTC, https://fr.wikipedia.org/w/index.php?title=Ch%C3%A2teau_d%27If&oldid=188679897 [accessed 27 December 2021] /太田静六(2010)『ヨーロッパの古城―城郭の発達とフランスの城 新装版』吉川弘文館、世界の城郭、123頁)。

「シャトー・ディフの立体模型(1681年)」(パリのアンヴァリッドホテルに展示)

「シャトー・ディフの立体模型(1681年)」(パリのアンヴァリッドホテルに展示)
© Photo: Myrabella / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0 & GFDL

城は小規模で、長さ28メートル四方の正方形の城壁に囲まれ、北西、北東、南東の三隅にそれぞれサン=クリストフ塔(Tour Saint Christophe)、サン=ジョーム塔(Tours Saint Jaume)、ムグヴェール塔(Tour Maugovert)の三つの城塔を備え、この中で1524年から27年にかけて築かれた高さ22メートルのサン=クリストフ塔が最も高い。三つの塔に火力が集中され、強力な防御力を誇った(5Wikipedia contributors, ‘Château d’If’, Wikipedia, The Free Encyclopedia, 8 December 2021, 14:53 UTC, https://fr.wikipedia.org/w/index.php?title=Ch%C3%A2teau_d%27If&oldid=188679897 [accessed 27 December 2021])。

1702年、星形のヴォーバン式城塞の考案者で知られる建築家セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン(Sébastien Le Prestre de Vauban)によって兵舎「ヴォーバン兵舎」が造られている(6Wikipedia contributors, ‘Château d’If’, Wikipedia, The Free Encyclopedia, 8 December 2021, 14:53 UTC, https://fr.wikipedia.org/w/index.php?title=Ch%C3%A2teau_d%27If&oldid=188679897 [accessed 27 December 2021])。ヴォーバンによってフリウル諸島全体が要塞化された。

刑務所としての歴史

シャトー・ディフ

シャトー・ディフPublic domain, via Wikimedia Commons

周囲を海に囲まれた島という立地から築城後ほどなくして刑務所として使われるようになった。1540年、マルセイユの漁師二人が収監された記録が残るが、最初の政治犯とされるのが、騎士アンセルム(Le Chevalier d’Anselme)という人物であるという。ユグノー戦争中の1579年、イタリアのサルッツォに独立勢力を築きカトリーヌ・ド・メディシスによって殺害されたベルガルド元帥(Roger de Saint-Lary de Bellegarde, Maréchal de Bellegarde)の協力者で、シャトー・ディフに収監され、1582年に亡くなった(7シャトー・ディフ公式facebook2015年2月13日の投稿)。

その後、十八世紀以降プロテスタントが、十九世紀には共和主義者や政治犯が多数収監されている。特に1685年、ルイ14世によってナントの王令が撤回されて以降、約3500人のプロテスタントが収監された。また、1848年のフランス革命(二月革命)でも逮捕された共和主義者120人が収監されている。

受刑者は身分や財産によって異なる扱いを受けた。最貧層はまとめて命の危険がある劣悪な環境の部屋に閉じ込められた。一方、裕福な受刑者たちは、使用される通貨の名前からとられた「ピストル(pistole)」と名付けられた窓や暖炉を完備した上層階の個室の料金を支払うことができた。

著名な囚人として、後にフランス革命の中心的な指導者となるミラボー(Honoré-Gabriel Riqueti de Mirabeau)がいる。1774年、借金を抱えたミラボーを債権者から逃れさせるため父によって投獄された。シャトー・ディフの滞在は短くすぐにヴァンセンヌ城へ移されている。また、ナポレオンの側近だったアンリ=ガティアン・ベルトラン(Henri-Gatien Bertrand)の夫人や社会主義運動の指導者ルイ・オーギュスト・ブランキ(Louis Auguste Blanqui)、モンテ・クリスト伯のモデルと言われる聖職者・動物磁気研究家ジョゼ・クストディオ・デ・ファリア(José Custódio de Faria)などが収監されている。

フランス革命期の著名な軍人で1800年、カイロで暗殺されたジャン=バティスト・クレベール(Jean-Baptiste Kléber)の遺体がフランス本土へ送られることになると、ナポレオンは彼の遺体が共和派の象徴となるのを恐れ、シャトー・ディフに止め置くように命じた。その後の遺体の扱いについて結論が出ず、シャトー・ディフでの遺体の保管は、1818年、ルイ18世によって彼の故郷ストラスブールに埋葬する許可が下りるまで続いた。

「1927年のシャトー・ディフ城内の写真」

「1927年のシャトー・ディフ城内の写真」
(Collections passion de Pierre Cournet, Public domain, via Wikimedia Commons)

モンテ・クリスト伯の舞台

「モンテ・クリスト伯のイラスト」(1845-51,Tony Johannot picture pour Monte Cristo d'Alexandre Dumas.)

「モンテ・クリスト伯のイラスト」(1845-51,Tony Johannot picture pour Monte Cristo d’Alexandre Dumas.)
Public domain, via Wikimedia Commons

「シャトー・ディフ内のエドモン・ダンテスの監房を模した部屋」

「シャトー・ディフ内のエドモン・ダンテスの監房を模した部屋」
credit: Ask Nine, CC0, via Wikimedia Commons

作家アレクサンドル・デュマ(Alexandre Dumas père)の大作「モンテ・クリスト伯(Le Comte de Monte-Cristo)」(1845-46)で主人公エドモン・ダンテスが無実の罪で収監される刑務所にシャトー・ディフが使われ、現在まで多くの人々に愛されている作品の舞台として人気を博している。

『ダンテスは立ち上がると、目を、船が自然にそこを目指して進んでいくらしく思われる方角へそそいだ。そして、目の前二百メートルばかりのところに、黒い、嶮しい岩のそびえ立っているのを見た。岩の上には、暗鬱たるイフの城塞がそびえていた。
その怪奇な姿、周囲に深い恐怖を漂わしたこの牢獄、三百年来、陰惨な伝説によってマルセイユを有名にしてきたこの城塞は、それまで何も考えていなかったダンテスの目の前に忽然として姿をあらわすことによって、ちょうど断頭台を見たときの死刑囚のような気持ちを起こさせた。』(8デュマ、アレクサンドル/山内義雄(1956)『モンテ・クリスト伯 1』岩波書店、岩波文庫、139頁

シャトー・ディフは1890年から一般公開され、現在はマルセイユでも人気のスポットとなっている。

「シャトー・ディフ」

「シャトー・ディフ」
credit: Jean-Marc Rosier from http://www.rosier.pro, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commons

参考文献

脚注

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